事例3 この家族関係について図示して法的な問題を検討しなさい。

 同じ弁護士のベールヴァルド・オキセンスシェルナは菊の友人である。無口でいつも怖い顔をしているが、内面はくるくると変わっていて可愛らしい青年だ。まだ若いがやり手で主に扱うのは菊と同じ債権回収関連。昨今は過払い金返還請求が賑わっているため債権回収については大手事務所でもどこでもやっているようだが、それだけに留まらない働きぶりはそろそろ縁を切りたい不動産業者に関わっている菊から見ても感心するほどだ。
「ベールヴァルドさん、お久しぶりです」
 たまたま道で会ったのでと声をかけると、ベールヴァルドは睨むようにこちらを見た。最初こそ怯えた菊だが、メガネをかけている通り彼は視力が良くないためにじっと見つめているのだ。それを知ってからは怯えるような必要もない。こちらを視認してからは「本田さんでねっが」とベールヴァルドは親しげに声をかけてくれた。
 ベールヴァルドは黒いシャツに紺色のスーツと黄色のネクタイで今日も洒落た装いだ。服装に頓着するようには見えないのだが、こういうところは気を使っているようである。
「どうですか、独立の話は」
 ベールヴァルドは優秀な弁護士だ。その働きはもはや事務所の一角を担っていると言っても過言ではない。独立しようと考えるのも至って普通だろう。ちょうど事務員の友人(名をティノ・ヴァイナマイネンと言う)が同じ事務所におり独立するから一緒に働かないかと持ちかけたと彼は菊に話してくれた。ベールヴァルド自身は優しい青年であるのだが、いかんせん顔が怖い。対してティノは穏やかそうに見える青年なのでクライアントを脅かさずに済む。菊はベールヴァルドよりも年上なのでなにかと相談に乗っているのだが、独立したいという彼にティノを誘ったらどうかと提案したのは菊なのであった。ティノは最初こそ乗り気ではなかったようだが、ベールヴァルドが熱心に頼むのでその気になってくれたようである。
「……所長がな」
「やっぱり、ダメですって?」
「いなぐなったら困るっでな」
 独立したいから事務所を出ます、はいそうですかで終わるならば話は早い。しかし現実はそう簡単にいかない。ベールヴァルドの所属する北欧法律事務所の所長デン氏はベールヴァルドが独立すると言い出しても首を縦に振ってくれないらしいのだ。「おめぇがいねぇと困るっぺ」と。
 先に述べたようにベールヴァルドは優秀でやり手の弁護士だ。独立したいと思うのも理解できる反面、事務所側からも失うに惜しい人材なのである。デン氏の言い分も理解できるというものだ。だがいつまでもイソ弁ではもったいない。
「まぁ、どうぞ自由に独立すればと言われた私からは羨ましい言葉ですが……」
 菊は所長のデン氏と直接の面識はないが、話を聞いている限り彼はベールヴァルドを気に入っているようなのだ。手腕をではなく人柄のようなものを。もともと北欧法律事務所は知り合い同士が集まってできた事務所であるらしい。デン氏とノル氏(ベールヴァルドの兄弁に当たる)とベールヴァルドの三人の弁護士にティノとアイス氏の二人の事務員、五人は昔なじみらしいのだ。
 独立の話を持ち出したら殴られたとベールヴァルドは語る。まったくどこも難しいようだ。
「本田さんは、なにしてる……?」
 独立の話はもうこれ以上進んでいないらしい。ベールヴァルドは話題を変えたので菊も溜息をついた。
「あー、私ですか。なんでしょうね、なにをしたのやら」
「? いづもの、不動産業者?」
「そうなんですよ。聞いてくれますか、ベールヴァルドさん!」
 ベールヴァルドに限らないが、菊はいろいろなところでアーサーの愚痴を言っている。だったら関わるのをやめればとは散々言われてもいた。しかしこの世はお金である。銀行マンの友人バッシュ・ツヴィングリも言っていた。お金は重要だ。菊にはまだ顧客といえるような相手はアーサーくらいしかいない。しかも金払いがいい。ビジネスは人柄だけで成り立っているのではないのだ。
「今から――はさすがに、ベールヴァルドさんもお仕事がありますよね。夜にでも飲みませんか? ティノさんもご一緒に」
「ん、言っどく」

