久々に弟が家に帰ってきた。アントーニョは両親が止めるのも聞かずに大喜びで、玄関で靴を脱ぐ弟に飛びついてさっそく嫌な顔をされてしまったが、お構いなしである。
「よかったわぁ、元気そうやね、ロヴィ! うん、今日もかっこえぇな!」
ロヴィーノにはやめろと言われるのだが、アントーニョは弟が俗にいうイケメンであることを周囲に言いふらすほどに強く信じている。実際に女性に声をかけられているところを見るのも珍しくないので、世間的に見ても間違ってはいないはずだ。
「アホか!」
しかし友人知人揃ってだいたいにはそう言われている。もしくはブラコン。
「えぇー、しゃあないやん。ロヴィはいつ見てもかっこえぇし」
アントーニョ本人の方は可愛い(なんだかいろんな意味で)とは言われるが、カッコイイとはとんと言われたことがない。自分でそう思っているわけでもないしそういうものだろうと思っている。考えてみれば両親を見る限りそれが正当な遺伝であるように思われるのだが、そう考えるのは嫌で抱きついたまま首を振った。珍しく腕は振りとかれなかったが、それが逆に距離を感じて寂しく思えた。ますます腕の力を強くする。
向こうで母親がいいからさっさとリビングに来なさいと呼ぶ声が聞こえた。ロヴィーノは「母さん」と言い、ついでただいまとつぶやいた。なんだかその言にアントーニョは涙が出そうになってしまう。最近ひどく感傷的で、家に独りでいることも怖いのだ。ロヴィーノが帰ってきてくれたらいいのにとかそんなことばかり思う。
「おかえりなぁ」
「分かったから、離れろ。あいかわらずうっとうしいんだよ!」
腕をべりっとはがされたのでアントーニョは笑った。やはりこちらの方がロヴィーノらしい。また母親の声が聞こえたのでアントーニョは弟に背を向けて声の方を向く。
「あ、せや。今日はロヴィの大好きなパスタやで!」
ロヴィーノはあぁ、と気のない返事をした。その素っ気なさにいつのまに味覚でも変わったのだろうかと思ってアントーニョが振り向くと、目が合った。
「なんだよ!」
視線がすぐにそらされると苛立ったような声がぶつけられる。
「え? えーと、なんでもあらへんけど」
こちらを見ていたなんて珍しいなと思った。いつも目を合わせてくれないのに。
弟が今日こちらに帰ってきた理由は、あの『夢の海』に行くためである。というよりも、それを口実にアントーニョが家に戻るように熱心に電話で口説いたのだ。両親も、アントーニョよりはロヴィーノの一人暮らしの方が安心だとは言っていたけれど、たまには顔を出して欲しいと言っていたし、なによりアントーニョが会いたかった。それはもうしつこくしつこく言って、ようやくロヴィーノの首を縦に振らせることに成功したのだ。その時のアントーニョは思わず電話口でガッツポーズをしたくらいである。その上、明日は一緒に出かけられるのだ。幼い頃は一緒に出かけることも多かったけれど、もう数年はそんなことをしていない。誘っても誘っても拒絶されつづけていたことを考えると大進歩だ。
アントーニョがぼんやりしているとロヴィーノはさっさと廊下を先に歩いていた。慌てて追いかける。
「ロヴィ、大学ってなにやってるん? 楽しい? 友達おる?」
「うるせぇ! ……そっちこそ、なにやってるんだよ」
予想外の返しにアントーニョは驚いた。ロヴィーノが自分に関心を持ってくれるなんて、と感動する。問われた自分の業務内容について頭の中で浮かべてみた。今日も来客はなく、コピーもなかった。アーサーいわく「今日は暇だな」で、アフタヌーンティーをいつものように飲んだほか、菊が来たので和やかに談笑していたくらいだ。菊は来客ではないと本人が言っているし、会話内容からしてもただの知人との雑談である。そうなるとやっていることと言えば。
「えーと、アーサーに紅茶いれとるよ!」
「はぁ? お前、なにしてんだよ」
「……雑用?」
アントーニョは首をかしげた。
「俺に聞くな!」
ほとんど雑用みたいな仕事であるということはアーサーからも言われている。これで給金を貰っていいと言われているのだからアントーニョは細かいことは気にしないことにしていた。両親は昨日も今日も明日もトマトの栽培だけをしていて、ほとんど自給自足みたいにトマトばっかり食べている。アントーニョの給金はそれを補う意味で大いに役立っているのだ。
