Just call my name -8

 日曜日のジュネスは、戦場だった。バレンタインを舐めて掛かってはいけない。あれは、乙女の恋愛戦争なのである。身も心も色々な意味でボロボロになりながら、陽介はバレンタイン商戦を戦うことになった。流石のクマでさえ、色をなくした次第である。
 八十稲羽に来る前も、バレンタインとチョコレートについては、その壮絶さをテレビで見知っていた。デパートの高級チョコレートが飛ぶ様に売れるだとか、そういうことを他人ごとの様に見ていたのだ。実際に貰ったこともない訳だし。まさか、本当に飛ぶ様に売れていくのを捌かねばならなくなる日が来るとは思わずにいた。
 去年までは、まだジュネスも出来て間もないということもあり、チョコ売り場に力を注いではいなかった。それでも、季節物の売れ行きをまざまざと実感させるだけの戦績は残している。今年は、外部からの委託販売等、名のあるチョコレートをバレンタインフェアとして、取り揃えたのだ。手作りチョコの為には製菓用品と、抜かりもない。果たして、予期した通りに、それらは全く飛ぶ様に売れていったのである。バレンタインは恐ろしい、というイメージを陽介とクマに、トラウマの様に刻み込みながら。
 そんな訳で、週明けには、友人やクラスメイトから、バレンタイン前なのにガッカリ王子は疲れている、と散々言われた。事実なので、反論する言葉もない。そうして、その疲れを引き摺ったまま、バレンタイン当日を迎えた。特別捜査隊の女子陣が、きっと、何やかやで月森にチョコレートを贈るのだろうな、と思っていたら、朝も早くから千枝に「花村は、リーダーにあげないの?」と、至極普通のことを聞くかの様に言われて、それだけでもう一日の半分の体力を使い切る心地と相成った陽介である。
「花村、去年は結構貰ってたよな?」
「だよな。ま、顔はいいからな」
 うんうんと頷くクラスメイトに、陽介は文句を言う気力も失せていた。どうせ、口を開けばガッカリ王子だ。言われていることは、百も承知しているので、別に今更傷ついたりしない。そう、去年よりもチョコレートが減ったとしても、もう傷つかないのである。いや、ちょっぴり泣くかも知れないが。
「メゲルなよ。お前は、月森にチョコあげてりゃいいんだって」
 ぽん、と肩を叩かれて、とんでもないことを言われた。
「いやおかしーだろ。どうしてそうなんだよ」
「でも、貰えなかったら、月森がご乱心かもしれねぇだろ!」
「お前ら、月森のこと、なんだと思ってんだ……?」
 クラスで一番のイケメンにしてモテモテの月森が、恐らく大量のチョコレートをゲットするだろう現実が、そんなに辛いのだろうか。どっかに瑕疵でも見つけてやろうという根性にしか見えず、思わず陽介も同情する。そんな軽口を叩く彼等も、決して悪い奴等ではないのだ。顔は、自分や月森に比べれば、それは、劣るかも知れないが。
(とりあえず、直斗クンは、放課後、揶揄いに行くべきだよな。完二も意外と貰ってたりして。どっちの本命を受け取るかね、アイツは……)
 自分に関しては、考えないことにしているという面もあるのだが、後輩の恋路が気になるというのも、嘘ではない。完二には目下、二つの異なった華が傍にある。一方は、男装ながらも非常に素材も良い直斗。もう一方は、女の子の中では頂点とも言える人気アイドルで、正に女の子を絵に描いた様な、りせ。一歩リードという意味では、捜査の際より完二が気にせざるを得ないことになっている直斗だろうが、りせもあれで中々、と面白く見守っている。
 揶揄うことをこちらが止めないから、直斗も変な発言をして対抗するのだろうが、もうこれはどうにかなりそうにもない。
「花村ぁ! これ、アタシと雪子から」
 突然右手からぽいっと投げられたのは、オレンジの不織布の包み。リボンもオレンジ色だ。
「おおっ、マジ!? 里中様様だぜ! 今、お前から後光が見える……! って言いたいとこなんだけど、これってー、もしかして、手作り、とかだったり……?」
 千枝と雪子の料理の腕を考えれば、当然の警戒だ。怯むと、千枝は舌を大きく出した。
「ちゃんと、味見したからねっ! 不味くてももう、知らん!」
「クリスマスの奇跡を祈っとく。なんにせよ、あんがとな、里中! 天城にもよろしくぅ!」
 あの雪子からのチョコレートとなれば、希少価値も高い。先程まで残念そうな目で見ていたクラスメイトからも、羨望の眼差しが注がれるのは、少し優越感だ。
「あ、そうだ。ついでにこれ、月森くんにも渡しといて。アタシと雪子からって」
 月森の分は、白の不織布に黒のリボンで包まれている。それを月森の机に乗せると、千枝は宜しく、と言って背を向けた。
