事例2 信頼関係が破壊されたか理由を述べて答えなさい。

 本田菊は弁護士をしている。新司法試験だかなんだかしらないが合格倍率が上がってるのに当初より低いから云々言われているのではなく旧司法試験の狭き門をくぐってきた。運良く大手事務所に登録してそこで仕事を学んで数年、ようやく独立して最初に依頼を受けたのがあの残念なアーサー・カークランドだったのだ。最初は紳士だった。
 アーサーは不動産業をしているが顧問弁護士を持つほどの大きい会社を持っているわけではない。場当たり的に相談しているというわけでもないらしかったが、ちょうど先代から懇意にしていた弁護士が亡くなって困っていたところに本田弁護士事務所の看板を見つけたというのである。菊も民事事件(特に債権回収など)を専門に扱っていたため首尾よくアーサーの依頼をこなした。そうしたらなんというか懐かれたのである。若そうに見えるが菊はアーサーよりも随分と年上だ。悪い人でもないしとなかば弟のように思ってそこそこに付き合っていたらいつのまにか友人扱い。おまけに元ヤンにして相当粘着質な性質も判明した。
(うざい!)
 一言でいえばそうなる。アーサーは菊に元ヤン的粗雑な態度を取らないが、そんなことより薄気味悪い相談を持ちかける方が千倍も迷惑だ。いや、相談自体は仕事だから構わない。問題は仕事にすら引っかからないことを仕事の相談のように持ってくることだ。確かに相談料はもらうけれどこれは範疇外である。
 もちろん建物を立ち退かせたいというのならば話は早い。賃貸借契約は信頼関係が基礎にある。アパートだって見ず知らずの怪しい人間になど貸したりはしない。この人ならば安心だと思って貸すのである。アーサーの信頼がいかに一方的なものであったとしてもそうなのだ。アーサーはアントーニョだから貸した。これは事実である。だから別の人間が使うということは信頼関係の破壊。無断で第三者に借りた土地を使用させるとかそういうことがあれば、基本的に契約を解除することができるのである。アントーニョがどういう意図でギルベルトに建物を売ったのか(登記簿には譲渡担保とあるのだが、アーサーから聞いた話から察するにアントーニョがその意味を理解しているとは思いがたい)知らないが、それ自体が契約を解除する原因となりうる。
 更に言えばアーサーがアントーニョに最初恩着せがましく「農作物を売りたいって言うから貸した」というようなことを言っていたが、土地を借りる際にその使用目的を定めることはありうる。そして契約なのだからそれに従わなければならない。雑貨を売ることまでは最終的に許可したようだがスーパーにしていいとまでは言っていないのだからその点でも契約を解除できる可能性はある。もっともこちらは立証が難しい上に使用目的外の行為をされたからといって信頼関係が破壊されたのだと言えなければ契約は解除できないし、アーサーの様子とアントーニョの様子を見れば信頼関係が破壊されたなどと言うのは難しい気がするが。
 というように考えるべきことはいろいろとあるが別にそういうことを考えるのは難しくない。仕事である。立ち退かせるなら建物を所有するギルベルトに建物を利用するプロイツ社ともやりあうことになろうが、それでもいい。訴訟でもなんでもしてやれる。でもそうではないのだ。菊に持ちかけられたのは「恋愛相談」なのである。言われなくても分かる。アントーニョとの契約をなくして土地を返して欲しいなんてこと本当はあのバカ紳士はちっとも思っていない。それどころかどうしたいのか本人すら分かっていないのだ。ただ法律問題があるからと逃げこんで菊に相談してきただけ。
(本当に訴訟にでもしてやりましょうかね)
 菊は面倒臭いからそうしたかった。よくない考えである。よい弁護士というのは訴訟に勝つ弁護士ではないのだ。訴訟にならないようにするのがよい弁護士である。あーめんどくさいと思ったがアーサーは金払いだけはいいのだ。金持ちでもないと言っていたが実際かなりの資産家なのである。
「アントーニョ・フェルナンデス・カリエドさんでしたか――」
 うーんと菊は思案する。なんとなく聞き覚えがある名のような気がしていたのだ。果たしてどこで聞いただろうか。最近歳のせいかなかなか思い出せないことが増えてきている。うんうんと愛猫を腕に抱きながら考えているうちにパッと浮かんだ。
「そういえば、ヘラクレスさんが」
