Just call my name -3

「マヨナカテレビの噂?」
「あぁ、確か、里中が最初に俺らに言ったんだったよな?」
 そんなことよか、と、机に座っている千枝は、足を軽く動かした。
「身体、平気なワケ? 体育の授業で倒れた話、月森くんに聞いたよ。ってか、アレも聞いたんだけど……」
「アレ?」
「やー……花村は知らない方がいいかも」
 千枝はさっと目を背けた。昨夜の公子と言い、世の中には知らない方が良いことがある、とばかり言われている気がする。けったいな話だ。
「えーっと、あ、そう、マヨナカテレビだっけ? 今更どしたの?」
「どうってことはねぇけど。さっき、なんかまだマヨナカテレビの話してるヤツがいたんだよ。運命の人がーって。そういう、無責任なこと言ってんのってさ、なんでも気に入らねぇなぁ、とか、思ったワケよ」
 両手を胸の高さまで上げて、呆れた様なポーズを作った。
「あぁ、商店街のヤツら? そういうの、ホント、気にしない方がいいって。高校生にもなってあぁいうのってさ、なんか、幼稚なんだって」
 千枝はケラケラと笑った。以前から、こういう態度なので、陽介は千枝を快い人物だと思っているのだ。人間として好いている。
 彼女の言う通り、ジュネスに責任があるとの言い掛かりも然ることながら、それを、店長の息子だから、と言うだけの理由で陽介に当たる様な行動も言辞も、考えが幼いとしか言いようがない。それを知っているから、陽介は気にしないようにと思っているのだが、煩わしいことは確かだ。尤も、最近ではそれも鳴りを潜めて来ている。ジュネスが定着してきたという事情もあれば、それよりもセンセーショナルな事件が起こっていたから、という事情もあるのだろう。
「マヨナカテレビのことは、学校で聞いたんだと思うけど、具体的に誰からって言うよかさ、風の噂、みたいな? そんなんだった」
「風の噂、か」
「そんだけ?」
「引き止めてワリィな」
 千枝はぴょんと跳ねて机から下りた。雪子待たせてるから、と言って背を向ける。相変わらず仲が良いことだと思いながら、陽介も机から下りた。
 公子にマヨナカテレビのことを言われて、そう言えば、まだ、全てが判然とした訳ではないことに気付いた。誰がマヨナカテレビを作ったのか。どうして、テレビに影世界の人が映るのか。真実を探るな、と言う公子の言葉が、皮肉にも引鉄となったのである。
 と、言って考えようにも、今日はバイトがあるので、教室に長居もしていられなかった。いつも放課後にいるのは同じメンツだなとか思いながら、見慣れた顔に背を向けて教室を出て、早足で階段を降りる。月森は最近、部活をしているのでもない様だが、何をしているのだろうかと思った。
 そもそもの事件の始まりを思い出し、月森が転校してきたこと、そして、千枝が、マヨナカテレビの噂を持ち出してきたことを思い出した。無論、千枝が噂の元凶でないことは知っている。陽介も、千枝から話を聞くより前に、そうした噂の存在は聞いていた。出自がはっきりとしないのは、噂には良くあること。だから、無責任だとも言える。誰かが噂を作って、流した。勘だが、その『誰か』は、マヨナカテレビのことを、その中に広がる世界のことを知っていたのではないだろうかと思うのだ。だからこそ、態と『運命の人』という、興味を惹きそうな言葉を選び、流布させた。考え過ぎかも知れないが。
(だとしたら、ソイツって、なんなんだ?)
 テレビに落とした殺人者は、足立。歪んだ救済意識によって、テレビに落とした誘拐犯は、生田目。実行者は分かっているが、果たしてそれが黒幕なのか。
(足立は、誰かに指示されてやったんじゃない。そういう、ヤツじゃない。アイツは、自分の意思で殺した……犯人が別にいるって考えは、否定できるよな)
 けれど、仕組みがなければ、悲劇は起こらなかった。テレビの中に『落とせた』から、足立は落としたのだ。
(仕組み――?)