「……そら、別に、構わねぇけど、手渡した方がいんじゃね?」
「そうでもないっしょー。ま、感謝の気持ちってことだから、そゆことで!」
 どちらも義理らしいということだけは、良く分かった。元々知っていたことではあるが。
 千枝と雪子も、チョコレート交換をするのだろうか、とぼんやり思う。友チョコ、なんてのも流行っていると聞いたことはあった。けれど、彼女等の場合、そう呼ぶべきなのだろうか。
(ま、どっちでもって部分もあるか)
 どちらにしても、互いにチョコを贈り合うのだろうな、と思う。非常に優しく、正しく、綺麗に。秘め事の様に。
「ただいま。あれ、陽介、それ……」
「おかえり、モテモテ月森センセ。それ、里中と天城から」
「あぁ、義理チョコ? だったら、有難く頂戴しよう」
 女生徒から呼び出しを受けていた筈の月森は、手ブラのままで戻って、千枝と雪子からのチョコレートだけ、鞄に詰め込んだ。
「月森、マジで貰わねぇんだ」
 その様子に、陽介を揶揄っていた友人の片割れが、些かの驚きを隠さずに呟く。こちらを見た月森は、優等生の笑みを見せた。
「あぁ。義理なら良いけど」
 イケメン月森に、義理でチョコレートを贈る奇特な女生徒もそうはいない。月森は、下駄箱には『本命は受け取らない。下駄箱に入ったチョコレートは不衛生なので、然るべく処分するが、悪しからず』と貼っておいた強者だ。下駄箱には、一切の食品は入っていなかったと聞く。そこまで受取拒否を徹底していれば、自ずとチョコレートを渡す女生徒も少ない。数度呼び出しを受けてはいた様だが、尽く、斬り捨てている。隣で見ていても(正確には隣席ではないので、背後からだが)、清々しい程である。
「あ、花村先輩と月森先輩、いらっしゃいましたね」
 そんなことを思っていると、教室の入口で、後輩が手招きをしていた。意外な姿に、陽介と月森は二人、顔を見合わせる。そして頷いて、彼女の方に向かった。
「今日は、日頃の感謝を伝える為にも、チョコレートを、と久慈川さんにも言われまして。お二人にこれを用意しました」
「うおっ、探偵王子のチョコレート!? すげっ、なんかレアアイテムゲットしたぜ! みたいな気になんねぇ、月森!?」
「希少性は高いな。有難う、白鐘」
「月森先輩にはいつもお世話になっていますから。本当は花村先輩をあげたら最も喜ぶのではないかと言うのが女性陣の総意だったのですが、流石にどうあげたものかと悩みまして」
「お前ら、んなことばっか言ってんのか……?」
 盛り上がった気持ちが一瞬で下降した。直斗のこのネタは、最早、定番と化してきた気がする。そういうのが好きなのかと思ったが(ジュネスの書籍コーナーには、誠に残念ながら、そういうのが好きなお嬢様向けの本も用意されている)、格別、そういう趣味がある訳でもない様だ。
「それより久慈川さんですが、月森先輩が本命以外のチョコレートは義理以外受け取らないということを聞いていまして、これを預かってます」
「……でけぇ箱だな」
 光沢のある黒い箱だ。ホールケーキ程度の大きさはある。
「受け取ってくれない様でしたら、僕に処分して欲しいと」
「そらなんか、損な役回りだな」
 別に、と直斗は素っ気なく言った。
「食べても良いそうですから」
 意外と食い意地が張っている王子様であるらしい。ちら、と陽介は月森の顔を窺ってみる。
「悪いが、受け取らない」
「でしょうね。分かっていたから彼女は僕にこれを託したんです。気持ちは汲んであげてください」
「応えられない以上、そういう曖昧な態度は取らない」
「そうですか。分かりました。これは彼女からの義理の方です。こちらは持って帰ってください」
 電光石火の様な視線のぶつかり合いがあった後、直斗は小さな箱を渡した。陽介にあんなことを言う彼女ではあるが、友人であるりせの感情を汲んで欲しいという想いもあるのだろう。水と油の様でいて、あの二人は非常に仲が良いのだ。バランスも取れている。完二こそが邪魔なのではないか、と思ってしまうことがある位だ。
「あの、花村先輩!」
 虎と狼かと思われる美形の睨み合いに現を抜かしていた陽介の腕を、不意にか弱い力が引っ張った。
「その……今、平気、ですか……?」
 絶対零度とはこの温度だとでも言わん、恐ろしく冷たい眼差しが二つ、陽介を貫いた。そのまま、凍りついてしまいそうだ。
「え、と……用があるなら、向こうで聞くから、とりあえず、こっから退散しよう! な!」
 呼び止めたのは女子からなのだが、居た堪れない空気に耐え切れず、丸で、陽介の方が呼び出したみたいな様相で、陽介は細い腕を掴んで逃げ出した。
(バレンタインって、まじでこえぇイベントだな!)
