事例7 消滅時効と除斥期間の違いについて述べなさい。

 ソレがアントーニョの好物であるということを悟るのにさして時間はかからなかった。
「ロヴィ!! 見てやこれ! チュロスやで!!」
 アントーニョがワゴンの行列の先にある目的物を見て目を輝かせたのは、まだ入園して間もないころであった。肩掛けの茶色い鞄から、先ほどアーサーが買った熊が飛び出ている。20代も半ばに差し掛かっているはずの男だのに、それすらも似合ってしまうのがアントーニョという人だ。素直に可愛いとアーサーは思ったし、自分のあげた物を喜んで所持しているという姿は胸にせまるものがある。
「メイプルチュロスやって……! 食べたいなぁ!」
 しかし当のアントーニョはチュロスに視線が釘付けになっていた。
「なんだよ、またチュロスか」
 アーサーに異常に態度の悪い弟は、アントーニョから顔を背けた。そして軽く溜息をつく。瞬間に少しアントーニョは淋しげにしたが、すぐにほほえみは戻った。その様子には諦念のようなものが少し感じられた。
「えぇやん! ロヴィも食べたない?」
 アントーニョは弟のコートの袖をつかんで軽く揺らす。やめろ、と言いながらもそのまなざしが温かかったことになどは、アーサーも気づいていた。だのに割って入る気になれない。
「お二人、仲が良いですね」
「……あぁ」
「アントーニョさんは、やっぱり鈍い人のようですね」
 隣で菊が納得したように一人、頷いている。アーサーも同意だったが、首を振らない代わりに額に右手を当てた。
 空気が違うのだ。温度差というものをひしひしと感じる。
「チュロス、好きなのか」
 それに割りこむように心持ち大きめの声量でアントーニョに話しかけると、彼はすぐにくるんとふりかえって笑った。
「大好物やで」
 そして人差し指を前に立てて片目をつぶる。そういう行動を、まるで何事もないようにアントーニョはしていた。自分をどのように見せたいだとか、そういうことではなくてナチュラルに。
「バカの一つ覚え」
 すかさずに弟がそっぽを向いたままつぶやけば、アントーニョはそちらに顔を向ける。
「そないなこと言わんでぇな」
 甘ったるい香りが鼻孔を通り抜けた。見ればカップルが列を成している。椅子に座って二人で一本のチュロスを分け合って食べるような光景すら散見された。菊は「若いって、いいですよね」とそういう人々に微妙な視線を送っている。アーサーも詳しい年齢は知らないが、菊は見た目よりも結構年上であるらしい。たまの発言の端々から感じられることでもあるのだが。
「あー、そのだな。食いたいなら買っても――か、勘違いするなよ!? 俺が、食いたいと思ったからだからな!」
「はぁ? 誰がお前なんかに……」
「ホンマ!? チュロス食べたいわ! チュロス買ったって!!」
 弟の言葉を遮ってアントーニョはアーサーの腕をつかんだ。ぱぁっと顔を輝かせてこちらをじっと見ている。なんというか、そんなにチュロスが好きなのだろうかとアーサーも疑問に思った。
「えっとな、ロヴィと菊さんの分も必要やと思うで!」
「わーってるよ。4本だな」
「さっすがアーサー! 気前えぇとこ好きやで!」
 つかんだ腕をぶんぶんと振られた。好きという言葉に動揺したものの、アントーニョにはそんなものに他意はないはずだと呼吸を改める。
「っ、人前でそういうことをするなって言ってんだろうが!」
 急に腕を引き離されたアントーニョは体勢を崩した。ロヴィーノは肩を抱くように自然にそれを支える。そしてアーサーを視線が合った。ずっと逸らされ続けていたはずのそれが交差したまま、空気だけが張り詰める。凍えた冬空よりも周囲の温度が冷めていくようにアーサーは錯覚した。
