花とチュロス

 花を贈ろうと考えた。古来より女性にプレゼントするならば、花である。想いを伝えるにも花は効果的だ。たとえば、両手いっぱいの薔薇の花束などはどうだろうか。
(いくら鈍感でも、そんなもの渡されたら……)
 ロヴィーノは自室で一人、うんうんと頷く。真っ赤な薔薇の花束は愛の告白には相応しいだろうと思われた。
「これだ!」
「ヴェ……兄ちゃん、またなにかあったの?」
「なな、なんだよ、この、バカ弟! 勝手に入ってくるんじゃねぇ!」
 後ろから突然声をかけられたので、ロヴィーノは振り返った。自分と似た顔がそこにある。自分よりもややのんびりとした、細い目の青年の姿だ。
「ヴェ〜……だって、兄ちゃんが急に叫ぶから……ドア、開いてたよ〜」
「うるせぇ! 出てけ、このバカフェリシアーノ!」
 言われてみたら閉め忘れていたような気もしたが、そんなことは今更どうでもいいのである。フェリシアーノを廊下に出すと、茶色のドアを勢いよく閉めた。バタンッと音が響く。そうと決まれば、花を手配しなければならない。腕にいっぱいの薔薇の花ともなれば、一日やそこらで用意できるものでもないだろう。ロヴィーノは電話帳を探し始めたが、部屋は散らかっているので容易に探せそうにない。
「……まず、片付けるか」
 その方がよさそうだ。珍しくシャツの袖をまくり、辺りを見回す。足の踏み場もないほどではないが、机の上はよく分からない紙の束が乱雑に放置されていた。本棚の本は飛び出たり逆さになったり横倒しになったりしている。クローゼットは洋服がごちゃごちゃと積み上げられてあった。ありそうな場所と言えば、この辺りである。なんでこんなに散らかるのだろうかとロヴィーノは首を傾げた。普通に生活しているだけ、のつもりなのだ。
 とりあえず、机の上の謎の書類を手に取ってみる。標目は『欧州連合憲法案』とあった。
「いつのだ?」
 ぺらぺらと捲ってみると、日付が数年も前の物だった。古い。ゴミだ。そう判断してロヴィーノは紙束をゴミ箱に突っ込む。次の書類に移った。今度は会議の議事録、と書いてある。すぐ下の日付を見れば、これもまた数年前の代物だ。これもゴミ。
(なんだ、意外と捗るじゃねぇか)
 片付けなんて苦手だとばかり思っていたが、意外と自分もやれるなどと思いながら次の書類に目を通す。
「……? なんだ、これ」
 書類は見慣れぬ文字が並んでいた。イタリア語ではないし共通語でもない。スペイン語でもなかった。目を凝らして見てみても、さっぱり分からない。これはいったい何語だろうかと思う。英語ではなかった。アーサーやアルフレッドの苦手な顔を思い出して、首を横に振る。英語は公用語だから、まったく分からないというほどではない。だいたいは分かっていないのだが、これが英語でないことくらいは分かった。首を傾げる。似た単語が目に留まる。けれど、総じてよく分からない。分からない物を迂闊に捨てると後悔することを、経験上知っていた。昔、スペインにいた頃にわけの分からない書類をなんでもかんでもゴミ袋に入れて後で大騒ぎになったのだ。さすがにあれ以来、学んでいる。分からない場合の対処法は、取っておくに限るのだ。書類は床に下ろして、ふたたび次を見る。
「はぁ? なんでスペイン語の書類が――」
 長く暮らしたがゆえに、ロヴィーノもスペイン語の会話はある程度熟せる。しかし読み書きはあまり得意としていない。クリーム色の書類に踊っている文章がスペイン語であることまでは容易に分かったのだが、その内容までは完全に分からなかった。
 或いは、アントーニョが来たときに忘れていったものかもしれない。判読できないのだから、判断がつかない。たぶん、重要な書類ではないのだ。A4で数枚、ぺらっとしている。ホチキスで右上を止めてあるだけの、そんなもの。きっといらない。けれどもしかしたら、アントーニョの物かもしれない。なにせスペイン語だ。
(アイツんトコに持ってってみるか……?)
 それは口実にもなる。お前の所の文章かと思って、持ってきてやったんだ。そう言えばアントーニョはほほえんでくれることだろう。わざわざありがとうなぁ、ロヴィーノ。ロヴィーノはホンマにえぇ子やねぇ。
(だから、子じゃねぇっつう!)
