アーサー・カークランドの家はもともと資産家で多数の土地を有していた。父親が所有する土地の多くはアパートだの賃貸だので運用されており、そうした事業を手伝うという形で成人したアーサー自身も関与をしている。それまでなにか問題が起こったことは一度もなかった。そんな順風満帆な人生を歩んでいたアーサーだが、まだ成人して間もない頃に一家の大黒柱である父親を亡くしてしまう。相続についてはアーサーがアパート経営などにも関わっていたことなどを受けて、母も弟のアルフレッドも異論なくアーサーが土地を相続することを認めてくれた。そこまでも問題はない。今までは父親がほとんど引き受けていた事業を急に引き継ぐことになって数年ほどアーサーは慌しくしていた。そんな折に出会ったのがアントーニョ・フェルナンデス・カリエドである。
彼は農業を営む両親の手伝いをしており、それだけでは足りないからといくつかアルバイトみたいなことをしていた。そしてアントーニョにとっていくつめかのバイト先である喫茶店で彼が給仕をしている最中に二人は出会った。
「お客さん、えっらい暗い顔しとるんやけど、気づいとる?」
アーサーには友達らしい友達はほとんどいないのだが、その数少ない友人には雨男と称されている。その異名に相応しく本当に雨でも降り出しそうなどんよりとした表情であった。無論本人の知るところではない。
給仕にそんなことを指摘されてアーサーは苛立った。さきほどアパートの賃貸料を滞納している住人とやりあってきたのだ。向こうは「どうせ不況で土地の値段だって下がってるんだから賃料も下げるのが当然だろう」などと意味の分からない理屈をこねてきた。本当に面倒である。土地の値段が下がっているのは事実だが、それ故に売り買いでの利益は上がらないしむしろ不況だから賃料を値上げしてやりたいというのがアーサーの正直な気持ちだ。
(くたばれ、ジジィが!)
今でこそ紳士然としているが、アーサーは若い頃は地元で名を知らぬ暴れ者――要するにヤンキーであった。相当な無茶もしてきたのでときおり地が出る。それを抑えての交渉で余計に苛立ちも募るというもの。
「うるせぇな……てめぇになんか関係があるのか?」
そのようなわけなので勢い出てくる言葉が粗雑になったのもアーサーからすれば致し方がないというもの。
「大ありやん! せっかくのコーヒーが台無しやろ?」
しかしそんなことは意に介さずに顔を覗き込んでくる明るい緑色の瞳にアーサーは怯んだ。数秒経ってからやっとおかしいと思う。
「って待て! 俺が頼んだのは紅茶だったぞ!?」
「えー……あ、そうやった。あかんなぁ、すっかり間違えてもぅたわぁ」
確かにカップの中にはどす黒い液体がなみなみと注がれている。アーサーは自称英国紳士で揺ぎ無い紅茶派であった。間違えたというのに青年は笑顔を見せる。子供のように無邪気なほほえみだった。
「せやけどな、美味しいんやで、マスターのコーヒー。これ、まちごうた分飲んでもかまへんやろか」
俺が知るかとアーサーは言おうと思ったのだが、太陽のようなほほえみを見て言葉をなくしてしまう。黒いエプロンがあまり似合っていない給仕の青年は急になにか思い立ったように手を叩いた。
「せや! サービスにしたるから飲んだってー、捨てられるんもったいないわぁ。あ、すぐに紅茶持ってくるから待っとってなぁ」
ぽかんとするアーサーをよそに青年は勢いよく舞い戻っていく。あ、おい、と呼び止めかけてアーサーは自分で驚いた。いや間違われたのだからもっと自分は苦情を言ってもいいはずだ。自分にそんなことを言い訳してアーサーは黒い液体を胃の中に注ぎ込む。
(苦い)
紅茶派というよりは苦いのが好きでないだけかも知れない。
最悪な気分であったためによく知りもしない喫茶店に入ったのだが、予想以上にここは閑散としていた。というか人がいない。時刻は午後三時。絶対にはやっていない店だ。静かで助かるとは思えどあの陽気な青年には似合わないのではないだろうか。なるほどやっと客が来たと思えば辛気臭い顔だったのだから気になったのだろう。アーサーの中にあったさきほどまでの苛立ちは毒を抜かれたように消えていた。そして紅茶をというよりも青年をアーサーは無意識に待つ。
「遅なりましたぁ。レモンかミルク、お客さん入れますん?」
マスターとやらにでも言われたのか怪しい標準語で喋る褐色の肌の青年に思わずアーサーは笑った。