「お二人とも、並ぶ人の迷惑になりますよ」
 言葉にハッとして振り返れば、菊はコートの袖を口元に当てて、おっとりとこちらを見ている。しかもちゃっかりとカップルで満載の列に並んでいた。アーサーとロヴィーノの諍いは、彼の言う通り、その列の人々からは視線を集めていた。
「菊さん、チュロス美味しいと思うやろ〜」
 アントーニョはするりと弟の手から離れると並ぶ菊の元に駆け寄った。脳天気な様子は氷点下にも達しそうな周囲の温度に気づいていないことが顕著にうかがわれる。バカバカしくなってアーサーが地面に視線を落とすと、このテーマパークを象徴するキャラクターの顔姿がふと目に入った。俗に隠れ、と呼ばれるものだろう。
 アーサーはこのテーマパークの事前知識を随分と入手していた。何事にも万全を尽くすのがアーサーの主義なのである。レストランからアトラクション、サーヴィスの類まですべてを知識として入れてあった。実際にはパンフレットがあればだいたいは困らないのだろうが。そうした影の苦労のようなものはアーサーは表に出さないのだが、少しは通じて欲しいと思うのも事実である。アントーニョは弟と楽しい場所に来られたという感情だけだろうから、知れというのも無理な注文だが。
「アーサーさん、なにしてるんです?」
 見ればロヴィーノはすでにアントーニョの横に佇んでいた。先ほどからその行動をうかがっていたが、多分にあれはこちらを牽制しているのだ。さしずめ、その視線の意味は『アントーニョに近づくな』だろう。問題はその内心だ。正直なところ、アーサーもアルフレッドに妙な男が近づいたとなれば黙ってはいないだろう。今でこそ紳士だが元はヤンキーだ、とりあえず視線で黙らせる。
(あの弟は――なにを考えているんだ)
 アントーニョが指摘するように、その子供っぽくてスキンシップ過多なところが身内として気になる、というのはそれほどおかしなことでもないだろう。奢られてばかりを是としないのも同じだ。そう言いつつ自分で払わないところは釈然としないのだが。アーサーは地面を蹴りながら思案する。いっそのこと問い詰めてしまえば楽なのだろうが、弊害も大きそうである。ただの親族間の感情ならば、余計な波風を立てることになるのだ。それどころか明らかに不審な人物としてのランクが上がるだけだろう。それならば避けたい。その上、弟の口からアントーニョに漏れるようなことがあったら大変である。だいたい、問われてあの弟が素直に答えるとも思えない。
 それ以上に問い質せないのは、もし『そう』だったとしたらどうなるというのか考えていない所為でもあった。アントーニョは大変なブラコンで、弟が大好きで大事だと公言している。その上に複雑な家庭環境。兄だと思ったことがない? あれだけアントーニョのことばかり気にかけているあの弟のどこがそうだと言うのか。アントーニョは鈍いと常々思っていたけれど、そんなレヴェルではない。超鈍感もいいところだ。
「アーサー、チュロス他にもあるんやって!」
 見るとアントーニョはパンフレットを指さしてほほえんでいる。
「……なんだよ、別のがいいのか?」
 ポップコーンよろしくチュロスにもいろいろと種類がある。ポップコーンを食べたいと言われることは想定していたが、チュロスは考えていなかったのだ。見てみると、その種類は意外と多い。
「ちゃうて。どれも美味しそうやなぁって思て……あ、シナモンはやっぱりオーソドックスやね」
「ストロベリーなんて美味いのか?」
 横に立っていた弟がパンフレットを覗き込んでいる。それを見たアントーニョがふわりと笑った。
