朝から月森は不機嫌そうだった。それを感じつつも、声を掛けないではいられない性分の陽介は、相棒、と後ろから呼び掛けた。大概、月森は一言二言掛ければ、それなりに落ち着いてくれるのだ。良く、落ち着けと言うが、自分もあっさりと冷静に返ることが出来るのは彼の美点だろう。
「朝からなんかあったか?」
ツンツンと背中を突付くと、微妙な表情で振り返った。朝から機嫌ワリーみたいじゃん、と少し首を傾げる。
「別に、大したことじゃないんだけどな」
「飴でもやるから、その不機嫌オーラ、なんとかしろよ」
ほれ、と胸ポケットからいちごの飴を出すと、月森は瞬き一つして、表情を穏和にさせた。飴なんかで元気になると思われるのは心外、と言いながらも、双眸は優しい。機嫌が戻ったようで何よりだった。しかし、実際、飴なんかで機嫌を直すとは、陽介も思っていなかったので、些か驚いた節はある。
(案外、可愛いトコあんだな)
クスリと笑うと、笑うな、と頭をわしゃわしゃ掻き混ぜられた。セット乱れちゃうからヤメテ、と陽介は慌てて手を押し留める。
「さて、と。機嫌も戻ったところで、月森センセイ」
「……どこ当たるって?」
「うわ、エスパー!」
言わんとすることを当てられて、陽介は飛び上がった。
「教科書の英訳! 昨日、辞書見てやったんだけど、わかんねーの!」
わたわたと鞄からテキストを取り出して、該当のページを見せた。紅い字が、苦し紛れにぽつぽつと書いてある。
「単語は調べてあるのか。だったら、ヒントあげるから、ノート出して」
「ありがとうごぜーます!」
両手を合わせて拝むと、早くしろと急かされた。また鞄を開けて、オレンジ色のノートを探し出す。どの教科に何色を利用するとか、そういう拘りはない。気に入った物をジュネスで買っているので、勢い暖色ばかりのノートだ。見付けて引っ張り出した時に、カサリと何かが床に落ちた。
(あ、昨日の――)
落下したのは、月森に渡して欲しいと言われた手紙だ。昨日の放課後、渡せなかった手紙を差出人に返そうとしたのだが、受取拒否されてしまった。捨てておいてください、と言われ、何ともし難く、鞄に取り敢えず詰め込んだ、それ。
「なぁ、月森」
「ここ、toの使い方が曖昧なんだろ? 不定詞覚えてる?」
トントン、とシャープペンで軽く叩かれた箇所を見る。不定詞とは何ぞや、と、頭の中をサーチングしたが、該当しない。
「……や、あんまり」
「で、何? どうかした?」
「その……気ぃ、悪くすんなよ? 昨日みたいな手紙、マジで受け取らねぇの、なんでだ?」
「まだその話?」
声のトーンが落ちた。眉根が歪む。やはり気を悪くした様だと思い、背筋がさっと冷えた。怒って課題が放置されてしまったら困る。そう思っても、言わずにいられない性分なのだ。自分で自分が恨めしい。
「言ってるだろ。面倒だし、付き合う気もない。他に理由が欲しいのか?」
受け取って欲しいのか、と言われて、慌てて首を振った。本当は、受け取って欲しい等と微塵も思っていないことが見透かされてしまった様な気がする。
「えっと、その、だな。あーだったら、今後は、月森はそういうことに興味ない、っつって断っとくか? それで、いい?」
教科書の英文を追っていた、月森が顔を上げた。じっと、銀色の瞳をこちらに傾ける。
「あぁ、それで頼む」
寧ろ良かったとでも言う様に、晴れやかな声色に変わったので、流石に不思議に思った。面倒事は嫌いだと常に言っているが、これ程とは思っていなかったのである。そんなに煩わしい物なのだろうか。開いて読んで、考えるだけ。それだけ。
(うーん……俺が揶揄うから、とかか?)
