アーサーは現状に至って満足していた。想い人をうまい具合に手元に置いておくことができたのだから当然である。菊には「死ね」と言われてしまったためしばらく謝り倒しとなったが、それを引いてなおあまりある幸運だ。弟が最近家に帰ってこないことも気掛かりだがどれも瑣末なことにすぎない。恋は人を盲目にする。
「おい、アントーニョ」
「どうしたん、アーサー?」
「これを二部コピーしてくれ」
「コピーやな。了解ーっと」
アントーニョはふわふわと笑顔で書類を受け取った。傍に彼がいることがうれしいというのもそうだが、結構本気で秘書やアシスタントといった存在が欲しいと思っていたのも事実である。しばしの間雇っていた執事にも数週間前にまた逃げられたためである。さて別に彼がどういう格好をしていても可愛いのでアーサーは一向に構わないけれど、秘書(もしくはアシスタントか執事)という名目上あまりにもラフな格好では来客の応対に困るだろうと思って服まで支給した。白いシャツに黒の細いリボン、黒のベストとスラックスという割合シンプルな出で立ちである。とりあえず執事をイメージして選んだものだ。渡すときには「お前に似合うと思って選んだわけじゃないからな!」といちおう言ってはみたものの、いつもはラフだがキッチリとした格好も似合うだろうとかいろいろと考えに考えて選んだものである。ちなみに洋服屋には不審がられた。
さまざまなところで馘首の憂き目にあっているというアントーニョだが、働きぶりはそう悪いものではない。最初こそコピーの仕方をも知らないと言ってアーサーを驚かせたものの、使い方を教えればきちんと学び取ってくれた。ちなみに先輩となるべきアシスタントなど存在しているはずもないので、彼の仕事となることはすべてアーサーが教えたのである。これも雑事だと言えばそうだろうが、アーサー的にはむしろ役得なので問題はない。そのような甲斐があって彼はコピーの仕方と紅茶の淹れ方というアーサーがもっとも必要としていた基本的なところはばっちりとマスターしている。ただし言葉遣いには難が残るため来客の対応は結局アーサーがしているのだが、そもそもあまり来客はない。他のことと言えば家事はメイドがいるしタイムスケジュールくらい自分で管理すればいいことだ。問題ない。つまりアントーニョは実際にはたいしたことをしていなかったりする。
しかしそれを元来働き者のアントーニョが気にした。これでお給金をもらっていいのかと言い出したのだ。アーサーが面倒だったのはコピーだの郵便だのを自分でしなければならないことであって、本当にそれらは完全なる雑事であった。そんなことをするのは誰でもいいのだ。ただアントーニョを雇いたかったのでそういう役職につけたという程度である。しかしそれを本人に公表できるのならば最初から雇うのではなく告白しているという話だ。困ったのでアーサーは彼に「だったら俺の食事でも作れ」と言ってみた。アントーニョが食事を作れるのかどうかはまったく知らないのだが、手料理が食べたいというまったく邪な考えのみにもとづいた発言である。そうしたら予想外に彼は料理が得意だったのだ。そのため彼は嬉々として食事係を請け負うこととなった。
というわけでまとめるとアントーニョの仕事はコピーをとることとお茶を淹れることと食事を作ることとアーサーと一緒に食べてくれること、そしてもっとも重要なのが結局は仕事をするアーサーの傍でそれを見ていることなのである。菊はそれを聞いて「あなた本当に気持ち悪いですね」と評してくれた。
「アーサー、なんや手紙届いとるて」
コピーついでにメイドから受け取ったのか、アントーニョは白い封筒を手に部屋に戻ってきた。余談だが明るくて人好きするアントーニョはカークランド家のメイドともすぐに馴染んだ。慌てたアーサーがメイドたちに「アントーニョに手を出したらクビでは済まさない」と脅しておいたくらいである。
「手紙……誰だ?」
アーサーに手紙を出してくれるような友人は皆無である。考えられるとしたら仕事の相手くらいだ。封筒を受け取って裏返したアーサーは思わず「うげっ」と声に出して言った。
