キャンバスの青

 絵を描くことは嫌いだった。フェリシアーノばかりが持て囃されていたし、弟の方が祖父の血を引いているのだというような感じがしたのだ。ロヴィーノはだいたいの物事において上手くいかない。祖父のこともそうだし、その昔アントーニョが弟の絵ばかりを欲しがっていたことも覚えているのだ。しかしながら、嫌な記憶ばかりでもない。たまたまキャンバスに筆を走らせている姿をアントーニョに見られたことがある。
『ロヴィーノも絵、描くんやなぁ』
 普段から絵を描くような習慣はなかたし、アントーニョは珍しそうにそう言った。どうせ自分の画力など高が知れている。そう思うと、彼に見られていたくなかった。
『なんだよ! 描いたら悪いのか、ちくしょうめ!』
 追い払おうとして振り返ると、アントーニョはじっとキャンバスを見つめていた。
『綺麗な色遣いやね』
 呟いて指を伸ばし、触れる既の所で手が止まる。あぁまだ乾いてへんわな、と言って指先を引っ込めた。
『うるせぇ! お前だってどうせ、フェリシアーノの絵がいいんだろ!』
 ロヴィーノが椅子から立ち上がって膝を押すと、アントーニョはよろめいた。そのまま後ろの壁に激突する。リノリウムにしたたかに頭を打ち付けたようだった。いたた、と言いながらアントーニョは後頭部を摩る。それを見て、フイと視線を逸らした。そんな、無理に褒めたような言葉なんてまったくうれしくない。
『――海の色と空の色、綺麗な青い色しとる』
 しばらく黙っていたアントーニョは、やがて口を開くとまたそんなことを言った。
『わ、分かるのかよ……?』
『当たり前やろ。ロヴィーノが心を込めて描いた絵やもんなぁ。海と、空。ほんで、太陽?』
 ドキッとしてロヴィーノは筆を取り落とした。軽やかな音が響き、筆先についていた青い絵の具が床にべたりと付着する。汚さないように気をつけて描いていたつもりだったが、床を見ると絵の具が色とりどりに飛び散っていた。それに気づいて詰まる。またこんなに汚して、と怒られるのではないかと思ってびくびくとしていたが、それについてアントーニョはなにか言うことはなかった。
『綺麗な絵やと思っとるんやで、ホンマに。俺は好きやで、ロヴィーノ。うん、飾っときたいなぁ』
 それどころか、筆を落としたことにも気づいていないようだった。真剣なまなざしはロヴィーノの絵だけを注視し、緑の瞳にキャンバスの青い色が映し出されているばかりだった。
 そもそも、アントーニョにはお世辞が言えるような機能はついていないのだ。空気が読めないのだし、ロヴィーノが弟にコンプレックスを持っているなんてことは知らない。もっとも、彼に絵の上手下手を見極める真贋があるのかは分からないけれども。
 好きだという言葉は魔力を秘めている。夢想的な言い方だが、その言葉はある意味では百の賞賛にも勝ることがあるのだ。
(こんな絵が、好きなのか?)
 指摘された通り、海と空を描いただけの絵だった。そこにちゃちな太陽がある。ある意味ではロヴィーノの世界そのままだ。太陽と呼ばれた人がいて、後は空と海があるだけの果て。青ばかりのこの絵にはどうしても太陽が必要だった。手を伸ばしても届かない、手に入れられない眩しすぎる光が。

