いつも読んでる本の新刊が今日発売だから、と月森は、陽介が来て直ぐに少しだけ家を空けた。実にマイペースだ。陽介は菜々子と遊んでいるのも問題ないから構わないが、世の全ての男子高生がそうではないことは、もっと自覚して欲しい。
(まぁ、菜々子ちゃんが“ジュネスのお兄ちゃん”って呼んでくれるのは可愛くていんだけど)
人見知りの嫌いがあった、と月森も話していたが、少女は既に、自称特別捜査本部のメンツとは馴染んでいる。ひょいと家に遊びに来ることも多い陽介は、その中でも親しい部類に入るのではないだろうか。
持ってきたホームランバーを嬉しそうに頬張る姿を見ていると、本当に妹に欲しいと思った。「じゃあ堂島家の嫁にでも来たら?」と月森は、非常に態とらしく笑って言ったが、流石にその申し出は丁重にお断りしてある。
「菜々子ちゃん、いつもはなにしてるの?」
「えっとね、クイズ、見てるよ」
「すごいな、答え分かる?」
「うん!」
菜々子は得意げに足を少しバタバタとさせながら微笑む。素直で愛らしい少女だ。母親がいないと言う影を微塵も感じさせない。少女の父親とは軽くしか面識がないが、確かに真っ直ぐな人だと思う。父想いでしっかり者と言う性質は、寧ろ、その少し欠けた部分に起因するのかも知れないと、何となく考えた。
「あ、そうだ。この前、からあげくれたの、ジュネスのお兄ちゃんだって、お兄ちゃんが言ってた……ありがとう、ジュネスのお兄ちゃん! えっと、とっても美味しかったよ」
「菜々子ちゃん……! 礼儀正しい子だなぁ、ホント」
よしよしと抱き締めてあげたくなったが、これを戻ってきた兄に見られたら、可也、不審がられてしまいそうなので、撫でるに留めておく。えへへっと菜々子はくすぐったそうに目を細めて笑った。屈託のない笑顔は正に癒しそのものだ。
「あのね、お兄ちゃん、ジュネスのお兄ちゃんが来ると、すごくうれしそうなの」
「ははっ、そうなんだ? お兄ちゃん、いつもなにしてる?」
「上でご本読んでるみたい」
「本っ当に、暇なんだな……不憫なヤツ……」
それでは親友が遊びに来るのでも喜ぶと言うものだ。陽介はうんうんと頷く。菜々子は首をことりと傾げた。
「菜々子、ずっと本読んでるの、おもしろいかなって思って、聞いてみたの。でも、お兄ちゃんは、静かでいいって言ってた」
「へぇ。あー、でもそういやそうか……アイツ、一人行動好きっぽいし」
転入してきた頃も、積極的に人と関わろうとする様子が見られなかった。陽介などは希少過ぎる程に例外だろう。間抜けな所を助けてくれたのだから。
(優しいヤツだなって、あん時は思ったけど)
それからマヨナカテレビのことがあって、親しくなって。多分、それがなければ、今の様に関わっていないのではないだろうか。月森は未だにクラスメイトに対しては、凛とした壁を持っている。拒絶ではないが、受容を見込めないような、そんな真っ直ぐな壁だ。恐らく月森は、一人で何でも熟せる。陽介がいるのはたまたまだ。
『陽介と会うのが趣味っぽいかも』
首を捻る。言動と行動に矛盾を感じる気がするのだ。孤高の人と迄は行かないものの、人間関係の積極性が薄い月森孝介。自分が相棒と呼んでも親友と呼んでも、笑顔で答えてくれて、果ては会うのが趣味とまで言ってくれる心の友。どちらが正しい姿なのだろうか。
「ただいま、陽介、菜々子。待たせてごめん」
急にドアが開いて、全身がモノトーンの友人がぬっと現れた。右手にはビニール袋と左脇に紙袋を抱えている。
「ジュース買ってきた。菜々子はリボンナポリンだったよな」
「うん! 菜々子、リボンナポリン好き!」
「陽介はリボンシトロンだろ? 飲み慣れてるし」
「サンキュ」
