Just call your name -13

 5日に及んだ連続勤務を終えて、陽介は伸びをした。今日も晴天で、沈み始める太陽が空を橙色に染め上げている。
「お疲れ、陽介」
 いつだったか月森が、陽介の髪の色は夕焼けの色だな、と気障な台詞を言っていた記憶がある。だから、女の子にそういうことは言えば良いのだ、と陽介は常々思っていた。どうにも月森は人付き合いが悪い。折角の青春真っ盛りの高校生活なのに、女っ気が一切ないのだ。せめて千枝や雪子、りせと言った仲間とでも遊べば良いものを、やっていることと言えば釣りか読書か、偶に愛家にいるのを見掛けるとか、そういうことくらいだ。
「助かったぜ、月森」
「いえいえ、どういたしまして。陽介の頼みだからね」
「やっさしーい。流石だな、親友!」
 いつも優しい親友に、休憩中に地下の売り場で買った、少しお高いチョコレートを胸に投げてあげた。
「甘いモン、好きっつってただろ? それ、女子に人気なんだよ、うまいらしいぜ」
「有難う。チョコレート好きなんだよね。まぁ、出来たら2月とかに貰いたいけど?」
「はは、んじゃ、2月にもやるよ。って、俺がやらなくたって、どうせトラック一台分くらい貰うんじゃね?」
「陽介、漫画の読み過ぎ」
 運び切れない程のチョコレートが、山の様に堆く積み上げられて、なんてのは、確かに幻想だろう。八十稲羽の人口を考えても、トラックはなさそうだ。
「でも言質取ったからね、2月には期待してるよ」
「へいへい、覚えてたらな」
「忘れさせない」
「あ、月森くん、お疲れ様ー!」
 千枝が向こうから走ってきた。彼女も既にエプロンを取り去っていて、拘束を解かれたのだろう。だったら、彼女を送ってやるかな、と一瞬思い、寧ろ、三人で打ち上げ的なことでもしようかな、とも考えた。
「千枝も、ありがとな!」
「え?」
「あー、最初はめんどくさいって思ってたけどさ、バイト代もよかったし、楽しかったよ! 毎日ビフテキ食べられたし!」
「相変わらず肉だよなぁ、お前」
「うるっさい! でも流石にちょっと疲れたよね」
「千枝、送ってってやろうか?」
「その必要はない、かな」
「あれ、天城」
「千枝、終わるの待ってたんだ。帰ろ?」
「なんだ。お姫様のご登場じゃ、俺は退散するしかねぇなぁ」
「やめろっつってるでしょ! このバカ!」
「イデッ! だから、足技はやめろと言ってるでしょうが! テレビで鍛えてんだから!」
「なぁ、ようす」
「バカなこと言わないでって言ってるでしょ」
 千枝が大きな胡桃色の瞳を釣り上げた。
「陽介」
 彼女が名前を呼んだ刹那、バンッとフードコートに音が響いた。乾いた音が銃声の様に、暮れ行くオレンジの空を割く。音に怯んだのは陽介だけではなかった。千枝も、雪子も、目を丸くしている。
「つき、もり?」
 音を出した張本人、月森の骨張った指が、手首を掴んでいた。親指と人差指がくっついている。陽介の手首は細い、と、指摘されたことがあった。真意が全く分からず、恐る恐るアッシュグレイの瞳を覗き込む。目が合った瞬間に、思わず身体が小さく跳ねた。
「あの、月森……せんせい?」
 千枝が来てからずっと黙っていた月森に、どうかしたのだろうかとは思っていた。些細な違和感は少なくない。どうして怒っているのだろうかとか。
(怒ってる?)
 指先に篭められた力が、強くなった。ぐっと握り締められて、そのまま跡が付いてしまいそうな力加減で。眉根が寄せられて、怒っている様な威圧感があるのに、どこか辛そうな表情にも見える。
「ようすけ」
「へっ?」
 小さく名前を呼ばれたと思うと、そのまま引っ張られた。引き摺られる様に、陽介はよたよたと手を引かれるまま付いていく。
「いってらっしゃーい」
 遠くから千枝か雪子の、或いは双方の声が聞こえた。
「月森? なぁ、どうしたんだよ、お前」
 返答はない。手首を掴む力も同じままだ。解けない力ではなかった。体格差は多少あるが、本気で抵抗すれば、拘束を解くのは容易い。けれど、そうする気にならなかった。怒っていると言うのならば、何故。こうして自分を引っ張る月森の真意は何か、知りたかった。
「どこ、行くつもりだ?」
 やっぱり返答はない。無言のまま、陽介は連れられて行く。
(まぁ、いいか)
 全体的に月森の行動には為すがままだな、と思わないでもなかったが。
 オレンジ色の中を歩いて行く。影が長く伸びていた。手を引かれているのを見たどこかのおばさんが、ひそひそと話している様な声は聞こえたけれど、いつもの陰口と同じ様なものだと思って無視する。そんな声は、どうでも良かった。ただ、自分と彼が話す内容が誰かに聞かれるのは何となく嫌で、暫くは無言を貫く。どこまで行くのだろうかと思えば、彼の自宅方面にでも向かっているらしく、鮫川の土手に差し掛かった。
(なんか、ここに縁があんのか)
 人気はない。夕方の鮫川には誰もいなかった。話を聞くなら、ここが良いだろうと思う。
「なぁ、怒ってんのか?」
 やっぱり返答はない。けれど、こうして連れている以上、会話する気がない訳ではない筈なのだ。だったら、話し掛けてみるしかないだろう。返答が得られることを期待して。
「俺、なにもしてないよな? つーと、さと……あ、千枝と天城?」
 指先が微かに反応した。
「もしかして、さっき、名前で呼んだから?」
 ぴたっと足が止まる。