「トマトはあらへんね、ロヴィ」
「あっても食わねぇぞ」
 アーサーは、彼はそんなにトマトが好きなのかと呆れた。たしか家ではトマトしか作っていないらしいし、食卓にもよくのぼると聞いている。飽きたりしないのだろうか。トマトのチュロスと聞いて赤い揚げ菓子を頭に浮かべたが、瞬時にアーサーは頭からかき消した。どう見ても美味しそうではない。
「なんでや? ロヴィ、トマト好きやろ」
「好きでもチュロスにしてまで食いたくねぇよ」
「えぇー! パスタにもピッツァにもトマトやって言うてるのに?」
「菓子までとは言ってねぇ!」
「んなら、トマトゼリーは?」
「……それは」
 そっちは食うのかよ、と思わずアーサーが内心でツッコミを入れると、前にいた菊がくすくすと忍び笑いしているのが聞こえた。

「なぁなぁ、アレ、イチゴチュロスってあるんやけど……」
 先頭をぴょこぴょこと歩いていたアントーニョはぐるんと振り返るとアーサーに向かってほほえんだ。もしかしたら、離れて歩く弟に向かってだったのかもしれないのだが。甘ったるい匂いが鼻につく。チュロスという言葉のイメージするシナモンの独特な香りとも少し異なったものだった。
 メイプルチュロスを食べたのは、それほど前の話ではない。というか数十分くらい前の話だ。もうお腹が空いたのかと思ってアーサーが怪訝な顔をすれば、ロヴィーノの方は緩やかに苦笑するだけだった。
「どんだけチュロスが好きなんだよ、お前」
 似たようなまなざしを見たことがある。
「パエージャの次くらいやなぁ」
 まだ上があるのか。アントーニョは普段からぼんやりとした節があるのだが、それにしたって今日はまるで年齢が逆行しているようにすら思われた。ツッコミ役ではないというのに、心中でツッコンでばかりいる自分にアーサーは溜息をつく。前を差し掛かったのは水のアトラクションだった。菊がその動きまわるのを見て、「濡れそうですね」と複雑な顔をしている。
 男ばかりの一団というのは、それなりに目立った。まず周囲を覆うように存在するカップルの群れ、それから子どもの手を引く両親の姿、他には女子学生らがちらほらと見える。しかし男だけというのは珍しい。たまに制服の男子高生たちもいるようだが、それらを引けば社会人でこのように集団を作っているのはとんと見かけなかった。一瞬、頭の中に異様という言葉が浮かぶ。しかし異様と言えば、カップルの男までも仮装のような耳をつけているのは十分に異様でもあると言えそうだ。さすがに耳は、と思いつつアントーニョならばしっかりと似合っている気もする。
「ピンク色なんやね、綺麗や!」
「美味そうか、これ……?」
 隣を行く子供が親に与えられたストロベリーチュロスを頬張っていた。アーサーが首を傾げると、アントーニョの弟は鼻で笑ったのでカチンとくる。思わずガンつけそうになったが、相手はアントーニョの弟なのだ。ぐっとこらえて軽く睨むにとどめる。
「お前、“チュロス”ならなんでも好きだよな」
「もちろんやでぇ! どしたん、ロヴィ? なんか今日は――」
「……なんだよ」
「なんでもあらへんよ。えーと、アーサー乗りたいのある? できたら怖ない方がえぇな!」
 急にこちらを見たアントーニョはにこりと笑った。
「怖いの、ダメなのかよ」
 意外と可愛いところがあるなとか思って尋ねると、アントーニョは不思議そうに首を傾げた。俺は平気やけど、と言葉がつづく。
「俺やなくて、ロヴィが」
「は?」
 ロヴィーノが立ち止まって振り返った。
「ロヴィな、怖がりやから――」
「あほかぁ!!! このっ、バカアントーニョ!!」