「ロヴィ、バイトはどうなん?」
「別に、なにもねぇよ」
先日ギルベルトに会ったのだが、特にロヴィーノのことについて言われてもいないし問題は起こしていないようである。と言っても、ギルベルトは会社の人間ではないと言われているのだけれど。一昨日はローデリヒにも会ったが、彼も特には言っていない。アントーニョとローデリヒとは中学時代からの友人だが、昔からテンポが合うので親しくしている。彼の昔いた家にフェリシアーノが居候していたと聞いたときは驚いた。ちなみにフェリシアーノはローデリヒのことを慕っているようである。彼から菊と会ったのだということを聞いて、共通の話題でいくらか盛り上がった。ローデリヒとルートヴィヒとエリザベータが主体となっている元自分のいた会社の話をしながら、友人たちの顔を頭に浮かべた。ルートヴィヒ、エリザベータも同じく中学の頃からの知り合いである。そういえばエリザベータはローデリヒを思慕していたと思うのだが、ローデリヒとはあいかわらずのようである。思わず「ロディは鈍いんやね」などと言って、思いっきり怒られた。「あなたには言われたくありません、このお馬鹿さん!」ということらしい。
「なに笑ってんだよ」
「うん? 明日、楽しみやなぁって」
「……なんでだよ」
「なんで――って、夢の国やで? 楽しみやん!」
家が貧乏なので行ったことはないが、噂には聞いている。フランシスがよく女の子を連れて行くと言って羨ましく思っていたのだ。いろいろな乗り物にパレード、夜になればライトアップされて花火も上がる。聞くだけでも楽しそうだ。
「せや、ロヴィ、知っとる? 夢の国にカップルで行くと、別れるんやって!」
「なッ……、なんだよ、それ!」
「待ち時間がなっがぁいからな、話が尽きてまうんやって。そんで気まずぅなってそのままーって。菊さんが言うてた。ロヴィも気ぃつけなアカンよ?」
ふと、ロヴィーノは恋人を家に連れてきたことがないなと思った。友人も滅多に連れてこないけれど、女の子はただの独りも見たことがない。かく言うアントーニョも実は恋人を連れてきたことがないというか、恋人がいたことがない。忙しいのだ。高校時代はバイトに明け暮れ、卒業してからはフリーター生活が数年続いていて余裕がない。資格も学歴もないアントーニョは正社員として雇用してもらえなかったのだ。もちろん家には進学するような余裕はない。それでもロヴィーノは大学に行かせてやりたいと思って、なんとか学費を工面するために非正規雇用でもなんとか働いていた。それでは恋人など作りようもない。それにアントーニョには、例えば結婚したって養っていける甲斐性がなかったのである。家族や弟を養うので精一杯。
女性はシビアだ。男女の収入格差は結局完全には是正されないし、それならば結婚して養ってもらうということを考える。それは普通のことだろう。そういう意味で、シビアなのだ。愛とお金を天秤にかけるとは言わないけれど、人生がかかっているのだから。養っていってくれそうな人を求めている。年齢が上がっていけば上がっていくほどに。高校生くらいのころは、自分のことを考えてくれる人を選べばそれだけでよかったかもしれないけれど。
アントーニョはアーサーを好きだと思っているが、女性が嫌いだというつもりはまったくない。従って今まで恋人がいないのは、上記の事情によって縁がなかったというだけであろう。まぁ別にどちらでも構わないかと思うのは、たぶん友人であるフランシスが異様にボーダーレスだからじゃないかと思われた。
「だったらお前も『雇い主』に愛想つかされないように気を付けろよ」
皮肉っぽく言われてアントーニョは苦笑する。対するロヴィーノの表情はなんだか複雑だった。
「ロヴィとやったら、いつまででも話せるんやけどなぁ」
「うるさいから、黙ってろ」
弟の様子は変わらず、まるで出て行く前と同じようだった。
ディズニーシーの最寄り駅のホームに降り立ったところからすでに非日常的だった。
