キス&トラップ

「おい、アントーニョ、来てやったぞ、このやろー!」
 別段来てくれと頼まれた覚えは一切ないのだが、言葉の綾である。バタンと焦げ茶色のドアを開け放して叫べば、声を聞きつけて向こうから足音が聞こえてきた。
「ロヴィーノ、いらっしゃい、やね!」
 どうやら料理中だったらしい、黒のエプロンを身につけたままアントーニョはぱたぱたと駆けてきた。瞳は喜色を湛えている。ふわふわとした笑顔を浮かべている。
(ハニートラップかよ!)
 玄関に迎えに来る様は、あたかも新婚夫婦の奥様のようだ。ただし主観である。しかもハニートラップという語は聞いたことがあるが、英語なのであまり詳しくないし用法があっているのかどうかも分からない。色仕掛け的な意味合いであったような僅かな記憶だけだ。とにかくそんな感じであると思った。
「どないしたん? 上がってえぇで?」
 不思議そうにこちらを見つめるまなざしに、ようやく我に返った。そのまま「ご飯にする? お風呂にする? それとも……」とか聞かれるような気が一瞬したなどとは言えない。
「パスタ、もうそろそろできあがるから、待っとってなぁ」
 アントーニョはそう言うと、背を向けてリビングに舞い戻っていく。その背を追いながら、香りを辿った。
「そ、そうかよ……なんのパスタなんだよ」
 ふふっと笑うと、アントーニョはくるりと振り向く。
「なんやと思う?」
 本日二度目のハニートラップかとロヴィーノは思った。子供っぽいと思うのに、そのあどけなさについくらっとしてしまう。気持ち的に言えば、お前なんでそんなに可愛いんだよこのやろー、だ。だいたい、そんなクイズみたいなことをしても無駄なのだ。キッチンから香りが漂っている。ロヴィーノがよく知った、そしてこよなく愛する香りが。
「あ、当てたら……なにか貰えんのか――」
 アントーニョはきょとんと首を傾げた。ロヴィーノは咄嗟に自分の口を塞ぐ。なにを馬鹿なことを言い出そうとしていたのだろうか、と我に返った。当てたらご褒美、なんて。
(頭が沸いてる……)
 残念ながらそう自覚する次第である。額を押さえるとアントーニョは驚いたように「どないしたん?」とふたたび尋ねた。
「ロヴィーノ、今日、なんか変やけど……熱でもあるん?」
「なんでもねぇよ! ったく、トマトのパスタだろ」
「おお〜さっすがロヴィーノ!」
「……匂いがしてっだろ。そんぐらい」
「ほんなら、当てられたご褒美に、ロヴィーノにはデザートも付けたげるからなぁ」
 思わず廊下の壁に頭を打った。快い音が廊下に響く。育てられた、ということはそういうことなのだと実感した。思考回路が近しい。似たような経路を辿っていく。心配そうなアントーニョの声を振り払って、ロヴィーノは痛む額を摩った。当てられたらご褒美、とか同じことを考えるのだ。
 気を取り直して廊下を歩く。デザートとはなんだろうか。チュロスが本命だが、ご褒美などとつけるくらいだからイタリアのなにかという可能性もあるだろう。そうすると、オーソドックスにはティラミス。ジェラートは用意するのが難しいから考えにくい。ビスコッティもありうるだろう。どちらにせよ、彼はもともとデザートを用意していたはずだ。どれだって、土壇場でできるような代物ではない。もしくはたまたまロヴィーノが来る直前に、誰かが差し入れたとか。しかしその可能性は低い。アントーニョの性格から、誰かが来たならば十中八九引き止めていることだろう。
 考えながらダイニングの椅子に座った。アントーニョはいそいそとキッチンに戻って行く。パスタ皿はすでにダイニングテーブルに鎮座していた。白と青の薄い皿は、ロヴィーノが持ち込んだ物だ。パスタに使うならこれを、と以前に持ってきたのである。アントーニョはロヴィーノから貰う物をすべて喜んでくれるし、この皿はロヴィーノが来た時はいつも使われていた。他の食器を持ち込んだら、それも馴染みになるかもしれない。試したことがないから分からないのだが。居住空間を占拠していくということは、目につくところに自らの痕跡を残していくということである。親しい友人のところに生活用品を持ち込んでそのまま居座るようになるとか、そういうことだって考えられる。痕跡を残すことへの許容。それは心を占めることへの許容も少なからず含まれるように感じられた。
(だからって、なんでもかんでも持ち込むのもな……)
 内心ではそう思ったが、実際にはアントーニョの居宅にロヴィーノの日用品など割と普通にその辺に存在しているのである。歯ブラシ、マグカップ、私服もクローゼットに何枚か入れてあった。ワインなどが入るとそのまま泊まっていくことが多いため、このような物が置かれることと相成っている。アントーニョはまったく気にせず、弟なんかはむしろ置いてもらってよかったねとかいうようなことを言っていた。余計なお世話である。