「なんやの? どうしたん?」
アントーニョは正規の執事でもなんでもありはしないので、アーサーの仕事に好奇心的な興味を抱くことも少なくない。そしてすぐに教えてだのなんだのと緑色の瞳を輝かせて言うのだ。こういうと難だが彼は法律に関して既知であるとは言えないし、難しい話が多いので説明するのはいつも困難になる。それでも請われればアーサーは断れない。
「いや、まぁ、たいしたことじゃないんだけどな……ちょっとモメてて」
「この前、菊さんが来てたやつやない?」
菊自身が一度アントーニョと会って話したとは言っていたが、会ったのはその時が初めてだったと聞いている。しかしアントーニョは一度会ったら友達モードなのか知らないが、二度目に執務室で会ったときにはすでに旧知の仲であるかのように菊に対しても振舞っていた。そして菊もそれをあっさりと受け入れた。最初こそ「本田弁護士さん」とアントーニョは呼んだものの、菊が「名前でいいですよ」と言ったために今のような呼び方となったのである。菊はアーサーに対してアントーニョを雇うことには反対したいと溜息をついて言った。その理由については彼の口から語られなかったのだが、けれどアントーニョが納得しているのならばと続けた。そのためアーサーはアントーニョがむしろ望んだのだということを力説したのである。
その件についてはアーサーは嘘を言っているのではない。経緯は以下の通りである。遡ること一ヶ月ほど前の話だ。
人の家のソファで爆睡していたアントーニョを叩き起こすようなこともできずに見守っていたアーサーであったが、あんまり起きないのでさすがに起こした。その後、お抱えのシェフ(彼は今もアーサーの屋敷で主にメイドのために食事を作っている)に作らせたトマトのパスタを食べさせてからやっと本題に入ったのである。
アントーニョはあのスーパーは愛する弟との大切な場所なのだということを訴えた。その『弟』という語にはアーサーも揺らいだ。アルフレッドは昔から冷たいが、最近特に顕著になっている。気づけばガタイばかりデカくなってなにをしているのかなにを考えているのかわからない。向こうと違って血縁関係があるとは言え、心は遠のいているように思えてならなかった。だから人事とは思えなかったのである。しかしその反面アントーニョが言う『血の繋がりがない』という語にひっかからないことがないではなかった。兄だと思っていないというのは複雑な言い方でもある。しかし他人さまの兄弟関係にまでとやかく言っても仕方がないし、だいたいアントーニョは弟は弟と言っているのだ。考えすぎることはよくないだろう。その件についてはアーサーはひとまず置くことにした。
そもそもそんなホームドラマ的な話を聞くまでもなくアーサーは初期段階で折れていたのだ。だってアントーニョの願いを聞いて土地を貸したのだから今回だって同じことである。彼が願うのならば。けれど最初と違うのはそうしてしまったらもはや彼と関わりが持てなくなるという一点だけだ。それさえ克服できればなんでもいい。アントーニョに貸すのでなければ賃貸料も正規に請求できるし。そのことをアーサーは考えていた。
「分かった。賃借権の譲渡を認めてもいいが、タダでとはいかない。お前、無断譲渡してるんだから、そこんとこ分かってんのか?」
いちおう釘をさすように言えば、アントーニョはわかった風にうんうんと頷く。たぶん分かっていないだろうけれど可愛いからいいかとアーサーは思った。
「タダやないってことは――なんやの、お金? せやったら、ルートヴィヒに聞いてみなアカンけど」
「別に金が欲しいわけじゃない。その……お前、会社クビ、なんだよな?」
「そうやけど?」
あっさりと言うのでアーサーの方が驚く。本当にクビにはされなれているらしい。
「お、俺のところで働かないか――いや、その、クビなんて寝覚めが悪いんだよ! お前だって働き口ないと困るだろう!?」
あいかわらずの物言いにアーサーは自分で自分が嫌になった。
