Just call my name -2

 近付いていると思うのだ。ついに声を交わすことも出来たのだし、後一歩。
(眠い……)
 しかし、丑三つ時に起こされた頭は、寒空の下での体育の授業にすら、眠気を齎していた。先程まで受けていた現代文の授業も、何度寝落ちしそうになったか分からない。その様な状況で真っ当なノートが取れる筈もなく、案の定シャープペンでの線だらけになっていた。
「すけ……陽介! 聞いてる?」
 落ちかけていた瞼を開くと、至近距離に親友の顔があった。
「ど、どうしたんだよ、月森」
「どうって、話聞いてたのか? 今からグラウンド20周って言ってただろ?」
「うえ、まじでか……」
 眠気が優っているが故か、寒さは遠のいていた。けれどそれも、意識すると寒くなる。
「寒いのは苦手なんだよ」
 腕を抱く様にして震えると、寒さなんて微塵も感じていない様な月森は、真夏も真冬も変わらぬクールな灰色の眼差しで、陽介をじっと見た。
「まぁ、走れば暑くなるだろうけど、確かに寒いよな。陽介、平気?」
 顔を上げると、サッカーゴールの横で、近藤が手を上げているのが見える。どうやらあそこがスタート地点らしい。気遣ってくれる友人には手を上げることで軽く応えて、眠い目を擦りながら手招かれている方へと足を向ける。
「陽介、ちょっと――」
 背後から呼ばれたと思った瞬間に、視界が揺らいだ。ふっと一瞬、意識が途切れる。不味いとか危ないとか、そう、何かを感じる余裕すらない。霧の中よりも白く視界が消える。
 ホワイトアウト。
「陽介! 陽介……!」
 呼び掛ける声に直ぐに意識を取り戻すと、背後から月森に抱えられていた。お陰で地面と衝突せずに済んだ様だ。
「っ、ワリ、月森……サンキュ」
「俺のことは良いんだけど。陽介、なぁ、今の陽介、さ、寝不足なだけだとは思えない」
 月森は、まだ完全に回復し切っていない陽介の身体を、自分の方へと向けさせる。目が合うと、少し不機嫌そうだった。言葉の調子にも、憤りが感じられる。
(コイツが怒るなんて、珍しい)
 ぼんやりと思っていると、また、顔が近付いてきた。反射的に目を閉じると、静かに額が当てられる。
「熱い。陽介、具合はどう?」
「や、別にそんな悪くねぇと思うけど……」
「微熱だな。陽介って、平熱低い方だろ? だったら、大事摂って、休んだ方が良い。先生! 俺、陽介を保健室に連れて行きます」
 月森は片手を上げた。
「だったら、保健委員に」
「保健委員なら、手伝っていたことがありますから」
 どんな理屈だと思ったが、反論する程のことでもないかと思って黙って聞いていた。月森に微熱だとか体調不良だとか指摘されると、本当に、体調不良である様な気がしてきたのだ。余り、喋りたくないな、とも思う。
 いつの間に近藤は近付いてきていたのだろうか。グラウンドも広くはないから、向こうからでも、倒れて支えられたという一連の流れが見えていたのかも知れない。意識がぐるぐると回っている。
「陽介、立てる? 立てなかったら、横抱きにしていってあげても良いんだけど」
「……お姫様抱っことか、勘弁してくれ……」
 流石にそのツッコミだけは出来た。横抱き等と言っても、される行動は、所謂お姫様抱っこと、何ら変わりがないことには注意が必要である。
「腕力的に、無理はないつもりだけど? ていうか、陽介も抱え上げられなかったら、女の子にやるなんて無理。陽介は細過ぎる。細いのは嫌いじゃないけど、栄養が不足してるんじゃないかと思うんだよね。筋肉ないって訳でもないし。細い腰の抱き心地とかは、悪くない」
「もういいから黙っててくだせぇ……」
「あれ、さっきより、元気なくなった?」
「熱あるとかお前が言うから」
 意識したら気分悪くなった、と訴えると、月森は軽く笑った。
「そういうつもりじゃ、なかったんだけど。ま、無理するより良いよ。では、ガッカリ王子のご所望通り、横抱きは止めてあげようか。取り敢えず、肩貸すから」
「サンキュー……」
 一人でも歩ける様な気もしたが、フラフラとしてまた倒れ込んでも、逆に迷惑だろう。素直に左の肩を借りた。空いた手で自分の額に触れると、じわりと熱を感じはしたものの、然程、平時との違いは感じられない。指先の温度も、平熱より上がっているからだろうか、と思う。
「お前、熱ある、とか、……よく分かるな」
「うん? 別に大したことじゃないよ。だって、陽介のことだから」
 何を嘯いてるんだと思いながら手を伸ばした。月森の額に触れようとしたが、余り力が入らなかった為か、頬までで止まってしまう。ちょんと触れると、ひやりとした。外気に触れていれば、こんなものだろう。
「! よ、陽介……っと、ね、寝不足って言ってたよな? その、昨日も?」
 問われて指を離した。眠気と、微熱に拠る倦怠感だろうものが混交して、非常に脳の動きが悪い。言われてから返答まで、数秒掛かった。
「あー……ま、そんなとこ。寝不足ってか、夢見が――」
「悪いのか?」
「悪いってこともねぇけど……。んな、大したことじゃねぇから」
 月森に話すことでもないと思って、首を振った。ひゅうっと風が吹き抜けて、頬が冷える。
「本当に、悩み事じゃない?」
「悩んでるように見えっか?」
「どちらかと言えば、眠そうにしか見えないけど」
 だろ、と陽介は小さく笑った。実際に悩みはない筈だ。夢のことで困惑していることは確かだが、悩んでいる訳ではない。
(やべー……)
 また眠気が泥の様に襲い掛かって来る。
「陽介?」
 保健室まで辿り着けそうにない。寄り掛かっている月森には悪いと思ったが、そのまま、陽介は自分の意識を手放した。