「ふ、ふおぉぉ! 看板までディズニーや……! ほわっ、ほわぁぁぁ、電車のベルまで違うんやな! な、ロヴィ!」
アントーニョが電車から出てきた弟の両肩を正面から掴むと、掴まれた方は顔をしかめた。
「はしゃぐな! みっともねぇ!」
「久々に来ましたけど、あいかわらず人が多いですね」
「あぁ……これ、皆、ディズニーランドに行くのか?」
つづけて菊とアーサーもホームに降り立つ。今日は快晴だった。
アントーニョはいつもの紐シャツにジーンズでいいかと思ったのだが、見とがめたロヴィーノにグレーのチェックのシャツを渡された。「そんなよれた服で隣を歩かれたら迷惑なんだよ!」と言いながら。なんだかいつも買っているしまむらの服と違って高そうな服だったので気後れしつつ、ありがたく受け取ってそれを黒いミドルコートの下に着ている。菊からは好評価だった。アーサーは「珍しくまともな服着てんな……その、に、似合ってるぞ。まぁ、俺の次くらいにはな!!」と、褒めてくれたのだかなんだか分からない言葉を贈ってくれた。
かく言うアーサーは言葉の通り、清潔な青いストライプのシャツに黒のジャケットがよく似合っている。そのため、たしかにアーサーはカッコイイということをアントーニョが素直に言ったらアーサーは目の前の電柱に激突した。いつもスーツの菊も紺色のショートコートにジーンズという私服で珍しい様子で激突したアーサーを笑う。そんな様子をつまらなそうに弟が見ていたのでアントーニョは慌てて「もちろんロヴィもかっこえぇで!」と立襟の黒いロングコートを颯爽と着こなす弟を褒めそやした。もちろん本心である。そしてまた怒られた。菊とアーサーは黙っていたが、予想に違わぬブラコンと呆れられた可能性大である。
菊およびアーサーとロヴィーノは初対面のはずであった。しかしロヴィーノと初めて会ったアーサーは首を捻り、ロヴィーノはあいかわらず無愛想で口を開かない。それから数十秒ほどして「お前、あのスーパーでバイトしてた……!」とアーサーが指摘し、少し前に二人が顔を合わせていたことをアントーニョは知った。
「えぇと、ディズニーシーってどう行くんです?」
菊が周囲を見回しながら誰にともなくつぶやく。ディズニーランドならば行ったことがある、とは先日の彼の言だ。
「たしかモノレールに乗るんだったな。おい、行くぞ、アントーニョ」
「あ、待ってぇな、アーサー。ロヴィも行くで!」
腕を引っ張るとキツイまなざしが前方に向けられていることに気づいた。視線の先には鮮やかなブロンド。
「ロヴィ? アーサーがどうかしたん?」
ロヴィーノは答えずに歩き始めた。引いていこうとした腕にそのまま引っ張られるようにアントーニョも足を進める。人混みに身体がフラフラとした。
「なにしてんだよ、鈍臭ぇな」
「ご、ごめんなぁ、ロヴィ」
腕が解かれたと思うとロヴィーノの指先はアントーニョの手首をつかんだ。強い力に一瞬驚く。いつまでも自分より力の劣る弟だと思っていたのに、いつのまにこんなに成長したのだろうか。視線を送るとすぐに逸らされてしまった。乱暴なところもあるけど、ロヴィーノは優しい子だ。分かっている。頼りない兄を疎むようなことを言っても、こうして優しくしてくれる。なんだかそれが切なかった。
混雑する入り口を抜けて中に入ると、まるで別の国にいるように錯覚させられた。アントーニョは他国に行ったようなことはないのだが、少なくとも雑誌などで見るような景色だ。もちろん感動して奇声を発してロヴィーノにうるさいと怒られた。
「こんな風になっているんですね――えぇと、ロヴィーノさんも、たしか初めてでしたよね」
「あぁ、まぁ……」
ぶっきらぼうなロヴィーノだが、菊はそれに怯むようなことはなかった。事前にアントーニョも、弟はやや人嫌いの気があるのだと言っている。怖がりなのか人見知りなのかなんだか分からないが、アントーニョが連れてくる友人の誰にもいい態度を取らないのだ。しかしながら菊に対しての態度はだいぶまともだった。これは年を重ねることで性格が丸くなったということだろうかとアントーニョが思えば、菊との態度に比較しなくてもアーサーに対しての態度は過去最悪であった。まず話しかけられることを拒絶するのだ。ちなみに対アーサーの開口一番のセリフは「こんなアホな奴を誘うなんて、テメェ、どんな魂胆だ!」である。ロヴィーノの分の入場料も出してくれているというのに、ものすごい発言だ。さすがにアントーニョもぶっとんだ。アーサーの顔もひきつっていた。菊だけは笑いそうだった。