アントーニョが無断譲渡をしているという話を菊に相談したときに「あなたなにがしたいんですか」と言われた。だからアーサーも考えたのだ。どうしたいのだろうかと。アントーニョと関係を持っていたいと思っていた。彼が欲しいとかそこまで行き着かないような単純な願いだ。赤の他人になってしまうことが嫌だから契約を結んだ。それならば別の契約に変えることができるのではないかとアーサーは気づいたのである。それも賃貸借契約のように遠いものではなくもっと近いもの。それが雇用契約だ。ちょうど執事に逃げられて、新たにアシスタントを募集しようと思っている最中だったからなおさらに好都合だった。
アントーニョはアーサーの言葉を聞いて数回まばたきした。そして首を傾げる。
「それ、対価なん? 自分で言うのも難やけど、俺、あんまり役に立たへんよ。自分でもわかっとるし」
「んなこと知ってるよ。その、助手を雇ってもあんまり長続きする奴がいないから……お前なら、その、合う……かもしれないだろ」
「アーサー、人気ないなぁ」
あははとアントーニョは笑った。
「う、うるせぇな! だから、仕事はそんなに難しいことはない。お前が――」
いてくれたらそれでいいとはさすがに言えなかった。差し込む夕陽がアントーニョの横顔を照らす。彼は一度目をつむった。何事を考えたのか分からないけれど、ひどく神聖な儀式がそこで行われているようにもアーサーには映った。瞬間的に強く、アントーニョのことを好きだとアーサーは思った。手放したくない。彼が欲しいと。
(頷かなかったら、どうするか――)
会社を盾に取って脅そうかと思った。それが悪事であるとかどうだとかなんて関係がない。欲しい物は欲しいし必ず手に入れてみせる。
「えぇの?」
「え? は?」
「やから、ここにおってもえぇのかなぁって」
「あ、当たり前だろ!」
アントーニョはふわりとほほえんだ。それはもはや心を奪うような類のものではなくて、たとえて言うならもっと神聖な上位存在のするそれのようだった。
「そか。……あんな、お給金、少なくても構わへんよ。せやから、ここに置いたって、アーサー。あ、でも食事は欲しいなぁ」
声はとても静かだった。一瞬、夢の中にいるように錯覚したくらいに。
「お前が、可哀相だからな……だから、別に、優しくしたわけじゃ――ない」
「うん」
「むしろ、俺のエゴだ」
「ありがとぉな」
ふわふわとアントーニョは笑っている。赤い日がまぶしくてそれを直視できなかった。アントーニョには見透かされているようにもアーサーには思われた。あんなに鈍いみたいな顔をしているのに。
傍にいることを望まれてうれしいと思うのではなかった。置いて欲しいと言われて喜んだわけではない。むしろ彼が頼んだのに自分が希っているようにしかアーサーには思えなかった。どうかここにいて欲しいと。そう願っていたからこんなことを話したのだということは百も承知していたけれど、それ以上に強く引きこまれるようにあるいは神に祈るようにそう思わされた。アーサー自身にもよく分からない。ただ自分のエゴでアントーニョに優しくしたのだとだけ思った。そしてそれを告解すべきだと思ったのだ。
「契約書を書くから、ちゃんと読め。あと、賃借権も――誰が相手になるのか知らねぇけど、相手を呼んでこい。お前との契約は解除する。その方が都合がいいだろうから……どうせお前、ギル? とやらに賃料払ってもらってねぇんだろ」
「なんで俺が受け取るん?」
「……もういいから連れてこい」
契約書なんて意味が無い。どちらにしたってアントーニョは分かってくれないのだろうし、紙切れでしばるのもバカバカしいことだ。誰かと簡単に契約を結ぶなと言ったって分かってはくれないだろう。譲渡担保なんてどうせ知らないくせにとアーサーは思った。
アントーニョには通常の会社員の平均的な賃金よりもずっと多く給金を支払っている。金銭感覚にはあまり明るくないらしいアントーニョにすら「これ多すぎるんと違う?」と言われたくらいだ。黙って受け取れと言えばまた彼はうれしそうに笑う。とどのつまりそれらすべてがアーサーの望んだことであった。アントーニョが傍にいてくれればいい。アントーニョが笑ってくれたらいい。なんでもかんでも菊に報告すれば「あなたってバカですね」と言われた。ただその時の菊は決してバカにした表情ではなかったのである。