 しかし自分の幻想にツッコミを入れても致し方がない。ともかくこれは重要な書類だ。左後ろにあるブルーシーツのベッドの上に下ろしておく。
 そこから、長かった。
 ロヴィーノは片付けが苦手である。不器用なのもそうだし、選別に判別が苦手なのだ。おまけに理解も早くない。書類を見ては一々あれこれと確認して、十分に検査し終えたところで次に進む。しかし重要かどうか分からなければ基本的に取っておくというスタンスが片付けには裏目に出ていた。気づけば床に積んだ書類は山の如し。ゴミ袋はまだまだ余裕がある。しかもずっとこんなことを続けていた所為で、お腹も空いてきた。ロヴィーノは立ち上がる。部屋が微弱な振動を受けて――
「あ、おい、ちょっと――!」
 書類がバサバサと崩れ、まるで雪崩のように滑り落ちていく。頭痛がした。
「こっのヤロ……」
「あ、ロヴィーノ? なぁなぁ、今、暇しとる?」
 タイミングがよいのだか悪いのだか、明るい声がドアを開くと同時に響き渡った。バッとそちらを見ると、ほほえむアントーニョの姿がある。手をひらひらと振っていた。
「えーと……なんや、捜し物でもしとるん?」
 言うが早いかアントーニョは手を伸ばした。雪崩の崩壊を起こした書類をさっと拾い上げてすぐ横に積み上げる。動きは早かった。数拍遅れて、ロヴィーノも自分の手前の書類を拾い上げる。
「ん? 委任状? ロヴィーノ、これ、こん前の会議の委任状、もういらんとちゃう?」
「い、委任状……? なんだよ、そんなの……」
「こっちも、ルートヴィヒからの書類やけど、たぶん原本はフェリちゃんとこやねぇ。これ、いらへんと思うわぁ」
 アントーニョは素早く書類に目を通すと、書類の所持者が判断できなかった要不要をチェックして分けていく。内職で慣れているためか、手の動きが俊敏だ。ひょいひょいと手を動かしている様をロヴィーノは思わず見つめていた。視線に気づいたのか、アントーニョはこちらに視線を投げた。
「なに、探しとったん?」
「ちっ……ちげぇよ、片付け――」
 そこまで言って、ハタと気がついた。そもそもどうして自分は片付けをしているのだ、お腹まで空かせて。物を探そうと思ったら、あまりの乱雑さに困って片付けを始めたのだ。そう、捜し物があった。花屋の電話番号。それは彼に花を贈るために。
「片付けしとったん? 親分、邪魔やった?」
「べ、別に……手伝ってもいいぞ、このやろー」
 なんだか急に気恥ずかしくなって視線を逸らすと、アントーニョはくすっと笑った。
「ほな、一緒に片そうか。二人でやれば、すぐ終わるで?」
 その声はとてもやわらかくて、優しかった。
(昔と、変わらないんだな、コイツは)
 ロヴィーノが片付けを失敗して、部屋を滅茶苦茶にして、それを怒って。怒っている癖に馬鹿みたい優しい声色で、疲れているはずなのに整えてくれた。ぎゅうっと胸が締め付けられる。どうして、なにもかもがこんなに変わらないのだろうか。彼の眼の奥の優しさも、声も、温かい指の先も、全部全部。
「春やねぇ、ロヴィーノ」
 唐突にアントーニョは呟いた。振り向くと、目が窓の奥を見つめている。立ち止まって五感を集中させると、花の香りがした。ふわんと漂う。
「親分とこも、トマトだけやなくて花育てよかなぁ……なんやテーブルにでも飾っておきたい気分になるわ」
「ちぎ! そ、それなら、今度、持ってってやってもいいぞ」
「え? ロヴィーノが? ホンマなん? うれしいわぁ!」
 うれしそうに言う声に、気が抜けてしまった。
「どんなん持ってきてくれるんやろうなぁ」
 食卓に飾るのならば、薔薇は相応しくないだろう。またそうやって、考えたことが駄目になる。アントーニョといると、いつだって上手くいかないのだ。それでも笑顔を引き出せたのだから、及第点だろう。
(つっても、いつも笑ってるか――)
 自分だけに笑って欲しいだなんて、馬鹿馬鹿しい。独り善がりの独占欲だ。知っている。思わず天井を仰ぎ見ると、不思議そうな視線を感じた。
「せや、親分な、チュロス作ってきたんやで。終わらせて、はよ食べような?」
「なんだよ! 片付けなんて後にして、チュロス先食うぞ、腹減ってんだ!」
「えぇ……そんなん言うてたら、終わらへんよ?」
「いいから、チュロス!」
「はいはい。しゃあないなぁ、ロヴィーノは……」

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