「いまさら給仕らしくしてどうすんだよ。普通に喋ればいいだろ」
「あ、えぇの? いやー、さっきマスターに言われてもうたん。お客様には敬語やってなぁ。これ、いつも言われててん」
陽気な笑顔にアーサーの心は和んだ。
「言われてるんなら直せよ」
「せやかてなぁ、染み付いとるんはしゃあないやん。で、ミルクかレモン、必要やったら用意するで」
「一緒に持って来いよ! とりあえず、ミルクだな」
「かしこまりましたぁー」
ぱたぱたと戻ってミルク壺とスプーンをお盆に乗せた給仕が戻ってくる。
「で、お客さんなにかあったん? そないに暗い顔して。笑顔が一番やでぇ? 俺なんてな、バイトよぅクビんなるけど、仕方ないなぁ思てまた新しいの探すんよ。笑顔やとまた雇ってくれるしぃな。で、どうせまたすぐクビんなるんやけど」
言っている内容は極めて不憫だというのに確かに青年は笑顔を絶やさない。そんなことを聞いているとアーサーは自分の悩みがくだらないもののように思えてきた。バカバカしい。ミルクをかき混ぜて今度は熱い紅茶を喉に流し込む。
「貧乏やーゆうわけやないけど、両親二人に弟の四人家族、トマト農家だけじゃいまどきやっていけへんねん。や、トマトは美味いんやけどなぁ、お客さんトマト食べはる?」
コーヒーが自慢のように青年は言ったが紅茶もなかなかのものであった。今度からはロイヤルミルクティーで頼もう(つまり先にミルクを入れておいてもらおうということである)と思いつつアーサーは飲み干したティーカップをソーサーに乗せる。
「いや、別に、特には……」
「あーそうなん? やっぱりなぁ、もっと売れるもん作らんと。食べるんは困らへんけどな! 毎日トマトばっかやでぇ、お米欲しなるわぁ。しっかしトマトもなぁ、どっかで売れる場所でもあればえぇんやろうけど」
売れる場所、と聞いてアーサーは反応した。
「お前、名前は?」
「ん? 名前? アントーニョや。アントーニョ・フェルナンデス・カリエド。えぇ名前やろ? お客さんは?」
「アーサーだ。アーサー・カークランド。アントーニョだな……明日もいるのか?」
「せやなぁ、クビにされへんかったらおるよ」
クビにするほどアントーニョが接客を行う店だとは思えないのだが、一応そのことは気に留めてアーサーは頷いた。
「明日、また来る」
「ホンマ? いやぁ、ありがたいわぁー、お客さんみたいに身なりのえぇんがいてくれはったら、もうちょい店も繁盛するかもしれへんしなぁ」
「お客さんじゃなくて、アーサーだ」
緑の瞳を見て言うとアントーニョは二三回まばたきしてほほえんだ。
「ほんなら、明日も待ってるで、アーサー」
にこにことほほえむ顔に満足して、アーサーは財布から千円札を取り出してテーブルに乗せた。
「釣りはいらねぇから、とっとけ」
アントーニョは首をかしげた。少ししてから「チップみたいなもん?」と尋ねられたので曖昧に頷く。迷惑がられるかと思ったが、アントーニョはふわっとほほえむと「おおきになぁ」と返した。アーサーは満足して店を出る。
人生なにが起こるか分からない。
以来アーサーはたびたびアントーニョのいる喫茶店を訪れるようになった。たびたびと言うよりも、予定がなければほぼ毎日のように。ある時店に言ったらマスターしか珍しくおらず(アントーニョはその日は休みであった)、仕方なしに彼にロイヤルミルクティーを頼んだところ「アントーニョがいなくて残念でしたね、お客さん」と言われた。あまりにもバレバレのストーキングである。しかし当のアントーニョはまったくそのようなことは思わないらしくアーサーが来るたびに笑顔で迎えてくれるばかりだ。「アーサー、よぅ来てくれたなぁ」などと言って。
デスクワークばかりのアーサーと違って両親の農作業を手伝っているというアントーニョの肌はこんがりと焼けていた。女のように特別に細いわけでもない。けれど緑色の瞳がこちらを見つめると、太陽のようなほほえみが向けられると胸が高鳴る。おまけに眩暈もする。重症だった。毎日彼と会うことばかりを考えて日々を過ごしている。最近弟には「君、変だよ」と言われたが気にしない。
「アーサー、たまにはコーヒーも頼んだらどうや?」
もう慣れたようにアントーニョが話しかける。アーサーは満足して紅茶を口に含んだ。