*

 靄は可也、薄れていた。
「こんにちは、花村陽介くん」
 ひらひらと、目の前で、少女が手を振っている。
「……夢、だよな?」
「うん。君にとっては恐らく、夢じゃないかな」
 まるで他人事の様に、少女はにこにこと笑っている。初めて見た表情は、はきはきとして明るく、それでいて品があった。千枝と雪子を足して二で割った様な感じだ。赤茶の髪が、ゆるゆると揺れている。
「俺にとっては、ってのは、意味深ですね」
「意識と無意識、その境。私は、その海のような場所にいると思っている」
「すんません、なんか俺、ついてけないです」
 あはは、と少女は笑う。
 彼女以外に、空間には何もなかった。どこまでも透明に、その先がある様に見えて、全体はやや青味がかっている。どことなく、海と言う語の意味を悟らせる様に。霧にも似た靄が薄れていたことは、幸いだった。現実よりずっと、身体の調子も良い様に思える。
「場所に定義をつけることに意味はない。私がいる場所を、花村陽介くんが知らなくては困る道理はない。違う?」
「えーっと、……だから、俺にとって夢だったら、それでいいってことですか?」
「敬語じゃなくていいよ。たぶん、君と私の齢は同じくらいだから」
 背格好からしてそうだろうとは思ったが、一応初対面の相手であったことも考慮しての口調だったのだ。それならお言葉に甘えて、と思いながら、陽介は腕組みをした。
「持って回った言い方をするのは、その方が、信憑性があるかなって思っただけ。喋り口調は、えぇと、見た通り、女子高生の感じだと思う。オッケ?」
 頷くと、満足そうに少女は笑った。
「どう、呼んだらいいかな? フルネームだと長いし、名前で呼んでもいい?」
「できたら、苗字で」
 咄嗟に言って、別に名前で呼ばれても良かっただろうかと思った。けれど、敢えて訂正することもない。陽介はふるふると首を振った。
「ハナムラくん? ちょい長いなぁ……ハナくんでいい?」
 何となく懐かしい呼び名を思い出して、感傷に胸が響いた。それを軽く振り切って、頷く。
「ずっと、夢に出てきてたの、アンタなんだろ」
「あ、うん。呼んでたから。今も呼んだの。今度こそ会話できるんじゃないかって思って」
 呼ぶという行動が具体的にどういうものであるのか分からなかったが、ここ最近の眠気もそれに関連しているのかも知れない。体調不良は、恐らく眠れないことによる、体力の低下からだろう。
「って、呼んだ? なんで俺、呼ばれたんだ?」
「一言で答えるのは、難しいけど」
 少女は人差し指を顎に当てる。目を閉じた。
「とりあえず、会話ができてよかった。もう、起きた方がいいんじゃないかな? 呼んでるみたいだし」
 少女が指さした先に目を向けると、淡い光が見えた。しんとした、空間に、呼び声が聞こえる。自分の名前。
(月森だ)

