事例8 株式会社・合名会社・合同会社・合資会社の異同について述べなさい。

 ロヴィーノが好きなのは断じて兄などではない。
「兄ちゃん、兄ちゃん、今日も早いね」
 学生なので平日は夕方からのシフトだが休日などには開店時から入っている。早起きで時間にだけはきっちりしていたので、時間前にはきっちりと集まっていた。同じくここでバイトをしているフェリシアーノも見習うべきだろう。何度言ってもフェリシアーノは変わらない。この店を運営する会社プロイツ社のムキムキ社長と仲がいいからだろうかとつい穿ってしまうのも致し方ないだろう。
「お前は、もっと早く来いって何度言ったら分かるんだよ!」
「い、いひゃいいひゃい、にいひゃんんん、ほめんなはいいいい」
 ロヴィーノがこのバイトを始めて随分と経過した。最初はレジ打ちや品出しなんて他愛ないものだと思っていたが、これが意外と重労働な上に覚えることも多かい。人に使われることになど慣れていないロヴィーノには大変な苦労の連続であった。しかも働くことは大の苦手。高校の頃はバイトなどしたこともなかったし。そんな状態のロヴィーノがそれでも根気強くやってこれた理由はたった一つ。
(アントーニョが、いたから)
 ロヴィーノよりも適当で話しかけられたらつい応じてしまうお人好しで人好きするアントーニョ。ここで共に過ごした時間など微々たるものだ。それこそ、家族で暮らしていた時間に比べれば。
「ちゃんと集まってるみてぇだな」
「店長! おはようございまーす!」
 フェリシアーノが店長のサディク・アドナンにペコリとお辞儀して朝の挨拶をした。おはようございます、とロヴィーノも軽く頭を下げる。
「あの、おはようございます……」
「あれ、シュタインちゃん来てたんだ! おはよ〜」
 時間ギリギリで来るのはフェリシアーノくらいなのだ。ロヴィーノとはすでに挨拶を終えている。ここのバイトの一人であるシュタインは大人しい美少女だった。まだ女子高生だからとは言えバイトの面接に兄がくっついてくる辺りなどはロヴィーノですら微妙に問題を感じたものだが、一人でも働きぶりは申し分がない。もちろんか弱い女性とあって、ロヴィーノも力仕事などは率先して請け負おうとして失敗しているが。
 性格も容姿もいい。兄のことはあっても、もしもロヴィーノに想い人がいなかったのならバイト先で出会った美少女と恋に落ちるというシナリオもありえたかもしれないと思った。むしろその方が幸せだったのに、と思う。
「時間通り来てて何よりだな、坊主たち。それとシュタインちゃん。よし、開店準備すっぞ」
 はぁいとフェリシアーノはへらりと笑いながらロッカーから取り出した黒いエプロンを身につける。ロヴィーノとシュタインはすでに準備済みだ。
「今日もよろしくお願いします」
 シュタインは丁寧にお辞儀をした。少し堅いくらいに真面目な少女なのだ。
 彼女は夜のシフトを兄によって禁じられている。従って、学校のない土日の開店から17時までのシフトで働いている。彼女のように固定されているのは稀で、だいたいはシフト表に従って働いていた。ロヴィーノは大学の試験やレポートとの関係であまり入れないこともあるが、週に4日くらいは平日のシフトに組み込まれている。土日は月に1、2回程度だ。フェリシアーノはそれよりやや少なめで働いている。
