深夜、クマもすっかり就寝している時分に、目が冴えていた陽介は、そっとベッドから起き出して、机に座った。肌色のうっすらした光を頼りに、机の白色蛍光灯を点ける。意外と光は目に眩しかったが、クマはそれに気付いた様子なく、すやすやと眠っていた。
「やっぱ、共通点つったら、そこか」
ジュネスの情報網は侮り難い。去年の4月から前後1ヶ月に限って、八十稲羽に転入してきた人物を、男女問わず、網羅することが出来た。ほんの、数日のことだ。そしてその情報によれば、該当者は、三名しか見つからなかった。
特別捜査隊でも少し使っていたノートを脇から取り出して、そこに、三名の名前をもう一度書き込んだ。
――月森孝介。
――生田目太郎。
――足立透。
三人しかサンプルがいないことも考えると、性別に関しては、偶然一致している、と考えても不思議はない。それぞれに@ABと番号を振り、高校生、元代議士、刑事、とついでに書き足してみた。
「八十稲羽に来た、経緯は」
@両親の海外渡航による、A離婚し職を追われて、B左遷。
足立に関しては詳しくないのだが、確か、元々はエリートだったと聞いた気がするので、恐らくそんなところだろう。経緯に於いての共通点はない。精々言えるとすれば、自分の意思で来た訳ではない、ということくらいだろう。否、それですら、生田目は自分の意思で来たとも考えられなくないという意味では、共通するか疑わしい。
「ってことは、外から来た人間ってのが、キーか――?」
外から来た人間全てに力が備わっていたのだとすれば、それ以前に来た陽介や、その後に来たりせや直斗も該当する筈だ。二人にもさり気なく話を聞いてみたところ、りせはぼんやりとしかテレビを見ていなかったとのことだが、事件との関わりを考えていた直斗は、テレビに映った人影に対して、どういう原理でテレビが映っているのか、ということを確かめるべく、画面を含めて何度か手を触れたと話した。そして、月森の様に、テレビの中に手が侵入するということは、なかった。陽介も試したことはないが、月森の様な力はなかったと思われる。つまり、外部からの人間だとしても、その全てに能力が備わっていたということではない。だとすると、時期的な問題かとも思うが、足立、月森、生田目が転入してきた時期というのも、それなりに幅があり、曖昧だ。
外から来た人間に、他に共通すること、出来事とは何か。流石にこれ以上の進展は、陽介一人で考えても、解を出すのは難しそうにも思える。ふう、と息を吐いて、ノートを閉じた。トントンと軽く立ち上げて叩くと、挟んでおいた写真が一枚、落ちてきた。無理を言って譲って貰った一枚。夢の中の少女が写っている。
「本当の真相を知ることが、月森にしかできないから――」
今日は疲れていた所為か、ゆっくりと意識が落ちて行く。暖房が掛かった部屋は暖かく、心地良い。
そうだよ、と声が聞こえた。半覚醒状態で、夢を見ている様に、うっすらと赤茶のポニーテールが見える。
『ハナくんには、決して掴むことが、出来ない。だって君は、“あそこ”の、客人ではないから』
意識と無意識の境目。
『ベルベットルーム?』
月森の声が聞こえた。
*
結局、朝までそのまま、机に突っ伏して眠ってしまっていたことから、翌日は背中が痛かった。歩きながら、首をコキコキと何度も動かしていると、何してるの、と声を掛けられた。
「おはよーさん、天城。あれ、里中は?」
「今日は用事があるって」
里中に朝から用事があるなんて珍しいな、と思ったが、カンフー研究会とかいう謎の部活も偶には朝練でもしているのかも知れない。そうだとすれば、冬の寒い朝からご苦労なことだ。
「首、どうかしたの?」