 これはなんとなくアーサーにも予想できた展開であった。あの目付きの悪い弟が怖がりかどうかの真実は知らないが、少なくとも自分や菊の前でそのように言われれば黙ってはおるまい。案の定ロヴィーノはアントーニョに詰め寄っていた。二人の顔が近いのが気にかかったが、兄弟であれば不思議はないくらいだと思う。
「んなもんくらい、乗れるに決まってんだろ、コノヤロ」
 そう思いたい程度には顔が近すぎる。アントーニョのことだ、親族同士のスキンシップが過度であろうとは想像がついた。自分だってアルフレッドとあれくらいの距離になればと思うけれど、現実はそうはいかない。近づくなと言われるのが関の山だ。そう思って肩を落とすと、菊が袖を引いた。
「アーサーさん、黙って見ていていいんですか?」
 こちらの思考に陥っていたので、アーサーは菊の言葉に慌てて顔をあげる。視界に入ってきた兄弟は、兄弟のくせにそれ以上に見えるくらい仲睦まじい。
「でも、ロヴィ、昔はコーヒーカップで燥いで回し過ぎたら、泣いてもうて……」
「っだー! ヤメロ、このバカッ! 昔話するんじゃねぇよ!」
「せやかて……」
「昔の話だろ! っちゃんと、今の俺を――」
「ごめんなぁ」
 しかし噛み合っていない。対人スキル不足と言われて久しいアーサーにだって、この齟齬は見て取れた。
 弟は間違いなく兄のことを好いている。物言いは弄れているところがあるが、その実質は言葉として言い表せないくらいに想いが深いはずだ。ずっとアントーニョばかりを見つめるまなざしは、彼の見ていないところではひどく穏やかで優しいし、周囲への敵対心からもそれらがすべて見て取れる。似ているのだ。アーサーも感情を素直に表に出すことを得意としていないし、けれどこちらを見て欲しいし、周囲の人間には近づいて欲しくない。
 アントーニョが弟を溺愛していることはよく知っていた。可愛い可愛い可愛いと、見知らぬアーサーにまで飽くことなく言い、公言をはばからない。彼の性質上、その好意は素直に向けられる。だからロヴィーノのことを好いて、大事に思っているのだと分かっていた。けれど彼はずっと恐れている。アーサーに打ち明けられたところによれば、アントーニョは弟から嫌われていると思っているのだ。
 血の繋がりがあれば、親族ならば、心が伝わるとは限らない。どうしても重なるのだ、あの兄弟の姿が己と。アルフレッドとうまくいかない自分。弟が遠ざかっていくことを恐れている兄、そして、素直な物言いができない性格。
「争ってんじゃねぇよ、こんなとこで。人気のっつったら、ここからなら360度回転するのが近くにあるが――」
「噂には聞いています。それ、いいんじゃないですか、お二人?」
 菊も同じようなことを考えたのだろう、フォローするように言葉が挟まれた。兄弟二人で話すのは望ましいことのはずなのに、この二人は違うのだ。話すたびにすれ違っている様は、見ていられないとすら思わせた。だって、ロヴィーノはアントーニョが好きで、アントーニョはロヴィーノが好きなのだ。それなのにすれ違う兄弟を、アーサーが黙って見ていられる道理がない。思わず唇を噛んだ。
 この弟は、本気でアントーニョが好きなのかもしれない。確信に近づいていくその考えを、否定しようと言葉を塗り重ねても虚飾に塗れていくばかりだ。たとえそうだとして、兄弟の仲を引き裂くなどということは考えられない。それをしたら、自分までそれに飲み込まれてしまう気がした。なにより、アントーニョが泣くのは見たくない。だったらどうするかと思う。答えはなくて、堂々巡りをただくりかえしている。