「どうしたん? やっぱえらいモメとるの?」
「まぁ、揉め事なんていくらでもあるからな」
上述するようにアーサーはプライベートでは実に幸せであった。しかし仕事の方はあいかわらずなのである。不動産なんか扱っていれば紛争は絶えないし仕様がない。
「でも、菊さんと難しゅう顔して話してたやろぅ? いつもより面倒なことになっとるん?」
「なんだよ、また聞きたいのか?」
アントーニョは瞳を輝かせて頷く。もの好きだなとアーサーは思った。
「だったら、紅茶を用意しろ」
「まかせとき! えーと、この時間ならアッサムのミルクティーやなぁ〜、スコーンも用意せな」
仕事が単純なものであるため、アントーニョは細かいところまで把握していた。今はアフタヌーンティーを飲むような時間帯だからアーサーがついでにスコーンもと頼むことが多いのだ。このスコーンも今ではアントーニョが手作りしている。
パタパタと彼が出て行く姿をアーサーはぼんやりと見つめた。菊にこの前「このままでいいんですか?」と聞かれたことを思い出す。この手紙のことで法律相談をしている最中に突然に言われたのでアーサーは戸惑った。このままでと言われてもさっぱり分からないのだ。だってアーサーは今が幸せなのである。他になにも望むようなことはない。アントーニョが傍にいて笑ってくれるならそれで満たされていた。
『じゃあ聞きますけどね、あなた、アントーニョさんに恋人ができたらどうするつもりです?』
しかし菊の言葉は核心を付いていた。雇用契約で彼を傍に置いておくことは叶ったけれども、それは心まで得られたわけではない。メイドに釘をさすことはできてもアントーニョの周囲すべてに脅しをかけることはできないのだ。どうにかしたいと思っていたわけではないけれど、どうにかした方がよいのだろう。アーサーは抽斗を開けた。飾っておくとさすがにマズイと思って中にしまったアントーニョからの礼状が残っている。
「アーサー、今日のスコーンはチョコチップ入りやで」
足音が静かな屋敷に響く。本当はこれも言って直させるべきなのだろうけれど、その存在が感じられるのでアーサーはそれを咎めなかった。格好と似つかわしくない態度でもアントーニョならばむしろその方がよいとすら思う。
テーブルの上でアントーニョがひっくり返した砂時計の白い砂がゆっくりと落ちていく。
「去年の夏に、ビルをある会社に貸したんだよ」
アントーニョの目はじっと砂を見つめていたが、少しこちらを見て頷いた。聞いているという意味だろう。
「連帯保証人もつけた――そういやお前、連帯保証人になるとか言ってたけど、意味知ってるのか?」
「んーん。なんやの、どっかで聞いた気がするわぁ」
「だから知らねぇのになるなって言ってんだろうが! あーえーっとな、例えば、俺がお前に金を貸すだろ?」
「あ、アーサー、そうえいば前に建物作ったときのお金どうすればえぇの? まだ払い終わってへんかった気ぃするけど」
「もういい、んなもんは。とにかく、お前に貸しても返ってこないかもしれないだろ」
「せやね。たぶん、払えへんようになるわなぁ」
あ、落ちた。アントーニョはそう言うとすぐさまティーコジーを取り上げてテーブルの端に置いた。白い陶器の色はマイセン、そしてそこにヘブンリーブルーで花や蔦が描かれているティーポットはアンティークだ。ポットと同じ柄のティーカップは温められていてすでにミルクが入れられている。それが二対。
「んなこと自信たっぷりに言うな。で、だ。お金が返ってこないと困るってのは分かるな?」
「そりゃそうやろ」
一ヶ月もやってきているので慣れた手つきでアントーニョは紅茶をカップに注いでいく。当初はできるのかと疑問視していたアーサーであるが、意外とその所作は様になっていた。おそらくアントーニョは食品を扱うのに向いているのだろう。壊滅的な味音痴と言われるアーサーには羨ましい限りであった。