その前にロヴィーノとアーサーがスーパーで会っていたことがあるとアーサーは指摘したのだが、ロヴィーノの方は知らないと言い張っている。アーサーからの話を聞くとたぶんロヴィーノと会っているだろうと思われるのだが、本人は決して認めない。アーサーは思い切り顔をしかめながら「なんでお前、アントーニョのこと知らないって言ったんだよ」と言ったが、ついには黙秘された。ロヴィーノは思い切りシカトしていた。その事情はアントーニョも気にかかったのだが、ついぞ彼の口からはなにも語られることはなかったのである。『知らない』か、とアントーニョはただ突き刺さった言葉を思い出した。
「アントーニョ、なにか乗りたいものでもないのか?」
「分からへん。アーサーの好きなとこでえぇよぉ」
この空気だけでも十二分に楽しめる。そう思って、後ろから声をかけたアーサーにアントーニョが振り返ってふわふわと笑うと、彼はさっと目を逸らした。その反応はなんだか弟に似ている気がすると以前からアントーニョは思っていた。マズイものでも見てしまったみたいな複雑な表情だ。アーサーは皮肉屋なところがあるのでそういう反応をするだけらしい。だいぶ付き合いも長くなってきたので分かるようになっていた。
本当に夢のようだとアントーニョは思った。アーサーにロヴィーノに菊という好きな人たちに囲まれてこんなところにいられる。とても幸せだった。ほわほわと歩いていると、前方で揺れるもこもこした物体に目が引かれた。
「あ、なんやのあのクマ! かわえぇなぁぁ!!」
前を歩くカップルの片方がふわふわのクマのぬいぐるみを鞄にくっつけている。アントーニョは子供を筆頭に可愛いものが大好きだ。家に余裕があれば犬か猫かハムスターでもフェレットでもいいので飼いたいとずっと思っていた。ぬいぐるみでも可愛ければ全然構わない。
「おまっ、あんなのが欲しいのかよ!?」
アーサーはアントーニョの見つめる先を見てぎょっとしたように声をあげた。
「え、なんでや? かわえぇやん」
首を傾げると少し離れたところから菊が頷く。
「あぁ、たしかに可愛いですよ、アントーニョさん」
「菊もそう思うやろー!」
にっこりとほほえむ菊を見てアントーニョが喜ぶと「ちげぇよ、バカ」とロヴィーノにツッコミを入れられた。なにが違うのかと首を傾げても弟は目を合わせずに向こうを見ているばかりだ。振り返ってアーサーを見るとなにやら思案顔だった。
「ほ、欲しいのか? その……、クマ」
「んー、そらまぁ、欲しいわ」
「か……買ってやっても、いいんだぞ。その、アレだ。お前が持ってるとかわい――」
「かわい?」
「ななな――、ち、違う! 可愛いとか言ってねぇぞ! お前が見るたびに欲しがってるのも、だな。ほら、買ってやるからこっち来い!」
そう言ってアーサーが指さした先は、少し喧騒を離れている土産物屋らしきお店だった。まだ開園して間もないからだろう、人はそう多くない。可愛いクマを買ってくれると聞いてアントーニョは相好を崩した。クマもそうだが、アーサーがくれるということも純粋にうれしい。なんだかおごってもらったりといったことが多いのは気にかからないでもないが、アーサーはアントーニョが貧乏なのを熟知しているからそうなのだ。好意に甘えてもいいだろうと思う。それくらいならきっと許される。
「なっ、テメェ、またアントーニョに――! お前もホイホイ買ってもらってるんじゃねぇ!」
急にロヴィーノはアーサーとの間に立ちはだかったと思うと、いつになく怒った表情を見せてアントーニョの頭を上からグーで殴った。なんで怒られているのだろうかとアントーニョは頭をさすりながら疑問符を浮かべる。「ロヴィ、痛いやんかぁ」と少し涙目で言って顔を上げると、弟は背を向けていたはずのアーサーの方を見ていた。アーサーの視線と重なっているようにアントーニョからは見える。