 金銭的余裕のない実家からの仕送りはないため、ロヴィーノの生活費はこれで賄われていた。しかし学費はアントーニョの稼ぎから出ている。脱却したいと思うのだが、勉強も忙しくて現状ではバイトにばかり精を出していられないのも事実だった。バイトを始めた動機はいくらかある。仕送りがないので一人で暮らすには金が必要だったこと、アントーニョがまたクビになれば(その心配がまったくなさそうだということを不快ながらも最近ロヴィーノは知ったのだが)学費をどうにかしなければならないこと、そして独り立ちするための資金を稼ごうと思ったことだ。
「あの、ロヴィーノさん……これって」
「事務所の掃除用具入れにしまっとけばいいぜ」
 シュタインはぺこんとお辞儀してぱたぱたと事務所のある部屋へ戻っていく。働いて長いのでだいたいのことをロヴィーノは知っていた。
「にいちゃ〜ん! これ、落ちてたんだけど、どこのかなぁ」
「お前な、だから商品の場所覚えろっつってんだろ!」
 ヴェ、と情けない声をあげるフェリシアーノに肩を上げた。バイトを始めたのはロヴィーノが先だが、フェリシアーノも働いて半年にはなる。きちんと覚えてもらいたいと思うのも無理は無いだろう。サディクは向こうでレジの開設準備に忙しそうだ。店内はそれほど狭いわけではないのに、休日のバイトはたったこれだけ。その内社員が来ることを考えても人手は不足気味ではないかと思われる。ロヴィーノは溜息を吐いた。
『ロヴィ、今日、バイトなんやって? 気ぃつけてなぁ! いってらっしゃい!』
 休日は基本的にお休みだというアントーニョは、それでもロヴィーノが出掛ける頃には起きて見送ってくれた。いつだって優しくてロヴィーノばかりがどきどきさせられたり、きゅんとさせられたりしている。朝からいい目を見たような、また胸が痛くなる要因が増えただけのような、そんな複雑な気持ちだ。しかも弁当まで用意してくれている。料理上手なアントーニョの手作りだ。今までだったら投げ付けていらないと叫んだのだろうが、素直に受け取ってきた。ありがとうとまでは言えなかったが、これは今後の課題だろう。ロヴィーノも段々と彼に当たるばかりの態度を変えていく必要があると思っていた。兄だから兄だからとなにかにつけて言葉にする彼の言葉が嫌いだったのだ。
(兄だなんて、誰が……気づかないと本気で思ってたのかよ)
 褐色の肌に黒い猫毛のような癖のある髪。アントーニョと両親は同じ身体的特徴を有している。肌が白いとまでは言わなくとも両親ともアントーニョとも異なる肌の色と色素の薄い直線的な髪が余りにも違いすぎるのだ。ずっと昔からロヴィーノは自分が彼らと血縁でないことに薄々気づいていた。それは彼らと家族ではないと思っていたことを意味するのではない。血の繋がりがなければというのは幼稚な考えだと思っていたし、それを補って余りある愛情を両親は注いでくれていた。ロヴィーノに不満はない。けれど、アントーニョだけは違った。
 ロヴィーノ、ロヴィーノと自分をいつも呼ぶ優しい声。明るいほほえみ。ロヴィーノを何よりも優先して愛してくれるアントーニョのことを好きになったのは必然のように思える。ずっと恋焦がれていた。兄だなどと思ったことは一度たりともない。ロヴィーノにとってのアントーニョはいつだって、好きな人でしかなかった。それだから『お兄ちゃんやから』と何かにつけて言うアントーニョの言葉が赦せなかった。その簡単な言葉で自分の想いはすべて否定されてしまうように感じたのだ。違うのに。兄でも弟でもなく、ただ、好きなのに。
「兄ちゃん?」
「そこの棚の最上段だ。届かなけりゃ脚立使え」