「だから俺は紅茶が好きなんだよ。……今、暇みたいだよな。その――コーヒー頼むから、お前もここで飲んでいったらどうだ? か、勘違いするなよ、話してるときに立ってられるのも……紳士としてどうかと思うだけだ!」
「ホンマ? おおきにぃ。んならマスターに言うてくるわぁ」
常連客であるアーサーの視線がどこを向いていようとも有難い客であると認識しているらしく、マスターはアントーニョがアーサーと話していることを黙認していた。空気の読めるマスターで有難い。自分用のコーヒーを持ってアントーニョが戻ってきたときには見慣れた黒いエプロンが外されていた。聞けばマスターが少し休憩して構わないと言ってくれたらしい。
「いやぁ、やっぱりマスターのコーヒーはえぇなぁ。紅茶は飲んだことあらへんけど、美味しいん?」
「あぁ。コーヒーに力を入れる店は紅茶が今ひとつなことも多いが、ここのは中々だな」
「せやから、アーサーもここが気に入ってるん? 毎日来とるもんなぁ」
それはお前がいるからだとは言えずアーサーはなんとなく頷いた。
「と、ところで、最初に会ったときに、お前――農作物を売るような場所が欲しいとか言ってなかったか?」
「うん? あぁ、そんなん言うた気もするわ。まぁでもしゃぁないんよ。俺んみたいに後ろ盾もなんもないのに土地貸してくれるーなんて、どこにもいぃひんもん」
「いる」
「おらんて! それともなんや、アーサー、貸したってくれるん? なんて――」
「あぁ、俺が貸してやる」
アントーニョは驚いたように緑色の瞳をまたたかせた。それから首を傾げる。驚いた顔も可愛いなと思いながらアーサーはビジネス鞄から書類を取り出した。
「お前には言っていなかったが、俺は不動産業みたいなことをしている。先代が土地持ちでな、アパートを建てたり、農家と契約していたりしているんだ」
最初にアントーニョから話を聞いたときに思っていたのだ。彼が望むのなら土地の一つや二つ貸してやろうと。不況で空いている土地は少なくないし放置しておくよりは少しでも使用料が入れば助かる。利害は一致しているのだ。そしてなによりもアーサーはアントーニョの力になりたかった。もっと言えば彼になにかをしてあげたい。アーサーは学生時代から独りでいることばかりだった。そんな孤独に沈んでいた心を引き上げてくれたアントーニョになにか返したい。そう考えてなにか良さそうな土地はないかと調べた。話しているうちにアントーニョの住まいはここからそう遠くないことは分かったし、販売所としてやっていけそうな土地も見つけてある。
「はぁー……アーサー、ホンマにお金持ちなんやなぁ」
不動産を扱うからといって金持ちとも限らないのだが。
「別に、それほどでもない。で、だ。もし、家の近くに農作物の販売所でもというのなら、ちょうどいい土地があって――か、勘違いするなよ? 別にお前のために探したんじゃなくて、たまたま、お前のことを思い出して、だな」
「そない簡単に言うけどなぁ、賃料やっけ? そんなんきちんと払えるか分からへんし……」
「月1万。それでいい」
「そないに安くていいん? あ、それに販売所ーって言うても、それ建てるんお金かかるやろぉ?」
「そのくらいの金は貸してやる。どうだ、アントーニョ。その、お前だから、特別に――」
お前のためではないというようなことを言いつつ最後の方は本音が漏れているアーサーである。緊張のためか喉が乾いたので残っているミルクティーをあおるように飲んだ。今日も美味しい。対面するアントーニョは首を傾げて思案顔になった。確かに即断できるような内容ではないだろうとアーサーも思う。けれどそのような話を持ち出しても不審にはならないだろう(とアーサーは思う)程度には親交を深めたつもりだ。伊達に毎日通っていたのではない。
「返事はいますぐでなくても」
「せやな、やってみるわ!」
「早っ! お前、ちゃんと考えてるのか!?」
「考えとるよ。アーサーがそこまで言うてくれるんやから、なんとかなるかなー思てん」
あまりにも楽観的で呆れたがアントーニョと契約を結べばこれからも会うことは可能なのだ。気が変わらないうちにとアーサーは書類を広げた。契約書にサインをさせればこっちのものだ。なんだかそれだけ聞くとあくどそうだが、別に変な契約を結ばせるわけではない。土地代が現金で支払えなければ体で払ってもらうとかそんなことも書いていない。ちょっと書きたかったがそんなことはしていないのだ。