*

 気付いた瞬間に、現実に引き戻される。
「陽介! 目、覚めたんだな! はぁ、良かったよ……」
 目を開けると、月森の顔が見えた。背後には白い天井が見えている。保健室だ、と直ぐに悟った。意識が消失したと思った時点で歩いていたのは、後者とグラウンドの半分位。そこから、どうやって運んだのかと、緩やかに考えた。
「保険医が外してるらしくて、取り敢えず寝かせたんだけど。出来たら解熱剤を飲んだ方が良いと思って、起きるの待ってた。あ、マラソンが嫌だからって、サボりじゃないからな? 起き上がれるか?」
「へーきだって……お前って意外と、心配性?」
 上体を起こして笑うと、月森は眉を少し下げた。
「そりゃあ、人にも拠るけど。ぶっ倒れて心配しない方が、可笑しい」
「微熱くらいで、どうにかなるかっての」
 それに、『会えた』所為かも知れないが、倦怠感が可也、解消されていた。額をピンと弾くと、月森は複雑そうな表情になる。
「兎に角、飲めるなら、薬飲んだ方が良い」
 月森は立ち上がると、知った様子でガラス棚を開けた。保健委員の手伝いをしていた、と言うことなので、その辺りで得た知識なのかも知れない。
「勝手に開けて、怒られねぇ?」
「危ない薬品は鍵が掛かってるから」
 危ない薬が保健室にあるのか、と陽介は肩を上げた。月森は棚から赤い蓋の小瓶を取り出すと、何やらブツブツと言いながら、注意書きを読んでいる。
「一回3錠か。陽介、水持ってくるから、待ってて」
「おーう、ワリィ」
 ひらひら手を振って月森を送り、陽介はもう一度ベッドに身体を倒した。
 見たのは夢だ。単なる。
(にしちゃ、結構、リアルだったよな)
 赤茶の髪を後ろに纏めた少女。銀色に輝くヘアピンや赤のヘッドフォン、紅いリボンが印象に残っている。瞼を閉じれば、簡単に思い描けた。黒の制服。
(アレ、なんか見覚えある、気が)
 微妙に、出てこない。歯痒く思いながらも、彼女の言葉を反芻する。
「意識と無意識の……境?」
「ベルベットルーム?」
「うわっ、なんだよ! ってか早ぇな」
 気付くと、直ぐ横に月森が立っていた。慌てて上半身を起こして、突き出された水道水で満たされたグラスと、小さな白い錠剤を3錠受け取る。空腹時は余り薬を飲まない方が良いとは言われるが、食欲もないし、食べるべき物もないので、致し方ない。掛けてある時計も、昼食まではまだ時間があることを示していた。
「べるべ……なんだって?」
 胃に薬を流し込んで、先程の意味不明な言葉について、改めて尋ねてみようと思ったが、月森はグラスを受け取って、首を振るだけだった。
「何でもないよ。ほら、薬飲んだら、取り敢えず休んでて」
「お前、オカンみたいだよな……」
「俺の寛容さは、まるでオカンの様なんだ」
「なんだそりゃ」
「何でも良いんだよ。じゃ、俺は、授業に戻るから」
「寒いから、気ぃつけろよ」
「ご心配には及びません。さて、マラソン、今からなら半分に減らしてくれないかな」
 小さく笑って、月森は背を向けた。
「あ、そうだ、月森。ここまで連れて来てくれて、ホント、サンキュ」
「あぁ、別に……役得だから」
 振り返った月森は、唇の端を上げた。
(……役得、ね)
 意識を失った相手を引き摺ったということもないだろう。しかし、男が男をお姫様抱っこするなんて、そんな豪傑がいるだろうか、とも思うのだ。月森は確かに、無駄に勇気がある方だが。
 考えても答えは出そうにないので、陽介はまた、身体を倒す。瞳を閉じる。意識が蕩けていく。

