ルートヴィヒは兄であるギルベルトに誘われた関係でプロイツ社の代表取締役となっている。この兄は自分が大好きで自信家で変な男であるのだが、弟のルートヴィヒは可愛いらしくなんだかんだとやってきてはあれこれ世話を焼いていた。というか本人は焼いているつもりだと思う。今回の会社の件については「お前が適任だと思うからやれ、ヴェスト」と命令だかなんだか知らないがそんな風にいきなり言われた。それまでは普通の会社勤めをしていたルートヴィヒはそれは驚いたものである。
打診をどう断ろうかと思案していたところ知り合いのエリザベータ・ヘーデルヴァーリが、その思慕するローデリヒ・エーデルシュタインとともに務めていた音楽系の出版会社が不況の煽りを受けて倒産して困っているという話を持ってきた。エリザベータとの直接的な関係は薄いが、ローデリヒについてはルートヴィヒが大学生のころ同居していたという経緯がある。優雅な育ちに似合わず家事の得意なローデリヒには世話になっていた部分もあったし、人事とは思えなかったルートヴィヒは彼も呼びエリザベータと二人揃えて兄から持ちかけられた会社設立の話を打ち明けた。自分はあまり乗り気ではないのだということは言わないでおいたが、付き合いの長いローデリヒにはわりとすぐに見抜かれてしまったというオチもついている。
「私たちのことを心配しているあなたの気持ちは受け取りますよ、ルートヴィヒ。ですが、肝心のあなたが乗り気でないのにどうするつもりです、お馬鹿さん」
ローデリヒはそう言い残してその場を立ち去った。エリザベータも「私から話しておいて難だけど、ローデリヒさんの言う通りだと思う。申し出はありがたいけど、迷惑かけるわけにはいかないから」と。言われてますますルートヴィヒは悩んだ。もしかしたら自分が決定するのが嫌で彼らに寄りかかってしまったのではないかと思った。悩みに悩んでしかし会社もあるから出勤しては仕事をこなしそして悩み、とくりかえしている内にルートヴィヒは体調を崩した。心配した兄が来、また同じく心配したローデリヒも見舞いに来てくれた。そしてローデリヒは林檎を枕元で向きながら(だいたい彼の行動は母親的である)文句なのか慰めなのか励ましなのか判然としないことを語ったのである。
「あなたは昔から考えすぎです。嫌ならばはっきりとギルベルトにそう仰いなさい」
しょりしょりと包丁が林檎の皮を剥いていく音が部屋に響く。黒と白ばかりの統一的かつシンプルな部屋に洒落た装いのローデリヒはなかなか不似合いだった。
「嫌と言うか、俺にそんな大役が務まるものかと思ってな。出資は全部兄さんがするらしいし――」
端的に言えばルートヴィヒは不安であったのだ。兄が金銭面で援助してくれるということが嫌なのではない。けれどその期待に応えるだけの技量が、ただの会社勤めをしていただけの自分にあるのかということだ。だいたい兄はどこで金を稼いでいるというのかさっぱり分からない。
「そんなこと、ギルベルトが聞いても喜びませんよ。あなたは本当にお馬鹿ですね」
「お前の口癖は変わらんな」
「そう簡単に変わるものですか。さ、林檎でも食べて元気を出しなさい」
うさぎの形にカットされている林檎を見てルートヴィヒは笑った。ローデリヒ曰く、昔実家にいた同居人がうさぎの形の林檎しか食べなかった所為らしい。昔の同居人とはルートヴィヒも知るフェリシアーノ・ヴァルガスのことだ。どのような経緯かルートヴィヒは詳しく知らないが、ヴァルガス一家がしばらくローデリヒの家に厄介になっていたことがあったらしい。ローデリヒがフェリシアーノと過ごしたのはずいぶんと昔の話で、その頃幼かったフェリシアーノがうさぎじゃないと食べないというのもほほえましく思われる話だ。そんなことを現在のフェリシアーノのほわっとした顔を思い浮かべつつ、うさぎの形の林檎をひとつ口に入れてルートヴィヒは息をついた。