「了解であります!」
 それに、これだけパーツのそっくりな人間が身近にいれば尚更その出自を疑うものだろうと思う。どうしてカリエド家の人間は皆あれほどに楽天的で鈍感なのだろうか。普通養子のロヴィーノの戸籍には生みの両親の名が刻まれている。それを見れば本当は自分に弟がいるなんて知りたくなくとも知り得た。ぼんやりしていていつもフラフラとしているフェリシアーノを見ていて微妙に心配になるのが、その兄の心情なのである。向こうは事情を知らないとしても、それこそどうでもいい事実だ。自分にとって血を分ける弟であるということだけが、一つの真実だった。事情を知らないのにどうしてロヴィーノまでフェリシアーノが兄と呼ぶのか不思議でならないが、恐らくアントーニョを兄と慕うのと同じ程度のことだろう。
「へへ……兄ちゃん、ありがとう」
 ただ、何となくフェリシアーノは察しているようにも思えた。勘が鋭いのだということはぼやっとした外見に反してそうだと知っている。さすがは自分の弟と微妙に勝手に誇ってみたりした。むしろその事実を伝えるべきであるかどうかいまだに分からないでいる。どうして自分が養子に出されたのかということもそうだ。なぜと聞くべきなのかそっとしておくべきことがあるのか。しかし今のところロヴィーノはあまりそれらを気にしてはいなかった。もっぱらアントーニョのことばかりが懸念事項であるのだ。
 ともかくアントーニョは、ロヴィーノの好きな人は、断じて兄などと括られる存在ではないのである。

 ロヴィーノの作業は品出しがメインだ。今日は特に非力な女子高生がいるとあって、彼女をレジに立たせていることが多いということも理由にある。魚のパックを並べていると、後ろから肩を叩かれた。
「こんにちは、ロヴィくん」
「エリザベータ! ……どうも」
 少し頭を下げると薄ピンクのロングスカートをはためかせたエリザベータはくすくすと笑う。昔から頭が上がらない人なのだ。外見はおっとりしているが怒らせるとフライパンを持ってくることも知っている。
「あはは、相変わらずみたいね。フェリちゃんは?」
「今は裏で休憩中」
「今日は人入りはどうかな」
「卵の特売で、朝は混んでた。今は落ち着いてきたけどな。ってか、店の様子を見に来たんだったら、店長に」
「違う違う。一応、聞いておいただけ。ローデリヒさんに怒られちゃうし」
 エリザベータはウインクした。ローデリヒを彼女が大切に想っていることは周知とも言える情報だが、今ひとつ推し量れないでいるのも事実だ。恋愛のようなそういう感情なのか、ロヴィーノには分からない。
「だったら、フェリシアーノか?」
 彼女とも親交はあるが、二人で話すことなんてそれほど多くはない。からかわれてばかりいるという意味ではコミュニケイションを取っているとも言えるが。
「それも違うの。用事はロヴィくんの方」
「俺に、エリザベータが用事?」
 だから首を傾げた。たしかに誂われることはあるが普通わざわざ店にまでやってきてすることではないだろう。まして向こうはこの店を経営する母体の役員だ。店の経営状況をチェックするならまだしも、雇っているバイトと会話をするために来ることもあるまい。しかしその考えは次の言葉であっさりと打ち破られる。
「聞いたわよ〜、アントーニョとのこと!」
「……な、なにをだよ!」
 思わず怯んだ。アントーニョとのことと言われても思い当たるフシはない。
(ってか、わざわざそのために来たのかよ!)