「ロヴィーノ、お皿並べといてくれへん?」
 ひょいとアントーニョがキッチンから顔を出した。料理をしているアントーニョは、活き活きとしている。他にもトマトの世話をしているときなども活き活きとしているのだが、とりあえずは料理が好きなのだ。キッチンを覗いてみても、パスタしか見えなかった。チュロスだったら作ってあるのが分かりそうなものだから、きっとデザートは別の物なのだろう。ロヴィーノは二枚だけの皿を並べた。銀色のフォークを手にして、これが客人用であるということをいまさらに思う。自分用のナイフとフォークまで用意したら、住み着く気だと思われるだろうか。
「ありがとうなぁ、親分特製トマトパスタやで!」
 フライパンを片手にしたアントーニョが、こちらに向かって片目を瞑る。トマトでもそこから出てきそうだと思った。これはロヴィーノの主観ではない。フライパンからは魅惑のテソロの香りが漂っている。小さく刻まれたベーコンが入っていて、香りを引き立てている。ロヴィーノは腕をテーブルに乗せて、その上で顔を横にした。アントーニョは器に綺麗に盛り付けていく。センスだって悪いわけではないのだが、どうも山脈を越えた隣人が華美なためか地味な印象を拭えないのかもしれない。
(なんでコイツこんなに可愛いんだ)
 幼い頃からずっと見てきている。もちろん昔からそう思っていたわけではさすがにない。しかし容貌は大きな変化を見せていないはずだから、観察者の主観による変化だ。守ってくれた庇護者としてのアントーニョが過去には存在して、それはもしかしたら幼いロヴィーノの目には格好よい姿であったかもしれない。成長した自分にとって、今でも面倒見のよい親分として接するアントーニョにロヴィーノが頼っている節はある。物理的にと言うよりも、今では精神的に乗っかっているのだ。それでもなんとか自分でも守ってやりたいという気持ちはあった。それはたぶん、彼がその穏やかで暢気な外見よりも傷ついていることを知っているからで。子供っぽくてふわふわとしていて、可愛いからでもある。目を離せない。危なっかしいからではなくて、自分が見ていたいからそうなのだ。
 パスタを盛りつけたアントーニョは、流し台にフライパンを押し込んでいそいそと前の椅子に座ろうとする。エプロンを付けたままであることに気づいて、慌てて外した。そしてこちらに向かってにっこりとほほえむ。
「ほな、冷める前に食べようなぁ。あれ、ロヴィーノ、暑くあらへん? ジャケット着たままやん」
「え? あ――」
 家に入るなりパスタなどに気を取られて、本来の目的を忘れていた。ロヴィーノは指摘されて思わずジャケットを見、その中に着ているシャツのことを思い出したのである。まったくハニートラップの所為だ。
「っ、あ、アントーニョ!」
「おおう、急にどないしたん、大声出して……」
「これ、見やがれ!」
 ジャケットのボタンを外して前を開けた。着込んできたのは、彼のくれた(そして弟が貰った)Tシャツだ。デザインは至ってシンプル。黙れと言われても、ロヴィーノにはよく分からない。
 アントーニョはTシャツを見て、ぱちぱちとまばたきをした。
「それ、俺がフェリちゃんにあげたやつやない?」
「フェ、フェリシアーノが着ねぇから、俺が貰ってやったんだ! わ、悪いかよ……」
「ロヴィーノ、それ、嫌がってたんとちゃうかなって」
「なんでもいいだろ! それより、なんか、ねぇのかよ」
 アントーニョは首を傾げた。緑色の瞳が不思議そうにこちらを見ている。なんだか気不味くなって目を逸らした。
「ロヴィーノ、よぅ似合っとるなぁ」
「それ、だけか?」
「ん? 他になにかあるん? 似合っとるで。えぇとなぁ、ベネズエラの大統領にも見せたいくらいやわぁ」
 考えてみたら、これを着ただけでデートしたいなどと言われる方がおかしいのである。ロヴィーノは残念ながら、今気づいた。今更気づいて、顔が紅くなった。俯いて湯気の立つパスタを見つめる。トマトの色をしたパスタは、いつもと変わらずに美味しそうだった。だいたいそうなのだ。いつもアントーニョのことを考えるとおかしなことになる。真っ当に考えていたはずなのに、横道にそれている。きっとこの男の所為だ、とかロヴィーノは責任を転嫁した。好きなのに、好きだから、うまくいかない。
「ロヴィーノが貰ってくれとるなんて知らんかったわぁ……親分、うれしいで」
 声の調子が変わったので、ロヴィーノは顔を上げた。
「あげたもん使ってくれとる、ゆうんは――ホンマに、うれしい」
 頬が少しだけ紅い。言葉はやわらかく響く。
(あぁ、今、)
 今なら視線を独占できるような気がした。一瞬だけ夢想する。緩やかに通り抜ける。
(キスしたい)
 それこそ、ハニートラップだ。

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