「す、好きだ、アントーニョ!」
「親分も、ロヴィーノのこと大好きやで」
「ヴェ〜、兄ちゃん、打ちひしがれてるけど、大丈夫?」
ロヴィーノがダイニングテーブルに突っ伏していたところに、通りかかった弟が声をかけた。
「うるせぇ、バカ弟」
「アントーニョ兄ちゃんとこでなにかあったの?」
「なっ、なんでそれを――」
顔を上げると、弟は「やっぱり……」などと言いながら前に座った。
「だって兄ちゃん、アントーニョ兄ちゃんのところに行くって言って出かけたから〜」
種を明かされると単純な理由だった。弟があまりに的確なことを言ったので、エスパーかなにかにでもなったのかと一瞬思ってしまったのである。紛らわしい、と逆に苛立った。苛立ち紛れに水を口に運ぶと、弟はいつもの脳天気な笑顔を浮かべたまま、人差し指を顔の前に立てた。
「あっ、もしかして〜アントーニョ兄ちゃんに告白したとか?」
本日二度目の図星にロヴィーノは思わず噎せたが、これは致し方ないことだろうと思われる。
「っ、げほっ、この……」
「あれ、違った? 兄ちゃん、たいていアントーニョ兄ちゃんのところから帰ってくると落ち込んでるみたいだけど、今日はいつもと違ったから〜」
「うるっせぇぞ! この、バカ、弟っ……げほっ、ごほっ」
怒って声をあげようとしても、げほげほとまだ噎せている状態では迫力がない。弟はしばし黙ってロヴィーノを見つめていた。大丈夫、とさして心配しているわけでもなさそうに尋ねる。急にその手が青いミネラルウォーターのボトルを掴み、朝から放置されている彼のコップに水を注いだ。水面が揺れるのを涙の浮かんだ目でロヴィーノも眺める。
フェリシアーノはコップ半分程度入れた水を一息で飲み干した。見かけによらず、豪快な一面があるのだ。あるいはジャガイモ男の影響かもしれない。少し機嫌を損ねながら、ロヴィーノはそんなことを思う。自分と似たパーツでありながら自分よりも色素の薄い弟の手は、ふたたび青いボトルを掴んだ。水がもう一度コップに注がれていく。今度は半分を超えてさらに並々と。
「コップの水って、溢れそうで溢れないこと、あるよね」
「なんだよ、藪から棒に。表面張力だろ」
「表面張力って言うんだ〜。うん、それ」
言葉の通り、コップの水は淵まで注がれた。水が溢れて零れる一歩手前まで、膜が張っているみたいに中心が膨らんでいる。正しく表面張力。
「いつもの兄ちゃんって、こんな感じだよ?」
「はぁ? どんなだよ……」
たまに妙なことを言い出すのだ、フェリシアーノは。いったいなんだと思って、ロヴィーノは腕を組んだ。くだらないことだったら頭突きでも見舞ってやろうか。
「うんとね〜、張り詰めてるっていうのかな。このコップみたいに――」
フェリシアーノはコップを軽く揺らした。途端に、耐えきれなかったかのように水がコップから溢れ出す。テーブルには水溜りができあがった。
「ほら、こんな風に」
「バカ弟。水がもったいねぇだろ」
冷静に言いながらも、少し身体は震えた。
「ヴェ……そうだね、ごめんね〜」
本当は悪いと思っていないのではないかと思うような声を出して、フェリシアーノは謝った。その声を聞き流し、ロヴィーノの視線は溢れた水をじっと見つめる。
(はりつめた、水)
フェリシアーノはしばらく黙っていた。同じように溢れ出た水を見ているのかもしれないし、どこか別に視線を向けているのかもしれない。溢れてテーブルをしたたかに濡らす水は、罪悪のようにも思われた。コップの中の水は、減っている。単純な移動だ。
「零れちゃうの、俺は悪いと思わないんだ。だって、この方が」
フェリシアーノがコップを突然手にすると、そのまま喉に水を流し込んだ。ぽたりと底から滴が垂れて、またテーブルを濡らす。
「飲みやすいでしょ?」
だから、とフェリシアーノはコップを置いて続けた。
「零れても拭けばいいし、足りないならまた注げばいいし、飲み干したいなら飲み干せばそれでいいんじゃないかな」
「なんだよ、それ。諦めろってのかよ」
フェリシアーノが言いたいことがそうではないということは理解していた。ただ、知った顔で説かれることに反発しているくらいだ。向こうだって、恋愛経験なんてできていないくせに。弟のくせに、生意気だ。