 さすがに突っ込むロヴィーノである。でも言葉に出さない辺りに力関係は如実に出ていた。
「うふふふふっ、デ、エ、ト! 行ったんでしょ、アントーニョと東京ディズニーランド!」
「デートって、っ……、あの、バカだな、喋りやがったのは!」
 休憩が終わったらとっちめてやろうと拳を握って硬く誓う。ついでに言えば、ランドではなくてシーだ。情報が間違っているのかエリザベータが忘れているのか知らないが。
 エリザベータは機微に敏い人だった。アントーニョと付き合いのあるローデリヒやルートヴィヒらと共に知り合ったのだが、出会ってものの数時間でロヴィーノの感情は看破された。女性はコイバナが好きだというのは都市伝説ではないのだと、エリザベータと話して実感したものである。曰く『BLいいじゃない上等! むしろ美味しいから大丈夫! 私は全力でロヴィくんの味方だからね! あぁ、でもアントーニョとローデリヒさんっていう鈍感コンビも捨てがたかったかなぁ』だ。ちょっと、女は分からない。ロヴィーノは女性が好きだしフェミニストな方だと自称するがいまだに彼女は不思議な存在だった。悪い人でないことは分かる。しかしこんな人なので、ローデリヒを本当に好きなのか測れない次第である。
「どうだったのよぅ。も〜、内緒にするなんて水臭いじゃない! 今、実家に戻ってるんでしょ? アントーニョはどんな感じ? デートで距離縮まった?」
「だから、デートじゃないって……四人いたし」
「あ、ダブルデート?」
「違うっての!」
「ふ〜ん。でも、嫌いな人とあんなところ、行かないでしょ」
 それを言われてむしろ気になったのはブロンドの男の方だった。嫌味な上にアントーニョに失礼な態度ばかりとっていたので何様のつもりだと憤っていたのだが、ロヴィーノの態度も割とあんな感じだったりするのはご愛嬌である。
(やっぱり、アントーニョも気になってるんだよな)
 好意を持っているのだろうことは分かっていた。ロヴィーノはアントーニョをずっと見ている。その心を寄せる相手というのも百と見てきた。彼が大切にしている存在なんてすべて気に入らなくて、いつも態度が悪くなる。あのブロンド男も例外ではない。例外と言えば、黒髪の青年は別だった。
「誘ってくれたの、アントーニョなんじゃない?」
「それもフェリシアーノが喋ったのかよ」
「うぅん、勘。ロヴィくんにアントーニョを誘うだけの度胸がないかなって」
 にんまりと笑うエリザベータには本当に口では勝てないのだ。うるさいと言っても聞きやしない。それでも、彼女が自分にエールを送ってくれているのは正直言ってありがたかった。同性な上に戸籍上の兄弟、そして向こうからも弟としか見られていない。ヘレン・ケラーに例えるのも怒られそうだが、二重苦三重苦くらいにはなっている。友人もいないので話す相手もいない。元よりこんなことを普通の友人になど相談できるはずもないのだろうが。
「だったら、アントーニョはやっぱりロヴィくんのこと気にしてばっかりなんだ」
「昔からそうだろ」
「どうかな。ロヴィくんは、アントーニョに兄だと思ってないって言ってるじゃない? ご両親のことはあるけど……普通、そう言われてまで拘るものなの、兄弟って?」
「アントーニョだから」
「うん、それはもちろんある」
 エリザベータはうんうんと頷く。
「でも、アントーニョだって分かってるんだよ。本当の兄じゃない。本当の弟じゃない。言葉で言っても血の繋がりは得られない。屈折してるのはある意味アントーニョなんじゃないかなって私は思う」
「屈折? あの天然が?」
「弄れてるって意味じゃないよ、ロヴィくんじゃないんだから」
 何だかまた気不味くなることを言われたのでロヴィーノは黙った。
「固執してるっていうのは、アントーニョの方が信じていないからじゃないかな」
 エリザベータは魚の切り身をじっと見ながら呟いた。シリアスな言葉と行動がちぐはぐでいささかおもしろい。手にしている鮭の切り身は本日の特売品で『ムニエルにでもいかが』とはチラシを飾っていた文字だ。