「あ、えと、せやね……ロヴィもそれでえぇ?」
「なんでもいいよ、コノヤロウ」
 行くぞ、とアーサーは二人から背を向けて先を歩いた。道筋は完全に記憶していて抜かりがない。ちぐはぐな関係は尽きず、終わらないのだ。水の音がする。ざーっと流れていくそれが止むと、新しい空間にたどり着いた。エル・リオ・ペルティード。失われた河のある場所だ。相変わらず人は多くて、昼にはご飯が食べられるかどうかすら危ぶまれてしまう。
「アーサー、詳しいみたいやけど、よく来とるん?」
 たたたっと走り寄ってきたのはアントーニョで、隣をにこにことほほえみながら歩いた。鞄にあるのは、買ってあげたぬいぐるみ。可愛い。アーサーは至極真面目に、真剣にそう思っていた。いつだってにこにことして、太陽みたいに懐っこく笑っている。ぽやんとした穏やかな言葉と、素直でまっすぐなアイビーグリーンのまなざしは輝いていた。好きなのだと思う。手放しがたい。けれどその感情を伝えることもままならず、なんとなく傍にいるだけだ。そういう意味では、あの弟と変わらないのかもしれない。
 どちらも怖がりなのだろう。

「120分待ち?」
 たどり着いたアトラクションで提示された待ち時間に、アーサーは仰天した。そんなに待たされるのか。基本的に現代人らしく時間には追われる方なのだ、今日は遊びに来ていると言っても、2時間も待たされるのでは話が違う。
「ファストパスをとっても、ずいぶんと遅い時間になりますし、待つのが賢明でしょうね」
 菊は詳しくないようなことを言っていたのだが、それなりに知識もあるらしい。ファストパスについてはアーサーも先ほど見たが、閉園ギリギリの時間である。アントーニョの弟は明日もバイトだからあまり遅くまではいられないと言っていた。そうすればアントーニョだって、一緒に帰るに違いない。これをとってもダメならば、並ぶしか手はないのだ。それにしたって、120分だ。長すぎる。
「えぇんとちゃう? 120分くらいなら」
「……い、いいのか?」
 予想よりも軽い返事が返ってきたので、アーサーは戸惑う。混雑の中で立ち止まっていると次々に人がすり抜けていった。菊が「邪魔になりそうですね」と少し外れた場所に3人を呼び寄せるので、そちらに避けた。
「別に、俺は構へんけど。ロヴィも、えぇやろ? あ、嫌やったら――」
「120分くらいなら別にいいだろ」
「ほらな! 大丈夫やで!」
 どうやら時間の感覚が、この兄弟とは違うらしい。おそらくアルフレッドならば、自分以上に長い待ち時間を嫌うのだろう。基本的にファストが一番な人間なのだ。横目で菊を見ると、涼しげな表情をしている。菊も時間にはかなり厳しい人間だったと思ってこっそりと尋ねると「ここで待つのは当たり前でしょう」とさっくり返された。そういえば新製品や新装開店、セールなどでは並ぶのも嫌いではないと言っていたのを聞いた記憶がある。これもアーサーとは違うようだ。
「では、早く並んでしまいましょうか」
 言うより先に菊は動いている。行動が迅速であるという点においては、こちら側に近いとも思うのだが、彼は待ってもいいときと待ちたくはないときが厳密に定義されているのかもしれない。アントーニョは弟の手首をつかんで「ロヴィも早よ」と笑顔で急かしていた。もしかしたら、いつもならアントーニョが言うようにその指は振り払われてしまうものなのかもしれない。ロヴィーノは兄に手首をつかまれたと思えばこちらを見た。
「アーサーさんも、早くした方がいいんじゃねぇのか?」
 わざとらしく敬称までつけられて、アーサーの米神に青筋が浮かんだ。
(この餓鬼!)