*

「ハナくん、また来たんだね」
「来たって表現で正しいのか? あ、あと、名前聞いてなかったんで、聞いていい?」
 名前、と少女は首を傾げながら呟いた。ミルク色の靄が、周囲を緩やかに覆っている。どことなく幻想的に夢想的で、夢の空間だと言われて納得出来る様な色合いをしていた。
「ハム子」
「は?」
「だから、ハム子」
「は、ハム子ぉ? それ、本名なワケ?」
 見た目の儚げな印象に似つかわしくない。喋れば活発で陽気でコミカルな人だとも思うが、そういう意味では、口を開けば云々と言われる陽介も人のことを言えない。にしても、随分な名前だ。
「どうかな。近い気はしているけど」
「芸名かっつの! なんかそれ、呼びにくいし……」
 ハムという響きに、そこはかとなく、肉好きの千枝を思い起こさせる。
「じゃあ、公子。公の子で、公子」
「公子……さん?」
「そうそう」
 ハム子改め公子は、にこりと微笑んだ。やはり、綺麗な顔立ちをしている。夢でなければ、お近付きになりたいと思ったかも知れないが、生憎と、夢の少女との悲恋ちっくなラブストーリーは流石に望んでいない。
(結局、本名じゃねぇみたいだし)
 しかし、彼女がそれを明かしてくれそうな気もしないので、諦めた。所詮、夢なのだと思えば、そういう風にも考えられる。
「どうしてって、聞いたよね。最初から話すよ。分かってくれるか分からないけど」
「……俺じゃ、理解できねぇってこと?」
「ちょっと違う」
 公子はくるりと後ろを向いた。ぴこぴこと、赤茶の髪が揺れる。背を向けた姿を改めて見ると、制服は黒が際立って見えた。
(やっぱ、どっかで見た気ぃすんだよな……)
 それも、割と、直近で。都会に住んでいた頃でもなく、ここ一年位の気がする。
「最初の前提が、分かって貰えないかも知れない。……私は、意識と無意識の境目にいて、全てを知っている」
「全てを? えっとナニソレ、神様みたいな?」
「神様、じゃない。定義にもよるけど。ハナくんの思う神様ってきっと、天地を作って、全知全能で、みたいな存在でしょ? それなら、間違い。私は全てを知っているけれど、それだけ。世界を作った訳でもない」
 うーん、と陽介は唸る。信じ難いと言えば確かにそうだろうが、そもそも、夢の中で邂逅していると言う事実が既に、非現実だった。否、もっと言えば、テレビの中に入り、ペルソナを宿している、ということがそもそも、非現実。ずっと、リアリティを喪失した様なことばかりが起きていた。そうであれば、今更、夢の中で、そんな電波な発言は信じられません、とも一蹴出来まい。
「頭っから信じないってことはねぇけど……えーと……つまり、なんでも知ってるから、俺の名前も知ってたってのか?」
「そうでもあるし、君が意図していることとは、若干、違うかもしれない。正確に言えば、情報は全て私の内側に存在している。知るとか知らないとか、そういう概念がまず存在しない。言葉の意味は分かるけど」
「じゃあ、アンタは何者なんだ?」
 全てを知っていると言うのであれば、それはきっと、『人』ではない。どういう存在なのか、皆目見当が付かなかった。
「分からない」
「矛盾してるだろ、それ」
 うん、と公子は頷いた。驚く程にあっさりと。そして、振り向いた。真っ赤な瞳と目が合う。
「でもね、私が何者か、という問いには、明確に答えられないんだ。なぜなら、『私』という存在は、最早、存在していないから。意識と無意識の海の中に埋もれているから、『私』がどうだったという記憶はない。私は、『私』という存在にない。説明するのは難しいけど……個々の意思、意識がない、という言い方をすれば分かり易くなる?」
「……今の話しぶりだと、『私』つまり、公子さんが、嘗ては存在していたみたいに聞こえっけど」
 今、彼女が説明した通り、彼女が自我を持ち合わせていないにしても、記憶がないという言い方には、嘗てそれがあった様なニュアンスを感じさせる。元々、彼女という存在は、あったということではないだろうか。
「うん。ハナくんは、頭がいいね。嘗ては、『私』が在った。花村陽介くんのプロフィールと同じように、なにか、名前がついていたはずだった。けれど、それを特定することだけは、できないの。今の『私』は、最早、集合体でしかない」
「……死んだ、のか?」
「恐らくは」
 公子は軽やかに口に出した。
「人間としての生は終え、こうして、海の中にいる」
 静かに語る彼女はきっと、その事実を、悲しいと思うこともないのだろう。初めて顔を合わせた時分からずっと、公子はどこか楽しそうに見えたが、逆に没感情的にも見えた。それこそ、ペルソナを纏って素を覆い隠しているかの様だ。
「じゃあ、質問を元に戻すぜ? そんな公子さんが、今、俺の前に現れた理由は?」
「忠告したかったから」
「忠告?」
 ぐにゃりと視界が円を描いた。公子がひしゃげたのかと思ったが、いつの間に、ミルク色の靄がまた濃く浮かび上がってきていて、それが円を描いている。
「っ、待てっ……公子さん!」
「また、会った時に」
 声が聞こえると、靄が収束していった。自らの身体をも飲み込んで。