「信じてって、なにをだ?」
 さり気なく商品をチェックしているらしいエリザベータの様子を伺うようにしながらロヴィーノは尋ねる。
「二人が揺るぎない兄弟だってこと」
「……それ、俺に有利な情報だよな」
 あえて確認するとエリザベータは手を止めて振り返った。にっこりとほほえむ。
「そうそう。ロヴィくんは察しがいいよね」
(アントーニョと違ってな)
 いない彼に悪態をついても仕方ないのだが、なんとなく肩を竦めた。
「それ、信用できるのかよ」
「新刊にそういうのがあった」
「新刊……」
「BL漫画の」
 明け透けな物言いに脱力する。エリザベータと知り合った所為で増える妙な知識をなんとかしたい。男子大学生の内何人がボーイズラブなんて単語を知りたがるというのだ。しかも漫画の情報ではどの程度の信憑性なのか疑わしいことこの上ない。
「冗談で言ってるわけじゃないわよ? 似たのを見たときにピンと来たのよね。アントーニョは兄でいたいんだなって」
 エリザベータはまた魚の陳列棚を見ている。
「そうじゃない、から?」
「そうそう。まぁ、信じなくてもいいけど。結局、アントーニョの心はアントーニョにしか分からない――あ、これ、汁が出てるじゃない。パックし直してね」
 何気にパックを押し付けるとエリザベータはウインクして背を向けた。
「さて、店長にも会っていかないと。お仕事頑張ってね」
 ひらひらと手が振られた。また長いスカートがはためく。取り残されたロヴィーノは渡された物を見ながら溜息をついた。
 エリザベータの発言は新しい視点だ。そして非論理的とも言えない。『お兄ちゃんやもん、当然やん!』となにかにつけてアントーニョは言う。その度にロヴィーノはイライラしてきたのだが、例えば母親が「お兄ちゃんなんだから我慢なさい」と言うとかそういう場面でもなく兄だからと強く主張するのは考えてみれば不自然だ。なるほど第三者の目から見た物は公平な情報だった。
(だからって、アイツが俺を好きだとは思えないけどな――)
 ロヴィーノは彼が自分を兄だと言う裏側には結局弟としてしか見てくれていないという事実が潜んでいることを知っている。ただ、そうでありたいと思おうとしている部分が強いとすれば突き崩すことが少しは容易になるかもしれないとは思われた。即ちそれが、有利な情報だ。完全に兄と弟でしかないと認識されていれば関係を変えることは極めて困難なことになるだろうし、それに比すれば。
(どっちにしても、一度『そう』なると、ベクトル変えるのが難しいってのは変わらないな)
 どうして兄と弟として出会わされてしまったのか。もしそうでなければ、あの掛け値ない親愛が得られないのだとしても願わずにはいられない。それにアントーニョならどの世界にいたとしてもロヴィーノに愛を注いでくれるような気もするのだ。余計に恨めしい。
「すいませーん、これ、チラシに出てたやつっスか?」
 ツインテールの少女が鮭の切り身を指さして尋ねた。
「あ? えぇ、特売品です」
 ロヴィーノは特売品の文字を指しながら頷く。少女はちらりともそちらを見ず、うんうん唸っていた。
「ふ〜ん。モナさんしっかりしてるっスから、間違って買うと怒られちゃうんスよ……あ、卵ってまだあるっスか?」
「チラシに出てた物でしたら、売り切れてますよ」
「やっぱり!」
 少女は飛び上がるようにしたのでロヴィーノが驚く。
「やっぱりこの時間じゃ無理っスよね!」
「は、はぁ……朝から並ばれるお客様が多かったですね」
「フランシスさんが悪いんスよ、まだ大丈夫って……」
 フランシスと聞いてぎょっとしたが、少女は背を向けてその場を歩き去ってしまった。取り残されてポカンとする。
「……アイツ、ついに犯罪か?」
 見た感じは女子高生らしかった。フランシスはそろそろアラサーだったはずだ。女子高生に手を出したら犯罪だろう。フランシスが刑務所に送られても痛くも痒くもないロヴィーノにはどうでもいいことだったと首を振った。