「なに、難しい顔してんスか、先輩?」
 腕組みしながら首を傾げていると、階段を降りた所で、声を掛けられた。声で誰だかは分かったが、一応、顔を上げると、果たして思った通りに金髪の後輩が近くにいる。相変わらず学校では遠巻きに見られることも多い様だが、月森や陽介を始め、りせや直斗と言った有名人と親しいことから、クラスメイトらしき人と話している姿も見掛けられるようになっていた。
「よう、完二じゃねぇか。なにしてんだよ」
「今から帰るとこっスけど」
「俺もバイト行くとこ」
 完二は、周囲をきょろりと見回した。
「れ、月森先輩は? 一緒じゃ、ねんスか?」
「……完二、お前、まだなんか妙な誤解してねぇ?」
 足立を捕まえた日、特別捜査隊の面々が悪乗りして、ドレスだとか白無垢だとか言っていたが、陽介と月森は結婚しないどころか、恋人ですらない。あの後、本気で誤解していそうな完二やクマについては、一応、誤解を解く方向で話をしておいたが、完二はあれ以来、月森と陽介とがいると、謎の遠慮をするようになってきていたのである。ちゃんと、極普通の(恐らくそうだ、と陽介の思う)友人――親友である、と、覚えておいて貰わなければ困るのだ。
「や、違いますって! 分かってますから! そういうの、公言しねぇんですよね」
「だから、それが誤解だっつの」
 両手を顔の前でブンブンと振る完二とは、言葉を重ねても相互理解に至らない気がした。
(コイツ、凝り固まってんな……)
 誤解を解くに新たな言葉を費やすのも、時間の無駄だろう。ある種、以前の彼のダンジョンについてとシャドウについて、揶揄い続けたことも原因になっているのかも知れない。すわ人の恨みとは恐ろしいものである。兎も角、陽介は誤解を解く方向は諦めた。それならば新たな話題を振ってしまうに限るだろう。これでも口達者、口撃の魔術師と呼ばれたことのある陽介だ。そもそも口下手な完二等、相手にならないのである。ニヤリと陽介は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「それを言うなら、完二クンこそ、直斗と一緒に帰ったりしねぇの?」
「ななっ、なに言ってるんスか!」
 完二は赤面して、両手をバタバタとさせた。分かり易い態度で実に宜しいことだ、と思う。
「もしかして、今から呼ぶのか? おーい、なお、むぐっ」
「や、やめてください!」
「んーんー、むぐぅっ……」
「だから! 全然! そういうんじゃねっスから! あん時は、っその……シャドウ出すくらい、鬱憤溜まってて……そんで……ってかあぁ! 直斗から揶揄われてるって聞いたっスよ! アンタ本当にそういうの好きっスね! 女子じゃねーんスから、そういうの、やめて――」
「うん。止めてあげようか、完二」
 背後から冷ややかな声が聞こえた。口を押さえ付ける力が緩んだので、慌てて陽介は手から離れて、息を吸い込んだ。完二にその気がなくても、このままでは、窒息死するところだっただろう。
「つ、月森センパイッ!」
「完二、お前、馬鹿力なんだから、ちったぁ加減しろよな。死ぬかと思っただろ!」
 すんません、と言う完二は落ち着かない様子できょろきょろしている。挙動不審だ。
「陽介、昨日の今日でバイト行く訳?」
 そんな完二に構う様子もなく、月森はついっ、と陽介の方に近付いてくる。灰色の眼差しが足の先から頭頂までを満遍なく見詰めた。
「だーから、熱も下がったし、もう平気だっての。朝言っただろうが。それに、俺が抜けっと、穴空いて困っからな」
 ジュネスは決して人手が有り余っているとは言えない状況だ。特に、若い戦力は少ない。力仕事も任せられる男子高生と言えば、陽介位なのだ。
「心配。また倒れたりしない? 昼もあんまり食べてないみたいだったし」
「だから、それは節約の為に減らしてるだけだっての。まぁそりゃ、食欲がちっとないってことはあっけど……とにかく、ちゃんと話聞いてろよな。んで、バイトの前に昨日の残りのパン貰うって言ったろ」