陽介は同年代の男と比べれば、可也、恋バナが好きだ。自分と関わらないところならば特に、知人友人の話は大好きなのである。無論、茶化すだけ茶化した後は、相談に乗るつもりでいるのだが、相談しようという人物がいない。しかし、月森に関して言えば、確かに最初こそ、天城と里中のどちらがタイプか、と聞いたことはあるが、基本的には恋愛ごとについて突っ込んだ話はしていないつもりだ。そんな風に思われていたのなら、心外である。
(コイツ、付き合ったりしねぇのかな、マジで)
ズキリと胸が痛む。いずれは、きっと、可愛い子か或いは美人が、月森の隣に立つのだろう。必然だ。一生、自分の相棒でだけいてくれればと思うこともあるが、そんな不健全なことがいつまでも続く筈もない。そうして、いつか、いつか、と思う位ならば、今直ぐにでも、可愛い彼女でも連れて来てくれた方が辛くはないと思う。そうすれば、それとは異なる次元において、彼の相棒として特別なのだとだけ思っていられる。だから、早く付き合ってしまえば、と思っていた。
そう思っていた筈なのに、本心が出てしまう。やっぱり、月森に恋人なんて出来て欲しくない。手紙なんて、棄ててしまえたらと思う。
(だからって、あんなこと言って、どうなんだよ……)
取り次がなければ、月森に恋人が出来ない訳でもない。それでもつい口から出てしまった言葉に、自己嫌悪で頭痛がした。
「陽介、やる気ある?」
「うえっ? あ、あるある! あります! 見捨てないで、相棒!」
「見捨てないから、早くしろって。ほら、ノート用意」
ここ最近のことが、ぐるぐると頭を回っている。月森に胸を貸して貰って号泣し、彼は特別な存在だと告げた。対等になりたいからと殴り合いまでして、それで、対等な相棒になれたと思えた。
(それで、満足だろ)
いつの間にか、自分の視線が月森ばかり追い縋っていることに気が付いた。そして、どこにいても彼を探せる自分にも気付く。特別だと、その言葉の意味を陽介が真に理解したのは、その頃だった。特別な、親友以上に想っている存在。相棒ではなくて、もっと、甘い言葉を使う様な関係に――恋人になりたいのだと気付いて、青ざめた。彼の唯一になりたい。そう思う自分が、恐ろしくて仕方がなかった。
(相棒は相棒だ)
首を振って、何度も襲い掛かってくる言葉を振り切ろうとした。否定はしない。彼の恋人になれたらと思う。月森柚樹が好きだ。けれど、それを望むことは出来ない――月森には、そんな気はないのだ。だから、諦めなければならない。それだけ。
周囲の様子も良く見ずに、思考の渦に落ちていた。月森を追ってぼーっと走っていると、突然、名前を呼ばれて、はっとした。顔を上げると、眼前に剣が迫っている。慌てて後退すると、鼻先を掠めただけで、何とか攻撃を回避することが出来た。切り返す様にスサノオを呼ぶ。風が刃の様に腕だけの剣を切り刻んだが、効果は今ひとつだった。
「陽介、下がれ!」
言うが早いか、雷が目の前を通った。
「うお……コエェ……」
スサノオは雷を克服したが、肝心の本体は、未だに雷が飛んでくるのを苦手としている。雷撃で剣のシャドウが爆ぜた。
「花村先輩、大丈夫ー?」
上から声が降ってくる。へーきへーき、と手を振ると、今度は右の方から火炎が飛んできた。陽介よりも早くスサノオが動き、炎を弾く。
「熱っ……」
「ちょ、花村、平気?」
火の粉が頬を掠めていった。体勢を立て直せずにいると、また、月森が動く。おもちゃの様な剣が閃いた。
「平気か、陽介」
振り向いた月森は、微かに笑った。思わずどきっとして、苦無を取り落とす。上からりせの声が聞こえた。
「先輩、ソイツ、物理無効だよ! 花村先輩! 疾風が有効!」
そうだ、前にも見たシャドウだ、と思いながら、焦って苦無を拾い、陽介はスサノオの名をまた叫ぶ。カードを割り壊すと、現出したスサノオが疾風を紡いだ。しかし、シャドウの前に立っていた月森が気に掛かり、攻撃はシャドウに命中させられなかった。舌打ちしてもう一度、と思ったが、一度ペルソナを呼べば、どうしても次に動かすまでにタイムラグがある。そうこうする内に、再び火炎が飛んだ。今度は、雪子を目掛けていく。
(確か、天城のペルソナは火炎耐性――)
そうは思っても、完全に火炎を弾ける訳ではない。雪子が目を瞑り、両手で顔を覆う。
「雪子ッ、あぶない!」