 アントーニョは噴水に腰掛けて晴れた空を見ていた。雲一つない青い空だ。今日はレジ打ちの仕事もないオフの日だったので菊に言われた通りに待っていた。なにが起こるのかまったく見当もつかないけれど。いつもにこにことしているアントーニョだが、本当は家庭事情は複雑だった。アーサーと出会った日のことを思い出す。あの日、アントーニョの弟のロヴィーノは家を出ると言った。
 ロヴィーノとアントーニョは血がつながっていない。ロヴィーノはアントーニョの両親の友人ヴァルガス夫妻の長男だった。ロヴィーノが生まれたころのヴァルガス夫妻は借金に追われていて、幼いロヴィーノを育てることもままならない状態だった。見兼ねたアントーニョの両親がロヴィーノの面倒を見て数年経過したが、ついにかの夫妻は行方をくらましてしまった。困ったアントーニョの両親は幼いロヴィーノを放っておけずに養子として引き取ることにしたのだ。ちなみにその後更に数年が経過して貧しかったヴァルガス夫妻は美術家として名を上げて戻ってきた。もう一人の子供を連れて。フェリシアーノと名付けられた本当はロヴィーノの弟である彼は天真爛漫に明るく育っていて、アントーニョのことも兄ちゃんと呼び慕ってくれる。互いの事情を考えてロヴィーノが本当はヴァルガス夫妻の長男であることは伏せられた。もうずっと昔の話だ。
 アントーニョはロヴィーノを本当の弟だと思っていた。血のつながりがないことはロヴィーノが来たころにはすでに物心ついていたために知っていたが、それでも今だって可愛い弟だと思っている。事実血のつながりなんて関係なかった。両親は等しく愛情を注いだしアントーニョは弟を目の中に入れても痛くないほどに可愛がってきた。ロヴィーノがいかに邪険に扱ってもめげることもなくロヴィーノ、ロヴィーノと呼んでは抱きしめて頭を撫でた。そうしていなければロヴィーノは離れていってしまうようで怖かったのだ。あの日の朝、ロヴィーノは両親につめよった。たまたま街で献血をしたロヴィーノは自分の血液型に驚いて自分の戸籍を取りよせたらしい。
『お前なんか、昔から兄だなんて思ったことねぇよ!』
 つきつけられた言葉にアントーニョは自分でも知らないくらいに深く内側で傷ついていた。
「あ……、アントーニョ!」
 聞き覚えのある声にアントーニョは思考に沈んでいた顔をあげた。会いたいと願っていた相手がそこにいたので心が浮上する。ぱっと立ち上がるとアントーニョは笑った。
「アーサー、どないしたん?」
「その、き……弁護士の本田に呼ばれて……お前と会ったって聞いて」
 アーサーは以前と変わりない様子だった。陽光に輝くブロンド、自分とは異なった緑色の瞳、きちんと着こなしているグレースーツ。ラフな格好のアントーニョとは対照的だ。
「さっきおうたよ。あれ、でも、アーサーの代理人やって聞いたけど」
 本人がこうして出てくるのなら代理人という意味はあるのだろうか。アントーニョは首を傾げたが、どちらでもいいかと思い直す。そんなことよりもアーサーに会えてうれしかった。ひどく単純にそう思っている。
 ロヴィーノが家を出て行くと聞いてアントーニョは慌てた。どうしてと引き止めた。なぜ止めるのかと聞かれたから「俺は、ロヴィーノのお兄ちゃんやろ」と言った。けれどロヴィーノに手を振りほどかれた。今までも邪険にされていたけれど、それは本当の拒絶だった。どうしてとそれ以上は言えなかった。喉が乾いて呼吸ができなかった。だからアントーニョはアルバイトの時間だと言って逃げた。己の感情からも弟からも両親からもなにもかもから。去り際に『兄だと思ったことがない』と言われても仕方がなかったのだ。笑って「いってくるなぁ」なんて言った自分に返す言葉などなかった。あの日のアーサーよりもアントーニョの心は海の奥深くに沈んでいた。それでも笑顔だけが取り柄の自分には笑うことしかできず、その調子で珍しい客にも話しかけた。
「あー……その、だな。そうだ、とりあえず、どこか店に入らないか? もう昼だろ?」
「せやけど、お金持ってないんや」
 アントーニョが笑うとアーサーは驚いたように瞳を丸くした。
「そ、それくらい奢ってやるから、来い」
 珍しくアーサーはアントーニョの手首をつかんで歩き始めた。線が細いようにも見えるアーサーだが意思は強いし行動力もある。強引だとぼんやり思った。おおきになとアントーニョはまた笑った。