 チョコレートが貰えるハッピーな日、という認識は、改めねばならないだろう。

*

 要件は難しいことではなかった。差し出されたのは甘いチョコレート。それから、廊下を歩いていた時にすれ違ったことを切欠として、陽介に好意を抱いたのだ、という恋愛の件を告げて、好きだと少女は告げた。チョコレートは甘い。好きという言葉は、それと同じ位に、甘い。
「受け取るだけで良いなら、俺は、拒否したりしないけど、付き合うってんなら、できない」
 月森に言わせれば、曖昧な態度に分類されるのかも知れない。けれど、陽介と月森に至っても、未だ、曖昧なのだ。そして、世の中の多くのことだって、曖昧に進行している。
「そんでも、くれるってのはうれしいから、貰ってっていい?」
「はいっ……! 気持ちが伝えられれば、十分、ですから……」
 その頃の陽介は、既に、バレンタインにはうんざりしていたし、チョコレートに感慨もなかった。単純に、貰ったチョコレートの数を稼ぎたいから、とか、見栄の為に貰った訳ではない。月森には余りオープンにしていないが、下駄箱にはチョコが幾つか入っていたし、机の中にも好意を示す箱は、幾つも散見された。それらを突っ返す気も最初からない。だとしたら、面と向かって貰ったら突き返すというのでは、寧ろ義理に反するだろう。
 少女は走り去った。小柄な背をじっと見詰めて、こういうことが正しいことなのだろうか、とぼんやり思う。
「花村先輩って、意外と罪作りなんだね」
 出来るだけ人目につかないように、と体育倉庫裏なんて場所を選んだのに、目敏い後輩が苦笑してこちらを見ていた。
「泣いてたよ?」
「そういうのは、黙っててやるもんだろーが」
 戴いた箱で頭をコツンと叩くと、大袈裟にイタッと言って、態とらしく、りせは目を潤ませた。
「彼女、欲しくないの?」
「……なんだよ、その目」
 じっと、大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
「千枝先輩の恋人にはなったのに」
「あれは、偽装だっての。お前も聞いてっだろ」
 話が面倒になるから、一年ズには黙っていようと話していたのだが、意外と迂闊な雪子の一言が原因となって、千枝と陽介の偽装恋人についての話は、後輩達にも知れ渡ってしまったのだ。流石に、二人が月森を焚き付ける為にしたことまでは伏せたが、勘の良いりせは、気付いているのかも知れない。
「でも、楽しかったでしょ? りせとこないだ、ポロニアンモールに行った時もそう。花村先輩って、やっぱ、鈍いよ」
「そら、悪ぅございましたね」
 膨れて言うと、そうじゃないんだけど、と呆れた様に言われた。
「とりあえず、これ、先輩の分。この前のお礼もかねて、ねっ」
 月森に出されたのと同じ箱を、今度は本人から直接手渡された。
「花村先輩には、『特別』に作っておいたから、たっのしみにしててねっ!」
 その『特別』には、何か嫌な予感しかしなかった。せめて、食べられる物であることを祈りたい。そんなことを考える陽介を尻目に、にこにこと笑って、りせはターンした。そのまま背を向けて、去っていく。
「ホワイトデー、楽しみにしてるからぁ!」
 姿を視認することが難しくなった辺りで、りせは大声をもう一つあげた。
「先輩もー!」
 その視線が、自分以外を見ていたことに気付き、陽介は驚いて振り返った。銀色の髪が、夕焼けに照らし出されている。
「何だ、月森。んなとこにいたのか? もしかして覗き見してねぇよな? えっちー」
