白昼夢

 世の中、Tシャツを着るだけで恋人になりたいと思われるなどという事態があるらしい。
 初めて彼の作ったというプリントTシャツを見たときは、ロヴィーノはとんでもなく驚いた。なんというセンスだろうか。イタリアでは考えられないセンスだったのだ。白い無地のTシャツに、「だまれ」と黒で印字されている。ただそれだけ。そもそもセンスもなにもあったものではない。一体全体どうしたらこんなことになってしまうのだろうかと首を傾げるくらいだった。アントーニョは作ったそれを自慢気にイタリアまで持ってきた上、ロヴィーノにも一枚と渡してくれたのだが、はっきり言っていらない。全然、いらない。当然突っ返した。しかし捨てる神あれば拾う神ありというかなんというか、後ろから見ていた弟がしゅんとしたアントーニョを見兼ねたのか知らないが「俺が貰うよ、アントーニョ兄ちゃん」などと言ってのけたのである。お前それ絶対着ないだろ、と暗黙の抗議の意を込めて睨みつけてみたものの、アントーニョははっきりとうれしそうにして見せた。こんなことならば素直に貰っておけばよかった、とロヴィーノに後悔させる程度には。
 そのTシャツはロヴィーノの読み通り、フェリシアーノの普段着とはならなかった。当然である。それどころか弟は「兄ちゃん、本当は欲しかったんでしょ?」などと言ってロヴィーノのクローゼットに詰め込んだ。いや正直に言っていらない。というか、そんな風に貰うくらいなら初めからアントーニョの申出を断る意味がないだろう。貰ったら喜んでくれるというのは幾らばかりか計算できるが。
(結局、素直に言えねぇけど)
 フリをすればよかったのだ。貰ってやる。仕方ないから。それだけでもアントーニョはきっと喜んでくれるだろう。それすらできないのだから、いつも後悔ばかりしているのだ。実際にいらない、というのもたしかにあるけれども。弟のように器用にはできない。くだらないことなのにしょげている姿を見たら、胸が痛くなった。なんだって簡単なことであるはずなのに。
 今、目の前には件のTシャツがベッドの上に乗せられている。この前アントーニョが手伝ってくれたお陰で、前よりは部屋は綺麗になった。彼の手際よさは生来なのか、自分の所為で身についたものなのか。後者だったら少しうれしいと思って、なんだか女々しさに自分で苛立ってみる。春めいた天気はいつのまにか冬の寒さを連れ去って、今日も温かい。きっと、Tシャツ一枚でも過ごせるだろう。そう思ってふたたび目の前のそれを睨みつけた。
『俺が女の子やったら、デートくらいはしたいで!!』
「……こんなもん着て、どこがいいんだよちくしょー」
 昔からセンスのある奴だとは別段思っていなかったが、このTシャツでデートしたいとまで言う程だとは思わなかった。そんな話をフェリシアーノから聞いても、俄には信じられなかったロヴィーノである。女の子だったらとか前提条件はあったが、あまりそういうことはロヴィーノの耳には入ってこなかった。着ればデートしたいと思わせられるらしい、そうすればきっと恋人になりたいと思うに違いない。デートまで行き着けば、とロヴィーノは思った。しかしイタリア人の美的センスがそれを咎めるのだ。
「こんなん着て、歩けるか!」
 さっきからずっとこの調子だった。小一時間くらい、眺めては思案して挙句には怒り出すということを繰り返している。
(いや、待てよ……このセンスの悪いもんでも着られるだけの愛が試されてるんじゃねぇのか?)