「お前たちの力になりたかったということも、本心だ」
「……あなたは優しいですね、ルートヴィヒ。ギルベルトはあなたの手腕を信じて、話を持ちかけたのだと思いますよ。私も同感ですからね。それで、あなたはどうするのです?」
私にも予定がありますから、とローデリヒは済ました顔で言った。たしかに再就職をするとかそういうことを彼らは考えなければならないのだ。ルートヴィヒは右手を眉間に当てて小さくつぶやいた。
「兄さんは、俺が会社を潰しても怒らないだろうか」
「当たり前でしょう、お馬鹿さん」
間髪を入れずに返してくすくすとローデリヒは笑った。差し込んでくる陽は暖かくて、ひどく部屋の中は静かで穏やかだった。ルートヴィヒはその一瞬に大学時代彼と過ごしたことを思い出したし、またそのころとはまったく違うようにも思われた。眉間から手を離して横目でローデリヒを見れば、彼はなんてことなくいつも通り優雅に笑っていた。けれどもなんとなくその笑みにルートヴィヒは決意を固めたのである。病床でというのも複雑なことであるのだが。
「エリザベータにも伝えてくれ。――俺たちで会社をやろうと」
「えぇ、伝えておきます。あなたがやる気なのであれば、彼女も賛成してくれますよ」
去り際にローデリヒは振り向かずに「ありがとう、ルートヴィヒ」と言った。
このような経緯でルートヴィヒは現在プロイツ社の代表取締役の任を受けているのである。ギルベルトは経営に参画する気がないそうで会社の大株主になっているだけだ。ローデリヒとエリザベータは同じく取締役をしている。他にも知り合いを数名雇っているがほとんど事務作業をこなしているだけで、会社を動かすのは取締役の三人だった。これがプロイツ社の実態である。
「これが契約書です。物件目録は後ろに」
プロイツ社の社長室(というような立派な物ではないのだが)に現れたのは小柄な黒髪の青年であった。弁護士と言われてその若さにルートヴィヒは始め驚いたが、実年齢は自分よりずっと上と聞いてますます驚いた。
「あぁ、わざわざすまないな。忙しくて……」
「いいえ、これも仕事のうちですからね。こちらこそ、変なことに巻き込んでしまって、なんとお詫びをしたら良いのやら」
ギルベルトが持ちかけた会社の設立ではルートヴィヒ、ローデリヒ、エリザベータの共通の知り合いで天然お人好しにして危なっかしい青年アントーニョの借りる土地を使うという提案がなされていた。アントーニョがそもそもなぜ土地を借りているのか、なぜそこで商売をしているのか、彼を知る三人が一様に驚いたわけであるのだが、ともかく驚くほど安価で土地を借りているらしいとギルベルトからは聞かされた。そしてアントーニョは経営する店を大きくしたいと望んでいるが、自分一人ではとてもやれないと思っているというのである。これには三人が納得した。特に古くから馴染みのあるローデリヒは「アントーニョ一人で店をやっていけているだけでも奇跡のようなものですね」などと言う。
会社法こそ少しは勉強したものの基本的には法律に明るくなかった三人はギルベルトの言うままにアントーニョの借りた土地を使って建物を建築しそこで大型のスーパーを経営することとなったのだが、その後で貸主であるアーサーとの間で問題が起こった。といっても当初は水面下での話であり、紛争が表面化したのはアントーニョが会社をギルベルトによって解雇された(ギルベルトはプロイツ社の株式の過半数を持つ大株主であり取締役の選任・解任には彼の意見が通るのだ)後である。
彼の解雇に関してはルートヴィヒもローデリヒもエリザベータも反対であった。なぜならば土地の利用権を有しているのはアントーニョその人なのだから。たしかにアントーニョはお人好しだし、解雇されたからとてその利用権を盾に取るような真似はしないことは分かっている。けれど安く土地を使えるのは彼のお陰であり、そのことを三人とも認識していたのだ。しかしアントーニョが経営には向かずレジ打ちすら向いていないというのも厳然たる事実であった。そうして結局はギルベルトに押し切られる形で取締役の解任という形になったのだ。