 太陽の光がビルの窓ガラスに反射する。ちかちかと目に眩しい。アーサーは無言だった。なんとなく話しかけるのもためらわれてアントーニョも口を閉ざす。そしてまた思考は続きを追った。
 アーサーは格好こそちゃんとしているが、口の悪い客だった。それでも話していれば少しは沈んだ気分が浮上するのではないかと思ってアントーニョはいろいろ話しかけた。返事を期待していたわけでもない。言いたいだけ言えばすっきりするのではないかと思っていたのだ。けれどアーサーは予想に反してくだらない話に付き合ってくれた。そして「お客さんじゃなくて、アーサーだ」と言われたときに心がふわっと軽くなったのをアントーニョは自覚していたのだ。
「暑い、な」
「せやね」
「……暇なのか?」
「今日はオフやからなぁ」
 手を引かれて連れてこられたのは洒落たオープンカフェだった。自分が働いていたアンティークとすら言えないような古めかしい喫茶店とは異なった新しい風の吹いている店だ。アーサーはいつも店でそうしていたようにロイヤルミルクティーとそれからサンドウィッチを注文した。向かいに座ったアントーニョはブラックコーヒーにトマトのパスタを頼んだところ「お前、家でトマトばっか食ってるって言ってなかったか?」と呆れるように言われた。
「な、アーサー、どないしたん? 本田さんは?」
 注文が届くまで時間がかかりそうだったのでアントーニョは先に話し始めた。
「本田ならもう帰ったと思うが……なんだよ、あいつが気になるのか?」
 苛立ったように言われたが気に止めるようなこともなく首を傾げる。
「気になる――ていうより、今日呼び出したんは本田さんやし」
 レモンの入ったミネラルウォーターを口に含むとさっぱりとした味が乾いた喉を潤した。こういうのが洒落てるんやなとアントーニョは思う。周囲には女性客が多かった。
「そ、そうだよな」
 アーサーはもごもごと言ったが、なかなか喋り始めないのでアントーニョはさっさと自分の方から話してしまおうと考えた。もともとは代理人という菊に話すつもりだったが、本人の方が好都合だろう。
「そうや、言っておきたいことがあったんよ。あんなぁ、あの土地やけど、これからずっと、ギルにつこうてもらおう思てんねん」
「なっ、え!?」
 同じくレモン水を飲もうと手を伸ばしたアーサーだったがすんでのところで止まってしまった。こちらを緑の瞳が凝視する。
「俺よかうまくつこぅてくれとるし……賃料も建物の代金も、ちゃんと払う言うてるから、えぇやろ? せや、賃料もなぁ、俺がやめたらもっと多く払えるて――」
「や、やめる!?」
「役に立たんから、クビやって」
「なぁぁっ!?」
 びっくりしているアーサーの顔がおかしかったのでアントーニョは笑った。クビにされることは実際には慣れているのであまりショックでもない。しかしレジ打ちしている最中にお客さんと会話をし始めるものだからレジ打ちでも雇っておけないと言われてしまったので困っている。これではまた無職だ。
「やから、正式にえーと……ルートヴィヒが言ってたんは――、ギルに俺の賃借権を譲渡するんを認めたって欲しいんよ」
「ばっ、ダメに決まってんだろうが!」
 即答だ。アーサーは音を立てて立ち上がった。何事かと周囲の視線がこちらに向くがお構いなしである。
「なんで知らねぇ奴にそんなこと――俺は、お前に貸したんだよ!」
「せやけど、向いてへんかってん。わかっとるんよ。なぁ、アーサー、この通りや。ギルは悪い奴やない。俺が保証する。なんやの、連帯保証人? そんなんになってもえぇよ」
 アントーニョは両手を合わせてお願いした。しかし降ってくるのは厳しい言葉ばかりだった。
「意味、分かってんのかよ! なにが『連帯保証人』だ! 借金じゃ――まぁ、借金もあるけど。って言うか、そんな簡単に保証人になるんじゃねぇ!」
 一気にまくしたてるように言うとアーサーは大きく息を吸って吐いた。一呼吸置いて途端に声の調子が弱くなる。
「なんで、そんなに必死なんだよ……っ」
 アントーニョが目を開けると、アーサーは顔を背けていた。
「ギルって奴のためか? なんで――」
「ロヴィーノが」
 アーサーの言葉をろくに聞かずにアントーニョは言葉を遮った。