「印鑑なんてないよな。拇印でいい。名前と、ここに拇印だ。あー、まず契約書はちゃんと見ておけよ。変なことは書いてないからな!」
「ふんふん……月額1万で……土地ってどこなん?」
「これが、土地の登記の謄本だ」
見せてやったがアントーニョは眉間に皺を寄せたと思うとおおらかに笑った。
「あかん、アーサー。ちっとも分からんわ」
登記や謄本という言葉すら分かっていない可能性もある。しかし別に自分は騙すわけでもないのだからきっちりと知っておかなければならないということもあるまい。すべて自分がなんとかしてやればいいのだ。
「……だろうな。まぁいい。ここの住所だけでも確認しろ。あとここ、権利者ってあるだろ?」
「アーサー・カークランド――ホンマにアーサーの土地やんなぁ」
あまりにもほのぼのと言うのでアーサーは心配になった。自分だからいいがもし誰かと契約を結ぶときにこれで大丈夫だろうか。心配になったので少しでも土地のことや契約のことを説明してやろうと思った。
「あぁ。サインしたな? よし……お前の仕事が終わったら、うちに来い。詳しい話もそこでしてやる。今日は何時までなんだ?」
「閉めるんはマスターの気分次第やからなぁ。多分、八時と違う?」
「じゃあ、その頃にまた来るから、待ってろよ」
逃げるなという意味で念押ししてみたがアントーニョは屈託なく笑って頷いただけだった。
その夜アーサーとアントーニョは書面で正式に契約を結んだ。説明してはみたもののアントーニョは「むずかしゅうて分からんわぁ」と言うので結局ままならなかった。仕方なしにアーサーは建物の代金や地代についてのことと振り込むべき口座(本当は手渡しでもらいたかったがさすがにそこまでは言えなかった)だけを懇切丁寧に教えた。その際には「お前が農作物を売りたいっていうから貸してるんだからな」というような恩着せがましい感じのことを言ったがアントーニョは軽く頷くばかりである。
アントーニョが働いていた喫茶店を辞めてしまったため恒常的に会えなくなってしまったことはアーサーにとって誤算であった。販売所にと建てられたオシャレな建物が完成してついに開業するという祝いのときには行ったのだが、アントーニョの周りを友人らが囲んでいたのでおいそれと近づけなかった。彼の友人というだけならいいが、アーサーがヤンキーの時代に何度か競った犬猿の仲であるフランシスがいたのには仰天した。まさかと思うが考えてみれば地域はほぼ同じ。世間は狭いのだ。だから結局花束だけ置いて帰った。後日アントーニョから「開店祝いありがとな、アーサー」と簡単な礼状が届いたので、アーサーはそれを額縁に入れて飾り弟に大層気味悪がられた。
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「いえその件はもういいです。というか、お二人の出会いを聞いているわけではありませんから」
「そう言うな、菊! 誰も聞いてくれないんだ」
「それはそうでしょうね……で、その辺のストーカ……経緯はともかく、アントーニョさんと契約を結んで、それでどうなったんです?」
菊に急かされるようにアーサーはまた口を開いた。
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アントーニョが店を経営するようになって数カ月、アーサーはまだ顔を出せていなかった。というかタイミングが分からない。世話になったからともはや本当の常連と化していつもの喫茶店に行くたびに「まだアントーニョと会ってないんですか、お客さん」とマスターに言われてしまう。聞けばアントーニョは自分をクビにしないでいてくれたマスターに恩義を感じているらしくたまに来ては近況を報告しているのだと言う。
「アントーニョは、お客さんが忙しいだろうってんで会いに行かないんですよ」
不動産業は金持ちなどと即断する辺りただでさえ世間に疎そうなアントーニョらしい。こちらにも来ないということはなんだか知らないが忙しいのだろうと思っているのかも知れない。しかし忙しくなんてないと言えば「会いに来て欲しい」みたいで愚かだ。それでもマスターにそのとき伝言を頼めばよかったのだと後でアーサーは後悔する。程なくして客の来ない喫茶店は不況で潰れてしまった。
アーサーがますますぐるぐると悩んで半年。やっと販売所に足を向けられたアーサーは驚いた。奥様や女の子で溢れかえっていることもそうだが、いつのまにやら農作物ならざるものが大量に並んでいたのだ。