 月森は人差し指を顎に当てて、難しげな表情を見せた。陽介が肩を上げると、「花村先輩、なんかあったんスか?」と聞かれたので、一応、先日、体育の授業中に倒れて保健室の世話になったことを簡単に話した。
「まじっスか! んで、月森先輩が……」
 完二の目が、悩んでいるらしい月森の方へと向けられる。
「前から思ってたんスけど、花村先輩、食、細くねっスか?」
「そうか? まぁ、里中に比べりゃ、それほど食う方じゃねぇけど」
「さ、となか……先輩は例外にしても……つか、あの、先輩、なんであんなに肉食なんスか?」
「んなの、里中に聞けよ」
 満足な答えが得られる保証は、陽介には出来ないが。また陽介が肩を上げると、思案顔をずっと続けていた友人に、真剣に名前を呼ばれた。
「……なぁ、ジュネスのバイト、俺も手伝って良い? お金ならあるから、お給金はなくても平気だし」
「えっ、タダ働きすんの? つかそれ、ボランティア?」
 突然の提案に、陽介はぎょっとした。お金がないから働きたいと言うのであれば分かるが、ロハでと言われたら流石に驚く。
「途中で倒れたら、店だって困るだろ? そういう時の保険にでも使ってくれれば、と。あ、勿論、人数多くて邪魔だとか、迷惑になるなら、無理にとは言わない」
「そりゃ、店的には、ありがてぇと思うけど」
 しかし、再三主張している通り、体調不良については、既に解消されている。今から倒れる様な事態が起こるとは、思われなかった。事実、本日の授業でも睡眠に落ちることすらなかった程なのである。ベッドで良く眠り、すっかり回復した。
「じゃあ、決定」
 それに、お金も出さずに無償での手伝いを友人に頼むのは、流石に気が引ける。商売人としては、人件費を抑えたいのは間違いないし、人手不足でもないのに、余分に給料を出させるのも、些か問題があることは事実だ。けれど、心理的に言えば、抵抗があった。しかし、語尾を濁した陽介とは対照的に、否と言われなかった為か、月森は晴れやかな表情を見せている。
「手伝うから、巽に構ってないで、さっさとジュネスに行こうか」
 にこりと月森は笑って、陽介の手首を掴んだ。
「えーと……月森センセイ、もしかして、嫉妬?」
「会話は兎も角、許可なくベタベタされるのは、さしもの俺でも気に食わない」
「なんでお前の許可がいんだよ……」
 つかつかと歩き始める月森に呆れ半分になっていると、後方から、「やっぱり先輩、甘やかしすぎっスよ」と聞こえた。上手く反論出来そうにないので、黙殺。立腹らしい月森の様子からか、完二はそのまま手を振って見送るだけだった。月森は、丸で自分は全く正しいのだ、とでも言う様に、真っ直ぐ歩く。遅れて付いていく陽介は、窓硝子に反射する横顔をじっと見て、やっぱり、整った顔立ちだなと思った。
(好きだって言う女の子、山程いんのに)
「なぁ、月森」
「うん?」
「お前さ、知らない方がよかったってこと、あるか?」
 聞いてみたのは、何となくだった。小走りで追い付いた陽介の隣を歩きながら、月森は首を傾げる。質問の意図が分からない、とでも言う様にしているが、意図と呼べる様なものなど、そもそもない。
「どんな時でも、真実を知りたいって、お前なら思う?」
 良く分からないけど、と月森は前置きした。
「知らない方が良いことなんて、ないと俺は思ってる。知るべきだ」
「それで、不幸になってもか?」
「後悔しないよ。真実の刃で貫かれるのならば、仮令、絶望したとしても、その選択に後悔はしない」
「……月森、詩的ー」
 揶揄う様に言いながら、そっと灰色の瞳を覗き見た。戯れの質問だったにも拘らず、月森の面差しは真剣で、冗談ではないのだということを強く推認させる。それは、月森らしいことだとも思った。
「と、言うよりね。人は簡単に絶望するよ。そんなことで、って他人が思う様なことでも、傷ついて、絶望する。真実の刃は、その鋒が普通よりも鋭いんだ。一瞬で多くのものを貫く。けれど、正しい」
「経験論……?」
 ごく、と唾を飲み込むと、一般論だよ、と月森は宥める様な笑みを浮かべた。
「ま、そんな風に思う様になったのは、極最近だけど。昔はあんまり、真実がどうだとか、興味なかったから」
「へぇ、そんなもん?」
