後ろ姿

「フェリシアーノ! 俺はスペインに行ってくるからな!」
 席を立ち上がってそう宣言すると、前にいた弟がこちらを見た。
「ヴェ……兄ちゃん、また行くの?」
 まだパスタをのろのろと食べている弟は若干、諦めのような呆れたような視線をこちらに送っている。ボロネーゼソースのパスタをすでに完食したロヴィーノは皿をシンクに押しこむと、ジャケットを手に取って弟に背を向けた。
「またってなんだよ、バカ弟」
「だって兄ちゃん、これでもう……」
 ロヴィーノが振り返ると、手を止めてフェリシアーノは指を折って何かを数え始めた。のんびりとした動作に苛立ちながら、一応数えるのを待ってやる。途中で指の動きが止まった。フェリシアーノは思案するように眉間に皺を寄せて、顔を上げてこちらを見た。
「とにかく、もう兄ちゃん、何回も何回もアントーニョ兄ちゃんに告白しに行ってるんだよ?」
「バッ、だ、誰がそんなこと……! っていうか、途中で数えんの諦めんな、このバカ弟!」
 数えるなら数えるで貫徹させるべきである。無駄に時間を使ったようにロヴィーノには思われた。
 それよりも問題は弟の発言である。ロヴィーノは、親分と自称して自分の傍にいてくれたアントーニョのことが好きだ。いつまでも子供扱い(というか子分扱い)だから、対等の存在として見てもらいたいし、もっと言えば彼を守ってあげたいと思っている。ふわふわとして掴みどころがなくて、いつも笑っている。泣き言なんてほとんど言わない彼が、辛い目に遭わないようにしたい。そうして、ロヴィーノのことも愛してくれたらいいと思っていた。実際は後者の方が紛れない本心である。だからあれこれとしているのだが、アントーニョには伝わっていない。好きだと言っても「親分もロヴィーノのこと大好きやで!」とごく単純に返されてしまうし、むしろアーサーなんかと相対した時などに至っては今でも守ってもらっていることの方が多かった。
 そんな事情は誰にも話していない。弟が知っているはずもないのだ。どうして何度告白しても悉く失敗していることを弟に言わねばならないのと言うのだろうか。恥ずかしすぎるし、馬鹿すぎる。
「いいから、お前は黙って皿でも洗ってろっ、このやろー!」
 何気に家事を言いつけてロヴィーノはふたたび食卓に背を向けた。どの道、食器洗いは弟の配分だ。ロヴィーノは片付け関連の家事が不得手なのである。黙ってと言ったが、フェリシアーノは出掛けに「いってらっしゃい、兄ちゃん」と一言だけ発した。ふと、弟には自分のように焦がれる相手もいないのだろうかと疑問に思った。