もちろんルートヴィヒは土地利用の対価をアントーニョに支払うと言った。けれどアントーニョが聞かなかったのである。「俺、役に立てへんかったからなぁ。やから、ロヴィを働かしてくれとるだけで十分や」と言って首を縦に振らなかった。それではさすがにと思っていたところに現れたのが本田菊だ。
「アーサー・カークランド氏の代理人の本田です。アントーニョさんが借りている土地の件でご相談があります」
とプロイツ社に電話が入ったのである。ルートヴィヒはすぐにでも菊の元に向かおうと思ったが、いかんせん人手不足の会社でなかなか時間が取れない。ともかく何度か電話で会話をして、向こうが契約の解除を強硬に迫っているというような状態ではまったくないと知って安心した。あまり面談はできなかったのだが菊は丁寧に対応してくれて、アントーニョとの契約を解除し、無断譲渡の件については不問にする代わりに賃料を土地利用に見合った分だけ支払うこと(なぜかフランシスを会社に残すことも含まれていた)、また会社の規模が大きくなったりした場合長期的には土地の売買にも応じることなどを新たな契約として合意したのである。菊は今日それらの契約内容をまとめた書類を持参してわざわざプロイツ社まで出向いてくれた。
「いや、本当にすまない。兄さん――あぁ、ギルベルトというのは俺の兄なんだが、兄はどうもいい加減で……」
菊はこちらに来る前にギルベルトに新たな賃貸借契約の締結の話をしたのだという。なにせ、土地をアントーニョから譲渡された相手というのはギルベルトであったのだから。しかしギルベルトは「実際に土地を使っているのはプロイツ社なんだからそっちと契約しろ」と言うだけだったそうである。まったくもっていい加減だ。
「お互い様です。アーサー氏も変な人ですからね」
菊はにこりとほほえんだ。柔和な感じと、しかししっかりとした物言いに所作もきちんとしている。ルートヴィヒは一連の会話を通して菊に好感を持っていた。
「では、私はこれで。お忙しいところをすみませんでした」
立ち上がろうとした菊をルートヴィヒは慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。その、実は頼みがあって――」
「なんですか?」
「……その、あなたが信頼できる人だということが今までの経緯で分かったんだ。それで、もしできたら、我社の顧問弁護士になってもらえないだろうか?」
「それ、断ったんですか?」
菊はまたベールヴァルドとティノと馴染みの居酒屋に飲みに来ていた。今日はヘラクレスとでも飲もうかとも思ったが、彼とはあまり仕事の話はしないのである。仕事の話ならばやはり同じ弁護士である彼らの方が適任ということだ。
ティノはすでに酔っていた。前回の後味の悪い話の続きを聞きたがっていたが、それについては進展なしということで話し終えてしまっている。弁護士事務所で働くだけあってティノ自身もわりと法律関係の話にはついていけるので菊は今回のことを話した。もちろん固有名詞などはいちおう伏せている。
「えぇ、残念ですが」
「ん、仕方ねぇな……」
青と黄のチェックのネクタイを少しゆるめながらベールヴァルドは相槌を打った。彼は今日も紺色のスーツをまとっている。ティノはノーネクタイでわりとラフなスタイルだが、彼らの事務所の事務員はこれが一般的であるらしい。毎度見ても格好が同じである。
「えぇー、なんでです?」
同じ弁護士であるベールヴァルドは菊の話にすぐに合点がいったようだが、ティノにはさすがに分からなかったようである。
「私、アーサーさんの顧問弁護士みたいなものなんですよ」
「それは知ってますけど」