(やっぱ、あんまり買ってもらうんは卑しいんやろぅか)
アントーニョは自慢ではないが昔から貧乏なのである。お弁当を持たされたと思えばおかずがトマトだけだったということから始まり、危うく修学旅行に行けないことになりそうだったとか、鞄も制服も近所の知り合いからもらっていたという有様だ。あんまりなにも買ってもらえないことをどうやら級友たちも不憫に思うらしい、弁当のおかずを分けてくれたり、遠足でもお菓子をもらったり、良くしてもらうことが多かった。だから人から物をもらうことにとにかく抵抗がない。好意はありがたく受け取るのが普通だ。フランシスも「お前はそれでいいんだと思うよ」とか言いながら髪を切ってくれたし、ローデリヒもよくお菓子を作ってくれた。
自身はそれでもよかったけれど、アントーニョは弟のことは気にしていた。ただでさえひねた性格なのだ、人に上手に頼ることができる子ではない。それに自分はともかく弟がバカにされるのは嫌だった。だからアントーニョは働ける年になってからはバイトをして、ロヴィーノにだけは不自由をさせないようにとしていた。自分の物をいくら切り詰めても、彼にだけは好きなことをやらせてやろうと堅く誓っていたのだ。ある程度の制約はあったけれど、学生生活に必要不可欠なものはなんとか揃えてやれた。
「お前には関係ないだろう。俺は、アントーニョに買うと言っているだけで」
アーサーの言葉を聞くと、ロヴィーノの視線がこちらに戻った。弟に睨めつけられてアントーニョは怯む。
「え、えっとな、ロヴィ。アーサーは俺のこと可哀想やって思うてくれとるんよ。せやから、買ってくれるんや」
きっとそれ以上に他意はないはずだ。後方で菊が溜息をついていた。弟に怒られる兄では情けないと思われたのかもしれない。
「哀れまれてる場合かよ! このアホ!」
「うぅ……せやかてぇ」
アントーニョはちらりとアーサーを見た。やはりアーサーもむっとしている。ロヴィーノは悪くないのだ。たしかに人から物をもらってばかりはあまりよろしいことではないだろうし、迷惑のかけどおしだから弟としては気になるだろう。
『お前なんか、昔から兄だなんて思ったことねぇよ!』
けれどふと彼に言われたことを思い出した。どうなのだろうか。兄だとは思っていないけれど、戸籍の上では家族。兄。だからみっともないのを黙って放置しておくわけにはいかないのだろうか。
すぐそこでピンク色のワンピースを着た少女が母親に手を引かれて歩いていた。すぐ横には父親がいて、仲睦まじい家族の姿がある。ロヴィーノの思い描く家族の姿とはなんだろうか。ロヴィーノには、彼がヴァルガス夫妻の実子であることはまだ伏せてある。フェリシアーノのこともあるし、簡単には言うことができなかったのだ。意外と勘の鋭いフェリシアーノは自分と似たところのあるロヴィーノになにか感じているらしく、彼の口からそれらしいことが漏らされたこともあるが、ロヴィーノは実の両親や家族を問いただしたりはしなかった。育ててくれた両親を父、母と昨日も呼んでいたし、目立って変わった様子もなかった。そうなると、アントーニョだけがロヴィーノにとって違うのだろうか。血の繋がらない兄。頼りなくて迷惑ばかりかけてかまってばかりで疎ましい存在というだけの。
「もういい。買ってくるから待ってろ、アントーニョ」
「なっ、待ちやがれ、この眉毛野郎!」
別のことに気を取られていたアントーニョが気づくと、忽然と争っていた二人は消えていた。首を傾げる。
「若いですね、皆さん」
菊は隣で小さく笑った。見た目からすると菊と自分はあまり変わらないように思えるのだが、よく彼はそういう言い方をする。
「菊さんって、何歳なん?」
思わず尋ねても首を横に振られてしまった。
「それは、秘密です。とりあえずあの二人を待ちましょうか」
菊はそう言うとパンフレットを取り出した。つられてアントーニョもそちらへと視線を向ける。
「パレードなんかもずいぶんとやっていますね」
間に挟まるペラッとした紙にはスケジュールらしきものが細かく書きこまれている。よく分からないのでアントーニョはそちらはスルー。まるで宝探しの地図のような現代日本らしからぬマップの方を見た。隅にいくつか文字が書かれていて、それが利用できる設備なのだと分かる。
