近日中に

 諦めようと思ったことは少なくない。片思いをしている期間は数百年にも及ぶし、その間変わらずに想い続けていたことを苦痛に感じることもあった。相手があまりにも鈍感で空気が読めないものだから、苛立って八つ当たりしてそれでもほほえむ姿なんかを見ているのが嫌になったこともある。出会ってどのくらい経過したか、ということは自分たちにとってさしたる意味はない。通常のやり方では死なないのだし、それなら顔を付き合わせる時間の長さも人とは違う。想いが世紀を越えたとして、人の感情に換算して考えるのは難しい。けれどロヴィーノだって他に尺度を知らないので、やはり基準は人のそれに求められる。
 だいたい暗い思考を齎すのは宵闇だ。遅い時間だと言うのに帰ったオランダとベルギーとは異なり、ロヴィーノは面倒だからと泊まりこむことにした。勝手にベッドを占拠しておく。
 寝転がると陽溜りの香りがした。
(布団は毎日干すタイプだしな)
 染み付いていたのが、ベッドの主の香だったらどうだということも今更ないつもりではある。幼い頃は眠れないと寝室に押し入ったこともあったし、共寝したことだってあった。この香りは、落ち着く。
「ロヴィーノ? あぁ、また俺のベッド占領して……はぁ、またソファで寝るしかあらへんなぁ」
 言葉には答えないで、寝たフリを決め込んだ。グリーンのシーツが敷かれたセミダブルサイズのベッドには、男二人でも寝られないことはないような気がする。しかし今のロヴィーノにそれができるだけの耐久力がないので、いつも占領するだけ占領して追い出すのだ。ちゃっかりと彼のベッドは堪能しようとする下心はなかなかのものであると自分で思わないでもない。
 アントーニョは大好きなヴィノを空けていなかった。ベルギーもオランダも、誰も酒に酔うようなことはなく、盛り上がるというわけでもない会話だけがあった。或いはそれが、通常の姿なのだと思う。それをそのままに熟せる――だったら、招待状なんて大仰な物もそもそもいらないとは思うのだが、それこそが家族のような存在であるのかもしれない。
 寝て起きたら、忘れようと思った。アントーニョを好きだったことなんて、全部。忘れて何事もなかったかのように過ごせば、どこかでベッラでも口説き落として、それで。
 足音がこちらに近づいてきたので驚いた。
「今日は寒いから、風邪ひかんようにせなアカンよ、ロヴィーノ」
 ふわりと身体に布団がかけられた。ぎょっとしても寝たフリをしているから、動けない。
「ほんじゃあ、おやすみ、ロヴィーノ。いい夢見てな」
 幼い頃、自分の抱き締めてくれた指先が頭頂に触れた。優しく触れるように撫でるその指先は体温だけをその場所に残していく。
「えーと、ボーナノッテ、やっけ? Buona notte Rovino.」
 声が耳をすうっと通り抜けた。足音はそのまま遠ざかって、いく。灯りがオレンジ色に落とされた。
(なんだ、よ、アレ)
 頬が、耳が熱かった。ロヴィーノはただ好き勝手しただけなのに、アントーニョがそれに目くじらたてることがないにしてもこんな風にされたらどうしようもなくなってしまう。自分には彼は甘すぎるのだ。生クリームとメイプルハニーのパンケーキ。チョコレートのクリームで彩られた丸いケーキ。一口食べたら胸焼けしてしまうほどに、甘い。まさかこんな些細なことでと、誰かに言ったら笑われてしまうようなことでむしろ痛感する。優しくされることには慣れていたはずだ。ロヴィーノの宗主国はいつも愛情を与え、優しく接してくれていた。そうした小さな積み重ねが、いつしか高く高く聳え立って目の前に存在している。心を埋め尽くしていくのだ。
「Buenas noches Antonio.」
 聞こえない相手に向かって呟いてみる。そのまま目を閉じた。明日になったらなんて無意味だと悟る。こうした忘却への意思とその不可能性についても、実際ロヴィーノは幾度となく考察しているのだ。その度に出る結論が変わらなくても、また同じことを考える。

