無条件幸福3 -幸福な世界

 いつものようにアントーニョの家に向かうと、鍵はかかっていないのに人の気配がなかった。大方、トマトのところだろうなと検討をつけてロヴィーノは上がりこむ。風がさらさらと吹いていた。リビングの窓から見える空は抜けるように青く、今日も陽射しが暖かく降り注いでいる。地中海の偉大なる太陽だ。この陽気のお陰でトマトもオリーブもたくさん実をつける。どちらも料理には欠かせない。
 作業中のアントーニョの元へ向かっても、昔から役立った試しがない。邪魔をするよりは帰りを待つ方が無難だろうと思った。時計を見るとそろそろアントーニョは食事にでも戻ってくるのではないかと考えられる時間だ。それならなにか作っておいてやろうかと思って、キッチンに足を踏み入れる。アントーニョは非常に大雑把に見えるが、あれで案外生真面目なところがある。朝食に使っただろう食器は綺麗に洗って伏せられていたし、調理器具も仕舞ってあった。家事なんてよっぽどアントーニョの方がよくできる。昔からそうだ。ベルギーよりも細かいところまで見ているような人だった。仕舞ってあっても、この家はロヴィーノにとっては勝手知ったる場所だ。白い冷蔵庫の扉を開けると、一人暮らしとは思えないくらいに多種の食材が揃っていた。さすが食に関しては妥協がない。
「ハモンセラーノか」
 世界的にも有名な生ハムが真空パックであった。如何なアントーニョと言えど、原木ではさすがに置いていないようである。隣にモッツァレラがあった。この前、ロヴィーノが持ってきたものだ。シンプルだが、よい生ハムとチーズがあるのなら、それをスライスしてオリーブオイルをかけたものが美味しいかもしれない。下段を探ってトマトも発見する。採れたてがよいのかもしれないが、トマト畑までくりだすのも難だろうと思って諦めた。清潔そうな俎、切れ味のよいチーズナイフ。それらを出して青いシャツの袖をまくった。
 モッツァレラチーズを厚めに切る。端の方を味見と称して口に運んだ。貰い物だが、さすが美味だった。つまみ食いなんてすると行儀が悪いとアントーニョは昔怒っていたな、とか思い出す。ナイフで真空パックの封を切って、ハモンセラーノも薄く切っていく。こちらも一枚、口に運んだ。世界三大ハムの一、とアントーニョが豪語するだけあって、熟成された生ハムはしっとりとして味が凝縮されている。何度か食したことがあるのだが、とても美味しい。ついつい手が伸びそうになるのを自制して白い皿に盛り付けていく。縁に装飾があるので洒落た皿だった。
 意外と時間が経ったような気がするのだが、アントーニョは中々戻ってこない。できあがった皿に乾燥しないようにとラップをかけて、ダイニングテーブルに乗せた。
「なにしてんだ、アイツ」
 少し考えて時計に目をやる。
「仕方ねぇな、迎えに行ってやるか」
 迎えに来てくれなどと頼まれるわけもないだろうが、そんな独り言を口に出しながらリビングの窓を開け放した。また風が吹き抜けて、髪を揺らす。きょろきょろと辺りを見てみたけれど、アントーニョの姿は見当たらなかった。どこにいるんだと思いながら部屋を出る。畑の方を見たが、それらしき人影はなかった。アントーニョは無用心な方ではあるが、鍵を開けたままどこかへ出掛けるほどではない。いないということはありえないだろう。
 探していると、ふと郷愁が蘇った。たとえばかくれんぼをしてアントーニョを探した記憶だとか、出掛けて帰ってこない彼を探して走り回った記憶だとかそういうものだ。ロヴィーノは庭をゆっくりと歩く。走り回らなくとも今なら見つけられるという確信が、どこまでもそこにはあった。成長したから。視野は幼い頃よりは格段に広がったし、行動範囲も広い。隣国へ行こうが海へ出ようが、きっと追いかけて捕まえることができる。けれど、それ以上に確信は深い。どこにいても、なにがあっても、見つけられると思った。
 畑の傍の大木に人の影が見えた。ロヴィーノがそっと近づくと、寝息が聞こえてくる。探していた人物は、木に背を預けて、瞼を閉じていた。木陰から陽光が注ぎ込み、やわらかくその顔を照らす。綺麗な光景だった。切り取ってファインダーに収めておきたいと思う。風が癖のある焦げ茶の髪をさわりと揺らして、時折、長い睫毛が動く。ロヴィーノは縫い付けられたようにその場に佇み、呼吸を喪った。
 どのくらいそうしていたのかは定かでない。風がひとつ吹き抜けた瞬間にロヴィーノはふと我に返った。なにしにここに来たのかと考えて、目の前で眠る人をまた見つめる。すぐ横に膝をついて、至近距離から顔を覗き込んだ。息が触れそうな距離にくらくらと眩暈がした。起こそうと思うのに、言葉が出てこない。その代わりに指先が伸びた。その指が頬に触れた途端に、アントーニョはさながら王子様にキスをされたねむり姫の如く目を開けた。ぱちりとひとつ瞬きをして、こちらを見つめる。
「ロヴィーノ……?」
 鼓動がうるさくて動けなかった。