 ヘラクレス・カルプシは菊の友人である。いちおうどこぞの大学で哲学の教授をやっているらしいのだが、緩い人であるため学生が単位を取りやすい授業だと口々に言っているとか本人の口から聞いた。無類の猫好きで菊との出会いも猫と関わっているが長いので割愛する。そんなヘラクレスは菊を気に入ってくれているらしく飲みに行こうとかなにかと誘ってくれる。アントーニョという名を聞いたのも二人で飲みに行ったときだ。居酒屋で飲んでいるとヘラクレスの携帯に電話がかかってきた。彼は万事に無頓着なため席を立つでもなくその場で会話を始めた。菊はあまり聞いても悪いだろうと日本酒をすすって待っていたのだが、ヘラクレスはその時に「アントーニョ」と言っていた気がする。結局はばっちり聞いている自分に菊は少し申し訳ない気持ちになった。
 とにかくそうと分かれば『善は急げ』である。アントーニョという名はありふれたものでもないし地域的にも近いのだから知り合いの可能性は高い。違ったら違ったで謝ってこちらが飲みにでも誘ってやればいいだけの話だ。いきなり見ず知らずの人間を尋ねなければならない(しかも弁護士としてでもないのだ!)よりはワンクッション置いて誰かから話を聞けるのならばそうしたい。菊は白い携帯をスーツのポケットから取り出してヘラクレスに電話をかけた。今の時間ならば講義はないはずだ。
『菊、どうしたの? 電話してくれてうれしいけど、珍しい』
「あぁ、ヘラクレスさん。忙しい中、すみません。つかぬことをおうかがいしますが、ヘラクレスさんの知り合いに、アントーニョ・フェルナンデス・カリエドさんという方はいらっしゃいませんか?」
 長々と口上を言う必要もないだろう。菊は単刀直入に尋ねた。電話の先は数秒黙っていたが、さほど間を置かずに不思議そうな声が返ってくる。
『あれ、菊、アントーニョのこと知ってたっけ』
 ビンゴだと菊はガッツポーズした。テンション低めの菊にしては珍しいことである。
「知っていたというか、最近知ったと言うか……ヘラクレスさん、今夜空いてます?」
『ん、なに? 飲む? いいよ、空けるから』
「え、空ける? いえ、空いていないのでしたら無理にとは」
『菊が優先。じゃあ、いつもの店に、八時でいい?』
 あいかわらずのヘラクレスからの親愛を感じた。どこを気に入ってくれているのかは分からないがありがたい友人である。しかしアントーニョという青年の話を聞くためだけだというのに申し訳がない。今日は話を聞く礼に自分がおごろうと菊は決めた。

 待ち合わせの五分前に菊は店に来ていた。ヘラクレスはゆったりとした男で時間にもルーズなようだが、菊と会うときはだいたい遅れることがない。おそらく菊が時間に細かいことを知っているためだろう。今日も八時ちょうどにヘラクレスはやってきた。
「菊、あいかわらず早い」
「いえ、お構いなく。すみません、急に呼び出してしまって」
「構わない。なに、アントーニョのこと?」
 ヘラクレスはこのまま座らずに話しそうだったので菊はともかく席に着くことを勧めた。万事が緩やかなヘラクレスだが、意外としっかりしており鋭い。直前にアントーニョの話を出していたから今日の目的はちゃんと察していたようである。いつもならば最初は生中だと言うのに今日はウーロン茶を頼んだことからもそれはうかがえた。酔う前に話をすませようと考えているのだろう。菊も同じものを頼んだ。
「実は、ある人から依頼を受けまして――アントーニョさんが借りている土地のことで」
「土地の話なら知ってる。……アーサー・カークランドだっけ?」
「え、知ってるんですか?」
「アントーニョが話してた。アーサーって男が土地を貸してくれたって……この辺で土地を持ってるアーサーって男は、カークランド家の長男くらいだと思って」
 それならば話が早いと思って菊は頷く。それにしてもヘラクレスは記憶力も察しもいいものだと改めて思った。緩い感じに騙される学生も教授も多いが本当はヘラクレスという男は相当に頭が切れるのだ。
「アーサーってのは詳しく知らない。でも、アントーニョが、ギルベルトに建物を譲るって言ったから、やめた方がいいって言ったんだけど……、もしかして」
「ええ。ギルベルトさんという方に建物を譲っているようです」
 ヘラクレスの眉毛がひそめられた。日頃菊と会話している関係でヘラクレス自身も法律に少しは明るい。法と哲学というのも関連しない分野ではないので何度か議論したこともあるくらいだ。