「そんなもん。でも、今は違う。やっぱり、知らない方が良かったとは、俺は思わないよ」
 うん、と陽介は頷いた。
(だよな。月森なら、やっぱ)
 真実に目を背けた陽介を諭してくれた月森なら、そうだろうと思った。誰よりも誠実に、『本当』を探し出そうとする。
『私みたいに、なりたくなければ』
 そんな月森を、正しいと思った筈なのに、何故だか胸騒ぎが少しだけした。

*

 足をプラプラとさせながら、公子はどこか遠方に視線を投げている。見えるのはどこまで行っても白いだけの空間。世界の果てというものを探すのだとしたら、こんな風に途方もないのではないかと思われた。
「例えば、未来が改変されたら、私には知りようがない」
「それじゃ、なんでも知ってるって言えねぇじゃん」
「でも、この世界に起こることは全て知っている。改変された世界は、別の世界なんだよ」
「別の――ね。なんか、SFちっくじゃね?」
 そうかも、と気のなさそうに公子は笑った。テレビの中も、影の自分も、全てファンタジーだと言えばそうだ。きっと、普通の高校生に話したら、SFだと笑われるだろう。同じ様に。
「真実をって、どういう意味なんだ?」
「ハナくんから見たらさ、私って、生者?」
 ちら、とこちらを振り返り、公子は小さく首を傾げた。
「せいじゃ……?」
「生きた、人。どう?」
 言われて、改めて公子の姿を見た。外見的に言えば、普通の女子高生だ。雰囲気は都会的で、感覚から言えば、どこか、月森と似た所がある様に感じられる。少なくとも、制服からして、八十稲羽にはいない。
 派手な顔立ちではなかった。メイクをしているのかも判別出来ない。睫毛が上向いているところからすれば、マスカラ乃至付け睫をしているのではないかと伺えるが、肌の感じは化粧に独特の、のっぺりとした粉っぽさはなかった。素肌なのかも知れない。
「……生きて、ない」
 外面は女子高生だ。少しだけ化粧もして、可愛い髪型を作って、短めのスカートを履いている。
 けれど、違う。
 彼女を自分と同じラインに立たせて、陽介は最初から見ていなかった。
「夢の国の人だ」
 公子はにこにこと笑ったまま、頷いた。また、視線が離れる。
「自己が確立されていない。記憶も残存していない。私は人として、終わっている。ううん、間違いなく、死んでいる。意識と無意識のその、境界にあるこの海で、漂っているだけ。海水と変わらない。人ではない」
 感傷もない様に、公子はただ、遠くだけを見ていた。
「理由は分かっているんだ。私が、真実を知ってしまったから。真実――生命というものの、根源を見知ってしまったが故。根源は終わり。終わりに到達したから、生命が終わった。説明するとそれだけなんだけど」
「真実を知ったら、俺もそうなるってこと……か?」
「ううん。ハナくんが、ではないの。あなたではないけれど、深淵に近い人がいる」
 公子に再び紅い視線を向けられた時に、陽介には『その人』が誰だか分かった。悟ることが、瞬時に出来てしまった。だから、息を呑む。
「月森、孝介」
 ワイルドという特殊な能力を持ち、シャドウを顕在化させなかった、唯一人。自分達の誰よりも特異で、そして、陽介の知る限りに於いて、最も真実に近い場所にいる人間は誰かと言われたら、彼を置いて他に考えられない。否、そういう理論的なことでなくとも、感情的に、考えられるのは一人だった。
「私と同じようにしたくはないから、ハナくんのところに現れたの」
 ぶわっと、紅い花弁が目の前で舞った。公子の名を呼ぼうとしたが、既にその姿はない。まるで、花弁こそが彼女であったかの様に。ミルク色の靄が、やがてまた、視界を遮る。
(ミルク色の、海――)
 波が引き、海が遠くなる。

*

 思ったよりも、寝覚めは悪かった。無理からぬ話である。夢に出てきた人物と会話をしている、という奇異な体験だけではなく、その相手からは、ついに、親友の危機を知らされたのだ。虚構にしても、気分が良くなる筈がない。