「ロヴィーノぉぉぉ! お弁当食べた? なぁ、お弁当どうやった?」
「なっ、あ、アントーニョ!?」
 今日は珍客が多い日らしい。飛び付いてきたアントーニョに体勢を崩すされて、危うく床と友達になるところだった。しかしこのタックルに似た本人認識的に言えばハグには慣れている。昔からこうなのだ。ちょっと危うかったが耐えられた。
「だから、いきなり抱き着くなっつってんだろ!」
「エプロンも似合っとるよ、ロヴィーノ! 相変わらずイケメンさんやね!」
「何回言うんだよ、……バカ」
「しゃあないやん、ロヴィーノ見ると、やっぱイケメンやなぁって思うんやから」
 基本的にはリップサーヴィス過多なアントーニョだが、ロヴィーノには異常なまでに本心で言っていることは分かる。彼の世辞など見抜くのは容易い。ロヴィーノの特技の一つだ。ついでに、見るといつも可愛いと思うという意味ではアントーニョとロヴィーノはまったく似た者同士である。
「で、お昼は?」
「まだだ。今フェリシアーノが……」
「兄ちゃんごめん、遅くなって〜! 休憩入っていいよ……って、アントーニョ兄ちゃん?」
「フェリちゃん! 元気にしとる?」
「うん! 俺は元気だよ〜兄ちゃんたち、いつも仲いいね」
「ばっ、なな、なに言って――アントーニョ、いい加減離れろ!」
「今からロヴィーノ休憩なん?」
「話を! 聞け!」
「そうだよ〜、兄ちゃん、休憩どうぞ」
「ロヴィ、せやったら、一緒に御飯食べようや! 外出て食べよ! なぁ、俺、奢ったるよ!」
「おま、弁当持たせただろ……っつかお前食ってないのか?」
「食べてへん。どっかで済まそ思て……ロヴィ、ダメ?」
 ようやく身体が離れたと思ったら、うるうると昔のCMにいたチワワのような目でこちらを見ている。
「ちゃんとお金持っとるから、ロヴィの好きなもん、食べさしてあげられるで! なぁ、一緒に御飯……」
 好きな物なんて――と思う。
(手作り弁当の方が、価値があるだろ)
 言ったことがないから分かっていないのは当然だ。自分の弁当よりも外食の方が、と簡単に卑下するような言葉が出てくる。アントーニョの自己価値などそんなものなのだ。わざわざどうだったと尋ねにくるくらいに気にかけている癖に。
「兄ちゃん、せっかくだから」
 フェリシアーノが袖を引っ張った。いつもなら「誰がお前となんか!」と突っ撥ねるところだからだと思ったのだろう。あいにくと今は少し違うのだ。
「外出て食うのはいいけどな、弁当残すのはもったいないだろ。俺はそれ食うから、……公園、とかで、お前もなんか買って食えばいいだろ」
 公園という響きが一瞬、逢瀬めいて聞こえたので一人で動揺する。
「お、お弁当なんて別に……えぇよ、どっかで」
「もったいないっつってんだろ! それでいいのか悪いのかハッキリしろ!」
「えぇよ! うんと、せやったら、なんか、食うもん買って……」
「着替えてくるからそこで待ってろ。動くな」
「りょ、了解」
 隣でフェリシアーノが笑っていた。なにがおかしいんだと睨むとブンブンと首を横に振る。フェリシアーノも何気にロヴィーノがアントーニョを好きなことを知っているらしい。本人に言われたことも問い詰めたこともないのでハッキリとはしていないが、なんとなく様子からそう思われる。
「そうだ、これ、パックし直し。お前がやったヤツだろ」
 エリザベータに言われた物を今度はフェリシアーノにバトンタッチした。
「ヴェ……兄ちゃん分かるの?」
「分かるんだよ、バカと違ってな」

 言いつけ通りにその場で待っていたアントーニョを伴って店を出た。彼はスーパーで弁当を買って済まそうとしたが、外に出ればもう少しマシな物が売っているだろうと思って却下する。自分の店の商品と言えど、スーパーのお弁当では物寂しい。商店街は学生も多く飲食店は豊富だ。食べるならばもっと美味しい物の方がいいに決まっている。
「あ、クレープ売っとる。美味しそうやなぁ」
「甘い。昼飯になるものにしろよ」
「お惣菜のクレープもあったで!」