 苛立ったものの、アントーニョの弟になにか言うわけにもいかない。いかに温厚なアントーニョと言えど、弟への溺愛ぶりから察するに、悪口を言ったら烈火の如く怒り出しそうだ。彼が怒るという姿を見たことはないので見てみたい気もするが、それが弟のためというのであればこちらの気分が悪くなるに違いないので避けたい。苛立ち紛れに空を仰ぐと、今日は清々しいほどの晴天だったことにやっと気づく。立て続けにいろいろなことがありすぎて、すっかり忘れていた。こんなところで鬱々とするのも苛立つのも馬鹿馬鹿しい話だ。
「アーサー、どしたん?」
「今行く」
 ちゃっかりと列に並んでいる菊のもとに、アーサーもゆっくりと歩み寄った。
「今が11時か……昼は少し遅くなりそうだな」
 腕時計を確認しながら言うと、前に並ぶアントーニョは一度ふりかえるとにこにことほほえんだ。
「平気やで」
 すぐ横でゴオッと大きな音が響いた。思わずアーサーもそちらへ目をやる。
「なぁなぁロヴィーノ、アレ見てみ? 回っとるやろ、すごいなぁ!」
 アントーニョは目の前で360度の回転をするアトラクションを指さした。弟の目はそちらの方に一度向かったが、返答は素っ気ない。
「……そうだな」
「アーサー、お仕事は大丈夫なん? 溜まってるものとかあらへん?」
 ぐるりと振り返ったと思えば、アントーニョは突然そんなことを尋ねた。
「あ? 平気だ。ちゃんと済ませておいた」
「菊さんは?」
「急ぎの案件はありませんから、平気ですよ」
 いつもの済ました顔で菊が答える。菊が仕事に追われている状態というのをアーサーは見たことがないのだが、普段どのようにしているのだろうかとふと気になった。だいたい用事があると言えばこちらに来てくれる、というのは顧問弁護士でもないのに不思議と言えば不思議なことだ。アーサーはそれで助かっているが。
 アーサーも、菊に迷惑をかけているということは知っている。最近のアントーニョに関する件なんて、その最たるものだ。父を継いで不動産業を始めたばかりの頃も、今とは違ってまだ若かったし、物知らずだった。父の仕事を見ていたからというだけでは簡単にできないことを痛感したし、菊に泣きつくようなことも珍しくはなかったのだ。その頃の菊も、熟達した弁護士であったわけでもないのに丁寧に仕事を処理してくれたし、アーサーにいろいろと教えてくれた。だからアーサーは、彼を信頼しているのだ。年月というものは何物にも代えがたい。
「へぇ、そうなん。アーサー今日は紅茶ないけど、平気やの?」
「お前な、別に紅茶以外飲めないってわけじゃねぇよ」
 コーヒーはたしかに遠慮したいが、テーマパーク内の紅茶などアテにできない。アーサーは高級志向なのである。それならばミネラルウォーターでも食らっていた方がマシだ。
「でも、飲み物買っとけばよかったなぁ。ロヴィ、喉乾いてへん?」
「うるさい」
「うえ?」
「うるさい。ちっとは黙ってろ、バカアントーニョ」
 急に突き放したように言われたので、アントーニョはオロオロと視線を彷徨わせていた。
「他の奴らがいるんだから、そっちにも話させろよ、バカヤロウ。お前は黙ってろ」
 えっ、と思ってアーサーがロヴィーノの顔を見ると「なんの用だよチクショウ」などと理不尽な言葉を投げられた。無茶苦茶だ。
 列が動き始めて、アントーニョが慌ててそれに従う。彼の弟もそれにすぐさま気づいて後を追いかけた。あの態度の弟が、アントーニョ以外と話したいはずがない。菊に対してだってそれほど疎んじてはいないという程度で、積極的に会話したいようには見えなかった。どうしてそんなことを言ったのかと思って首を傾げる。
「優しいんですね」
 ぽつりと菊が言葉を落とした。おそらくこの場所からだとアントーニョまでは聞こえないような声音で。彼の弟だけが振り返って菊を見た。視線が合うと菊はにっこりとほほえみ、ロヴィーノの方は背を向けてアントーニョが早くと呼ぶ方へと向かってしまう。優しい? どこがだとアーサーは首を捻った。菊の様子からすれば、彼が優しいと言ったのはロヴィーノについてのことなのだろう。対人関係に疎いアーサーは、機微に聡いとは言えない方だった。
「察したんですよ。アントーニョさんが無理していることを」