「それがさ、机に座ったまんま寝ちまってて……」
「へぇ、珍しい」
にこりと優雅に笑う天城だが、その意図する所に気付いて、相変わらず名前の通りの雪の姫だなと思った。普通、机に座って眠っていたと言えば、勉強してそのまま、と考えるだろう。つまりそういうことだ。
「まさか、勉強? あ、試験ならまだ先だよ?」
「俺、天城にどう思われてんの……?」
以前より思っていたが、天城は花村のことを、余り親しく思ってくれていないのではないだろうか。携帯の番号ですら、聞き出すのには苦労した。しかも、聞き出しても、使ったことが殆どない。
「……ライバル?」
「うっそ、なんのだよ!」
「花村君と千枝、仲、良いから」
至極真剣に、天城は真っ黒な瞳をこちらに向けた。
「だから、俺は、里中のことは何とも思ってねぇっての!」
「気になるものは気になるよ」
「俺、天城に協力的なつもりなんだけど……」
「それとこれとは、別」
ふるふると首を振る天城に、これ以上何かを言うのも無駄なのだな、と思った。女王は頑固だ。
「花村君とは、仲良さそうに喋ってるから」
「そらまぁ、仲間だし」
雪子とはそれ程でもないかも知れないが、千枝は前からそれなりに親しくしていたし、サバサバしているから付き合い易いのである。
「いつも、そう、感じてる訳じゃないけど、偶にね」
触らないで欲しいなって思う。
雪の様に溶けそうな声で、吐く息よりも白く、雪子はぽつりと言って、微笑んだ。
「千枝と花村君って似てるよ。だって、他意がないんだもん」
褒めている訳でもないようだが、格別、貶している様でもないらしい。どうにも、頭の良い人間の考えることは分からない。月森も同じだ。
「彼だって――」
「陽介!」
グイッと腕を掴まれて、引っ張られた。名前を呼ばれた瞬間には、噂をすれば何とやらだな、と脳が反応している。
「珍しいな、天城と、なんて」
「そこで会ったんだよ。ハヨー」
「お早う。天城も」
月森はちらりと天城に視線を向けた。
「おはよう、月森君。……花村君、私、先に行くね」
雪子は綺麗な黒髪をふわりと揺らすと、一歩離れた。
「天城、あのさぁ」
「さっきの、半分冗談だから。怒ってる訳でもないよ。ゴメンネ」
遮る様に言って、雪子はたたっと駆けていった。日本人形の様な黒髪が揺れるのを、追うこともなく見守る。まぁ、怒っている訳でもないらしいし、分かってくれている様だから、良いか、と思った。
「何を話してたんだ?」
「なんだろうな。あー……俺が背中イテェって話?」
何で疑問形なんだよ、と月森は背中を軽く叩いた。
「イデッ! 痛いっつったろーが! 机で寝ちまって、なんか身体中イテーんだよ」
「へぇ、陽介にしては珍しいじゃないか? 何してたんだ? まさか勉強じゃないよな?」
「どいつもこいつも……」
天城と同じこと言いやがって、と拳を握ると、月森は一瞬、不機嫌な顔をした。
「で、何してそんなことになる訳?」
直ぐに元の表情に戻って、月森は肩を竦めた。
「なんでもいいだろ。考え事してたんだよ」
まだ事件のことを考えているのだとも言えず、適当に言葉を濁した。考え事であるのは事実だ。
「ふーん。陽介に考え事なんて、あるんだ?」
「言ってろ。悩み多き青春時代なんだから」
「そっか。確かに、俺も、悩んで眠れないことはある」
「へぇ、神経のぶっといセンセイでも、そんなことあるんだな」
感心した様に言うと、再び不機嫌そうに、眉間に皺が寄った。自分だって同じことを言った癖に、こちらの指摘には不機嫌で返すとは如何なることか。
「……悩んでばっかりだよ」
ふうん、と陽介は返して、腕を頭の後ろで組んで空を仰ぎ見た。雲一つない快晴には、一片の迷いも曇りもない様に思えた。