(結局、あの絵、どうしたんだ?)
 ロヴィーノは首を傾げた。今日はデートである。ロヴィーノの主観的に言えばそうなのだが、相手はそう思っていないと推測された。しかしそれは置いておく。そんな大事な最中になぜそんな過去の出来事を思い出したのかと言えば、今いる場所が美術館だからである。自宅に行き来するのが通常になっている今、たまには趣向を変えてロマンチックな場所に向かうべきだと考えたのだ。そうすれば自然とよい雰囲気になるかもしれないと思っていた。
「ロヴィーノ、どないしたん?」
「いや……なんつぅか、その、お前のとこの絵はすごいよな」
 シュルレアリスムである。
「独創的でえぇやろ」
 イタリアの美術館と言えば、フェリシアーノがメインになってしまうだろう。それではおもしろくない。だったらスペインはどうだろうとそちらに行ってみたのはよいが、予想外だった。たぶん美的センスというものが違うのだ。センスとは世界共通だと思っていた。
 アントーニョがにこにこと笑顔で見つめる絵も、それだ。
(なんで時計がひん曲がってんだ……?)
 ある意味では非常に興味深い。これが心象風景だと言うのならば、この人となりを理解することは難しそうだった。アントーニョに描かせてみたらどうなるのだろうかと思う。けれどそれで自分に理解できない絵が出てきたら嫌だな、と思った。彼の思考経路も正しく理解していない癖に、知らない部分なんてないと思いたかった。そんな部分があるのなら、知らない方がいっそいい。
「そういや、お前は絵とか描かねぇのか?」
 フェリシアーノにも絵を強請るくらいだ、絵画や芸術の類は好きなのではないだろうか。昔、ローデリヒと暮らしたことがあるとも聞いているが、その頃、その男のピアノの音色が好きだったとも言っていた。だったらとロヴィーノも真似してピアノに触れてみたことはあるが、結果は言わずとも察せられるだろうという程度である。
 アントーニョは振り返ると、首を傾げた。
「ロヴィーノ、最近、絵描いとる?」
「俺じゃなくて、お前だ。好きなんじゃねぇのか?」
「好きやで」
 ふたたび絵の方に視線が移る。
「好きやけどなぁ、そういう気持ちだけやアカンねん」
「どういう意味だよ」
「まぁ、つまり、親分には絵ぇが描けへんっちゅうことや。好き――なんやけどな」
「好きなだけじゃ、ダメなのかよ」
 口に出してみて、なにを好きだのどうだのと連呼しているのだろうかと思った。いまさらにそんなことに気がついて動揺する。
「ダメっちゅうか、しゃあないねん。親分、ロヴィーノの絵は好きやで。せやからまた描いたってぇな」
 作り出した物を肯定されるのは幸福だ。振り返って昔と同じようなまなざしでこちらを見て、アントーニョは笑った。彼の作った物ならば、なんでも好きだと言えるかもしれないと思う。しかしそれではただ、ロヴィーノの恋が盲目であるというだけだ。
「芸術はえぇなぁ。なんやろ、心が洗われるっちゅうか、救われるっちゅうか。ローデリヒのピアノも好きやったけど、そういう才能は俺にはあらへんから――羨ましなる」
 緑のまなざしは遠くを見ていた。羨ましいという言葉は、ロヴィーノは初めて聞いた。アントーニョは普段からそういうことを言う人ではない。もしかしたらアントーニョはそういう感情を持っていないのではないか、とロヴィーノは思っていた。けれど彼の瞳はたしかに、焦がれるように揺れていた。その先に、羨む物でも存在しているように。きっと、口に出したら摘み上げられてしまうような羨望など言葉に出さないだけなのだろう。心の奥底では誰だって願っていることがあるのだ。愛されたい。お金が欲しい。楽がしたい。あれができたら、これができたら。羨望だって、当然の感情だろう。
「そんなこと、ねぇだろ」
 気づいた時には言葉が口から零れていた。静かな美術館は平日だからか行き交う人々も少ない。少し声量は大きかったが、気にして足を止める人はいなかった。
「絵は、たしかに見たことねぇけど……歌ってくれただろ」
 振り向いたアントーニョは、歌、とくりかえして呟いた。
「ギターだって、弾いてたじゃねぇか。なにが『才能がない』だよ」
「あんなん、別に大したモンやなかったやろ」
「それでも、救われた。病気がよくなったのは、お前が歌ってくれたからだ」
 名前を呼ばれたけれど、聞かないフリをする。驚くほど簡単に言葉は出てきたので、自分でも戸惑った。
「お前の歌、悪くなかった……その、す、す……、好き、な、方だと思う」
 それでも肝心なこことは素直に言えないで、また視線も逸らしてしまう。こんなんじゃダメだと思っても、どうにもこうにも上手くいかない。
「好き、なん? 好きやって言ってくれるん?」
「そっ……そんなに、ってわけじゃねぇけど!」
 ロヴィーノは振り返れずに、また素直じゃない言葉を口に出した。アントーニョが背後で笑う。
「ふふっ、なんやそうやったんかぁ。うれしいわぁ、ロヴィーノ。ホンマに、むっちゃうれしい!」
 耳の奥にギターの音がまだ残っているような気がした。
「また歌いたなってきたなぁ。ロヴィーノ、なぁ、また聞いたってや」
「仕方ねぇから、聞いてやる」
 その歌声も、誰かに渡したくないと思いながら振り返る。呆れるくらいに独占欲が強くて、いつも持て余している。誰にも聞かせるんじゃねぇぞ、と言えたら楽なのだろうとは思うけれど。
 青い絵は彼のためだけのものだ。その後も何枚か描いたけれど、いずれもアントーニョの手に渡った気がする。そんな風に、特別を望んでいる。歌を歌うなら自分のためだけでいい。美術館にいるのに、絵画などには目もくれずにそんなことばかりを思っている。

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