「そんなんで足りるかよ。あっちのサンドイッチでも食った方がマシだ」
「ん、あれも美味しそうやな……」
 腕でも組んでいればデートっぽいかもしれない。言えばアントーニョは大喜びで腕を絡めるだろうが、さすがに馬鹿みたいに思えるので心の内に仕舞っておく。
「えへへ……」
「なに笑ってんだ?」
「ロヴィとこうして歩くん、久々やなって」
「そうか?」
「そうやでぇ。誘って、よかった」
 思わずどきりとすることばかりアントーニョは口にする。
「最近のロヴィは、優しいなぁって……」
「今まで優しくなかったって言いたいのかよ」
「そういうんとは違うんやけどな!」
 アントーニョは瞳を細めて前を見つめた。
「一緒に出掛けてくれたし、お弁当持ってってくれたし、こうして一緒に歩いてくれとるから」
 なにも言えずにロヴィーノは黙った。そういうことをアントーニョが望んでいたことは知っていたし、それをすべて拒絶していたのも分かっている。
(お兄ちゃんだから、ばっかり言うから)
 反発したのはアントーニョから与えられたことではなくて、そのたった一つの言葉だった。驚くほどアントーニョはその言葉を使わなくなった。それはロヴィーノが言った言葉の効果かもしれない。ある意味ではエリザベータの見解にも近い。アントーニョの心に変化があるとしたら、それはどのようなものだろうか。彼がその言葉を用いらなくなったことで、ロヴィーノも反発する言葉が抑えられた。それに先日の男の存在もある。このまま変えようとしなければ、ロヴィーノの態度もアントーニョとの関係も、変わらない。軟化は半強制的に行われたのだ。
「ずっと、傍におったんが嫌やったん?」
「……え? なに――」
「ん、なんでもあらへんで! あ、シュークリームも売っとるで」
 糸の切れた凧のようにふらりとアントーニョは次の店を見ている。
「だから、甘いもんばっかなんだよ」
「チュロスかパエジャはあらへんかなぁ」
「ね、え、よ! ほら、とっとと決めろ。休憩終わっちまう」
「ほんじゃあ、アレ」
 にこっとほほえんでアントーニョは真っ直ぐに指さした。まるで最初から決まっていたみたいに揺るぎない。
「美味しそうやろ」
「……早く買ってこいよ」
「んじゃ、ちょい待ってぇな」
 たたたっとアントーニョは走っていく。隣をカップルが通り抜けた。仲よさそうに肉まんを半分ずつ食べている。この寒い中、公園で食事なんて馬鹿みたいだと思った。まるでリストラの憂き目にあったサラリーマンのようだ。あのブロンド男がアントーニョをクビにすることなど考えられないが、何度もクビにされているアントーニョも苦労が多いのだろう。ロヴィーノは一度だって労ったことがない。ずっとロヴィーノの生活を支えてくれてきたのに。
「ごめん」
 兄でありたいと望むアントーニョからその尊厳を奪ってしまって。ただ一言に反発して今まで好意を踏み躙ってきて。
(兄だと、思ってやれなくて――)
「ロヴィ、飲み物持ってへんやろ? コーヒー一緒に買ってきたからなぁ。あったかいうちに飲まな!」
「……悪ぃ」
「ほんでな、パニーニ、美味しそうやったから、いっぱい買ってもうた! ロヴィも少し食べてえぇで。いっぱい食べて、しっかり働くんやでっ」
「無駄なことあんまりするなよ。公園、向こう」
 指さすとアントーニョはそちらに視線を向けた。
「ベンチ空いとると思う?」
「寒いからあんまり人はいないだろ」
「せやねぇ、寒いなぁ。手も冷えてもうた。なぁ、ロヴィの手」
「冷えてる。冷え性だからな」
「やっぱり! 俺があっためてあげるわぁ」
 空いている右手がぎゅうっと掴まれた。温めるというのは彼の熱でと言うよりも、コーヒーの温度でということらしい。手に持たされて、その上を両手が覆う。
「ロヴィ? どないしたん、顔、赤いで?」
「バカッ、恥ずかしいからに決まってんだろ! なにしてんだよ……」

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