sweet sugar sunset -4

(月曜、英語の小テストとか……ぜんっぜん聞いてなかった!)
 自宅へ帰る道すがら、親友が「週明けに小テストあるもんね」と発言したので、千枝は驚いた。そんなイベントがあるなんてことは、ちっとも記憶にない。慌てて聞けば、先週の授業時間に言っていた筈だ、と言う。頭の良い友人は、ここまでの授業を復習していれば問題ないと言うが、生憎と千枝の頭はそこまで優秀ではない。家で確認しなければならないだろう。何せ、1限が件の英語の授業なのだ。
 雪子に別れを告げて、学校に取って返すと、オレンジ色に染め上げられた校舎には、人の気配がなかった。土曜日ともなれば、遅くまで校舎に残っている人も少ないだろう。校門付近で直斗と会ったが、その位で、とても静かだった。人がいない為か、熱気もなく、中はひやりとしている。廊下を歩いていると、上から、トロンボーンの音が聞こえた。吹奏楽部は、まだ練習しているらしい。
 日が暮れるのは早くなって、冬の寒さが身に染みる様になってきた。季節の移ろいは早い。ほんの少し前まで、まだ桜が咲いていた様に思える位に、気付いたら冬を迎えていた。濃密な今年が、そろそろ終わりゆく。どこか哀愁を感じさせる金管楽器の音色を聞いていたくて、足音を立てないようにそっとそっと、階段を登っていった。あとどの位、2年2組の教室で過ごすのだろうか。ぼやりとそんなことを考えながら、テストを忘れて教科書を取りに戻ったなんて、如何にも勉強に熱を入れていないみたいだし、誰かが残っていたら気不味いかも知れないなんて思いながら、ドアに手を掛けた。カラカラと、ゆっくり戸を引く。窓からの光が眩しかったので、一瞬、千枝からは教室の中が見えなくなった。片目を瞑って、左手で光を遮る。
(あれ、誰か――)
 千枝の隣席に佇む人の影。眼差しは淋しそうな、切なそうな光を湛えて、机を見詰めている。細長い右手の指先が鍵盤楽器でも鳴らすみたいに、静かに触れた。指の影が、オレンジの光で伸びる。長く。
「っさ、里中!?」
 静寂を打ち破ったのは、千枝に気付いた陽介だった。ふとこちらに向いた瞳が、驚いた様に丸く変化すると、ぱっと指先が離れる。静電気に遭ったみたいに、両手が不自然に胸の高さで固まった。綺麗な光景だったのに勿体ない、と、ほんの少し、千枝の頭を過ぎった。
「ど、どうしたんだよ、こんな時間に」
 顔が紅く染まっている。物珍しかった。本気で狼狽する、花村陽介という人の姿は。
「好きなの?」
「へ? な、なにが……」
「月森くんのこと」
「わッ、わー! ば、ばか!」
 何かオブラートに包んだ言葉の方が良かっただろうかとか、指摘しないであげる方が優しさなのだろうかとか、千枝とて、そんなことを考えないでもなかった。
(なんか……ほっとけない)
 けれども放っておけないという感情の方が凌駕したし、それに、隠し事をするのは元々、苦手な方なのだ。
「ななな、なに言ってんだよ、里中さんってばもう」
 つかつかと千枝は近付くと、陽介の手首を掴んだ。
「さ、里中さん?」
 一目で看破した訳ではない。積もり積もったものをずっと見ていたからと言うのでもない。強いて言えば酷く直感的な、抽象的な違和感に拠る。思えば、どうして今までそうである可能性を考えなかったのだろうかと疑問になる程だった。どんな時でもリーダーを支え続けてきた参謀、相棒、そして彼の親友。
(分かっちゃった)
 心のどこかでは、そうではないことを望んでいた様にも思えたが、そのことには触れなかった。気持ちが悪いのではないし、そういうことがないとも思わない。完二のダンジョンのことではないが、嗜好は色々ある。千枝は自分をさして狭量だとは思っていないし、又、潔癖的でもなかった。真面目な雪子が聞いたら、卒倒してしまうのかも知れないけれど。
「私は、アンタの味方だよ」
 手首を強く握り締める。僅かに脈拍の鳴動を感じられた。トクトクと、一定の速さで鳴っている。俯いた陽介は、観念した様に言葉を紡いだ。