 菊は空気を読むということにはとんでもなく長けている。アーサーが分かっていないことすら敏感に気づいたらしく、少し離れた兄弟を見つめながらつぶやいた。
「アントーニョさんにとっては全員が知り合いでも、ロヴィーノさんは違いますからね。自分が気遣わないとと思って、饒舌だったんです。でも、ロヴィーノさんはそれに気づいた」
「だから、黙れ――?」
「そういうことですね。アーサーさん、あなた、このままだと」
 菊は皆まで告げずに口を閉ざした。その先は言わずもがなと言うのもそうだし、距離が離れていた兄弟に追いついてしまったためでもある。
「菊さん、なんか話とかあらへん?」
「私、ですか?」
 振り返ったアントーニョに急に振られて、菊は首を傾げた。
「せや。菊さんの話、いつもおもろいし……俺が話すよか、えぇかな」
 不器用な、遠まわしな優しさが伝わらないということが、兄弟の齟齬なのかもしれない。アントーニョは額面通りに受け取る。うるさいと言われれば、自分が煩わしいのだと思うのだ。
(なんだ、それは……)
 彼らは同じ方向を見ているのに、すれ違っている。弟の方は横を向いて黙っていた。誤った認識をされてもなお、彼は語らない。ある意味でそれは、諦念にも近いものであるのかもしれない。
「でしたら、そうですね――ひとつ、おもしろい話でもしましょうか」
 興味津々のアントーニョに、興味なさそうな弟。アーサーは菊とは話している方だが、どんなことを語るのかということには興味がある。
「私の専門分野ですから、法律関連の話でも。ロヴィーノさん、あなたは時効という言葉を知っていますか?」
「ちぎ! それくらい知ってる――あーっと、知ってます」
 前半の妙な擬音語はなにかと思ったが、菊は気にする様子もなくゆっくりと頷くだけだった。
「でしょうね。どういうものか知ってますか? アーサーさん」
「は? あーっとだな……アレだろ。犯罪者が逮捕されなくなるっていう……」
 急に振られてアーサーも驚いた。どういうものと言われても、今までどういうものかなんて考えてきたことがない。しかし菊は返答に満足してはくれなかったらしく、複雑な目でこちらを見た。
「……まぁ、いろいろと言いたいことはありますけどね。あなた、私がいつも言ってることを覚えてますか?」
 いつもとはなにかと思案していると、アントーニョがぱっと顔を明るくした。
「あ、あれやろ! 俺は覚えとるで、菊さん!」
「では正解をどうぞ」
「えーっと、いつまでも催促しないと時効で消えちゃうっつうやつやろ!」
「その通りです」
 優秀な生徒にしてあげるみたいに言って、菊は笑った。
「もちろん、アーサーさんの言うのもそうです。公訴時効――罪を犯しても、時効によって、裁判では裁けなくなる。大雑把な理解ではそれですね。逮捕ができなくなるというのは、厳密に言えば違います」
「……どう、違うんだよ」
 興味のないようにしていたロヴィーノも話に引かれてきたようで、言葉を挟んだ。
「話すと長いので、割愛します。興味があるようでしたら、また今度」
「おおー! せやったら、俺が聞いとくわ! ほんで、後で、ロヴィにも教えたげるからな」
 アントーニョに菊の説明が分かるのか、覚えられるのか。分からないが、口実にして弟と話したいだけのようにアーサーには思われた。アーサーは先ほど駄目出しされてしまって、やや口を挟みにくい。案の定「お前が覚えられるのかよ」と弟は言った。
「犯罪や刑罰について言えば、時効は二種類。公訴時効と、刑の執行についての時効もあります。まぁ、マイナなので気にする必要はないでしょうね。私も詳しくは知っていませんから。そして、先ほどアントーニョさんが答えてくれた時効――これは、民法に規定されている時効です」
 言われてみれば、菊がよく言っていることだった。時効になっていないか調べる必要がありますから、と。
「ん? 待てよ、俺が覚えているのは、たしか、昔から土地を使ってるヤツがいると、時効でそいつの物になるかもしれないっていう――」
「えぇ、それもです。アントーニョさんの言ったのが、消滅時効。アーサーさんが言ったのが、取得時効」
「わかんねぇよ、そんなの!」
 苛立ったように言う弟をアントーニョが慌てて宥めた。