 勝手知ったるスペインの街並みをスイスイと通り抜けて、アントーニョの住む家へと向かう。途中に知った顔を少し見かけた。よく来ているので、見慣れているのだろう。空は今日も快晴で、強い陽光が差し込んでいた。これがスペインの天気で、空気だ。そんなことを感じながら、金色のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。アントーニョは在宅の場合に家に鍵をかけないことを知っているため、気にせず茶色の扉を押し開ける。
「おい、アントーニョ、入るぞ――」
 扉を開けた先は、まっすぐにリビングまでが見通せる。そこには、たしかにこの家の主がいた。その隣には、彼の隣人で友人の男。
(なっ)
 西洋人特有の白い指が、アントーニョの頬に触れていた。彼は少し顔を上げて、じっとフランシスの方を見つめている。そのまなざしが、声に気づいてこちらの方を向いた。視線が交わる。にこっとアントーニョはほほえんだ。
「あ、ロヴィーノやん! よう来たなぁ!」
 柔らかい声がこちらまで届く。
「ああほら、アントーニョ、ちゃんとこっち向いて……ロヴィーノのことは分かるけど、先に」
 一瞬で身体が熱くなったようにも思えたし、冷え切ったようにも思う。出ていって、目の前の光景を壊してやりたいと思ったけれど、身体が震えて動けなかった。呼吸が苦しい。
「ごめんなぁ、フランシス」
 アントーニョの視線が向こうに奪われた瞬間、身体をなにかが貫いた。いつもなら、あんな男よりも自分のことを見てくれるはずなのにと思う。嫌だという強い拒絶感は、自分の内にある恋慕と独占欲から生じてくるものだった。分かっているけれど、上手にやり過ごせない。だってあんな。
「ろ、ロヴィーノ? どうしたん?」
 息を呑んだ瞬間に、ドアノブに手をかけていた。
「っ……ば、ばかやろー!」
 怒鳴ることに意義はないのかもしれないが、叫ばずにはいられなかったのである。そのまま彼の家から出ると、逃げるように足を動かした。
 二人がなにをしていたのか、詳しいところはロヴィーノには分からない。けれども、まるでキスするみたいな光景に心臓がキリキリと痛んだのも事実だ。相手を信頼するアントーニョの碧色の目、愛情を感じさせるようなフランシスの指先のどちらも見ていられなかった。
「ちっくしょう……!」
 けれど、逃げ帰ってしまったという事実は重く伸し掛る。こういう時になにも言えないから、いつだって伝わらない。上手くいかない。誰の所為ではないのだ。アントーニョが鈍いから悪いなんてことは嘘で、いつだって意気地のない自分だけがいけない。このままイタリアまで帰ろうと思っていた足が止まる。そのまましゃがみこんだ。
 どうせ自分なんて。
 そう思っていたロヴィーノを拾いあげてくれたのはアントーニョだ。溢れるような優しさと、温かい笑みで心を満たしてくれた。どんな時だって、守ってくれた。それだから今度は自分が返したいと望んでいる。器用ではないから、それも上手くできないけれど。
 立ち上がって空を仰ぎ見ると、やはり真っ青で綺麗だった。どこまでも透明で広くて、太陽の光が降り注いでいる。このままでは駄目だと思った。このままやり過ごしたら、きっと一生このままだ。アントーニョの隣には誰かがいて、その人は彼を幸せにしてくれるかもしれない。
(そんなの、認められるかっ)
 アントーニョには笑顔でいて欲しい、幸せになって欲しい。そう思うけれど、それが誰かの手によってなんて嫌だ。自分が、この手で幸せにしたい。ずっと彼がそうしてくれていたように。その感情ならば負けないし、負けたくない。だから戻ろうと振り返って走りだそうとすれば、背後にいた人間と額がぶつかった。ガンッと勢いのよい音が頭に響く。
「ロ、ヴィーノ、いたた……でもよかったわ、追い着いて!」
「なんで、お前がいるんだよ!」
 ぶつけた額が痛くて、涙目になりながら摩る。石頭なのか、アントーニョはすぐにケロッとした笑顔を見せていた。
「なんでって……ロヴィーノこそ、なんで帰ってしもたん? 寂しいやんかぁ」
 アントーニョは額を摩るロヴィーノの指先を掴んで離すと、代わりに自分の手で撫でた。息が詰まりそうなくらいに甘い空間に、言葉も無くしてしまう。
「じゃ、邪魔だったんじゃねぇのかよ」
「なにがやの? あ、フランシス? さっき帰ってもうたけど」
「ちぎ! な、なに、してたんだよ、さっきは……」
 情けないことに、指先が震えていた。アントーニョの様子からは、妙なことはしていなかったようにも見えたが「え? キスしようとしてただけやで」とかあっさりと言い出す可能性もなきにしもあらずだ。なにを言い出すか分からない、読めない。まだ、ロヴィーノはなにもかもを分かっていない。
(恋人になったら、分かるのか――?)
 たぶんそういうことではないのだろう。関係性の違いが理解を深めるわけではない。けれどアントーニョはロヴィーノの多くを把握していて、ロヴィーノにはまだ分からないことが多くて、それをどうにもできないでいる。恋人になったら。キスをしたら。触れたら。
 急に頭が沸騰しそうになった。慌ててアントーニョの指先を振り払う。触れられていた部分に、急に熱が集まってきた。熱くて苦しい。こんなことを知られたら、気づかれてしまうと思っている。伝わって欲しいと思っていたはずなのに、伝わることを恐れているのだ、まだ。せめて自分が言葉にできてからでないと、とか。破裂してしまいそうだった。
「目にゴミが入ったから、見てもらっとったんやけど?」
「っだ……」
「だ?」
「だいたい、予想通りのオチじゃねぇか、このやろぉぉぉぉぉ!」
 なんだかもう苛立ちなのか羞恥なのかよく分からない。分からないままに肩を掴んで揺さぶった。返答はあっさりとしすぎていて、もうなにも言えやしない。
 安堵して、落胆して、期待して。いつも感情がぐるぐると巡っている。コイツに触るな、なんて言えやしないのに触れるだけでも癇に障る。
「あ、あんまり、フランシスなんかと仲良くしてんじゃねぇよ!」
 肩を離したものの、まっすぐに目を見て言えずに視線を逸らした。
「えぇ〜、なに言うとるん、ロヴィーノ。親分が取られると寂しいん? しゃあないなぁ! ロヴィーノが一番の子分やから、安心してぇな」
 一番と言われたことはうれしかったけれど、他意などまったくなさそうに言われて逆に腹が立った。
「このバカ! アホ! 鈍感!」
 言われたアントーニョは少ししょげたように眉を下げた。
「うぅ、冗談やんかぁ……ロヴィーノはホンマに、フランシスが苦手なんやね」
 アントーニョは立ち上がるとこちらに手を差し伸べた。まるで幼い頃のように、その手はロヴィーノを導こうとする。けれどそれを振り払ってロヴィーノは立ち上がった。子供扱いするな、と言うとアントーニョはまた眉を下げる。
 何回も告白していると弟は言っていたが、実際にはそこまで至っていないのだ。いつだってこんな風に終わってしまうだけ。
(すきだ)
 後ろ姿にそうやって囁いているだけ。誰かに盗られてしまうなんて思えないから、関係性を壊す必要がないような気がしている。否、嘘だ。本当に恐れていることとはなんだろうか。誰かの手に渡ることなんてない。彼の一番はいつだって自分で、それが幸せで満たされている。触れたって触れなくたって。恐れは恋愛の初期段階だ。たぶん、拒まれることを恐れている。鈍いから気づかないからで済んでしまえば、怖くない。
 次こそは。
 そう思っても、果たしてその通りに行くのだろうか。
「帰ってパスタでも食べようなぁ、ロヴィーノ」
「……たまには、作ってやる」
「ホンマに? ふふっ、なんやうれしいなぁ」
 自分の言動で、一挙手一投足で、笑ってくれる。拒絶なんてされるはずない。そう思ってもまだ恐れている。
「親分、好きやで」
「なっ――!」
 急に言われたので驚いて目を見ると、アントーニョは首を傾げた。
「ロヴィーノの作るパスタ! 世界で一番美味しいと思っとる!」
 料理くらいしか取り柄がない。それでも喜んでくれるのならばうれしい。けれども。
「まっぎっらっわっしいんだよ、この、アホー!」
「えええええ? なんでなん? 親分、なんで怒られとるん?」
 次こそは、この鈍感に想いを伝えようと思った。

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