「それでさすがに、優しいアーサーって男も怒ってるんだ?」
「優しい!?」
「あれ、違った? アントーニョはそう言ってたけど」
 優しいだなんてどんな誤解だと菊は思った。
「親しくもない自分なんかに土地を貸してくれて優しいって」
「あー……」
(アーサーさんは親しいつもりでいるみたいですが、向こうはそう思っていないみたいですよ)
 心の中で語りかけて、やっぱり残念な男だと菊は思った。
「アントーニョ、貸してくれてありがたいってずっと言ってた。……販売所も大きくして賃料をたくさん払えるようにして、恩返ししたいって」
「それ、本当ですか?」
 菊は首を捻った。どうやらアントーニョという青年はなにも考えずただ自由に商売をしているというわけではないらしい。むしろアーサーのためとまでは言い過ぎかもしれないが、そのくらいの気概であるように思われる。考えてみればアントーニョはアーサーに「恩返し」という言葉を使っていた。あれはリップサービスみたいなものだろうと思っていたが、本心なのかも知れない。
「アントーニョさんって、嘘つくようなタイプではない、ですよね」
「うん。単純だから。でも、いい奴……菊の次くらいには」
「ありがとうございます。すみません、こんなことのために呼び出してしまって」
「いい。電話より会えてうれしかったから。……そろそろ、飲む?」
「そうですね」
 ヘラクレスが手を上げて店員を呼んだ。今度こそ生中だ。
 一瞬、奇妙なシナリオが頭に浮かんだ。しかし「まさか!」と菊は自分の考えを打ち消した。まだ残っていたウーロン茶を飲み干す。アーサーは正直に言って変な男だ。まず根暗だしそのくせなんだかナルシストっぽい。執着の仕方が気味悪いし性格も悪くて友達はいない。弟のことも知っているが「菊、兄さんをなんとかしてくれ!」と言われた。妖精と魔法は実在すると信じているし男のツンデレなんてうざいばっかりだ。仕事抜きなら絶対に関わりたくない。けれども。
「菊、飲もう」
 すぐに届けられたグラスを片手にヘラクレスが急かす。頷いて菊もグラスを合わせた。カンと乾いた音が響く。アルコールが脳に、空っぽの胃にすぐに染み渡った。酩酊していく頭の片隅で菊は思う。
 けれどそういう菊の知るアーサーの事情を抜いて客観的に考える必要がありそうだ――と。

 その日菊は洒落た喫茶店にいた。会って欲しいと頼んだらこの場所を指定されたのである。先に頼んだアイスティーがすでになくなりかけていた。待ち合わせの時間からすでに二十分。ヘラクレスと違い菊に合わせてくれるはずなんてない男がやってきたのは、やっとその頃であった。
「遅くなってすまないね、えーと、本田菊さんだっけ?」
「そうです。あ、名刺どうぞ」
 ビジネスライクに名刺を差し出すと「お兄さん名刺なんて持ってないんだよね〜」とブロンドの男は笑った。
「ヘラクレスからいちおう聞いてるとは思うけど、フランシス・ボヌフォワだ」
 優雅な仕草で椅子に座ると、フランシスは店員を呼び「カフェ・オ・レ一つ」と注文して可愛らしい店員に向かってウインクした。菊の周囲にはいない変わった男である。
 ヘラクレスから話を聞いた後に菊はもう少し情報収集する必要があると考えた。普段の依頼ならば相手方の周囲とコンタクトをとるということはそれほどしない。しかし今回は弁護士というより友人としてという状態なのだ。まぁ、金はもらうが。
「詳しいことは聞いてないけど、会社のことで話があるって?」
「えぇまぁ、そんなところです」
「法にひっかかるようなことはしてないつもりだけど」
「だといいですね。そういう話ではありませんから」
 しかしながらいきなり友人の恋愛について見ず知らずの人間を呼び出して話を聞くなんて不審すぎる。ヘラクレスには仕事上の話らしく言っておいてくれと頼んでおいたのだ。アントーニョのみならずフランシスとも知り合いだという彼に菊は心から感謝した。「菊のためなら」と取り次いでくれたのだから。
 そのため菊は二三、会社のことを尋ねた。どのような実体なのか。どのような営業をしているのか。なんのために聞かれているのか分からないフランシスは、しかし流暢に答えてくれた。スーツも着ていないし微妙に胡散臭いと思ったが法に触れることはなさそうである。聞いたことを手帳に書き留めながら菊は溜息をついた。どうしてアーサーのためにここまでしなければならないのだろうか。自分がアーサーだったら「お前のためじゃないんだからな!」とか言いたい気分である。ツンデレではなく本心だが。