テーブルに身体を預け始めたティノをベールヴァルドが心配そうに見ている。「水でも飲んだ方がいんでね?」とか甲斐甲斐しくしている姿はあいかわらずその人の良さを思わせた。
「弁護士には法曹倫理というものが求められてるんですよ、ティノさん」
菊が人差し指を立ててわざと真面目ぶった口調で言ってもティノは首を傾げるばかりだ。若者をからかっているみたいで少し楽しくなった。
「倫理、ですか?」
「ん……たとえば、争ってる二人の双方の代理人になっちゃいげね、とかだな」
「それはー、当然じゃないですかぁー」
ティノは起き上がってベールヴァルドのチェックのネクタイをぐいぐいと引っ張った。ベールヴァルドは怒るでもなくされるがまま、しかし少しだけ苦しそうにしている。
「ですから、そういうことなんですよ。私はアーサーさんの代理人ですし、ルートヴィヒさんはいちおう、今回の紛争の相手方でしょう? そうでなくても賃貸借契約なんてしていればまた紛争が起こるかもしれませんし、そういうときに問題になるわけです」
「……双方代理、ですか?」
ティノの手が止まった。菊の方に顔だけが振り返る。
「んだな」
「面倒ですね」
「倫理なんてそういうものですよ。でも、惜しいですよね。ルートヴィヒさんはやり手な感じがしますし、私を信頼してくれたんですから」
菊は日本酒を口にしながら溜息をついた。
「あっじゃあ、こんなのどうです?」
横目でティノを見れば、彼は明るい表情で両手を合わせている。ベールヴァルドは顔の真っ赤な彼を心配して店員に水を頼んでいた。ベールヴァルド自身はまだ平気そうだ。
「ベールさんが顧問弁護士になる――とか」
「んなっ」
ベールヴァルドは振り向いてティノを凝視した。かなり怖い形相だがティノもさすがにそれには慣れているらしい。
「会社法はあんまりくわしぐね。無理だ」
「えぇー、でもー……」
「うーん、私の紹介では後々問題になるかもしれませんしね。ベールヴァルドさんがいい人を紹介してくれたらいいかもしれませんけど」
「あっ、だったら所長はどうです?」
ティノに『所長』と言われて菊はベールヴァルドとやりあっているというデン氏のことを考えてみた。ベールヴァルドは今でこそ口喧嘩が絶えないようであるが、とても腕の立つ弁護士だと以前に言っていた。彼自身も所長への信頼は厚いようである。
「所長たしか、会社法務関連で結構呼ばれてますよね、ベールさん」
「それはそだけっど……」
ベールヴァルドは複雑そうな表情を見せた。やはりデン氏とは確執があるためであろう。
「えぇと、無理に受ける必要はないんですよ?」
菊が思案してしまったベールヴァルドを気遣ってそう言うと、ティノはいつのまにかテーブルの上に顔を乗せて目を閉じていた。寝息がすうすうと聞こえる。また潰れてしまったと思って、菊は彼を連れ帰るベールヴァルドに申し訳ない気持ちになった。前回飲んだ時はつい二人で酔い潰れて、菊もティノも両方彼の世話になったというのに学習能力がない。背をゆすってなんとかティノを起こそうと試みてみたが、彼は完全に睡眠状態に入っていた。
「菊さん、所長、紹介してみっどえぇかもしんね」
ベールヴァルドはティノの眠りについては気づいていないらしく、急に真剣な表情で菊に言葉を告げた。その後で寝こけているティノを見て少し眉を上げて驚いた様子を見せたが、すぐに表情は柔らかなものに変わる。起こそうとする菊の指を止めて首を振った。
「所長は腕が立つ……そいだら、その会社ん力さなれる。菊さん、気にしでるんでねっが?」
ベールヴァルドに図星をつかれて菊は黙った。若いが誠実な青年社長であるルートヴィヒが気になっているのは事実である。力になりたいという気持ちも強かった。いっそアーサーと手を切ってやろうかと思ったくらいである。しかし今となってはそれもできそうにない。アーサー一人ならどうでもいいけれど、彼に雇われたアントーニョが菊には気がかりだった。『菊さん』と呼び慕ってくれるのも心地がよい。それにいまさらアーサーから離れたって倫理的に問題があることに変わりはないのだ。クライアントの乗り換えなど、もってのほかなのである。たとえそれがお金のためでなかったとしてもだ。