叫ぶ様な声が聞こえたと同時に、千枝が滑り込むようにして、シャドウの攻撃と雪子の間に割って入った。トモエが追い掛けて火炎をいなそうとするが、弱点属性でもある為、逆に弾丸の様な火炎に飛ばされて、千枝諸共壁に叩き付けられる。
「ああああああっ!」
「里中ッ!」
「ち、千枝ぇっ!」
千枝が吹き飛ばされるのを見て、拙いと陽介も思った。漸く、召喚後の硬直も解けてくる。月森の方に目を向けると、合図する様に頷いた。
「天城、里中にディアラマ! 陽介、もう一回、ガルーラ!」
「ち、千枝! ちえぇっ! しっかりしてぇッッ! ちえーーっ!」
雪子が悲愴な声をあげるのを聞きながら、蹌踉めく身体を立て直して、再び、陽介は跳躍した。カードを砕き、スサノオが現れる。
「今度こそ当ててくれよ、スサノオ――!」
風が真っ直ぐにシャドウへと向かっていく。ごうと唸った風が、今度こそ本体を切り裂くと、弱点を衝かれたシャドウが呻いた。体勢を立て直す暇を与えず、陽介はもう一度ガルーラで追撃を掛ける。刃が刺さると、シャドウは霧になって消えていった。
「さ、里中! 平気か!」
「……大丈夫。雪子、ディアラマありがと」
雪子はふるふると首を振った。
「千枝、何で……! 私、炎なら平気だよ! 千枝の方が、こんな、ひどい……」
「平気っても、痛くないわけじゃないじゃん? それに」
千枝は立ち上がると、大粒の涙を目に浮かべている親友に向かって、微笑んだ。
「雪子を守るのはアタシ、ってね」
千枝の馬鹿、と小さく言いながら、床に座り込んでいた雪子は俯いた。そんな彼女に、回復した王子様は近付いて、ぽんと頭を撫でる。
「馬鹿だよ、千枝。千枝が炎受けたら、弱点なんだよ。千枝の、馬鹿。馬鹿馬鹿ばか」
ぽかぽかと胸の辺りを殴る雪子に、千枝は苦笑いを浮かべた。そんな、平和みたいな光景をぼんやりと陽介は見入っていた。
(里中のヤツ、ホント、王子様だな)
揶揄する様に思った訳ではない。親友を守ると誓って、それを実行している千枝が、頼もしくもあり、どこか、眩しくもあった。
(俺って、月森の役に立ててんのか……?)
相棒だと言っても、そんなものは名ばかりで、ワイルドの能力と言う特殊なスキルを備えた月森の支えになれているとは思えなかった。いつだって、先を歩く月森を追い掛けているだけ。背中を守るどころか、助けられてばかりいる。
「陽介、どうかしたか?」
掛けられる言葉もなく、二人を見ているだけになっていた陽介の肩を、月森がポンと叩いた。
「ワリィ……俺が、ぼーっとしてたからだ」
「そんなことないだろ。俺だって攻撃外すこともあるし、そもそも、あの時、剣で斬る必要がなかったんだから、俺の判断ミスじゃないか?」
違う、と思った。千枝と同じだったのだ。月森は、剣で攻撃することを目的として、シャドウに走り寄ったのではない。
(俺が危なかったからだ――)
盾になってくれた。月森はクールだけど、根は優しい。友達が危なかったから、助けた。それだけ。言わなくても、あの笑みを見れば分かる。陽介に危害がなくて良かった、と言外に言っていたのだ。
(なにやってんだよ、俺)
相棒として、彼の右腕として、彼を支えて助けていこうと思っていた。どうせならば、騎士たらんと。それが実際には、月森の枷にしかなっていない。少しのことで揺らいで、動揺して、迷惑しか掛けていない。
「取り敢えず、消耗が激しいから、戻ろう。里中、大丈夫か?」
月森が二人に近付いて声を掛けた。
「アタシは平気。でも、雪子の方がシンドそうだから」
雪子はまだ、千枝の胸で蹲っていた。千枝が顔を上げて、小さく笑う。
カエレール使うぞ、と声が聞こえた。
(相棒なんて、言ってられるのかよ)
陽介が役に立たなくても、月森は、相棒だろ、といつも共に連れて行ってくれる。危ないけれど、と言われても、それが誇らしくて嬉しかった。そういう自己満足の呪いが、その言葉には掛けられているのだ。陽介は、やっと、それに気付いた。遅かったかも知れないが、そのことに気付けただけでも良かっただろう。
言葉には魔力がある。魔法が掛かっている。自分にしか意味がなくても。誰に知られなくとも。相棒と呼ぶと、そう返してくれるのが嬉しかった。どんな場面でも、特別でいられる様に感じられた。
(もう、そんな独り善がりじゃ、ダメだ)
好きだよ、相棒。
だけど。否、だからこそ。
嗚呼何て霧が深い世界なのだろうか、と、身体が空間を移動する最中で陽介は思った。