 さて話を聞いてみたところプロイツ社については事前に調べた通りであった。より細密に言えば代表のルートヴィヒがメインで仕事を取り仕切り、役員のローデリヒ・エーデルシュタインという男性とエリザベータ・ヘーデルヴァーリという女性がそれを手伝っている。フランシスもアントーニョも名ばかりであまり仕事はしていないようだ。出資しているのはギルベルトでこれは役員ではない。上場している会社ではなく身内経営的なところはあるらしいが、業績は悪くない。
「ところで、今は仕事中ではないのですか?」
 カフェ・オ・レを持ってきた店員にまたウインクしたフランシスを微妙な目で見ながら菊は尋ねた。会う時間は会社の就業時間が終わったころでも構わないとヘラクレスに菊は言ったのだ。しかし向こうが夜は忙しいからなどと言って昼間の時間帯を指定してきた。別に菊は今のところ急ぎの案件もないから構わないのだが。
「お兄さん、名前だけだからね〜。ま、本業は愛の伝道師みたいな。菊も可愛いからお兄さんの好みよ?」
 どんな職業だと思ったがスルーすることにした。なんでも突っ込んで話を聞けばいいというものではない。しかしフランシスは本当に名ばかりの役員らしい。
「言っておきますけど、私はあなたより年上です。では、アントーニョさんという方は?」
「愛に年齢は関係ないぜ? あぁ、アントーニョなら俺よりも役に立たないな」
 友人らしいというのにひどい言いようである。
「それでよく役員報酬もらってますね」
 菊が溜息をつくとフランシスはくつくつと笑った。
「アントーニョは最近、デスクワークが無理だからレジ打ってるよ。それにまぁ、あの土地を使えるのはアントーニョのお陰だしねぇ」
 その辺の権利関係はさすがに分かっているらしい。役員がレジ打ちってアルバイトみたいなことをしてるのか。菊は再び脱力した。しかしアーサーその他の関係者から話を聞いたところによれば、アントーニョにはそれが似合っているような気もする。勝手な想像だが。
「アーサーだっけ? よくアントーニョなんかに貸したよな……ってもしかして、弁護士ってあの土地のことで?」
「おや、察しがいいですね。私は、あの土地の所有者のアーサー・カークランド氏の代理みたいなものです。まぁ、多分」
 実際は今は契約関係にはないのだが似たようなものである。
「え? ちょっと待ってくれないか? なんだって? アーサー・カークランド? あの?」
 フランシスは思わずといったように席を立った。テーブルが揺れてカップの中のカフェ・オ・レが波打つ。
「ご存知ではなかったんですか」
 アーサー曰く元ヤン時代にやり合った相手だ。名前を知っているのだからてっきりそのことを知っているのかと思ったが違うらしい。
「うわ、知らなかった。あのアーサーだとは……アントーニョ、絶対騙されてる」
「騙されてる、ですか」
「いやだってね、アントーニョは、土地を貸してくれた奴のことを『いい奴だ』って言うからね。まさか、あのアーサーをそう言うとは思わないじゃない? お兄さんもすっかり騙されたわ」
 多分自分でも思わないだろうなと菊は思った。さすがにクライアントらしき人間への暴言に同調するわけにはいかないので黙っていたが。
「アントーニョさんは、アーサーさんに恩義を感じていたみたいですが」
「恩義! まぁ、恩義って言うかね〜、お兄さん、あれは恋だと思ってたけど、てっきり」
「! 詳しくおうかがいしても?」
「だって、アーサーは自分を助けてくれたとかありがたいとか優しいとか、そんなことばっかり言ってたし。会いに行ったらどうなのって言っても『忙しいんやから邪魔したらアカンやん』なんて照れた風に言うし。あと、そうそう、開業祝いに送り主の書いてない花束が置いてあったんだけど、それ見たら『きっとアーサーや!』って、目を輝かして言うわけよ?」
 えーマジでーと菊は女子高生っぽく思った。そりゃ騙されてると言っても間違いではないだろう。とりあえず菊は仮定として以下のような事実を即座に頭の中で構築してみた。