カップが二つ用意されているのはもちろんアントーニョが飲むためである。彼の知識がどう形成されているのか不明瞭だが、アントーニョは雇用主のアーサーを一面では主人らしく思っているらしい。そして紅茶というのは従者が主人に対して淹れるものであると解釈していたらしく当初はそのようにした。しかしアーサーはアントーニョを従者だとはあまり思っていないので、あくまで対等関係的に「お前も飲んだらいいだろ」と提案したのだ。そうしたらアントーニョは喜んでそれに乗ったという次第である。
「返してもらえないと困る。だから、誰かに保証してもらう。『この人はちゃんとお金を返せます。でも、もし返せなかったら私が代わりに払います』ってのが保証なんだよ」
「はぁ、なるほどなぁ。連帯保証ってのとはちゃうの?」
「……お前に言って分かるか分かんねぇけど。うーん……お金を貸したら、だいたいいつまでに返せって言うよな」
アーサーは淹れたてのミルクティーを口に運んだ。紅茶の適温は80度。熱すぎずかつ温くもないちょうどいい温度になっている。家に常備している紅茶は英国王室御用達の店でアーサーが選んで買っている。このアッサムもその例に漏れない。アッサム特有の深いコクはやはりミルクティーにうってつけだ。フレーバーティーなどはアーサー的には邪道なのである。紅茶はやはり王道のダージリンのストレートやアッサムのミルクティー、もちろん店のオリジナルブレンドも悪くない。そろそろダージリンのオータムナルが時期だろう。また折を見て馴染みの紅茶店に足を運ぼうとアーサーは思った。その時には、アントーニョも連れて行ってやろうとも。
「まぁ、例を出した方がわかりやすいか。例えば、お前が俺から金を借りる。そうだな……お前の弟がその保証人になったとする」
「ロヴィが!? ありえへんよ、そないなこと……」
アントーニョはしゅんと肩を落とした。最近の彼の言動からアーサーが察するに、アントーニョは多分にブラコンのようである。
「架空の話なんだからつべこべ言うな。で、お前が金を返す時になっても俺に返さなかったら、俺はどうすると思う?」
「アーサーに借りたんやったら、ちゃぁんと返すけど」
「だから架空だって言ってんだろうが!」
とは言いつつも、自分にならちゃんと返すとか言われて『可愛い』とばかりアーサーは心の中で思っていた。変な考えが悟られないようにまた紅茶を口に含む。アントーニョはスコーンにクロテッドクリームを塗っていた。まだアーサーは手を出していないのに、もう主客のような概念などは彼の中で存在しないのだろう。
「せやなぁ、俺に、返せって言うんとちゃう?」
「まぁ、普通はそうだよな。じゃあ、お前の弟に、お前の兄が金を返さないから代わりに返せって言ったら、お前の弟はどう言う?」
「うーん、ロヴィならきっと『んなことはアントーニョに言え!』って言うんやない?」
「なんだ、お前んとこの弟も結構口が悪いんだな……」
あまり似ていない兄弟だと言いそうになって慌てて言葉を止めた。それはそうだろう、彼らは血が繋がっていないのだ。長く暮らしていれば近くなることもあるだろうし、かと言ってそうでないこともある。似ていなくたってそんなこと通常想定される範囲だ。けれどそれは血の繋がりがある兄弟だから笑い話で済むのであって、実際に血が繋がらないのならばそれが故に似ないのだと受け取られる可能性が高い。他の相手ならばどうでもいいけれど、アントーニョは傷つけたくないのでアーサーはそういうことには気を配っていた。しかしツンデレなので自分の感情にだけは素直になれない。
「っと、まぁ、普通そう言うよな。そう言われたら、俺はお前の方に言いにいかないといけない。そっちが先だからな。保証はあくまで保証だ。それが普通の保証」
「ふんふん。あ、このスコーン、クリームなしでも美味しいわぁ。アーサー、食べてみ?」
一つ取って勧められたのでアーサーもチョコチップスコーンをちぎって口に運んだ。チョコチップはほんのりと甘く口の中で溶ける。
「うまいな」
アーサーが率直な感想を言うと、アントーニョはとてもうれしそうに笑った。