数ヶ月ほど前からアントーニョの店では日用品のようなものも扱うようになっていたとは風の噂で聞いていた。というかアーサーがアントーニョの情報を収集していたのだ。経営はどうだろうとかそういうことである、もちろん。決してストーキング的な行動ではないとアーサーは弁明する。ともかく少しの雑貨も扱うというようなことは別に構わない。むしろ繁盛してくれればいいと思っていたからアーサーは黙認していた。それほど最初の目的から離れているわけでもなさそうだし。しかし今見てみると農作物(というか彼の家の農作物というのはトマトしかない)なんか片隅にあるだけだ。これではおかしい。
「おい、アントーニョ、どういうことだ!」
しばらく会えないでいて鬱憤がたまっていた自称英国紳士の元ヤンは思わず怒鳴った。
「あれ、アーサー、久しぶりやんなぁ」
しかし相手はあのアントーニョ。いつものような太陽のほほえみで近づいてこられてアーサーは沈黙してしまった。うれしそうに手を取って矢継ぎ早に話し始める。
「元気にしとった? なんやの、景気悪いぃみたいな顔してー、そうや、あそこの喫茶店潰れてまったなぁ、知っとる? マスター、故郷に帰るて言うとったよ。えぇ店やったのに寂しなるわぁ。ほんでな、最後やっちゅう日にお客さんなって行ったんよ。ありがとうございましたーって。そしたらマスター泣いてしもて……」
「っじゃない! お前、農作物っつぅか、トマト売るんじゃなかったのか!?」
アントーニョは首を傾げた。きょとんとした緑色の瞳がアーサーを貫く。
「トマトだけじゃ、商売やっていけへんやん」
その通りである。
「だからって、俺になんの断りもなく――もうスーパーみたいになってんじゃねぇか! なんだよこのティーシャツ!!」
手に取って見ると「黙れ」と書いてあるシュールなティーシャツだった。
「ちゃうよぉ。雑貨店やん。あ、それ、売れ筋商品なん、アーサーもこうてく?」
確かに内装はスーパーというよりもファンシーな感じである。
「だから違ぇって言ってんだろうが! なんで雑貨なんて!」
「あかんかってん? アーサー、他のモン売ったらあかんなんて言うてた?」
うっとアーサーは詰まった。確かにはっきりとそう明言したわけではない。しかしこれは用法違反ではないだろうか。アントーニョ相手に堅いことを言いたくはないのだが、こういうことを見過ごしていては他の物件にも影響する。これはビジネスだとアーサーは自分に言い聞かせた。最初からビジネスでもなんでもなかった気もするがとにかくそうなのだ。「紳士的に」と唱えて深呼吸した。
「利益は出てるのか?」
「大盛況とまではいかんけどなぁ。近くの女子高生なんかも気に入って来てくれてん」
ほわっとアントーニョは笑ったがアーサーには聞き捨てならない。
「じょ、女子高生!? っ、ダメだ、今すぐやめろ雑貨なんて!」
「そないなこと言われても困るわぁ。もしかして、賃料安すぎなんが気にのぅてるんと違う? 俺もな、月1万はやっぱりあかんかってん思てなぁ。せや! 雑貨売るん許してくれるんやったら、5万は払ったる! それならえぇやろ、アーサー」
太陽のようなほほえみが雨男の心を照らした。女子高生が来るなんてどうせアントーニョが目当てに違いないと憤ってみたもののアーサーにどうにかできることでもない。それにアントーニョの望みならば叶えてやりたかった。賃料の値上げとなれば用法違反の黙認という態度とも違って言い訳が立つ。
「ひとつだけ聞きたいんだが」
「ん、なんやの?」
「その――女子高生と付き合ってるとか、ないよな」
「なっ、失礼やなぁ、アーサー! 商売人はそないに不純なことせぇへんよ。安心しときぃ。自分、そないなこと心配しとったん? せやなぁ、そんなら女たらしぃの友人かて近寄らんようにしたる。それでえぇやろ?」
女たらしの友人とはフランシスだろうかと思ったが、表向きは紳士なので元ヤン時代の宿敵について知っているなどと言いたくない。
女子高生にモテるからと言ってなにかあるようではないので安心した。ついでに気になることにも触れておく。
「こ、恋人がいる、とかじゃないよな?」
「なんやの、ホンマに。そら、今はおらんけどなぁ、せやかて女子高生はないやろ」
「そ、そうか! ならいい。分かった。賃料を上げる代わりにこのまま雑貨を扱うのも認めてやる。これも、お前が言うから仕方なく――」