「来てたんやね、気ぃつかんかった」
「いつまで、寝てんだよ、このやろー」
 やっと出てきた言葉は、自分でも驚く程に普通の言葉だった。何事もなかったかのように指を離す。離す瞬間にアントーニョの癖毛に少しだけ触れた。いつもは冷たい指先が熱っぽい。
「一仕事終えたと思うたら、なんや眠ぅくなってきてなぁ。今、何時やろ」
「分かんねぇけど……寝るなら家に戻れよな」
「ここが気持ちえぇねんて。んでも、ぼちぼち戻らなアカンなぁ」
 ロヴィーノが立ち上がると、アントーニョも腰を上げた。
「今日もえぇ天気やね」
「トマト、どうなんだ?」
 畑の方に目を向けて尋ねると、アントーニョはうれしそうな声を上げた。
「むっちゃよぅ育っとる!」
 たしかに、遠目から見ても綺麗に育っていることが窺われた。
「太陽のお陰さんやね」
 振り返って見ると、アントーニョは空を仰いでいた。その視線の先にあるのは、おそらく太陽なのだろう。
「まぁ、ホントにここの気候はいいよな……あったけぇし。晴れが多いから過ごし易いしな」
 いつ来てもこの国は晴れている。暖かい。ロヴィーノも同じように空を仰いだ。太陽の光は燦々と降り注ぎ、アントーニョを、ロヴィーノを、暖かく照らしている。
「ふふっ、せやろ? スペインはえぇトコやろ」
 アントーニョはこちらを見てにこにことほほえんだ。
「あぁ。俺は、スペインが好きだな――」
 本当は、この国よりも傍にいる彼のことが好きなのだけれど。何度も来慣れていて、過ごし易いスペインという国が好きだということも事実だった。その言葉はきっと、アントーニョにとって悪い科白ではないだろうと思って言ったのだ。ありがとう、とほほえんでくれるだろうとだけ予測していた。
「……へ?」
 そんな予想に反して、アントーニョが呟いた言葉は裏返っていた。それに驚いてロヴィーノは視線を下ろす。
 裏返った声で呟いた人の方を見れば、顔が紅かった。
「あっ、そっ、そうなん?」
 どうしてこんな、何気ない言葉にこそ反応するのだろうか。そういう意味では、ロヴィーノの方がむしろ戸惑った。
「アントーニョ、お前、」
「ありがとうなぁ! うん、むっちゃうれしいでっ!」
「顔が、なんで」
 ロヴィーノが指を伸ばして触れてみると、頬がやけに熱かった。そんな反応を知らないフリして笑っているようだったのが、余計に気になる。真剣な目で問えばアントーニョは目を逸らして、なんとなく不満げに少し頬を膨らませた。
「ろ、……ロヴィーノの所為やで。なんかこん前、いきなり変なこと言うし……そんなん言われたら、そら、気になるやろ。――ホンマに、アカンわ」
 アントーニョはロヴィーノの指から離れると、背を向けた。アカン、という言葉を体現するように。けれどその背は拒絶ではなくむしろ、と思う。
 ロヴィーノはタイミングというものがあまりよく分からないし、空気が読めないアントーニョもあまりよく分かってはいないのだろう。けれど、今ならと思った。今言わなければきっと伝わらない。
「本当に好きなのはお前の方だ、アントーニョ」
 アントーニョは振り返らなかった。それならばと、振り向いてくれない背に額を当ててみる。鼓動と熱が、接した部分から伝わってきた。
「愛してる。親分なんかじゃなくて……、恋人に、なりたい」
 息を飲む音だけが聞こえる。それだけなのがもどかしくて、腕を引いた。こちらを向かせると、紅い顔がまばたきばかりをくりかえしている。
「わ、からへん。どないしよ」
(鈍……)
 人にだけではなく、己の感情にも鈍いのだろうか。
「だったら、キス、するから――それが、嫌じゃなかったら」
 声が震えた。自分で言い出してみた癖に、わけもなく緊張している。
 たった一つで心を落とすような、そんな甘い口づけができたら、と思った。かたかたと震える指先で頬に触れる。瞼が閉じた瞬間に、キスしたいと思った。なんだかひどく、とうとつに。それなのに怖くなって、ほんの一瞬、掠めるようにしか触れることはできなかった。
 触れたらなにか変わるかと思ったが、ロヴィーノの中ではなにも変化はなかった。触るとどうだとかいうのは、心を満たす条件ではないのだ。相手からも同じように返されて初めて意味を成す。それならばせめてその一瞬で、自分の長過ぎる想いを伝えてくれたらいいと思った。本当はこんな接触だけで分かるようなものではないのだろうけれど。
「Besame mucho.」
 不足しているのは、アントーニョからの感情だ。それが欲しい。
「ロヴィーノ、俺」
「Siなら――『キスしたって』」
 それだけ言って、目を閉じた。ロヴィーノの世界を埋め尽くすような想いが昇華されることをひたすらに祈って。
 ゆっくりと、そっと、近づいてくる気配がした。そうして世界は幸福で充たされる。

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