そのルートヴィヒとも関わるアントーニョのことを菊はまた考えた。アーサーを健気に慕う働き者の好青年。褐色の健康そうな肌と澄んだ翠玉のような丸い瞳と明るい太陽のようなほほえみを菊も気に入っていた。彼がアーサーを好きだと言うのならばその助力をしたいと思う。そう思えば、菊の意識は現在を離れてふとプロイツ社での会見に記憶が巻き戻った。
「そうか、カークランド氏の代理人だから……」
「えぇ、本当にすみません」
ルートヴィヒは明るい表情で「こちらが無理を言っただけだ、すまない」と言ってくれたが、なんだか申し訳ない気持ちであった。空気も重くなってしまったし、そのまま菊は会見を終えることにした。暇を告げたところ、菊は丁重に断ったのだが、ルートヴィヒはわざわざ会社の玄関まで(と言ってもプロイツ社はビルの一室を使っているだけなのでたいそうなものではない)送ってくれたのである。そこで菊は新たな人物と対面した。
「ルートヴィヒー! 聞いてよー!」
プロイツ社の扉が開いたと思ったら無邪気な声の青年がルートヴィヒに飛びついてきたのである。ぎょっとする菊を尻目に慣れた様子のルートヴィヒはその青年を「来客がいるから静かにしろ」と気難しげな顔でたしなめた。
「ロヴィーノ兄ちゃんが今度ディズニーシーに行くんだってー! 俺も行きたいーって、あれ、お客さん?」
ほわほわとした雰囲気の青年は菊を見て首を傾げた。菊は曖昧にお辞儀をしてみる。この堅い感じのルートヴィヒのイメージと異なる知り合いのようだが、ずいぶんと親しげだ。
「私はもう帰りますから、お話を続けて構わないですよ、えぇと……」
「すまない、その、こいつはフェリシアーノと言って、学生だから――」
フェリシアーノと呼ばれた青年はちらりとこちらを見た。
「えぇ、平気ですよ。フェリシアーノさん、私は本田菊と言いまして、弁護士をしています」
今度こそきちんとお辞儀をすれば、フェリシアーノもルートヴィヒから離れてぺこりと頭を下げた。彼は学生というだけあって、赤と緑のチェックシャツにジーンズという若者的な出で立ちである。
「あれ、本田――さん? どっかで聞いたような……あ、そうだ! アントーニョ兄ちゃんが言ってた!」
フェリシアーノの口からその名を聞いて菊は驚いた。
「あの、ルートヴィヒさん、彼は――」
「あぁ、言っていなかったが、フェリシアーノもアントーニョの知人でな。弟というわけではないんだが……」
「そうでしたか。アントーニョさんには弟がいるとうかがっていましたから、てっきりそうなのかと」
アーサーがアントーニョと血の繋がらない弟の話をしていたことを菊は覚えていた。考えすぎだと言ってやったのだが、その弟がアントーニョに気があるのではないか云々などと言い出したので、なんというか記憶に鮮烈に残っていたというのが正しい。その後アルフレッドを最近見ないがいったいどこでなにをしているんだなどと、自分の兄弟関係にまで言及し始めたので鬱陶しくなって途中で話を切ったものである。
「アントーニョ兄ちゃんの弟はロヴィーノ兄ちゃんだよ」
「あ、そうなんですか……」
いつのまにかフェリシアーノはこちらに近づいてきていた。元来なつっこい青年なのだろう、菊の両腕をつかんでぶんぶんと振った。「兄ちゃんの知り合いなら俺も仲良くしてね」と言いながら。それにしても弟がロヴィーノ「兄ちゃん」とは不思議な言語である。若者の言葉にはついていけないと少し菊は思った。
「ん、ディズニーシー、ですか?」
なんだかその単語も聞いた気がする。しかもものすごく最近に。フェリシアーノは手を放すとふたたびルートヴィヒの両腕をつかんだ。