 冬の休日、寒い朝。早い時間に目が覚めたことにも僅かに苛立ちを覚えつつ、陽介は寒いからと自分の布団に潜り込んできているクマを冷えた足で蹴って横にどかし、ベッドから下りた。クマはむにゃむにゃと言っているが、覚醒する気配もない。二度寝するのも気持ち良いだろうが、そういう気分にはならなかった。夢を見ればまた、公子が出てくるだろう。少し頭を冷静にさせてから、続きを聞きたいと思った。
 窓の方に何となく足を向けたが、開ける気もない。外を見ようとカーテンだけ開ければ、窓を濡らす結露ばかりが目に映る。外の様子は曇った硝子越しには不透明な所もあったが、概ね、いつも通りの朝の様に見えた。階下に降りても、既に両親は出掛けているのだろう。店長という立場から、父親は昼夜を問わず、熱心に働いているし、母親も大抵はパートとして店に早くから出ていた。休日ともなれば、朝は寝過ごしてしまうことも少なくはない為、朝食を用意しないのが常なのだ。朝食と昼食が兼用となる。だから食が細いのだ、とも月森には指摘されたことがあるが、日々の習慣なので致し方がない。クマは昼頃には売り場に立っている為、もしかしたら、そっちだけ朝食が準備されているかも知れない。あっても、どうせトーストとサラダ程度だろうが。
 陽介は伸びをして、机の上の携帯に目を止める。チカチカと光が点灯していた。マナーモードにしておくので、就寝中は気付かなかったのだろう。恐らくはメールだと見当付けて画面を表示させた。
「……月森じゃねぇか」
 果たして今のある種の思い人――懸念している人物からの連絡に、思わず息を吐いてしまった。微妙に文面を確認することを躊躇ったのは、夢のことがあってだろう。
『昨日はお疲れ。バイト代いらないって言ったのに』
 文面は非常にコンパクトに用件だけを伝えていた。基本的にはクールで寡黙、心を許しているが故か陽介の前では饒舌、そしてメールでは陽介に対してもこの淡白さである。常日頃から、メールは嫌いだと言い憚らない月森らしい。ちなみに聞いた感じでは、誰が相手でもこの様なシンプルなメールが送られる――と言うよりも、こちらのメールに対して一言二言の返信だけが返されるという状況の様だ。
 日付を確認してみると、1時間程前に送られたものだということが分かる。即ち、この寒い休日、既に彼は起床しているのだということを示していた。基本的に早起きな方だとは聞いていたが、何時から起きていたのだろうかと陽介は思いながら、手早くリプライ画面を開いて、指を止めた。起きているのならば、電話した方が早い。メール嫌いの友人と何度もメールで連絡をする必要もないだろう。直ぐに画面を切り替えて、発信した。手が離せないで出られないのならば、メールに切り替えれば良いと思ってコール音を聞いていると、5回で相手は通話に出た。傍にいたのだろう。
『もしもし、陽介? もしかして、メール起こしちゃった? まぁ、いつまでも寝てるのも不健康ってことで。俺なりの優しさだよ』
「ちげーよ。今起きて気ぃついたとこ」
『あぁ、それなら良かった。夜に送り忘れたから、朝早いけど、また忘れたら嫌だと思って。微妙な時間に悪かった』
「お前、起きんのはえぇな」
 会話しながら、陽介はそうっと部屋を出た。すやすやと眠っているクマの横で、彼が大好きなセンセイと会話するのも悪かろうと気を利かせたのだ。絨毯の敷いてある部屋と違い、廊下に出た瞬間に冷えた床の感触がして、思わず飛び上がった。左手だけで身体を抱く様にしてみたものの、寒さは中々どうして凌ぎ切ることが難しい。とっとと降りて暖房を点ける方が得策だ、と急ぎ足で階段を下っていく。
『睡眠欲が余りないみたいでね。夜も遅くまで起きられるから、良くバイトしてるって話しただろ? 休日の前位早く寝ようかなと思うと、朝が早くなる』
「そらなんか、便利な身体だ」
 ははっと笑うと、月森も電話の向こうでくすりと笑った。
『便利なものか。暇を持て余してるんだから。陽介はもう、朝食摂った?』
「いんや」
 いそいそと降りてリビングに到達したが、ダイニングテーブルには、予想通り、一人分の朝食だけが乗っていた。ご丁寧にメモ書きには『クマくんの分』と書いてある。
「食うモン今から探すとこ。月森は、美味そうなモン食ってんだろうけど」