テレビでは精神力の回復に効果があるというリボンシトロンの方を愛飲している。ひゅっと投げられたアルミ缶はまだキンキンに冷えていて、気が利くお兄ちゃんだな、と陽介は思った。菜々子はプルタブが上手く開かないと格闘していたので、代わりに開けてあげた。そのまま口つけて飲むのは、彼女的にはNGらしい。朝に洗ったらしいコップを水切り台から取り上げて、そこにオレンジの液体を注ぎ込んだ。陽介と月森は、勿論、直でだ。
「あれ、お前はリボンナポリンなんだ」
「陽介が、リボンナポリンの気分だって言ったら変えようかと思って」
「マメだな」
炭酸のリボンシトロンはスカッとした喉越しでさっぱりしている。後味がぴりぴりするので、菜々子にはまだ早いのかも知れない。
「な、陽介。一口くれない?」
「なんだ、お前もリボンシトロン派ってか?」
「うん、実は。炭酸飲みたくなった」
「んじゃ交換。俺にもリボンナポリン一口」
「オッケ」
缶を交換すると、直ぐに口に運んだ陽介と対照的に、月森は暫し渡された物を見詰めた。
「冷えてて美味しいね、お兄ちゃん」
横でダイニングの椅子に腰掛けている菜々子が、にこにこと兄に向かって微笑んでいる。
「えっ、あぁ、そうだな……うん。じゃ、いただきます」
「なんつー礼儀正しさだよ」
思わずぶっと笑うと、心外そうな目で見られた。ゴクゴクと音を立てて、リボンシトロンが月森の喉を通っていく。顔を上げているので、喉仏が動くのが良く見えた。線の細めな身体をしている様に一見すると見えるが、剣を振り回しているだけあって、きちんと筋肉もついて体格は良い。陽介の方こそ、小太刀なんて使っている所為か、俊敏さばかり身について、ひょろいと千枝にすら言われていた。
「ご馳走様」
まじまじと見ていたら、いつの間にやら飲み終えたらしい。月森は缶をテーブルに乗せた。
(飲み、終えた?)
「っておい! 俺の分じゃねぇの!?」
「あ、悪い」
「ひでっ! だったらこっち飲んでや――」
「ダメ」
月森は陽介の持っていたリボンナポリンの缶をしっかりと掴むと、にこりと笑った。
「良いだろ。元々、俺が買ってきた物だし」
腕力で敵わないことは、先程体格について考えた通りで知っている。為す術なく缶は呆気なく持ち去られ、月森は上機嫌で缶に口をつけた。言うことは間違いではないが、何とも納得が行かずに陽介が腕を組んで唇を尖らせると、菜々子がパッと椅子を降りて、自分がそれまで飲んでいたコップを持って陽介の元へと近寄ってきた。
「ジュネスの……えっと、陽介のお兄ちゃんに、あげる」
「な、菜々子ちゃん!?」
(てか今、俺の名前!)
二重の驚愕に瞬きを重ねれば、菜々子はにっこりと笑っている。
「菜々子、全部飲めないから」
こんな幼い子に気を使わせた!
陽介が俄にショックを受けたのと同様に、月森も驚いた様だった。
「! ご、ごめん、陽介。こっち飲んで良いから。菜々子も、自分の分、飲んで良いよ」
慌てて缶を握らせて、菜々子に狼狽しながらも説く月森。
「でも――」
「冗談だったんだよ。はぁ、参ったな……」
少しずつ温んでいく缶をぎゅっと握って、陽介は目の前の光景に再び瞬きを繰り返す。
そして。
「ぶ、っははっははははははっ! もうダメ! おかしすぎて死ねる! 月森、お前……っ!」
思わず膝から崩れてしまった。缶だけ落とさない様に握り締めて、陽介は床を片手で叩いた。バンバンと音が響く。
「笑うな! 五月蠅いぞ陽介!」
「あははははっ」
「菜々子まで!」
「お兄ちゃんたち、おもしろい! あははっ」
「……あぁもう、失敗した。何か、色々と……」
がっくりと項垂れる姿を見ると、余計に笑けてくる。暫く、ツボに入った雪子の様に陽介は笑い転げて、月森は終いにはむっとした目でこちらを睨めつけたのだが、それが余計に可笑しくて、更に笑ってしまうという有様だった。そうこうしている内に、菜々子には友人のお迎えが来てしまって、タイムリミット。彼女と遊ぶ時間が取れなくて残念至極ではあったが、「陽介のお兄ちゃん、また来てね!」と菜々子ちゃんには言って貰えたので、また近日中に必ず来るから、と固く約束をした。勿論、指切りげんまんで。