「ホンマ? よかったわぁ」
あまりうれしそうに笑うので自分の方が褒められたみたいで気恥ずかしくなる。アーサーが目を逸らしてもアントーニョは変わらぬ穏やかな様子だ。
「そんで? 連帯保証はどう違うん?」
「え、と――さっきの、お前の弟に『代わりに返せ』って言ったら、お前の弟が払わないといけなくなる」
「なんでやの?」
「なんでって、そういうのが連帯保証って言うんだよ。まぁ、他にも違うところはあるけどな。とりあえず、簡単に保証人にはなるな。分かったな?」
アントーニョは紅茶を飲みながらこくこくと頷いた。なんだかやっぱり分かっていないのだろう。
「ほんでそれが、今日の手紙と関係あるん?」
「別に直接関係はしてない。お前が心配だから言っただけだ――か、勘違いするなよ。お前がって言うか、その、俺はお前の雇い主だからな。そういう意味でだ!」
「保証人になったらアカンのやね。わかったわぁ」
アントーニョは雇い主であるアーサーの言葉には従ってくれる。保証人になるなと言えばきっとならないはずだ。それなのにどうにもアントーニョを見ていると不安に駆られるアーサーである。
「今回のは単純に言えば、賃料をいつまでたっても払わないってだけだ。それで菊に相談したんだよ。ったく、あんまり滞納してっから督促しに行ったら『名誉毀損だ』だのなんだのうるせぇし……わざわざ人のいない時に行ったってのに、言い掛かりまでつけてきやがるから、菊に頼んで訴えてもらったんだよ。延滞賃料を払えって」
「大変やね」
「あぁ。で、さっきの連帯保証人も一緒に訴えたら、そっちがコレを送ってきた」
アーサーは白い封筒の中から薄い紙を取り出した。
「簡単に言えば、訴えるのをやめてくれたら、こっちに有利な内容で和解するってな」
「有利な――って、お金がたくさんもらえるんとか?」
「さぁな。でもどうせ奴らに金はないだろうし、延滞賃料もかさんでんだよ。だいたい最初っから支払能力もないくせに、さもお金ならちゃんと払いますって顔して騙しやがって、とっとと出て行けとしか言えねぇよ」
アントーニョはふうんとつぶやいた。
先程彼の弟に口が悪いと言ったが、アーサー自身も口は悪い。菊の前などではかなり取り繕って紳士的に話そうと努めるのだが、アントーニョとは最初が最初なので諦めている節がある。口が悪いのは仕方ない。だから彼の弟も口が悪いのだと知って少し安心した。
しかしながら口が悪いくらいならば構わないが、元ヤンとまで知られるのは困る。アーサーは溜息をついた。この案件でのことだとアントーニョは思ったようで特に不思議そうにすることもない。元ヤンということについては菊は知っている。知っているがなくしたら困る友人(他にいないから)なのでビジネスパートナーという意味も含めて紳士的に振舞うのだ。
その彼が一つ忠告してくれたアーサーの宿敵フランシス・ボヌフォワの件がある。あれは本当にアントーニョの友人であるらしい。数週も前の話になるがフランシスは屋敷に訪れて「アントーニョに昔のことを知られたくなかったら、俺が会社に残れるようにしてくれないか」と言い放った。昔から最低の男だ。結局アントーニョに代わって今の契約の相手方となったギルベルトとの交渉過程においてアーサーはフランシスのことに言及し、会社に残れるようにしたのである。クビになりたくないなら働けよと思うし当然のことのはずなのだが。
「アーサー、な、明後日から連休なんやねぇ。俺、ホンマに休んでもえぇの?」
急に話を振られてアーサーは驚いた。スコーンを飲み込んで窓の方に目をやる。今日も天気がいい。
「休みは土日と祝日って決めただろ。休めよ」
できるだけ傍に置いておきたいとは思ったが、休みは休みたいに違いないだろうと思ってそう決めたのだ。もともと彼は家族思いだし。アーサーは本当にアントーニョには好待遇なのである。
「せやけど……アーサーはなにしてるん?」
それなのにまるで淋しげな声音だったものだからうっかり揺らぎそうになる。アーサーはアントーニョとは目を合わせないで窓から見える庭園を瞳に映した。庭師によって毎日手入れされているバラ園は今日も色鮮やかだ。