*
放課後、りせに昨日のチョコの礼を言いに行く、と言う月森に、『特製チョコをどうも』と伝えておいてくれ、と事伝を頼み、陽介は一人、帰路に着いた。昨日は、週末に出た分、バイトが休みになっていて、今日も、前にバイトの子とシフトを代わったことで、バイトがない。教室に留まっていても何もないし、図書室で勉強する気もないので、とっとと学校とはおさらばすることにした。長居は無用だ。
特製チョコは、陽介の読み通り、豆腐を使用した力作(と、本人からのメッセージカードにあった)だった。どうして嫌いだと言うのに豆腐を使うのだとか、別にあの無味な感じが嫌いなだけだからチョコに加工したら普通に食えるだろとか、言いたいことは色々あったのだが、豆腐屋の看板娘の名にかけて、ということかも知れない。直斗の協力があった為か、普通に美味しかった。色々な意味で『どうも』となった訳だが、それらがりせにちゃんと伝わるかどうかは疑わしい。伝わらずとも困らないが。千枝と雪子のチョコも、普通に食べられる、美味しい物だったので、命拾いした。
特に何事もなく家に戻ったところ、全員ジュネスに出ているだろう花村家は、人気もなく静かだった。部屋に直行して、鞄を机に下ろすと、遊介は制服のままベッドに寝転んだ。瞼を閉じても、眠気はない。最近は夢を見ることもなかった。
「俺だけじゃ、真相に到達できない、か」
それならどうして、公子は、現れたのだろう。色々な人に話を聞いたりしたけれども、調べてみたけれども、どれも、近付けていない。不足だ。いずれ、月森は八十稲羽を去る。それまでに、きっと、彼は真相に辿り着こうとするだろう。陽介でさえそうしようと思うのだ、月森が気付かない筈がない。
――彼を、死なせてはいけないよ。
彼女の言葉が頭を過ぎった刹那、ピリリッと突然、着信音が響いた。慌てて鞄を探ると、月森の名前が表示されている。
「どうした、月森? りせになんか言われたってか?」
『陽介……今、どこにいるんだ?』
「もう家戻ってっけど? 今日、バイトねぇんだ」
『……今から行っても、平気?』
「いいけど、どうかしたか?」
声の調子がいつになく硬かったので、陽介は首を傾げた。月森はそれに返答せず、『じゃあ、行くから』とだけ言って、通話を切った。
*
通話からほんの十分程度で、玄関のチャイムが鳴らされた。暖房がついて暖かい部屋から、寒い階下に降りるのも面倒だし嫌だなと思っていると、焦れたのか、ガチャリとドアの開く音がする。都合が良いと思って、陽介は部屋から顔だけ出して、「勝手に上がっていいぜ」と言った。月森は心得てくれたらしく、お邪魔します、と聞こえた。
(飲みもん、いっかな)
しかし冷蔵庫は下にある。面倒だ。億劫になって、思わずベッドに腰掛けた。客を迎え入れる態度として不適であることは分かっていたが、相手は親友だ。多少の行儀の悪さには目を瞑ってくれる、そんな仲だろう。
階段を登る足音は静かだった。月森は、足音を殺して歩くのが癖になっているのだと言う。苦無を得物とする陽介よりも、余程、忍者みたいな性質をしていると言って、以前に笑った。それについて、目立つのは面倒だから嫌いなんだよ、と、月森は答える。開けたままのドアから暖気が漏れ出していく様な気がして、身体全体がスッと一瞬で冷えた。少しの時間だったら平気だろうと思っても、まだ外気は寒々しく、戸建ての家の、廊下は寒い。月森は音もなく現れると、パタンとドアを後ろ手に閉めた。閉めてくれて助かった、と陽介はベッドから腰を上げようとする。
音もなく、月森は素早く近付いたと思うと、陽介の目線は天井を貫いていた。
(――へ?)
