もうそろそろ正午という時間帯に、アントーニョから電話があった。いつものテンションで。
『なぁなぁロヴィーノ! チョコレート届いたで! こんなに仰山、ありがとうなぁ! せや、よかったら親分とこ来ぇへん? パスタ作って待っとるで!』
声が弾んでいたので、やっぱり送ってよかったと思う。
「今から行ったら、食事には中途半端な時間だろ、バカ」
『おぉ、そうやねぇ。ほんなら、夕食パスタにして――チュロス作って待っとるんで、どや?』
「お前、食い物から離れろよ」
そう言って笑って、掛け時計に目を向けた。そちらに注意を向けていると、不意に後ろから肩を叩かれる。この家に他に人間がいるわけでもないから、相手は分かった。散漫に振り返ると、フェリシアーノは笑っている。
「兄ちゃん、出かけるの? アントーニョ兄ちゃんのとこ? 俺も今からルートヴィヒのとこ行くんだけど〜」
またあの男か、と思ったがお互い様なので口には出さなかった。
「分かるのかよ」
足音からすれば今来たばかりのフェリシアーノが会話を聞いていたとは思えない。受話器を少し外して尋ねると、フェリシアーノは笑みを濃くした。
「分かるよ。だって兄ちゃん、すごく優しい顔してるもん」
「っ、バッ……っ!」
『ロヴィーノ? どないしたん?』
アントーニョの声が受話器から少し遠い音量で聞こえる。重ねて言葉を出そうとするより前に、フェリシアーノは背を向けた。
「――だいすきって顔。じゃあ、いってくるよ、兄ちゃん!」
「ちょっ、待ちやがれ、この、バカ、」
逃げ足の速いフェリシアーノは素早く遠ざかっていった。
「なに、小っ恥ずかしいこと、言ってんだ!」
バタンと扉が閉まる音が響く方が先だった。
『ロヴィーノ? フェリちゃんがおったん? なぁ、ロヴィーノ?』
受話器から伝わる声で我に返る。指で触れなくても頬が熱いことなど分かったので、頭痛がした。空いている指で電話台をトントンと叩き、心を鎮めようと努めてみる。受話器をふたたび耳に当てた。
「なんでもねぇよ。フェリシアーノが、じゃがいも野郎のところに行くっつったくらいで……」
『へぇ、そうなん? ほんで、ロヴィーノは親分とこに来るっちゅうわけやな。ふふふふふっ』
「なに笑ってんだよ」
『フェリちゃんたちも、仲よくてえぇなぁと思て。ほんじゃ、親分待ってるさかい、早よ来てな』
アスタプロント、と言い残してアントーニョは電話を切った。応える間も与えないので、少しだけ溜息を零す。気紛れでマイペースなのは昔からだ。そういう相手、と思いながら振り返る。窓硝子が目に止まった。
――だいすきって顔。
硝子に映る自分の顔を見た瞬間に、ロヴィーノは赤面した。甘いのはいつだってアントーニョばかりだと思っていたのに、こんなに蕩けそうな表情をしていたなんて自覚していなかった。どうしてこんなに、好きで仕様がないのだろうか。街を歩き回ってダンボールの箱いっぱいにチョコレートを詰め込んだ。食べ切れなくてもいいし、物を粗末にする人ではないから、きっとご近所さんにでも配るのだろう。それでも構わない。
甘すぎる顔から視線を逸らして、ロヴィーノは出掛ける支度をするためにと部屋へ足を向けた。刹那に花のことを思い出した。告白するわけでもないのに花を贈るのは、たしかに少々照れ臭いかもしれない。されど花束を見たらやっぱり、アントーニョは笑ってくれるのではないだろうかと思う。
(花束――そうか、赤い花……)
どうして薔薇などと思ったのだろうか。アントーニョが愛している自国の花。赤い赤い花弁を散らす美しい花があったではないか。手放した受話器をもう一度取って、この前発掘した電話帳を電話台の下から取り出す。とりあえず、自宅から駅までの範囲の花屋を適当に探してボタンを押した。
赤い花束はアントーニョにはずいぶんと驚かれた。時間と予算と運送の関係で腕いっぱいとまでは行かなかったが、家を彩るには十分な量だ。さして物覚えのよいわけではないアントーニョだが、ロヴィーノの言葉は記憶してくれている。当初こそアントーニョは驚いたものの、ロヴィーノが以前に話したと言えばすぐにでも思い出してくれた。そして、カーネーションをじっと見つめて、とてもうれしそうに笑った。幼い頃にロヴィーノが見つけた四つ葉をあげたときと同じような表情を見せて。