「弟が、あそこで働いてるんよ。ロヴィーノ言うてな、確かアーサーにも話したと思うんやけど――物言いはキッツイけど、可愛いんやで。ロヴィーノと俺なぁ、血がつながってへんねん。せやからロヴィーノも、俺のことなんか『お兄ちゃん』や思てくれへんねん。寂しいなぁ。アーサーも弟がいる言うてたな。わかるやろ? それで、ロヴィーノにも仕事手伝って欲しいと思うてたんやけどな……けど、なかなか言えへんかってん」
 ぷつんと糸が切れたように言葉が流れた。今の自分は笑っているのだろうかとだけアントーニョは疑問に思う。
「血が、つながってない?」
「せや。でも関係あらへんよ、兄弟の絆っちゅうんは。まぁ、俺が思てるだけやけどな、あはは。最近、ロヴィーノが、あん店で働きたい言うてな……『お前ならなんとかできんだろ』って言われて、そんでな、頼んで雇ってもらってん。たまにはお兄ちゃんらしいことしてやりたかったから、うれしかったんよ」
 アーサーから土地を借りたころロヴィーノは一人で暮らすようになった。大学があるから結局はこの近辺になったのだが、顔を合わせたくても合わせられないような状況で家事なんてしたことのないロヴィーノがどう過ごしているのか心配で仕方がなかった。フェリシアーノに様子を見てもらうように頼んでも邪険にされて帰ってくるので申し訳がなくてハラハラしているばかりだった。吹っ切るように仕事に励んで会社まで作って、そんなある日急にロヴィーノが家に戻ってくるなり『働きたい』と言ったのだ。それは死ぬほどアントーニョにとってうれしいことだった。あの場所は兄弟の絆の最後の拠り所だ。自分の仕事がなくなることよりもそれが奪われることの方が悲しい。
「やからな――」
 店をなくしたくないと言おうとしたが言葉は遮られた。気がつくと椅子に座ったままアーサーに抱きしめられていた。アーサーの心臓の位置に耳があったので鼓動が聞こえる。一定の速いリズムが堰切ったように溢れる感情を押しとどめた。
「お前は、なんでそんなこと、笑って言うんだよ!」
「なんでやろうなぁ」
 アーサーが連日のように喫茶店に来て自分と話してくれるのがアントーニョにはうれしかった。自分のためではないのだろうけれど毎日のように現れて話しかけると笑ってくれることが、そんなことがひどく幸せだったのだ。大好きな弟に拒絶されて熱を失ってしまった心を温かくさせてくれていた。ずっとアーサーを待っていたのだなんてきっと向こうは知らないことだっただろう。貧乏だからロヴィーノも家にいたくないのだと思って「農作物を売れたら」なんてことを言ったけれど、一人だったらそんなこと決意できなかった。アーサーが言ってくれたから。
(なんで、やろ)
 どうして自分はアーサーを好きになってしまったのだろうか。それに気づいたのはなにもないただの晴れた日だった。急速に会いたいと思った。焦がれるようにそう想うことが恋だと知っていた。けれどいろいろなことを望むにはもうアントーニョは疲れすぎていた。会えなくても悲しいとは思わなかった。ただアーサーに迷惑をかけるのは嫌だったし、せめて満足な賃料くらい払いたかったのだ。景気が悪いと喫茶店で話していたことを覚えていたから。そのために性格にこそ難はあるが、独創的な才を持つギルベルトを頼った。堅実な彼の弟とその友人たちに力を借りて会社を作ったのだ。もうきっと十分だろう。それなのにどうして自分は今アーサーに抱きしめられているのだろうかと不思議に思った。
『なんでアントーニョなんかに土地貸したんだろうな〜』
 フランシスはそう言って首をひねっていた。
「アーサーこそ、なんで、俺なんかに優しくしてくれたん?」
 口に出すとそれは正しい疑問のように思えた。肩に触れていたアーサーの指先がアントーニョの質問に驚いてびくっと震える。
「あの、すみません……サンドイッチ……なんですけど」
「え? ――う、うわぁっ!」
 アーサーは飛び退くようにアントーニョから離れた。わりと忘れていたがここは先程からずっとオープンカフェ内である。明るくなった視界にアントーニョが周囲を見渡すと、視線が完全に集まっていた。確かにどういう状況か気になるだろう。自分もよく分からない。店員の女性は微妙な表情でアーサーの頼んだサンドイッチを持ってこちらを見ている。そしてアーサーの方を見れば顔がものすごく赤い。
「か、……」
「か?」
「かっ、帰るぞ、アントーニョ! お代はこれで――釣りはいらねぇ!」