「あ、これえぇなぁ。ヴェネツィアンゴンドラ」
左端の方にあった文字をとんとんと叩くと、菊は指先を見ながら少し驚いたような声を出した。
「割と穏やかなアトラクションですね。てっきり、若い人は絶叫系が好きかと」
「絶叫系? それって、なんやの?」
アトラクションというのは、これらの設備の総称的なものなのだろうと適当に補う。絶叫というのだから叫ぶものだろうか。ジェットコースター的なものだろうか。未知の言語ばかりだ。
「そういえば、アントーニョさんは遊園地に」
「来たことないんよ」
一度として行ったことがない。もちろんどういうものかは知っている。友人らから聞いたこともあるのだ。けれどテレビや雑誌などは意図的に避けていた。基本的に好奇心旺盛で楽しいことが大好きなアントーニョである、知れば行きたくなる。だから知らないで済ませようと思っていた。アントーニョは自分の生活が豊かになるということを考えたことがあまりないのだ。
「絶叫系というのは、なんでしょうね、ジェットコースターみたいなものです。怖いアトラクションです」
「怖い……ロヴィは怖がりやから、やめとこ」
昔は泣き虫だった弟を思いながらアントーニョは腕を組んで首を縦に振る。やはりそれならば、ゴンドラのようなものがよいだろう。海外にもやはり行ったことはないが、こちらはテレビや雑誌などを食い入るように見ていた。遠い世界への憧れのようなものがある。だからこそ、この異国的な異空間に感動したのだ。
「怖がり、ですか。なんとなく分かった気がします」
「そう、なん? あ、えっとなぁ、菊さんはロヴィとうまくやれそ? まさか、あんなんアーサーと仲悪ぅなるなんて思ってなかったんよ。堪忍なぁ」
アントーニョが両手を合わせても菊は涼し気なほほえみを浮かべるだけだった。
「大丈夫ですよ。いい人みたいですし」
普段友人たちから言われていることを考えれば、菊の評価の高さは驚くべきものである。いや、アントーニョは当然ロヴィーノはいい子だと信じるが、フランシス辺りは「なんでお前んとこの弟はいちいち俺につっかかってくんの!」と言っていた。
もしかしたらロヴィーノの理想とする兄というのは、菊のような穏やかな人なのかもしれない。落ち着いているしいつも優しくしてくれる。アントーニョとて菊のことは好きだけれど、もしもロヴィーノが彼に懐いてしまうというのならばきっと寂しいことこの上ない。そんなことをちらりと考えて、そんな自分に嫌な気持ちになった。これだから鬱陶しいと言われるのだ。
「そう言ってもらえると、うれしいわ」
ふと立ち眩みがしてよろめくと、後ろを歩く人にぶつかった。
「あ、すんませ――」
「いってぇな……、なにすんだ、あぁ!?」
振り返ると場にそぐわない強面の男だった。驚いてアントーニョの目が丸くなる。
「クソッ、アイツは来ねぇし……いきなりぶつかってきやがるし――こんなひょろひょろした身体しやがって!」
なんという理不尽な言葉だろうか。栄養不足っぽいのでたしかにそれほど体重はないが、ひょろいと言われるほどではないとアントーニョ自身は思っている。襟首を掴まれてどう言えばよいのか分からなくなってしまった。菊が「アントーニョさん!」と叫んでいる。
「慰謝料だ! 慰謝料寄越せ!」
「お金なんて、持ってへん――」
ようやく声が出たと思えば、事実だが物悲しい。アントーニョの言葉に襟首は離されたが、うるせぇという声が聞こえると同時に拳が飛んできた。思わずアントーニョは目をつぶる。殴られると思った。鈍い音が耳に届いて、けれどぶつかると思ったそれがいつまでも来ない。それを不思議に思いながらそろそろと瞳を開ける。
「コイツに触れるな! 下衆野郎がッ!」
開いた視界にはなぜか地面に倒れている男と叫ぶ弟の姿が映っていた。
「アントーニョさん、平気ですか?」
さっと駆け寄ってきた菊がアントーニョの手をとる。
「この野郎ッ、よくも――」
柱の影に隠れて周囲からは攻防がうまく隠れていた。アントーニョはじっとロヴィーノを注視する。乱暴だというわけではないのだが、ロヴィーノは喧嘩っ早い上に意外と強い。いや、昔は泣かされていることの方が多かったように思えるのだがいつのまにか腕っぷしも強くなっていたのだ。