 喫茶店にストーカーまがいに通いつめたアーサーは互いに親しくなったつもりでいた。しかしアントーニョは『親しくもない相手に』とヘラクレスに語っている。ここのニュアンスは微妙だが考えてみればいい意味と取れなくもない。その場合はこうだ。きっと自分はともかく「相手からはそんなに親しく思ってもらってなんていないだろう」という考え方。だからそういう相手が貸してくれたのだから『優しい』。さて親切にしてくれたアントーニョにアーサーが惚れたように、アーサーに親切にしてもらったアントーニョは好意を抱いた。それを本人が意識していたのかどうかは分からないけれど。そして恩義に応えるというかその好意から事業を大きくしようとしたのだ。アーサーの語った言葉によればアントーニョは自分が満足な賃料を払えていないらしいことを気にしていた。そこから考えると事業を大きくさせれば賃料をもっと支払える=アーサーへの恩返しになると考えたのだ。おそらくそこに裏表はなくて純粋に好意からした行動だということになる。
 だがしかし本当にこうなのだろうか。菊は首を捻った。そういえばアーサーがギルだかなんだかと気にしていた男のこともある。
「最後にひとつだけ聞きたいのですが」
「ん、なにかな?」
「ギルベルトさん、という方について。どうして、アントーニョさんから建物を譲ってもらって事業を?」
「あー、まぁなんていうか、お兄さんもギルベルトもアントーニョも、昔なじみっての? ま、悪友なわけ。で、アントーニョがいい土地安く借りてるって聞いて、なにかしようぜって言い始めて。どうせ、それ口実にしてエリザベータちゃんを誘いたかっただけなんだろうけどね。誘ったはいいけど、ローデリヒがついてきてるって時点で意味ないしね〜」
 フランシスは楽しげに笑っている。知らない人の人間関係についていきなり整理しろというのもアレな話だが、ギルベルトというのはアーサーが心配したようにアントーニョが好きなのではなくエリザベータという女性が好きなようである。そしてそのエリザベータはローデリヒという男性のことが好きか恋人なのだ。
 菊は人間関係を頭に浮かべて頷いた。しかしこれ以上は判然としない。やはり本人に会うしかないと悟った。
「なんていうか、その、あなたもせめてお店くらい手伝った方がいいと思いますよ」
 とりあえず気になったことだけ特に他意なく最後に言ってみた。デスクワーク向きではなさそうだが、アントーニョよろしくレジ打ちくらいはできそうなものである。
「まぁ、それはお兄さんも言ったんだけどね〜、アントーニョがダメだって言うから」
「アントーニョさんが?」
「そ。フランシスみたいな女たらしは店に置いておけへんって」
 それは。
(アーサーさんに言った言葉――)
 菊は複雑な気持ちになって空を仰いだ。

 その日は快晴だった。雲一つない青空。噴水の前で待ち合わせをした青年はヘラクレス曰く「遅れてくるのが普通」である。フランシス以上に待たされることを覚悟をして出てきた菊だったが、予想外に褐色の肌の青年の到着は早くて待ち合わせちょうどだった。
「えっと、アーサーの代理人、やったっけ?」
「はい。本田菊と言います」
 名乗って菊は深く頭を下げた。
「知っとるーって聞いたけど、名乗っておくわぁ。アントーニョ・フェルナンデス・カリエドや。ヘラクレスの友達なんやてな。よろしゅう」
 アントーニョはそう言って笑った。なるほどアーサーを虜にした笑みというのはこれなのかと菊は頷く。明るい太陽の下でほほえむ姿は実に愛くるしかった。歳のせいかもしれないが、撫でてやりたいような気持ちになる。出された手を握るとブンブンと振られた。
「んで、アーサーがどないしたん? この前電話くれた時は、なんや様子が変やったけど」
 今回はアーサーの代理人であるという風に話を通してくれるようヘラクレスには頼んでおいた。毎回毎回付きあわせてしまって申し訳ない限りである。多分これで最後だからと丁寧に頭を下げた(電話口でなので相手は分からないが)のだがやはり「菊のためなら」と返ってきた。本当に頭が上がらない。詫びにと今度ヘラクレスが行きたがっていた某巨大テーマパークに誘ったら喜んでくれたがそれでは収まらない恩である。