 アーサーはテーブルに五千円札を乱暴に置く。アントーニョはもったいないと思ったのだが(まだなにも食べていないし)まさかそんなことも言えず、再びアーサーに手を引かれるままに店を連れ出された。本当は食べてからでもと言いたかったが、トマトどころか鮮血よろしく耳まで赤いアーサーを見てはそれも敵わないだろうと思って諦める。お腹が空いた。
 引っ張られるままずんずんと通りを歩き始めて数分が経った。さすがにお腹が空いていることをアントーニョが申告しようかと考えていると、アーサーがか細い声でつぶやくように言葉を発した。
「続きは、家で、話す、からな」
「アーサーん家で?」
「あぁ……メシは、用意してもらう」
 誰が用意するのかと思ったが、そういえば以前にアーサーの邸宅に行ったときに『執事』が存在していた。となれば『メイド』くらいいるのかも知れない。それともお抱えのシェフだろうか。なかなかアントーニョには想像できない世界である。
「食べそこねてしもぅたから、トマトのパスタがえぇなぁ」
「……用意させる」
 おおきにとアントーニョは笑った。

 これで二度目となるアーサーに連れてこられてきた彼の邸宅は屋敷と言った方が正しいくらいに広い。そして豪奢だ。なんだか分からない絵画とか美術品らしいものとか飾ってあるし調度品もすべてお金がかかっているだろうことが素人でも分かる。前にも通された広い部屋――ここはアーサーの執務室であるのだが、そこの客人用のオフホワイトのソファに座らせるとアーサーは「ここで待ってろ」とアントーニョに指示して部屋を出た。前回も座ったソファであるが、これがふかふかで気持ちいいのだ。アントーニョのベッドよりもふかふかしている。アントーニョが心地良さにつられて目を閉じると不意に眠気が襲いかかってきた。今日は朝からいろいろあったので疲れているのかもしれない。もともと昼寝が好きなこともあって意識は急激に落ちていく。まどろむというよりも本格的に睡眠に誘われていくようだった。
「おい、……なんだ、寝てるのか?」
 柔らかな声が耳を叩いたが、アントーニョははっきりと意識を覚醒させられなかった。ごめんなと言おうと思ったけれども声にならない。意識は混濁している。細い指先が髪に触れたような感じがした。そのくすぐったいような気持ちいいような感覚を最後に意識はぷつりと途切れてしまった。

「で、どうなったんですか!?」
 ティノが赤い顔で興奮気味に尋ねてくる。この若者に限らないが、皆戀愛譚というものには興味津々であるらしいのだ。隣のベールヴァルドはそれほど興味を示しているわけでもないが頷いているので話を聞いていることは聞いているのだろう。
 菊がベールヴァルドとティノを誘いだしたのはアントーニョと会った日の翌日だった。
「だって、相思相愛なんですよね。もちろん、上手く行ったんでしょう?」
「だったらいいんですけどねー……あの、ヘタレ紳士がッ!」
 菊はグラスをばんっとテーブルに勢いよくぶつけた。ベールヴァルドが「落ぢ着げ」と宥めるように言う。ほんのりと顔の赤い彼はそれほど酔わない体質のようである。
「はぁ、聞いてくださいよ。アントーニョさんを起こしたのは夕方すぎになってからで、すっかり冷めたパスタを食べさせて――で、いつものごとくツンデレですよ、あの紳士は」
「つんでれ……?」
「ベールさん、知らないですか? 好きな人に素直になれなくて、つい冷たい態度をとっちゃう人ですよね?」
「好ぎな奴にか? ……わがんねぇな」
 ベールヴァルドは分かりにくいだけで愛情表現などはストレートな方なのだ。例えば大切な友人であるティノに対して冷たい態度を取ったことなど見たことがない。優しい青年なのだ、本当に。菊の心は少し和んだ。
 目が覚めたアントーニョにアーサーはいつもの調子で「人ん家で寝てんじゃねぇ!」とまず怒った。その寝顔をじーっと見つめていただなんて微塵も言わずに。寝顔も可愛いななんて思っていたことなど表に出さずに。本当に申し訳ないと思ったのだろうアントーニョがすまなさそうにするのを見て慌てて「べ、別に構わないけどな。どうせ、やることもあったし……寝顔なんて見てないからな!」とか言ったのである。どんだけ嘘が下手なんだよと菊は思うが、相手はアントーニョだ。あっさりと納得したという。
