月森に恋人が出来たと聞いたのは、月曜日のことだった。
「あ、花村」
放課後、何か惹かれる様に静かな教室に足を踏み入れると、真っ赤な教室の中で、陽介は窓からグラウンドを見ていた。表情は穏やかで、こちらに気付くとにこりと笑みを浮かべて、ひらひらと手を振った。呼んでくれたみたいだったので、少し戸惑いながら近付く。歩く度に黒い影が揺れた。陽介はまた視線をグラウンドの方へと戻す。
「月森くん?」
「あそこで、長瀬にパスしてる」
ほら、と指さした先には、目を引く灰色の髪が動いていた。いつもと変わらない様に、部活動に励んでいる。陽介も、いつもの様に過ごしている。どこか変だな、と思うのに、どこがとは指摘出来ない。正しい言葉が見付からなかった。
「マネージャーの子、だっけ」
寝耳に水だったので驚いたが、当の本人は、まぁね、とラフに言うだけだったものだから、余り問い質すことも出来なかった。元々、千枝や陽介の認める通り、月森柚樹と言う人は、モテる。外見が良いことも然ることながら、成績は優秀だし、部活動でも運動神経の良さを余すところなく発揮しており、リーダーシップもあるのだ。正直に言って、非の打ち所らしきものがない。だから、数多告白を受けているが、同じだけ失恋する者を作り出していた。恋人を作らないのかと問うたこともないが、余り、興味がなさそうだと千枝は思っていた。
陽介は、らしいな、と軽く頷いた。
千枝は話を聞いて、慌てて陽介と話をしようと思ったが、彼は、極普通に件の月森と話をしていた。普通に、実に友人らしく。だから、何も言えず、黙って小さく俯いた。陽介の悲しいという感情は、自分が取り込んでしまった様にすら思えて、泣きたいとも思った。
「泣いてもいいよ」
誰も見てないから、とちらりと後方を見ながら言った。
「泣かねーよ」
「でも、」
悲しくないの、と言いそうになって、口を閉ざした。悲しくない筈がない。陽介は月森が好きなのだし、好きな人に恋人が出来たことを、悲しいと思わないことはないだろう。どれだけ陽介が、自分は友達で良いと言っても、それ位は、分かる。
「なんでお前が泣きそうなんだよ」
陽介は千枝よりも大きい掌で、頭をくしゃりと撫でた。
「なんでだろ」
自分の方こそ慰められているみたいな気がして、千枝は落胆する。自分が陽介にしてあげられることなんて、何もないのだ。話を聞こうにしても、きっと、陽介は話してくれないだろう。辛いとも、悲しいとも、苦しいとも、羨ましいとも、何も言わない。
(そっか――私は花村に、泣いて欲しいんだ)
彼はいつも笑っているから、ちゃんと本音を見せて欲しいと思う。陽介は決して口に出さないけれど、商店街の連中が、陽介に冷たい言葉を吐いていることだって、知らない訳ではない。言う方がきっと気にするだろうから、口には出せなかったけれど、笑顔の裏で傷ついていることだって知っているのだ。
(月森くんなら、花村の心を、救ってあげられたのかな)
好きだった人を喪ったことも、現出したシャドウの本音を見たことも。きっと、誰より深く、陽介を知っているのは、月森だ。けれど、陽介の感情を最も知らないでいるのも又、月森なのだろう。この瞬間の陽介のことに限って言えば、千枝の方が知っている。
頭を撫でてくれた手を掴むと、千枝はじっと陽介を見据えた。櫨色の瞳が瞬きをする。ハニーブラウンの髪が紅い。手を伸ばして抱き締めると、陽介は間抜けな声を上げた。
「さ、里中サン?」
「あーもう、静かにして」
理不尽なことを言って、背を撫ぜた。とくんと鼓動の音が指先に触れる。
「味方だって言ったじゃん……ちょっとくらい、頼んなさいよ」
自分が女だからなのだろうかと思う。やっぱり弱みは見せられないのかも知れない。テレビの中でもそうだった。月森は疲れたとも何も言わないし、陽介も軽口は叩くが、本気で辛いとは言ってくれない。女だからと千枝や雪子は先頭を歩くことはないし、守ってくれる。
「んじゃ、クレープでも食いにいかねぇ?」
「なにそれ」
「疲れてるときは甘い物なんだろ?」
疲れという言葉にぴくりと指先が反応した。
「ほら、前に食べそびれてっし」
「ん……そうだね」
機会を逃してしまって、結局、クレープを奢って貰うこともないままだった。独りで食べる気にもなれず、あの日は帰って、家にあった天城屋旅館から戴いた苺大福を食べた。和菓子は上品で好きだけれど、何だか甘さが足りない、と思いながら。
「お前が思ってるほど、ショック受けてねぇぞ」
心配そうな声に、うん、と千枝は頷いた。友達で良いから、と陽介は首を振ってきている。その言葉にどれだけの感情が隠されているのかは分からないけれど、いつか、こういう日が来ることは知っていたのだろう。
「私がたぶん、ショックだった」
「なんでお前が?」
「分かんない」
あはは、と笑うと、陽介は「なんだそりゃ」と不思議そうに笑い返した。
「分かんないわよ」
胸がずきずきと痛む。泣きたいと思った。許されるなら、子供みたいに泣きじゃくりたい。感極まったという感覚はないけれど、理性的にそんなことを思うのだ。
「やっぱり、クレープには生クリームだよな」
陽介は身体を離すと、片目を瞑った。
「えー、チョコクレープもアリじゃない?」
「だったらバナナ入り」
「バナナとチョコって、なんか合うよねぇ」
「屋台でも売ってるしな」
恐らく、自分が悲しいという顔をしても、泣いてもいけないのだろう。振り切って笑いたいと言うのなら、それに付き合ってあげることが、千枝に出来る唯一なのだ。そう思って、千枝はにこりと笑った。人差し指を一本、ぴんと立てる。
「もちろん、花村の奢りだよね」
「約束してっからな……しゃあねぇなぁ」
「やたっ! んじゃ、チョコ生にトッピングはバナナね」
「だから、トッピングとか自重しろ!」
やだ、と言いながら、千枝は机に置きっ放しになっている陽介の鞄と、自分のリュックサックを持って、ドアを開けた。教科書が一冊も入っていない二つの鞄は軽い。後ろから暫し付いてくる気配がないので、千枝は廊下に出て立ち止まった。息を吐く。八十稲羽の冬は、今年も、寒かった。