銀色の鈍い光を放つ、鋭い瞳と目が合った。逆光で表情が見難いと思っていると、直ぐに瞼が閉じられる。唇が軽く触れたと思えば直ぐに離れて、月森は陽介の上半身を抱える様にして抱き着いた。冷えた腕が巻き付いて、一瞬、びくりとした。徐々に体温が奪われていく。彼の方へと、熱が伝播する。
「なんか、落ち込んでるのか?」
よしよし、と頭を撫でると、うぅ、と呻く声が聞こえる。
「陽介、久慈川と……」
「りせがどうかしたのか? なんかされちった?」
「……久慈川は、洒落で済まないことはしないよ。弁えてる。そうじゃなくて……」
ガバッと顔を上げた月森と、目が合った。何だか知らないが凹んでいる様なので、笑って頭を軽く叩いてやる。
「いや、良いや。それにしても、陽介が、温い」
「外から来たお前に比べりゃ、そうなるだろ」
ん、と呟いて、月森は、上から伸し掛かる様に、陽介に体重を預けた。腕はまだ背中に回されたままになっている。
「日曜日、空いてたら、出掛けないか? 電車でちょっと、遠くまで出たい」
「遠くまで……?」
鸚鵡返しして、陽介は、鈍行列車の向かう先を頭に思い浮かべてみた。
(あんまり、悠長にもしてらんねぇ気がするけど)
月森は、もう、一ヶ月もすればいなくなる。それまでに、様々なことへの答えを出しておきたいと思った。公子のことも、マヨナカテレビも、そして。
「……お前も、温くなってきた」
「俺は、陽介の熱を奪ったんだよ」
自分のものだった筈の熱が、月森のものへと変換される。奪われたという言葉の通り、気付いたら、指先が触れた月森の背中の方が自分よりも温かい。心地良いと感じて、たったそれだけで、例えば誰かに見られたら言い訳も出来そうにない体勢でいることに、許容を与えていた。
「奪われちゃったの、初めて?」
「バッカ」
耳元に吐息が掛かった。静かな部屋なのに、詰めた様な声を出す月森はきっと、確信犯なのだろう。
(あれ、なんか、前に使い方違うっつってたっけ……)
「……そうかもな。お前といると、初めての経験ばっか」
「キスは?」
指先が、唇をなぞった。
「残念ながら、ハジメテではありませんでした」
「えっ、嘘っ!」
「テメェ……ファーストキスだと思って奪ったのか」
「えーっと、いやぁ、純情な陽介のことだから、もしかしたらそうかしらん? って思っただけだって」
「今じゃガッカリ王子で定着してるけどな、これでも、向こうにいた頃は、彼女くらい作ったことあるっつの! お前だってそうだろ?」
都会と田舎は違うとか、どちらが進んでいるだの、ませているだのということを言いたい訳ではないが、中学高校にもなれば、惚れた腫れたの話なんて散々耳にする。
「好きだった?」
「聞けよ」
「陽介から告ったの?」
「聞かねーし……いや。告られて、付き合ってみた。ま、一回キスしただけの仲。彼女っつっても、その一人だけだけどな。んで、こっち来てからは――小西先輩に憧れてたから、他はねぇよ」
「俺は、好きな人なんて、いなかったよ」
独り言の様に呟かれたその言葉を、意外だとは思わなかった。月森に最初感じていた、壁の様な何かの正体に近付いたとだけ思う。表面上は誰にでも優等生、その裏、過度の関わり合いは明らかに嫌がる。
「人を好きになるとか、考えなかった」
「……は? ナニソレ、達観?」
さぁ、と月森は呟き、黙って腕の力を強くした。
「陽介、このまま、寝ちゃおうよ」
「クマ戻ってくるっつの」
「起こしてくれたら好都合」
「バカ言うな! どんだけ騒がれると思ってんだ!」
唯でさえ騒がしいクマなのだ。大好きなセンセイと陽介がこんな体勢でいるのを、見逃す筈がない。ぎゃあぎゃあと騒いだ挙句、母親辺りにまで目撃されたら、本当に笑えないことになってしまう。
「五月蠅ければその時は、『一撃で仕留める』」
雪子姫の似てないモノマネに一瞬、笑ったが、微塵も離れる気配を見せない月森に、流石に心配になった。
「こら、バカ言ってないで、離せっての」
「やだ」
「んなにデケェ図体して、子供か!」
「子供だよ。まだ、未成年だし。……我儘だし」
月森は急に離れると、上半身を起こした。寝転んだまま見上げると、後ろから橙色の光が差し込んでいて、月森の顔が影になって、視界が何となくぼんやりとしている。
「――に、――ってよ」
「月、森」
頭を振ると、月森はにこりと笑った。良く見えないけれど、それだけは何となく分かる。
嗚呼、と感嘆する言葉が溜息になって落ちる。酷く、唐突に、離れ難い、と思った。