「ヴェ〜、兄ちゃん、なんで笑ってるの?」
「なんでもね、え、よ! 腹減ったからパスタでも作るか」
出来事に気を取られてばかりで忘れていたが、もう日は沈んでいて外も暗い。夕食の時間だった。とりあえず食べる物ならばパスタだなと思って、材料を考える。帰りがけにアントーニョがトマトを渡してくれた。あれさえあればどうにでもできるだろう。
「兄ちゃん、作ってくれるの?」
「仕方ねぇから、作ってやる」
そう言って立ち上がると、弟も釣られて立ち上がった。揺れた拍子に、テーブルの水溜りも少しだけ震えて揺れた。
飲み干すという行動は、自分が行うことではないのだ。きっと、絶えず溢れるいっぱいの水を飲むことを選べる人は唯一人だけで。半分だけ水が残るコップに、ロヴィーノはまた水を注いだ。青いボトルはついに空になる。
「やった〜! だったら、俺、ワイン買ってくるよ〜! ね、兄ちゃん、飲もうよ!」
別に食事をいっさい作らないわけでもないのに、フェリシアーノは大袈裟に喜んで見せた。また作らせようという心づもりでもあるのかもしれない。なんだかんだで聡いし、自分の望ましい方向に軌道を修正させるということをあっさりとやってのけることができるのだ。それでも、弟の言葉に心が軽くなったのは事実だった。
肉親に情なんて感じているわけではない。そもそも国である自分たちにそういう情があるのかも分からないのだ。アントーニョは肉親のようでもあったけれど、ロヴィーノが望む関係はそれではなかったし、共に暮らして長いというわけでもないフェリシアーノがどうこうということも改めて思わないだろう。けれど、祖父と上手く顔を合わせられないという感情はロヴィーノにたしかに存在していた。それなら本当は、そういう心情を持っているのは自分かもしれない。少しそう考えて、首を横に振った。
「……一本だけ、だからな」
本数の制限は、主に自分が飲み過ぎないようにするためだ。失恋で自棄酒なんて笑えない。
「了解であります!」
フェリシアーノは敬礼のポーズを見せた。ルートヴィヒにきちんと教わったというそれをして、返事も聞かずに玄関の方に向かっていく。暗いから気をつけろと言おうかと思ったが、女の子のナンパで遅くなるならまだしも、危害を加えられるようなこともいまさらないだろうと思い直した。
気ぃつけてな、ロヴィーノ。
幼い頃の自分を心配するまなざし、その声を思い出した。フェリシアーノの身をわずかにでも心配するのは、きっとそうした記憶があるためだろう。アントーニョは今でもそんな台詞をなんてことないように吐く。気をつけて、心配している。あれは。
「転ぶなよ、バカ弟」
廊下に顔を覗かせて言うと、弟は振り返った。そして手を振る。フェリシアーノはそのまま「いってきます」と言ってドアを開けて出て行く。
たぶん、こんな単純なことがあった方がいいのだ。アントーニョはそれを知っている。だから欠かさない。
「次がある、か」
それも彼の言葉だった。諦めたらいけない。きっとそれが自分に向かう感情に用いられることになるなんて、アントーニョは微塵も思わなかっただろう。
「トマトと、後、なにがあったか――」
冷蔵庫の中を試算してみたが、普段からそれほど料理も買い物も行わないので分からない。パスタを切らしているということはこの家ではありえないから問題ないだろう。
部屋にはアントーニョが送ってきたスペインのお菓子が箱に詰められて置いてある。その返礼なんて向こうは考えていないだろうが、送ったらきっと喜ぶだろうと思った。積み重ねて込められた想いがロヴィーノの恋の発端だとするならば、小さなことでも重ねていくことが重要なのかもしれない。喜ぶと分かるのならば、それを。
「アイツ、チョコレートは好きだったよな」
それから、まだ花も贈られていない。薔薇はやめにして、それならば赤い花を他に考えようと思った。
好きだなんて、次に言えるのはいつになるだろうか。アントーニョには伝わらなかったが、ロヴィーノは相当な勇気を出して発言したのである。またそんなことをするには体力も精神力もまだ回復し切っていない。それまではもうしばらく傍にいるだけでも、いようと思った。廊下に置いてある青いボトルは、まだまだ十分な量があるのだから。