「大丈夫ですよ、今からざっと説明しますから」
 菊の年齢は詳しくないが、自分よりもかなり上だと言っている。この兄弟なども、子供のように扱うので、たしかに結構な歳なのかもしれない。まるで教師のように菊は楽しげにほほえんでいる。
「借りたお金をいつまでも返さないでいて、しかも相手がなにも催促しなかったら、もう返さなくていいのかなと思いませんか?」
「え、そんなこと思うん?」
「まぁ、喩え話ですが。いつまでも――10年や20年、なにも言わなかったら、さすがに返さなくていいと思いますよね」
「それは、そうかもしれねぇけど」
「期間の長短はありますが、催促しないままでいると、返さなくてよくなるんです。それが、消滅時効。この場合、消滅したのは『相手からお金を返してもらう権利』だと考えてもらえば差し支えないでしょうね。もちろん、他の権利でも消滅することはあります。『買い物の代金を支払ってもらう権利』とか」
「そ、そんなことあるん? えぇの?」
「催促すればいいわけですから――と言っても、もちろんトラブルになることはありますが」
 噛み砕いた分かりやすい説明だな、とアーサーは思った。相手のレベルに合わせて菊は説明をする。アーサーにはもう少し難しい言い方をするだろう。債権とかそういう言葉を使って。
「では、次は取得時効です。アントーニョさんの家には畑がありましたね?」
「トマト畑のことやね! あるで〜今年も美味しいトマトがいっぱいなっとるから、菊さんにもおすそ分けするなぁ!」
「ありがとうございます。では、そのトマト畑の半分が、実は別の人の――たとえば、アーサーさんの土地だったら、どうします?」
「えええっ!? そ、そうだったん!?」
「バカか! 喩え話だっつってんだろ、このアホ」
 なんだかボケとツッコミのようである。その先については記憶にあったので、アーサーは聞き役に徹していた。昼ごはんもトマト関連にするのだろうかこの兄弟は、などと思いながら。ありえる。
 列はゆっくりと進んでいるが、まだまだ道程は長い。120分と言うのは伊達ではないのだなとアーサーは思い知った。別に、アントーニョを見ていればそれなりに時間など潰れるというものではあるが。
「知らずに20年も使っていたら、ある日、陰険なアーサーさんが『俺の土地勝手に使ってるんじゃねぇよ』と、言いに来るわけですね」
「お、おい! なんだその陰険ってのは」
「……アーサーさんには、お似合いの言葉なんじゃねぇの」
 人が下手に出ていれば調子に乗りやがって。菊の言い方には慣れているが、こちらの弟の嫌味な発言は許しがたい。今度こそぶん殴ってやろうかと拳を構えたが、暢気なアントーニョは「言われたらどうなるん?」と話の方に夢中だ。
「自分の土地だと思っていたような場合、長くそこを使っていれば、土地の所有権を取得できるんですよ。それが、取得時効」
「アーサーの土地やって知っとったら?」
「借りているつもり、でなければ時効取得できます。まぁ、賃借権も時効取得できますけど、それは気にしなくてもいいでしょうね。さて、時効と一口に言っても、いろいろあると思いませんか?」
 毒気を抜かれたのでアーサーも握っていた手を解いた。ロヴィーノもまた興味を引かれたらしく、菊の方に視線を向けている。
「愛の時効なんて言いますけど、どのことを指しているんでしょうね。興味深いとは思いませんか? 愛に時効はあるのか。それは消滅してしまう時効なのか、取得する時効なのか、刑罰に問われなくなる時効なのか、刑の執行されない時効なのか、どれに擬えているのかということを考えると、意味深長でしょう? 言わないでいれば気付かれずに立ち消えてしまう愛。ずっと継続して傍にいることでその人を手に入れられる愛。咎められることなく共にいられる愛。もはや永遠に思いの届かない愛。そんなところでしょうか? どれだと思いますか?」
 黙ったアーサーやロヴィーノとは対照的に、アントーニョはにこりと笑った。
「それ、菊さんが考えたん? すごいなぁ」
「ありがとうございます。実は私、ストーリーテラーなんです」
「おぉー! さっすがやなぁ」
 まだ列の先は見えない。

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