 そしてようやく、ロヴィーノは結論らしき物に達した。アントーニョだって、自国を愛している。大変な上司が多かったけれども、やっぱり国王は彼にとって重要な人物だ。その国王の発言が書かれたTシャツ、如何なセンスにしても彼にとっては意義深いものだろう。それまでの辛い政治を払拭する意味でもあった王制の復活――その歴史を踏まえた上でも。
 とりあえず、袖を通してみることにしよう。まず着てみなければ始まらない。着たら意外と似合ったなんてことはありそうにないが、どのような状況になるのか理解しておく必要はあるだろう。ロヴィーノは着ていたチェックのシャツのボタンを外し始めた。ふと、アントーニョはいつもラフなシャツを着ているとかそういうことを思い出す。世界会議などではフォーマルな姿も見せるが、普段着はあまり洒落た物がない。機能性重視というか、農作業をするからあまり必要がないというのかそういうことらしい。たまにはこういうシャツも、と自分の着ていた物を光に当てて考えてみる。ややロヴィーノの方が小柄だが、シャツのサイズならば同じくらいだろう。
(肌の感じから言うと、割と色は薄い方が合うか? いやでも、いつもクリーム色のシャツだからたまには原色に近いくらいのもんでも……いや、淡い色の方が……アイツの顔立ちと性格からすると)
 もう一度、手に持ったシャツを見る。薄めのペールブルーにはっきりとしたシアンのチェック。
『ロヴィーノ、似合っとる?』
 脳内のアントーニョが振り向いて笑った。主に脳内の出来事であるが、よく似合っている。今しがた自分がしていたみたいに、ボタンを外して脱がせてやりたいと思うくらいには――
「兄ちゃーん、俺、ちょっとルートヴィヒのところに出掛けてく、る……」
 急に自室のドアが開いた。
「うわぁぁぁっ! なんだよ、この、バカ弟ぉっ!」
 弟は立ち尽くしてこちらをじっと見ていた。半裸でなんか自分の着ていたシャツを握りしめてちょっとどこかにトリップしている兄の姿を網膜に焼き付けるようにして見て、数回まばたきした。
「なにしてるの、兄ちゃん……?」
 明らかに不審がられている。当然だ。客観的に見ても、今の自分の状況が極めて怪しいことはロヴィーノにも分かる。弟の視線はこちらを離れてベッドに移り、そこに鎮座する存在を認めて止まった。
「えっと、邪魔してごめん、ね……? もしかして、アントーニョ兄ちゃんのとこに行くの? 戸締り忘れないでね、兄ちゃん。じゃあ……、俺、行くから」
「す、好きにしろ、このバカ弟! ジャガイモでもなんでもどこへでも行ってろ、このやろー!」
「ヴェ〜……いってきまーす」
 フェリシアーノはささっと部屋を去って行った。いつもならば「ジャガイモ野郎のところになんて行ってんじゃねぇ!」と怒鳴ってやるところだが、今日はさすがに具合が悪いので止めておいた。
 自分がなにをしようとしていたのか思い出せなくなって、ロヴィーノは一瞬首を傾げた。その後、あぁそうだ、Tシャツ、と思い出す。なんだかもうどうでもよくなってきて、とっととTシャツに袖を通した。普通のTシャツで、着心地も至って普通だ。クローゼットから全身鏡を取り出して、自分の姿を見てみる。
(……普通だな)
 着ていられないというような物では、そもそもないのだ。ただ単純な白いTシャツ。文字だけがシュールに踊っている。これを着た相手とデート、なんて自分が女だったらあまり考えたくはない。もちろん、女性ならばこれを着ていたとしても許容されるだろう。今のところロヴィーノはアントーニョ以外の誰かとデートするつもりはないが、そういうものだ。そしてアントーニョがこれを着ていたらどうだろうか。
(まぁ、アイツの服装なんてなんでも構わないか)
 十分に許容されるものだなと思った。結構、愛は深い。くだらない冗談みたいな話を真に受けてこんなTシャツを着るくらいなのだから。むしろ、この薄いTシャツを着て外を走り回るアントーニョなど目に浮かべられる。
『ロヴィーノ、今日はあったかいなぁ! お日さんの光もいっぱいやし、トマトも元気になりそうやなぁ』
 いや薄いシャツではちょっと危険じゃないか。なんだか分からない理性のようななにかが、不意に脳の片隅で囁いた。アントーニョを狙っているかの如きフランシスもいるし、油断がならない。そうでなくとも、放っておいたらどっかに行きそうなふわふわ加減だ。ロヴィーノは机の上の携帯電話を取ると、慌てて電話帳のAを探しだした。メモリの一番最初に入っている名前。呼び出し音がいやに長くて、イライラしながら待った。数分くらい待って、ようやく相手が電話の決まり文句を言ったので「俺だ!」とだけ返す。最近会議でも菊がぼやいているなんとか詐欺のようだなと思ったが、当然のようにアントーニョには通じた。
『ロヴィーノどないしたん?』
「今、なにしてんだよ」
『なにて……洗濯モン干しとっただけやでぇ。今日もえぇ天気やからなぁ』
「誰も、いねぇよな」
『うん? おらんよ。誰かおったら、洗濯モン干しとる場合ちゃうやろぉ』
 うっかり白昼夢みたいな妄想をして身の安全が心配になったなんてどうかしていた。ロヴィーノはアントーニョの声を聞いてようやく我に返る。
「い、今から行くから、待ってろよこのやろー」
『ホンマに? せやったら、パスタでも作っとこか?』
「よ、用意しとけよ、ちくしょうめ!」
 今に見てろ的に待ってろ、と思った。こうなったらもう、Tシャツを着ていくほかはないだろう。涙ぐましい努力と愛だと自分で思う。思って通話を切った。電話をベッドに投げる。
 このまま街を歩くのはさすがに御免だが、暖かいとは言えまだジャケットを羽織ってちょうどいいくらいの気候だ。クローゼットから焦げ茶のジャケットを取り出す。これさえ着ればなんとか誤魔化せるだろう。鏡でチェックしてよしと頷いた。こんなTシャツよりも、ちゃんとした格好の方が似合うしアントーニョも惚れてくれるのではないかと思うのだが、なんともあの思考回路は読めない。ともかくTシャツだろうと着こなす姿を見れば、デートしたくなるというものだろう。完璧だ。握り拳を作ってロヴィーノは投げた携帯を掴んでジーンズのポケットに押しこんで部屋を出た。

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