「もしかしてさぁ、お前、俺と千枝が付き合ってるって話、すっげー気にしてた?」
「してたよ、ずっと。最初に聞いてから今までずっと」
「……悪いことした」
 そうか、と思った。
「お前が里中のこと気にしてるなんて、知らなかったから。まぁ、あれで可愛いとこあるし? サバサバして付き合い易いってのはあるよな。うんうん、俺はどっちかってーと天城みたいなのがって思ってたけど、最近はちっとキツイかなって気も」
「陽介」
「でも、安心していいぜ、月森! 実はさ、口止めされてたんだけど、俺と里中が付き合ってるって、嘘――」
 指が手首から離れた。そのまま指先は、頬に触れる。振り向いた月森と視線が一度交差して、すっとアッシュグレイが閉じられた。瞳が見えない。そんなことを、後から認識した。陽介の脳の処理よりも先に薄い唇が重なって、反応を示すことも出来ないまま、脳の動きがそこでショートして、止まる。
「もう、喋るな」
 その言葉は、唇が重なる前に、多分聞いた言葉だ。
 月森は怒っている。それは、千枝と陽介が付き合っていることに起因している。二人が付き合うことが、月森にとっては、耐え難いことだった。なぜなら。
(好きな、奴が)
 陽介が思ったように、千枝が好きだから、ではなくて。
「出来るって思ったんだよ」
 唇が離れた。思わず触れたそこを手で押さえると、腕が伸びてくる。ぎゅうっと、抱き締められた。河原で泣いていた時よりも強い力で。胸を貸すのではなく、本当に、抱き締めている。
「陽介と里中が付き合っているなら、それを祝福してあげられる。陽介の幸せを喜んであげることが出来るって。可笑しいな、さっきまで出来てたのに。二人で楽しそうにしてても、映画に行ったって聞いても、それで良いやって思ってた。陽介はノーマルだし、好きだなんて一生言えないだろうし、それでも特別だって言ってくれるから、それで」
 胸の音は独白に不釣り合いな位に静かだった。
「本当、可笑しいよな。なのにさ、里中が陽介って言ったの聞いた時に、全部吹き飛んだ」
 ぐっと、腕に力が篭められた。
(痛……)
「陽介って、呼ぶのは俺だけなのにって」
 千枝って陽介が呼んでたから、もしかしたらそういうことになってるのかなって、勘付いてた筈なのにね。
 ぽつりと呟いて、自嘲するように月森は笑う。
「陽介って呼んだら、他の誰でもなく俺が呼んだって、思って欲しかったんだ。それだけ。たった、それだけなんだ。信じてよ、陽介。それ以上を求めているつもりじゃなかった。そうじゃ、なかった……」
「クマ、呼んでんじゃん」
「イントネーションが違うよ。ようすけって、丸い響きが良いんだから」
「……変なヤツ」
 月森の言葉ではないが、確かに、ヨースケは少し直線的な響きに感じられた。
「つっか、声聞けば分かるだろ」
「そうですね。陽介くんてばリアリスト。でも、それじゃ、ダメなんだよ。理屈じゃないから」
 どこかの映画だったかで聞いたことがある。恋は落ちる。落とされる。多分、理屈なんてどこからどこにもないのだ。
「――さっきも言ったけど、里中のアレは、嘘だから」
 他に言い様もなかったのでそう言うと、月森はクス、と笑った。
「好きだよ」
「豪速球投げんな」
「好き。陽介が好き」
 この男は、一体、どんな気持ちで話を聞いていたのだろうか。嘘だなんて知らず、好きな人に恋人が出来たと、しかも本人から聞かされて、デートの話も聞いて。
「その……悪かった、な」
「何が?」
「え、と、色々?」
「具体的に謝ってくれないと」
「わぁったよ。えーと、まず、嘘ついて悪かった。それと、傷付けるつもりはなかったけど、結果的には傷付けてゴメンナサイ。傷付けてる自覚がなかったことについてもすみませんでした。さっきも、ぜんっぜん分かってなくて……ごめん」
「良く、出来ました」
 泣きそうな声に聞こえたけれど、きっと月森は泣いていないのだろうな、と思った。柔じゃないと言う訳ではないけれど、そういうことではないと思う。
「ごめんね、そっち系で」
「いや、あれは……その」
 完二の心の中や、林間学校で揶揄ったことを、今更に後悔した。もしかしたら、月森だって傷付いたのかも知れない。彼が語らない以上、勝手な憶測で謝罪する方が失礼だろうと思ったので言わなかったが、もしも、そうと言われたのならば謝ろうと思った。きっと、一生でも言ってくれないだろうけれど。
「キモイ?」
「んな訳あるか。お前は俺の親友。言ったろ、特別だって。そんなん、変わんねぇよ」
 差別してはいけないとか何とか、そう思っていたことは全て抜け落ちていた。変わらない。月森は自分と何も変わらなくて、やっぱり特別な存在で、親友だった。単純に、そう思えた。だから嘘偽りなく言って笑うと、月森は安堵したように息を吐いた。
「良かった」
「それと、一個だけ言っておきたいんだけど、里中だからな、提案したの。月森に嘘言えって」
「まじ?」
 腕が解かれて身体が離れる。少しだけ距離が空いて、月森はじっとこちらにアッシュグレイの眼差しを向けた。まじ、なんて彼にしては珍しい。
「まじ。敵を欺くにはまず味方から、とか言って。はぁ、最初っから言っておけば、こんな面倒にならなかったってのに」
 月森は少し黙ると、小さく溜息を吐いた。
「……やられた」

 

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