「別になにも。ここで書類に目を通してる」
「独りで? 寂しない?」
「うっせぇ。お前こそ、暇、なのか?」
「暇ていうか。予定はあらへんよ」
どきりとした。休日にまで干渉するのは鬱陶しいだろうとか、かつてストーキングしたとは思えない謙虚さでアーサーは思っていたのだ。菊の言葉が耳を通り抜ける。このままで果たしていいのだろうかと。
(休日に、出掛ける――)
それはなんだかデートのようだ。
「あ、アントーニョ、その、あの――」
「なんやの?」
「お前、その、貧乏だから遊園地とか行ったことないんじゃないのか!?」
素直に言えないというのはアーサーの致命的な欠陥の一つである。
「行ったことあらへんよ。夢の国やっけ? 行ってみたいなぁ」
しかしアントーニョはあまりそういう言葉にひっかからない。貧乏だとか言われたら怒ってもよいことだろうに気にした様子を見せないのだ。逆に戸惑う。
「つ……連れてってやってもいいぞ」
「? 保護者が必要なん?」
「ちげぇよ! だから、その、俺と……チケット代くらいなら払ってやる!」
「えっ、ホンマに?」
緑の瞳がまたぱぁっと輝いた。アーサーはまたどぎまぎする。
「うわぁ、うれしいわぁ! 夢の国ってなんや憧れの場所ーって感じがしてな。あ、せやアーサー、ロヴィも誘ってえぇ? ロヴィも行ったことないねん、連れてってやりたいんやけど……」
「お、弟? わーったよ。連れてくればいいだろ」
二人で出かけたいというのが大きかったのだが、ブラコンらしいアントーニョが弟もと望むのであれば断れるはずもない。
「ありがとなぁ、アーサー! ごっつうれしいわぁ!」
それにこの笑顔が見られるならばそれでいいのだ。菊はああいうが、高望みしてもいいことなどなかった。アーサーは人間関係についての構築能力が壊滅的にないのである。
アントーニョはアーサーの両手をつかむとぶんぶんと腕を振った。実は夢の国になどアーサーも行ったことがない。というか行く相手がいない。アルフレッドも共になど行ってくれないのである。世知辛いものだ。けれどそんなに行きたいとも思っていなかった。どうせ子供だましとうそぶいていた。そうだけれどアントーニョの素直な感情表現はアーサーにとって羨望の対象となっている。こういう風に笑えたらどうだろうかと思った。別に自分が嫌いなわけではないけれど(むしろ好きである)。
「休みが楽しみになったわぁ! せやろ、アーサー? こんなら、寂しないやろぅ?」
「ま、まぁな」
「あんな、夢の国に連れてってくれるんやったら、休日もアーサーに付き合うで。アーサーは書類を見とるんやろ? 俺は――話し相手んなる。えぇ考えやろ? 休みやもん、仕事はかどらんでもえぇやんかぁ」
提案に驚いて顔を見つめれば、いつもと変わらない緑の双眸がやわらかくまどろむように細められる。
「もちろん、紅茶も淹れたるわ。たまにはスコーンやなくて――せやな、アップルパイなんてどうやろ? お菓子作るん得意なんやでぇ」
太陽のようなほほえみはいつだってアーサーの心を照らす。やっぱりアントーニョは太陽なのだとアーサーは思った。
「は? ディズニーシー?」
『せやねん。な、ロヴィも行こ? 行ったことないやろ?』
「なんでお前と――だいたいお前、金ないんだろ」
『ふふっ、それは大丈夫なんや。スポンサーがおるんよ』
「ス、ポンサー……?」
『今の俺のご主人様や! あ、ご主人様は違う言うてたな。んー……あ、雇い主や』
「なっ、そいつが、金出すのかよ」
『せや! 優しいやろぅ? な、ロヴィも行こ? あ、予定があるなら、しゃあないんやけど……』
「そいつ、だけなのか?」
『なにが?』
「だから、一緒に行く奴だよ。分かれよ! 二人で行くつもりか?」
『ロヴィが来てくれへんかったら、そうなるけど』
「……だったら、行く」
『ホンマ?! じゃあ、明後日な! 時間とかはまた後で連絡するわ! 楽しみにしとってなぁ!』
ロヴィーノは通話を切って空を仰いだ。
「アーサー・カークランド――」
どこまでも青い空を睨みつけた。