アーサーが早口にそう言うと、アントーニョの顔がぱぁっと明るくなった。さっきまでの不満そうな顔はちっとも残っていない。
「良かったわぁ、おおきに、アーサー。恩返しになるか分からんけど、もっと大きしたるわ!」
「あ、あぁ。その、頑張れよ」
ギルとかロヴィーとか手伝ってもらわな、とアントーニョが喋っていたがあまり聞かずにアーサーはアントーニョと別れた。翌月からは地代は5万に上がっておりアントーニョはちゃんと約束を覚えていたのだなとアーサーは安堵したのだ。
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「で、ここからが本題なんだが」
「はぁ、もうかれこれ長いので、手短にお願いしますね」
「この前、1年ぶりにアントーニョのところに行ったんだ」
「そんなに会わないでいたんですか? あなたなんのために土地を貸したんです?」
菊の指摘はもっともである。アーサーはあれからまたぐずぐずと悩んでアントーニョの近くにまったく近づけなかった。これでは喫茶店にいたときの方がよかったのではないかと思ったが後の祭り。会えなければ会えないで忘れればいいものを、会えないからよけいに想いは募る募る。精神状態は安定しないし弟は迷惑だと訴える。ついに弟に引きずられるようにしてやっと貸した土地に向かった。
「そうしたら、大型スーパーになっていた、と」
「あぁ……。アルバイトとかいう男がいたから話を聞いた」
そのアルバイトが言うことには、スーパーの経営は「(株)プロイツ」というところらしい。その社長はルートヴィヒという堅苦しい男でアントーニョという男は知らないという。
「埒が明かないからアントーニョに電話した」
「連絡手段があるなら最初からしたらどうなんですか!?」
菊の声は聞こえなかったことにして遮断した。アントーニョ曰く「えー、やって事業大きくするん賛成なんやろ? ギルとか手伝ってもろてもえぇて言うてくれたやん! せやから賃料も増やしたやろ? 確かになぁ、まだ少ないとは思てるけど、それはおいおいやなぁ……」である。
「そうなんですか?」
「まさか! 俺がアントーニョに言ったことを忘れるはずがないだろう! 大体ギルだかドルだか知らんが、そんな奴がアントーニョに近づくのを認めるか!」
「ですよねー。はぁ、なにか勘違いがあるみたいですね。で、その(株)プロイツってどういう会社なんです?」
菊は溜息をついた。
「調べたんだが、アントーニョの友人のギルベルト・ヴァイルシュミットとかいうのが大本らしい。アントーニョ自身も役員に名を連ねている――が、なにもしていない気がする」
「同感です。で、アントーニョさんは他になんて?」
「『ずっと便利なスーパーマーケット欲しかったーって近所の皆が言うてたんよ。やけどな、独りでそんなんはでけへんし。そしたらちょうどなぁ、ギルがなんやデカイことしたい言うてきたんよ。せやから、フランシスにも話聞いて手伝ってもろてなぁ。最近はこん街も発展してきたなぁ、て皆喜んでくれとるし、ぜんっぜん迷惑かけてへんやろ?』だそうだ。……(株)プロイツの登記簿には、あの店を本店として登記してあった。代表はアルバイトの言った通り、ルートヴィヒ」
おまけにフランシスも役員に名を連ねていた。まったく宿敵はいつまで経っても宿敵であるらしい。邪魔ばかりする。
「建物はギルベルトさんの名義になっていますね」
事前に渡された謄本を確認しながら菊は面倒そうに頷いた。
「それで、どうしたいんです?」
「決まってるだろう! 土地を返してもらう! スーパーマーケットだなんて、紳士に相応しくない店はやめてもらう!」
「本心は?」
「ギルベルトだかなんだか知らんがアントーニョと仲良くしているのが気に食わん!」
「それは弁護士に相談することじゃないんですよ、帰れ」
オブラートだか八ツ橋だかがべりっと破れた。
「頼む、お前しか頼れないんだ。ギルベルトとかいうのはアントーニョを騙してるんだ。そうに違いない。なぁ、助けてくれ」
アーサーは拝んだ。なんというか本当に友達がいないのだ。弟のアルフレッドも最近は口を聞いてくれない。菊は面倒そうにこちらを見てゆっくりと首を振った。
「お金、しっかりと払ってもらいますからね。とりあえず、アントーニョさんに話を聞いてみましょうか」