『大袈裟だな。朝からそれ程凝った物は……あ、そうだ。良かったら、家に食べに来ないか? 叔父さんももう出掛けていて誰もいないから、気兼ねしなくて良いし』
「……朝食食いに? そら……押しかけ女房どころか押しかけ旦那みたいだな」
『俺が押し掛けても構わないけど? そっちにどの程度の食材があるか、にも因る。それじゃ、オープン・ザ・冷蔵庫』
「呼んでねーし……」
 何れにしても、食べる物を探すならば冷蔵庫に行き着く。朝はそれ程食べる方ではないので、ヨーグルトでもあれば、それでも十分だ。月森曰く、朝は資本だからきちんと食べろ、なのだが。
『臨時収入、どうしようかなぁ。陽介、今日、暇? 良かったら、沖奈にカラオケにでも行かない? な、陽介ってカラオケ好きなんだろ? 何で俺は誘ってくれないんだよ』
「月森、カラオケ好きな方?」
 八十稲羽にはカラオケボックスがない。必然、歌いたければ沖奈にまで出なければならないのだ。カラオケ好きの陽介とは行きたいという度合いが違うだろうから、電車代を使ってまで、放課後に付き合わすのも難だと思って誘わないだけなのである。別段、月森だからではなく、他のクラスメイトにも同じ。加えて月森は、カラオケが似合いそうにない雰囲気だったのだ。友人と来ても、歌わずに黙って聞いている様なイメージがあった。
『好きって言うか、まぁ、人並みじゃない? 前にいた所だと、遊ぶのなんてカラオケ位だったし。俺は、1、2回行った位だけど、陽介も、だから好きなんだと思ってた』
「俺は普通に歌うのとか好きなの! 音楽の成績だって良い方だぜ」
 冷蔵庫を開けて中を拝見してみたが、目当ての物は置いてなかった。仕方なく閉めて、ぐるりと台所を見回す。6枚切りの食パンが一つ、余っていた。
『ギター弾けるんだっけ? あ、俺、何気にピアノ弾けるんだけど』
「うえっ、まじでか! このぼっちゃんめ……」
 ぼっちゃんて、と月森は吹き出した。陽介はくつくつ笑う月森の声を聞きながら、携帯を肩で支えて、食パンをトースターにセットする。冷蔵庫にはマーマレードジャムが入っていたので、それでも塗って食べれば朝食としては、十分だろう。
『手慰み程度だから』
「や、それ言ったら俺のだってそうだっつの」
 本格的に指導を受けた訳でもないし、教本で見た程度のギターの腕前では、縦令、向こうのレベルが手慰みだとしても、ほぼ同程度だろう。そもそも、月森は、何でも卒なく熟せるのだ。本当は、十分に熟達しているのではないかとすら思える。
『本当だって。大体、こっち出てきたら置いてないだろ? 弾いてなければ腕前なんて下がる一方だ。さて、それで本日の陽介の予定は?』
「特になし」
『じゃあ、お迎えにあがるとしましょうか。30分で準備な』
「い、今から!? まだ、起きたばっかだって――」
『それじゃ、30分後に』
 ブツッと通話は切れた。一応予定を聞くだけの配慮は見せるが、基本的には強引なのが、月森孝介である。
(それに慣れてるってのが問題だよな)
 ザ・マイペースな月森だが、それに振り回されているのを、嫌だと思わない。寧ろ、向こうのペースで生きていってくれれば良いと思ってしまう。それに、きちんと自分も連れて行ってくれるなら――。そこまで考えて、振り回されるのを望むのでは余りにもマゾヒスティックだと思って、陽介は項垂れた。結局の所、自分ばかり選んでくれる月森に対して優越を感じているのだ。その分、振り回されてやるということで、天秤の差し引きを零にしようとしている。
 複雑な思考に囚われるのを救い出すかの様に、トースターが高音を響かせた。食パンはカリッと焼けている。バターは面倒なので塗らず、そのまま、冷蔵庫から取り出したマーマレードをべたべたと塗って、口に咥えた。
(服と、そっから、髪なんとかしねぇと……)
 寝起きのボサボサとした頭のままで、出掛けられもしない。待たせてもどうということはないが、一応、言われた時間までに準備する努力は必要だろう。

 

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