「で、なんでしたっけ……ああ、それから、本当は言おうとしたらしいんですけどね、いざ本人が目の前にいるとなると言えなくって『優しくしたのはお前が可哀相だと思ってだなぁ……』と」
「ひ、ひどいですよ、それ!」
 ティノが立ち上がったので菊も同調する。テンションについていけないベールヴァルドだけが下から見上げた。
「本当ですよね! ああーもうなんであんなのが生きていられるんでしょうね!」
 実際にアーサーから今日の午前中に話を聞いた菊はこう言い放った。「ふざけないでください、死ね」と。わりと本気で。いや、本気で。
「そいで、どうなったんだ?」
 話が一向に進みそうにないのでベールヴァルドが口を挟んでくれた。菊も頷く。
「とは言っても、アントーニョさんは健気で一途な人ですからね。ああもうあんないい人を傷つけるなんて本当に……」
 しかし途中で話が脱線するくらいには本気で殺意の芽生えている菊である。
「本田さん、それで?」
 菊は溜息をついて席に座った。ティノもようやくそれにならって座る。ベールヴァルドがつまみの枝豆に手を伸ばした。
 ついに殺意まで抱かれるに至ったアーサーだが、土地の件についてはギルベルトはエリザベータという想い人がいるということを聞き出し、アントーニョが壊滅的に経営に向いていないこと、そして弟のために店を潰したくないという話を聞いてついには賃借権の譲渡を認めることにしたのだ。確かにアントーニョとの契約は切れてしまうが、やはり彼の望みを叶えてやりたかったのである。それにアーサーには一つ考えていたことがあったのだ。
「まぁ、まさか本気でそんなことをって思いましたけどね……」
 アントーニョは健気で一途な好青年である。もうアーサーを見限ってもいいはずなのに今回ですら見限ることはなかった。そう『見限らなかった』のである。菊はそれを見た。この目で今日。
「あのバカはアントーニョさんを家に雇い入れたんです」
 だんだんクライアントに対する言葉に聞こえなくなってきたがもう仕方がない。
「家に……?」
 さすがにベールヴァルドも驚いたようでメガネの奥の双眸が菊をじっと見つめた。
「えぇ。譲渡を認める代わりに、自分の仕事を手伝えと。秘書かアシスタントというところでしょう。給金も支払うから生活には困らせないとね。ちょうど、プロイツ社の方ではクビにされるそうでしたし、あの人、協調性がないから助手を雇っても逃げられてばっかりなんですよ」
 だから最近はずっと一人で仕事をしているようだが、雑用が多くて面倒がっていた。
「そ、それを受けたんですか、アントーニョさん」
 ティノが身を乗り出した。
「受けたんです。私は今日奴の家でお会いしました。これからもよろしぅ、なんて、きらきらした笑顔で言うんですよ! あのうれしそうな表情! 私は思わず呪いそうになりました」
 あえて誰をとは言わない。
「ってこどは、とりあえずは丸ぐ収まっだんでね?」
「ベールさん! なに言ってるんですか! これじゃあ、アントーニョさんが可哀想ですよ!」
 ティノは大分酔ってきているらしくベールヴァルドの肩を抱いて息巻いている。対してベールヴァルドは首を傾げた。「好ぎな奴といれんなら、幸せでね?」と小さく言う。
「ベールヴァルドさん! あなたも本当に可愛い人ですねぇ。あ、店員さん? このメガネの人にもう一杯ビールお願いします。あ、それから日本酒も」
 手を上げた菊は叫ぶように注文した。
「あ、僕もビールお願いしまーす」
 続いた二つの声にベールヴァルドはぎょっとしたように二人を見た。
「本田さん、ティノ、……おめたち、あんまり飲むと明日さ響くんでね……?」
 ベールヴァルドは酒が強いが、この二人はそれほど強いというわけではない。いつもよりハイペースで飲んでいたので心配したのだろう。しかし菊はもうストレスからの発散をアルコールに求める他なかった。これからアーサーのもとへ行くたびにあの善良なほほえみを目にするのだ。あのダメ紳士に騙されるように恋してる様子を見ているだけなんて辛すぎる。でも自分にどうしろと言うのだ。
「いいんですよ、酔わないとやってられませんよ!」
 菊は叫んだ。普段よりも強い調子で。
「そうですよ!」
 すっかりアントーニョに同情したらしいティノも叫んだ。夜はまだ長そうである。

<prev next>

back