*

 重い瞼を起こすと、代わり映えのない天井が見えた。白いカーテンは閉じられていて、外の様子は伺えない。射し込む光の感じからして、まだ昼間なのだろうとは思う。上体を起こして耳を澄ませた。音もなく、静か。腕時計をしていないから、時間の把握が出来ない。頭はまだぼんやりとしている。
「陽介? もしかして、起きた?」
 声で、友人がカーテンの先にいるらしいことを知る。
「今、何時?」
「12時半。お腹が減っているなら、弁当食って良いよ?」
 シャッと軽い音がして、カーテンが開かれる。保険医の姿はまだないのだが、こんな有様で、職務を熟していると言えるのだろうかと疑問に思った。きょろきょろと見ていると、月森はこちらに近付いてきて、「さっきまでは、いたんだけどな」と苦笑した。
「熱は、多分ないと思う。調子悪いなら、帰っても良いってさ」
「計ったのか?」
「どうやって。額を触った感じで判断しただけだから、気になるなら、ハイ」
 月森は電子体温計をこちらに渡した。怠さもないし、陽介自身、熱はなさそうだな、と思ったが、折角なので、体温を計測することにする。
「つか、お前さ、……オデコで計るの、クセとかか?」
「癖ではないけど、手でやるより、分かり易いかな、と」
「そういうことすっから、女子が誤解すんんだぜ」
 くくっと喉の奥で笑うと、月森は心外そうな表情を見せた。
「何でもそうだけど」
 ピピピピッと電子音が響く。表示を見ると、今の陽介の体温は、36.5度らしいと分かった。平熱は高くないが、この位であれば、微熱とまでも言えまい。安堵して、顔を上げる。
「誰にでも同じ態度を取っている、と思わないで欲しい」
「……どういう意味だよ」
「言葉通り。熱は?」
「6度5分」
「やっぱり、熱は平気みたいだな。どうする? 帰った方が良いかも知れない」
 少し考えた。帰って構わないと言うのであれば、家で布団に潜ってしまうのも一つの手だ。幸いにして、今日はバイトもない。体調不良で寝ていたとなれば、クマが煩いかも知れないが、その程度は些事だろう。
「具合、悪いか?」
「そうでもねぇんだけど」
 喩えて言うならば、初めて霧の中でシャドウと戦った時の様に、身体がやや重いと言う位だ。やはり、靄が身体に影響しているのではないだろうか。
(なんて、夢の中であったことなんて、言うワケにもいかねぇし)
 無用の心配を掛けたくはない。本当は、風邪でも何でもないのに、倒れて寝ていたなんてことも、NGだ。余計な心配をさせている。そういうことは、余り好ましくはなかった。復調していることも考慮し、よしっと陽介は自分に気合を入れる。
「午後からは授業、出っから」
「平気なのか?」
「へーきへーき。ちっと疲れただけだって」
 片目を瞑ると、月森は黙った。
「腹は減ってない?」
「寝てたから、あんまり」
「まぁ、陽介の分のお弁当を用意してあるので、食べてくれたら」
 保健室に持ってきていたらしい、赤い包みの弁当箱を目線の位置に掲げて、月森はそれを手渡してくれた。お腹が空いたら有難く頂戴することにしよう。