(四つ葉は、人にあげない方がいいんだったな――)
小さいロヴィーノはそんなことも知らなくて、ただ幸せの象徴が彼の手に渡ることを好もしきことだと思ったのだ。アントーニョの手はシロツメクサで花冠を編んでくれた。それを頭に乗せて、四つ葉のお礼と笑った。あの頃のエプロンスカートの似合っていた自分は、アントーニョにとってはただ可愛いだけの存在だったのだ。いまさらにそんなことを物思う。それでも、そんなにも昔から好きだった。何度同じことをしてもきっとそうだと思う。他には考えられない。
「ロヴィーノ、泊まってく?」
食器を洗っているアントーニョは、ひょいとキッチンから顔を出して問い掛けた。ソファでなんとなくテレビに目をやっていたロヴィーノは、首を横に振る。
「ベッド邪魔するのも悪いからな、帰る」
「そんなん言うなんて、珍しぃなぁ。別にえぇで? ソファで寝るんも、もう慣れてきた気ぃするし」
それは嫌な慣れだなと思った。
テレビの向こうからはニュースキャスターが甲高い声で喋っている。早口で上手く聞き取れなかった。ニュースらしき映像が流れて、誰か知らないレポーターがマイクを向けている。諦めてチャンネルを回すと、イタリアの風景が目に飛び込んできた。シチリア島だ。
「暗なってきとるし、ホンマに親分は構へんで?」
メッシーナの港から船が出港して、本土へと向かっていく。綺麗な海だった。太陽の光が降り注ぎ、水面が輝いている。
「だから、別に――」
「泊まってってもえぇやんかぁ」
台所の方に視線を移すと、アントーニョはじっとこちらを見つめていた。
「な、ロヴィーノ」
視線が絡んだ瞬間に、なぜだかひどく触れたいと思った。最近はそういった天啓のような衝動を感じることがある。以前から、好きだからどうだとか思わなかったわけではない。できるなら触れたいと思っている。今だけではなくずっとそうだった。けれど瞬間に感じた電磁波のような引力のような、目に見えない不可解さで、見つめているとアントーニョはふわりと笑った。
「決定、やで」
「あのな……」
ふと視線をテレビに移すと、画面はヴェネツィアを映していた。そちらに気を取られてぼんやりしていると、声が聞こえた。二人しかいないのだから、発音者は彼しかありえない。振り返ってアントーニョを見ると、すでに台所に首を引っ込めていた。水音だけが響いている。
「今、なにか言ったか?」
「言うてへんよ」
こちらに首を出すでもなく、簡単にそう返された。気の所為ではなかったはずだと思うけれど、強固に言ってどうなるものでもない。
「……そう、かよ」
視線上にあるテーブルの上のカーネーションを見た。持ち込まれたそれはアントーニョの手によって青い花瓶に活けられている。青と赤のコントラストは綺麗だった。
昔は、ロヴィーノもロヴィーノもと言っていることが多かった。一緒に料理しようとか、一緒にどこかへ行こうとか。それに素っ気無い態度ばかり返していても、めげずにアントーニョはくりかえしていた。
(今のはなんか、昔みたいだったな)
僅かに得られた感情が心を揺らす。幼い頃から情を受けて育っていることを確信する。今でもそうだ、と。
「ベッド、どうするんだよ」
「えぇよ、ロヴィーノが使って。引き止めたんは俺やし」
それは理にかなっているな、と思った。ふと、一緒に寝たらどうかとかそういう言葉が頭に浮かんだ。昔ならば喜んで迎えてくれたけれど。ソファの前のテーブルにはチョコレートが散らばっていた。ロヴィーノが贈ったさまざまなチョコレートだ。箱を手に取って、蓋を開ける。ラッピングは解かれていたが、中身は減っていなかった。ひとつ摘まみ上げる。貰った物が惜しくてもったいなくて、人にあげられないとアントーニョは夕食の時に語った。少しずつ、過去と異なった道筋を歩んでいるように思えた。平行世界があるのなら、軸がズレていくような。このままずっと関係が変わらない世界と、彼と想い合える世界。どちらの方が正しいということはないだろうけれど、望みは知っている。いくつもの分岐点を重ねてその世界を掴めるのなら。
どの世界でもきっと、ロヴィーノは唯一人だけを想っているのだろう。