 恩と言えばヘラクレスよりも今は彼アントーニョだ。クライアントのアーサーは病です、恋の。なんて言えるわけもないし菊は困った。どうしたというのは難しい言葉である。だいたいどうしたいのかも分からないし。というかこっちが聞きたいのだ。あなたがアーサーさんを好きだなんて嘘ですよねって。アントーニョは穏やかで優しそうな青年だった。焦げ茶の柔らかそうな髪に緑色の済んだ瞳。太陽に映えるほほえみ。褐色の肌にそれなりの長身にも関わらず意外と腕や首は細い。こんなに善良そうな青年があのアーサーを好きだなんて思いたくない。
「えーっと、その」
「代理人やって聞いたけど、代理人ってなんだか、あんまりよぅ分かってへんねん。堪忍なぁ。アーサーの友達なん? それとも――」
 耳を疑う言葉が聞こえたので菊はぎょっとした。水音が背後でしているから聞き間違いだろうかとすら思う。昼間高い太陽の下でどうしてこんなことを話しているのだろうかとも思った。
「な、なんですって?」
「ん? やから、恋人かなんかかなぁ思て」
(うわ)
 いろいろな意味で思った。一つはまずアーサー・カークランドの恋人に間違われるなんて冗談でもゴメンだから。友人でも否定したいというのに。そしてもう一つは。
(なんで、そんな顔……)
 はっきりと気づいてしまったから。菊をアーサーの恋人ではないかと尋ねた時にアントーニョの表情は明らかに変わった。寂しそうな色をたたえた緑の瞳を見て菊にはすぐに分かったのだ。なんでとかそういう理屈ではない。アントーニョはアーサーが好きなのだ。多分本人は表情まで意識していない。いつものほほえみだと思っているのだろう。それがますます胸をつくのだ。衝動的に菊は自分より高い場所にあるアントーニョの頭を撫でた。なぜだかそうしてやるのが年長者の努めのように思えてならなかったのだ。きょとんとした緑色の瞳に向かってほほえみかける。
「アーサーさんは、なかなかあなたに会いにいけないことを気にしていましたよ」
 事実と少し違うが菊はそんなことを言った。まぁ会いたがっていたのは事実だし。
「仕方ないやん。忙しいんやろぅ? えぇよ、気にせんでもって、言うておいてな」
 なんて優しい青年だろう。ちょっと泣けてきた菊である。
「あ、恋人なんかじゃありませんよ。というか、あの人に恋人なんて見たことありません」
「……ホンマ?」
「えぇ、そうです」
 言い聞かせるように言うと、緑の瞳が明るくなった。本当に好きなんだと菊は思う。今すぐここであのダメ紳士の悪口でも言ってしまいたかった。アーサーなんぞのためにと頑張って働いているのにあちらはわけの分からない嫉妬とくだらないプライドがあるだけ。アントーニョは会いたいのだろうに迷惑だろうからとそんなことは決して言わない。健気すぎる。今時ここまで健気なヒロインだってそうそうはいないだろう。
 思えば、たといよくしてくれたからとて昔勤めていた喫茶店に通いつめるなんて妙だったのだ。きっとアーサーに会いたかったのだろう。もしかしたら会えるかもしれないと思ったのだ。そして会えなくてもマスターを介してその様子を知ることができる。考えれば考えるほど健気だ。言われた通りにフランシスを店へ近づけないのだって同じ。だんだんと菊はアーサーに腹がたってきた。
「まだ、時間大丈夫ですか?」
 しかしアントーニョがアーサーをそれでも好きだと言うのならば自分は手を貸すべきなのだと菊は思った。このためだけにアーサーのくだらないストーカー譚を聞き、相談を受けていろいろな人から話を聞いたのだ。そうに違いない。動いたのはお金のためではなかったのだ。いやもちろんアーサーからはお金をもらうつもりであるのだが、これは副産物である。
「ん、平気やで」
「では、ここで少し待っていてください」
 菊はふわふわの髪から手を離す。それからふたたびにっこりと笑って携帯を手に歩き始めた。素直な青年はきっとそこで待っていてくれることだろう。ほとんど見ず知らずのような自分にかけられた言葉だとしても。
 アントーニョはいつも遅れるとヘラクレスは言っていた。ヘラクレスは嘘をつかない。だからきっとそれは間違いではないのだろう。けれど今日はそうではなかった。その理由は簡単なことだったのだ。菊がアーサーの代理人だと言ったから。アントーニョは彼に関わることだと思っていたから遅れることなく来たのだ。
「あ、アーサーさん? 今すぐに出てきてください。……えぇ。え? 仕事? いいからさっさと来なさい。会いたくないんですか、アントーニョさんに!」

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