「人を呼びますよ!」
アントーニョの前に出た菊が鋭い声で言うと、男は立ち上がると舌打ちして走り去った。入り口の方へ向かっていたから、もしかしたらそのまま出るのかもしれない。アントーニョは現実感が希薄な頭でそんなことを思う。
「ロヴィ、えっと……」
「このアホ! 絡まれてんじゃねぇ!」
「助けてくれたんやね、ありがとなぁ、ロヴィ! ありがとぉなぁ!」
感極まって、人目をはばからずにアントーニョはロヴィーノに飛びつくように抱きついた。
「やっぱり、ロヴィは世界で一番の弟やぁ!」
いつもならば即座にひっぺがすロヴィーノは珍しく抱きつかれるままだった。アントーニョは絡まれてもあまり怖いとは思っていない。脳天気だがある意味では豪胆なのだ。だいたい殴られるのもそれは痛いことであるけれど、ただそれだけだ。一瞬で終わるような痛みはたいしたことではない。気分は悪くなるけれど、そんなことよりもロヴィーノが自分を庇ってくれたことの方がうれしかった。
「アントーニョさん、無事でよかったです」
菊は安堵したような笑みを浮かべてこちらに振り向く。いつのまにかすぐ横にアーサーもいた。
「おい、平気か、アントーニョ?」
アーサーが駆け寄ってきたのでアントーニョはロヴィーノから腕を離した。
「大丈夫やで! ロヴィがおってくれたから」
隣を見ればロヴィーノは顔を背けている。
「あぁ、その――悪いな。俺も気づいたらよかったんだが」
「平気やって! ほらな、ロヴィは自慢の弟なんや。分かるやろ?」
ブラコンだとバカにされてもアントーニョはロヴィーノは自慢の弟だと公言してやまない。ロヴィーノは可愛い可愛い大事な大事な弟なのだ。アーサーは答えなかったし、ロヴィーノもなにか言ったりはしなかった。また呆れられたと思ってアントーニョは内心でだけ笑う。
「えぇと、今回はいいと思うんですけど、あまり手が早いのは感心しませんよ?」
複雑な空間を破るように、菊はロヴィーノに近づくと苦笑しながら言った。
「仕方ねぇだろ。このバカが危なかったんだ」
「ええ、もちろん、今のような場合は仕方がないです。今のは、正当防衛ですからね」
なにやらテレビなんかで聞いたことのある言葉である。アントーニョは菊の方を見た。
「ロヴィは殴られてへんけど」
防衛というのだから自らの身を守ることを指すのではないだろうかと思って首を傾げる。菊は小さく笑うと首を横に振った。
「正当防衛は、自分以外の誰かを守るときでも十分に成立しますよ。正当な防衛、でしょう? 急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を守るために防衛の意思をもってやむを得ずにした行為。簡単に言えば、突然襲われたりしたら自分や誰かを守るためにやむなくした行動は許されるということです。もちろん、やりすぎたりしたら過剰防衛になりますが」
なるほどとアントーニョは頷いた。黙っているアーサーの方をふとうかがうように見ると、手に大きい袋があることに気づいた。
「あれ、アーサーそれ……」
クリスマスシーズンということで、それらしい袋になっている。
「これだよ。大事にしろ!」
中から出てきたのは、すっかり忘れかけていたが、もともとアーサーとロヴィーノが言い争うキッカケとなったクマのぬいぐるみだった。それを見てアントーニョの顔がぱぁっと明るくなる。
「嫌な目にあったんだからな、これくらいもらっても文句はねぇだろ」
アーサーは言いながらロヴィーノに視線を送る。弟の方は黙って視線を逸らした。
アントーニョは上述の通り、嫌な目にあったというほどのことは思っていない。むしろうれしいと思っているくらいだ。そんなことを言って変な顔をされるのも難なので黙っていたが。ちなみにフランシスに「お前、マゾなんじゃない?」と言われたことがあるが、むろんそういうことではない。ちなみにマゾについては当のフランシス本人からどんなものか教わった。アーサーとロヴィーノが仲良くしてくれればいいのにと思う。今のところ、それは難しそうだ。