「起きろ、アントーニョ! メシ!」
 シャッとリビングのカーテンを開けると、アントーニョは煩わしそうにソファの背の方に顔を向けた。
「起きねぇと、また頭突き」
「うええっ! ちょ、それはやめたって!」
 アントーニョは上体を起こすとこちらの方に向き直る。ソファで寝ることに慣れているためか、落下するようなこともない。薄いベージュの毛布が一枚だけ上にかかっていたが、夜は寒くなかっただろうかとロヴィーノは思った。ベッドを占拠した自分の所為だということは棚に上げておく。
「まだ6時やん……なんで、ロヴィーノはいつもそんなに早いん? ってか、朝メシくらい作ってや!」
「はぁ? なんで俺が作るんだよ。朝メシはお前の仕事だろ」
 人差し指を額に突きつけて言うと、アントーニョは少し眉間に皺を作った。けれど相好はすぐに崩れる。
「ま、しゃあないなぁ。ロヴィーノは元気になったみたいやし」
「な! なんだよ、それ」
 毛布を軽く畳んで端に避けて、アントーニョはソファから足を下ろした。指を引っ込めたロヴィーノがじっと見つめているのを知ってか知らずか、窓の外の光に目をやる。つられないようにじっと目を見た。鮮やかなグリーンの色の一点に気持ちが集中している。
「昨夜は、元気なかったみたいやったから」
「お前にそんなこと、分かるのかよ」
「もちろんやで。俺、親分やからな!」
 こちらに向いたと思うと、アントーニョは片目を瞑った。そして言うなり立ち上がる。
「パスタにはトマトやろ〜」
 のんびりとした声が届いた。しばし固まっていたロヴィーノは、歌うような彼の言葉に我に返る。
「ピッツァにもトマト、だろ」
 そう言うと笑う声は深くなった。
「なんでもトマトでえぇなぁ! ほんじゃ、朝のパスタはトマトやね。あとはやっぱり、ショコラータや」
 朝は弱いくせに、今日の目覚めはよいようだった。ロヴィーノは先程までアントーニョが寝ていたソファに腰を下ろす。その瞬間に熱の残滓に動揺した。また、鼓動が早くなる。
『なぁなぁロヴィーノ、どないしたん? 元気ないみたいやけど』
(昔から、そういうところだけなんで分かるんだよ、このやろー)
 理由は分からなくても、感情の変化を読み取ってくれる。ロヴィーノに対してだけなのかもしれない。よく見ているという言葉通りの親分には些か悔しい気持ちになった。頭を壁につけて、目を閉じる。火をつける音がした。
 親分だからという枕詞は好きではない。昨日も痛感したことだ。無数にいる彼の子分の独りではないのだ、と思いたい。
「アントーニョ、ベル姉と連絡とか……よく取るのか?」
「え? ベルギー? なんやの、ロヴィーノはベルギーのことばっかなん?」
 親分寂しいわぁ、なんて微塵も寂しくなさそうに言う。それでもこちらに目を向けてくれるらしいことが分かって、少しだけ満足した。
「だから、ちげぇよ。お前が、その――」
「え? なんやの?」
「家に! ベルギーの菓子があるの見るからだ!」
「あぁ、それ? たまぁに送ってきてくれるんよ。えぇ子やなぁ、ホンマに」
 アントーニョの発言からは、相互に連絡を取り合っているらしき様子は窺えなかった。安堵して目を開く。考えてみれば、異性であるという時点でベルギーの方が相思相愛になれる確立は高いように思われた。しかしアントーニョはおおらかというか、頓着しない性質というのか、性別には拘りがないような気がする。過去を振り返ればフェリシアーノに結婚しようと言っていたくらいだ。たしか敬虔なクリスチャンであったと思うのだが、如何なることだろうか。
 弟に言うくらいならどうしてこちらにこそ言ってくれないのか、と勝手に憤ってみる。パスタとシエスタ。あの場ではいと頷けるほどの素直さがあったなら、そもそもこんな風に頭を悩ませたりはしない。アントーニョが、言葉の裏側を読み込んで解釈してくれないのが恨めしかった。
「ロヴィーノも欲しいんやったら、ベルギーに言うたらえぇんとちゃう? たぶん送ってくれるで」
「別に、そういうわけじゃ……」
 なんでコイツはこんなに鈍感なんだろうかと思うと頭が痛い。思わず額に手を当てた。いや、いつも通りと言えばそれだけなのだが。
「親分とこのお菓子は、いらへんの?」
 アントーニョはキッチンから顔を覗かせた。手には真っ赤なトマト。
「仰山送っても、えぇんやで? なぁロヴィーノ、親分のは?」
 目をきらきらと輝かせていた。
 スペインのお菓子なんて、飽きるくらいにここに来て食べている。わざわざ送ってもらうほどのことなんてないのだ。けれどそんな風に言ってくるなんて思いもよらなかった。本当に、毎度毎度アントーニョのことは読めない。
「ベルギーんとこのも美味しいけどな、でも、親分やって負けてへんで――」
「っだー! もういい! 黙ってろ、お前えええええええ」
 なんだかいろいろと打ちひしがれた。自己主張してくるなんて、可愛すぎる。
「え? え? なんでなん? ロヴィーノ、親分のお菓子、いらへんの?」
「貰ってやるから、いくらでも送ってくればいいだろ、このやろー!」
「ホンマに? せやったらなぁ、近い内に送ったるからなぁ! 待っとってな!」
 なにが送られてもなんでも、可愛いからもういいかと思った。大概である。親分は親分で、特別に見て欲しい気持ちもあるのだろう。今なら少し素直に言えそうだと思った。
「ベル姉から欲しいとかじゃねぇよ。お前んとこのお菓子、食い慣れてるし、好きだし。その……待っててや――じゃなくて、待ってる、から」
 段々と声が細くなっていって、最後の方は自分でも聞き取れないくらいの声量だった。
「ありがとうなぁ、ロヴィーノ」
 それなのに、全部了解したようにアントーニョは笑った。とてもうれしそうに、花が綻ぶみたいに。

<prev >next

back