 丁度位置は逆光で、少し距離もあった所為で、表情が良く見えない。
「りせちーに特別なチョコ、貰っちゃったみたいだぜ。真っ赤っかのチョコとか、ありえるかもな。笑えねぇ」
 貰った二つのチョコを、肩に掛けていた鞄に仕舞い込む。序に、中に入っていた黒い箱を取り出した。ラッピングも何もない、まっさらな、箱。
「で、だ。俺、記憶力はいい方なんだぜ? 約束してただろ、2月にチョコやるって。ほらこれ、チョコ争奪戦から一つ、確保したヤツ」
 俯いた状態の月森に近付いて差し出すと、機械の様に右手が動いて、箱を受け取った。これは、義理でなくても受け取られるブラックボックスなのだ。
「美味いって、試食のおばちゃんが言ってたから。まぁ、俺は食ったことねぇけど――パートのおばちゃん保証っつーことで!」
 嫌な予感を振り払う様に、陽介は言葉を紡いだ。経験則から、喋らない月森というものは、何を考えているのか分からないで、怖い。
「ホワイトとビターと両方入ってるのにして」
 言い終わらない内に、口の中に甘い物が侵入した。それが、チョコレートだと認識すると同時に、月森の顔が近付く。中に入れられたのは、自分のあげたトリュフだと、思う。逆算する様に知覚する過程で、唇が重なった。
「んッ――つき、も、」
 チョコレートを噛み砕くよりも先に舌が入り込んできて、丸いトリュフを転がす様に、月森の舌が、這う。ディープキスの経験等ない陽介には、抗うだけの抵抗力すら、まともに備わっていなかった。舌先の熱で、ゆっくりとトリュフが溶けていく。唾液と混ざって、甘い匂いが脳を迷わせる。
 蕩かすだけ蕩かして、月森はゆっくりと舌を抜き、唇を離した。チョコレートに塗れて、唾液が不浄な色を見せている。月森の目を見ようとしたが、また機先を制して月森は陽介の手首を、倉庫の壁に縫いつけた。
「おい、っ、月森……っ!」
 橙の光は遥か後方から、彼の表情は暗くて見えない。
「月森!」
 それでも何とか視線を合わせると、灰色の瞳が瞬き一つせずに陽介の目を見詰めた。眼鏡の奥に見た様な、鋭い視線が、輝いている。
「――ごめん」
 眼差しがふと翳ったと思えば、月森は手を解いた。
「美味しいチョコだな」
 陽介もそう思うだろ、と言って月森は少し笑った。
 口の中にはチョコレートの甘さなんて微塵も残っていなかったので、知るか、と陽介は解放された腕を組んで、そっぽを向いた。
「帰ろう」
 地面に置かれていた黒い箱を鞄に仕舞いながら、月森は切り上げる様に言った。
「……? おう……」
 それをちらりと横目で見る。何となく違和感があった様な気もしたが、それが何かは分からず、陽介は取り敢えず頷いた。
「チョコ有難う。陽介のことだから、忘れてると思ってたよ。ホワイトデーには返すから」
「はは、期待しとく」
 月森はいつになく早足で歩き出した。置いていかれないようにと、陽介も足を速める。りせのチョコレートの特別とは本当に何なのだろうかとか、直斗のチョコレートも手作りだったか聞きそびれたな、とか、色々と頭を過ぎった。
(あ、完二、どうしてたんだろ)
 反転して後輩の様子を窺いに行きたかったのだが、少し距離の離れた陽介の方を振り返った瞳が、相変わらず逆光の中で銀色に、鈍く、それでいてやけに鋭く輝いていたのを見て、言い出せなくなった。鞄の中に入れたチョコレートが、動く度に揺れて、ガサガサと音を立てている。

 

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