「そうそう、ねールートヴィヒー、兄ちゃんたち、ディズニーシーに行くんだって! いいなぁー! 俺も行きたいと思ってルートヴィヒを誘いに来たんだよー。ローデリヒさんとかも一緒に行こうよー!」
「あの、お話中すみません、フェリシアーノさん。『兄ちゃんたち』というのはどなたを指すのですか?」
菊の言葉にフェリシアーノはこちらを向いて首を傾げた。
「ロヴィーノ兄ちゃんとアントーニョ兄ちゃんと、その知り合いの人」
そういえばアーサーが休日にアントーニョを伴って出掛けると言っていた。そうそれがディズニーシーだと菊は思い当たる。アントーニョの方もうれしそうにずっと笑顔を浮かべていた。
(デートじゃないんですか、やっぱりヘタレですね、あの人)
なぜ見も知らぬ弟を伴うのか。どうせ誘い方が下手だったんだろうと菊がひとりで頷いていると背後からまた新たな声が聞こえた。
「へぇ、ロヴィくんもやっとアントーニョを誘えたんだねぇ。フェリちゃん、久しぶり」
菊が振り返ると声の先には長いブロンドがふわふわと揺れている可愛らしい女性がいた。
「あ、エリザベータさんこんにちはー」
横目で見ればフェリシアーノはルートヴィヒから手を放してぺこりとお辞儀していた。エリザベータという名にも菊は聞き覚えがある。
「え、エリザベータ、お前まで……はぁ、菊、なんだか引き留めているみたいですまない。こっちはうちの取締役のエリザベータだ」
「あ、どうも、弁護士の本田です」
エリザベータはほほえんで菊に向かってお辞儀をした。「お話はローデリヒさんから聞いています」とエリザベータはにっこり笑って言う。彼女はピンク色のふわりと広がるスカートに白いシャツと朱色の大きなリボンを胸につけた若い女性らしい可憐な服装をしていた。およそオフィスには似つかわしくないようにも見えるのだが、わりとこの会社は自由なようである。ルートヴィヒはビジネスライクなスーツ姿であるが、前に見たローデリヒもスーツ姿とは微妙に言い切れない、真っ白なシャツに紺色のスカーフをつけたお洒落な格好をしていた。
「そんなことより」
お辞儀を終えたエリザベータはフェリシアーノを見据えた。
「おい、エリザベータ、客の前で――」
ルートヴィヒは制止させるようにエリザベータの腕をつかんだがあっさりと振り払われてしまう。可憐な見た目に反して意外と力強い動きだ。
「フェリちゃん、ロヴィくんたちはデートなの? デート?」
エリザベータの瞳がきらきらと輝いている。
「えぇー、違うと思いますよー。だって、アントーニョ兄ちゃんの知り合いの人もいるみたいですし」
「で、デート、ですか?」
本邦何回目となるのか分からないが、菊は驚いた。なんだかもういろいろな意味でおかしな発言である。菊の形成する知識が正しいものであるならば、ロヴィーノとアントーニョは血の繋がりこそないものの兄弟だ。その上同性である。どこをどうすればデートという文言が浮かんでくるのかさっぱり分からない。
エリザベータのトークを止めようとしたらしいルートヴィヒが額に右手を当てて複雑な表情を見せていた。話に入ってきた菊にエリザベータは極上の笑みを浮かべて、うっとりしたように瞳をうるうるとさせて、両掌を顔の前で組んで語り始める。
「そう! ロヴィくんってば昔っからアントーニョのこと『大好き』だもの! アントーニョしかないって感じ。一途だよねぇ、感動しちゃう。アントーニョが全然気づいてないってところがまた……見てられないの」
「ロヴィーノ兄ちゃん、素直じゃないから」
フェリシアーノもうっとり語るエリザベータの隣でうんうんと頷いていた。そのさらに隣のルートヴィヒは視線を逸らすように玄関の観葉植物を見ている。会社の玄関前でなんとも異様な光景だ。
どうも彼女らの話を総合してみるとおかしなことになる。
(アーサーさんの、心配していた通り?)