「気持ちワリィとか、ねぇの?」
「なんで? ってか、リーダーなら分からないでもないって感じ。それに、花村、月森くん大好きだし」
 一方的にだとは思わない。陽介が好いている様に、月森も好意を持っている。だから傍にいるのだ。雪子と千枝とが同じである様に、一方だけでは関係も絆も成立したりはしない。
「無責任なこと言いたくはないけど……そういうこと思ったら、間違いだってことはないと思う」
 報われるにしても、報われないにしても。
 顔を上げた陽介の表情は、凪いだ海の水面の様だった。
「里中って、イイヤツ」
「いまさら気付いたの?」
 遅かったな、と陽介は笑った。儚いことを知っている様な笑顔に、胸が穿たれた様に一瞬、痛んだ。
(そんな顔、しないでよ)
 持っていかれてしまいそうになる。千枝は頭を振って、手首を離した。
「ね、花村。月曜日、英語の小テストらしいよ」
「うっそ、まじで?」
「雪子が言ってた」
 机から教科書を探り出すと、陽介も慌てた様に机に手を突っ込んでいた。
「やべー、んなこと急に言われてもワカンネーよ……範囲どこ?」
「試験終わってから今までのとこ。そんなに広くないと思うけど」
 とは言え、自信がないのは千枝も同じだし、分からない。近藤め、と恨みがましそうに言う陽介に同意だった。
「……そうだ。月森くんに教えて貰ったら?」
 何気なく言うと、陽介はびくっと腕を引っ込めた。恐る恐るという様に、千枝の方に視線を向ける。
「里中サン、わざと言ってる?」
「テスト前とか、図書館で勉強してたじゃん」
 2学期の中間試験前には、仲睦まじく図書館で勉強していたのを雪子と目撃した。陽介が首を傾げていると、すかさずアドバイスする月森に、自分の勉強で手一杯の千枝は、頭の出来が違うのだろうなと思ったものである。月森は、改めてテスト勉強をする必要等なかったのかも知れない。期末の前は、菜々子のこともあって、正直勉強どころではなかった。陽介もそうだが、千枝も散々な点数を叩き出している。雪子ですら不調だった中、叔父に心配を掛けられないから、としっかりトップを取っていた月森のメンタルは非常にタフだと思う。勿論、彼の精神が人並み外れている訳ではない。大変だったのは傍で見ていれば分かるし、だからこそ、月森は凄いのだと思う。
(でも、支えてたのは、間違いなくアンタなんだよ)
 月森がリーダーとして立っていられたのは、きっと、陽介がいたからだろうと思う。女の子や後輩に弱音を吐く様な人ではないし、弱いところを見せられるとしたら、陽介にだけだろう。実際にどうだったかまでは知らないけれども、少なくとも、辛いと言葉にしなくたって、彼の存在が支えになっていた筈だ。だからどうだということもないが、千枝は、そんな二人が好きだったのだと今になってふと思った。
「あれは、……マジで期末の点数ヤバかったから」
 割とリアルに顔面が蒼白になっていたので、形振りを構っていられない状況だったのだろう。
「あーもう、その話はいいだろ! とっとと帰ろーぜ」
「なに、アンタ、照れてんの?」
 何だか面白くなってきて、くすくすと笑って言うと、陽介は睨む様に千枝を見たが、頬の辺りがチークでも付けたみたいに紅くなっていて、ちっとも迫力がない。元より、陽介に睨まれた程度では千枝は怯まないのだが、その様子は寧ろ、可愛いかも知れないと思った。
「乙女だねぇ」
「乙女にゃ程遠い肉食獣が言うか……」
「なんか言った?」
 拳をバキバキと言わせると、陽介はぶんぶんと顔を横に振った。
「私も勉強しないとなんだよね……やっぱ雪子誘うかなぁ」
「俺ら二人じゃ集まっても難だしな」
 ははっと軽く陽介は笑う。一瞬、二人で勉強するのも悪くない様な気がした。きっと捗らないし、勉強にもならないのだろうなと思う。高が小テストなのだから、それでも構わないだろうか。

 

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