*

「ハナくん、やっほー」
「……どうも」
 公子は、ひらひらと右手を振っていた。待ち合わせでもしている様に、極自然に陽介を迎え入れる。
「大分、空間が安定してきたね」
 近付いてきたと思うと、公子は陽介の隣に来て、しゃがみ込んだ。釣られて、陽介もそろりと腰を下ろす。下は不透明になっていて、見えないが、立っていられることと同様に、座っても底が抜けたりしなかった。靄は相変わらずだが、顔を見て会話することに支障はない程度。
「公子さんは、マヨナカテレビのことと、関係あるのか?」
「ないよ。強いて言えば、ハナくんたちの戦っていた存在――シャドウのことは、知っていた気がする、という程度」
「死ぬ、前に?」
「うん」
 言葉に出して、眼の奥がツンとした。公子にとって、死が、恐れることでも、過去の恐怖でも感慨でもないとしても、陽介にとっては違うのだ。深い意味を持つ。亡くなってしまった、手の届かない先輩のことを、今も、忘れない。
「いずれにせよ、繋がりの弱い過去のことを話しても仕方ないと思うよ。私がここにこうしていることは、関係しているともしていないとも言える。関係者ではない。ただ、知っているだけで」
「忠告ってのは?」
「それは、関係がある」
 公子も隣に腰を下ろした。右手を伸ばして、爪の先を見詰める様に、そちらに視線を向けている。切り揃えられた丸い爪は、女の子らしいとは思われたが、飾り気がないとも思えた。マニキュアや付け爪の様な類の痕跡はない。
「私は、この世界のことを知っている。過去も、未来も、もちろん、現在も」
 公子はふう、と息を吐く。
「これから、起こることも。だから、ハナくんと接触した」
「えっ、まさか、世界が崩壊するから、それを救ってくれとか?」
「大層だなぁ。ファンタジー! ハナくんは、ヒーロー願望があるよね」
「悪いかよ」
 男なら、少し位、そういう憧れを持っても良いのではないだろうか。
「そうじゃないよ。私は、ハナくんたちが、真実を探し当ててしまうことを心配しているだけ」
「真実?」
「うん。英語で言えば、トゥルースでしょ? ――真犯人を探し当てた自称特別捜査隊の活動は、昨年末に、めでたく大団円を迎えた。あなたたちは、真実を追い掛けて、それを手にすることができた。まず、そういう認識は、正しい?」
 テレビの中で真犯人たる足立透を捕まえて、事件は幕を閉じた。今度こそ、誤りはない筈だ。あの日以来、八十稲羽の霧は晴れて、誘拐事件も起こらなくなっている。
(足立が捕まって、それで――)
 真実を手にした。謎が解けた。
(真、実……? 真実ってなんだ?)
 正しいこと。現実に起こったこと。定義するのも難しいが、彼女の言わんとすることが、分からない。
(つか、マヨナカテレビって、足立が作ったんじゃねぇよな……じゃあ、あれって、なんなんだ?)
 人の侵入することが出来るテレビ。その中の世界。クマの存在。シャドウの存在。
「そもそも、なんで、マヨナカテレビが映ったんだ……?」
 足立は、選定していたのではない。生田目を唆したのは事実だが、足立自身、テレビに誰かが映る様に仕向けるといった能力がある訳ではないのだ。犯行予告ではないかとも言われたが、テレビを見て生田目が行動した以上、逆だ。メディアに注目された人間が映し出されたというだけ。理由は分からない。テレビが映らなければ、生田目も誘拐をすることはなかった。
「公子さん、知ってるのか? もしかしてそれが、真実ってヤツか?」
 公子はゆるゆると首を振った。
「この世界で起こったことと起こることは、全て知っているよ。でも、言えない」
 唇に人差し指を当てて、公子は微笑む。
「それこそが、忠言だから。ハナくん。全ての事象を――真実を、必ずしも、知る必要はない」
 次の瞬間には、公子は瞳を細めて、無感情そうな顔つきになった。
「それってどういう」
「私みたいに、なりたくなければ」
 どろり、と、視界を、靄が濃く染め上げる。あっという間に、意識は途切れた。

 

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