アーサーから話を聞いた菊はまさかそんなと思っていた。もちろん本気で、である。アントーニョの言うことが正しければ彼らはずっと兄弟として育ったのだ。事実、アントーニョはロヴィーノのことを「弟として」大好きなのだと言っていた。そしてロヴィーノがアントーニョと血が繋がらないということを知ったのはアントーニョの言からすればわりと最近のことのはずである(と言っても一年程度は経過しているが)。しかしエリザベータの言い方ではロヴィーノからアントーニョへ向かうのは一年程度とは思えないスパンでの想いであるようにしか聞こえない。
やはりおかしいと菊は思う。まさかアーサーの考えるようなことではないはずだ。『大好き』というのは多義的な言葉だ。親愛も兄弟愛も家族愛も広く含めることは可能である。そうすれば昔から『好き』という言い方も間違いではない。デートというのは彼らにとっては言葉の綾みたいなものなのだろう。揶揄する時に使う表現とでも言えばいい。素直になれない弟が兄と出掛けるのをうれしく思っているのを見てからかいながら、わざとデートだなどと言う。うんそうだ、と菊は納得した。
「こら、あなたたち、なにをしているんです」
扉を開けて入ってきたのは菊が優雅だと思った青年ローデリヒであった。紙の束をその手に抱え込んでいる。それを見たエリザベータが慌てて紙の束を受け取った。フェリシアーノはぺこりと頭を下げている。ルートヴィヒは助かったとでも言いたそうな表情だ。
「年末も近づいて忙しいんですよ。さっさと仕事に戻りなさい、お馬鹿さん」
「す、すまん……」
「邪魔してごめんなさい、ローデリヒさん!」
「あぁ、フェリシアーノ、あなたもいたのですか。まったく、会社は遊び場ではありませんよ」
ローデリヒはそう言いながらもフェリシアーノの頭を軽く撫でてやっていた。アットホームな会社であることを菊は改めて実感したのである。さながらローデリヒが母親でルートヴィヒが父親、エリザベータとフェリシアーノがその子供たちといったところだろうか。ほほえましくなってふふっと笑うと気づいたローデリヒが「失礼しました、本田さんがいらしていたのですね。お見苦しいところを」とすまなさそうに言ったので菊は手を横に振った。
「では、今度こそ私はお暇しますね。またなにかありましたら、連絡しますから」
菊はそう言ってプロイツ社を後にすると携帯を手にしていた。
「あ、アーサーさんですか? ――えぇ、それはまた後で……ところで、日曜にディズニーシーに行くという話をしていましたよね? それ、よかったら、私もついていっていいですか?」
納得したとは言いつつもどうしてもエリザベータとフェリシアーノの言葉が引っかかっていたのだ。
菊は回想から戻って目を閉じた。アントーニョがアーサーを好きなことは知っている。それならば彼の手助けをしたいというのも思わないことではない。相手がアーサーだからって、アントーニョがそれでいいのならばそれでいいというものだ。だからこそ彼の「血の繋がらない弟」の存在は気にかかる。また余計な手出しをしそうな自分に溜息がこぼれた。人の恋路にかまけてどうなるというのだろうか。だから今まで独身なのではないだろうかと思わないでもない。ヘラクレスに言えば「別にいいと思う」と返ってくるのだが。
「菊さん、なじょした……?」
「あぁ、えぇ、人生は難しいと思いまして。と、それから、デンさんをプロイツ社に紹介してみようと思います。それで、ベールヴァルドさん、話を通しておいていただけますか?」
ベールヴァルドは微笑して頷いた。菊も相好を崩す。
プロイツ社の人たちは、アントーニョとその弟のことは置いておくとして、皆よい人たちだった。結局のところやはりそれが胸にあったのだ。温かいよい雰囲気の会社だから応援したくなる。ルートヴィヒは法律に明るくないと自分で言っており、いざという時を心配していた。菊は債権回収をメインにしているが、ビジネス関連の法はそれなりに詳しいしできるなら自分が力になってやりたかったけれどそれは不可能。それならば優秀なベールヴァルドが腕が立つと評するデン氏に頼んでみたらきっと力になってくれるだろうと思う。今でこそベールヴァルドとはモメているがデン氏は基本的にいい人らしいとティノやベールヴァルドの会話からは知れていた。まったく知らない人よりも菊も安心できる。
「時にベールヴァルドさん、ディズニーシーとか行ったことあります?」
「ディズニー、シー……? いや、行っだこどねぇな」
「ですよね。私も若い頃は行ったんですよ、ディズニーランド。シーっていつ頃できたんでしたっけね……」
菊は遠い目をした。
少し前にヘラクレスを誘ったものの、都合がつかずにまだ行けていないのはディズニーランドである。ディズニーシーは行ったことがないし見たことすらない。果たしてどんな場所なのかあまり検討がつかなかった。絶叫系はもう年だし避けたいところであるが、アントーニョとその弟は若いからそういうのが好きかもしれない。困ったものである。観覧車とかあればいいのにと思いつつディズニーランド及びディズニーシーにはそういうものがないらしいという偏った知識だけがあったりするのだ。
「いっそ、ベールヴァルドさんも行きません、ディズニーシー。あ、ティノさんは喜びそうですよね」
目覚める気配のない青年をちらりと見て笑うと、ベールヴァルドもほのかに笑っていた。
「ティノは、そういうの好ぎらし」
「えぇ、そんな顔をしています」