Just call her name -9

 菜々子の見舞いの帰りに、月森から家に誘われた。試験勉強の最後の追い込みを見てあげるよ、と言われ、まだ陽が高い時間でもあったので、二つ返事で陽介も頷いた。月森の家ならば、クマがいないから勉強も捗る。共に来たがったクマを追い返し、陽介は月森の家に伴って戻った。家の中は人気がなく、冷えているが、二人で入ると、それだけでも温度上昇がある様に感じられる。月森はそれと言わないが、そういう効果はないこともないだろう。
 ただいま、と、お邪魔します、が二つ響いた。
「折角だから、夕食も食べていくと良いよ。後で何か買って来るから」
「ジュネスで弁当でも貰ってくるか?」
「手料理を食べさせたいので、却下」
「マメだな」
「こういう機会でもないと、ちゃんと料理しないから」
 部屋着に着替えた月森は、肩を上げた。ラフな格好だと言うのに、相変わらず上手く決まっているのだから不思議だ。陽介が白いTシャツにスウェットパンツ等を着ても、ダサくしかなるまい。
「んじゃ、買い出しは俺が行くぜ」
「陽介、材料とか分かる訳?」
 そう言われれば、と思って目を逸らした。多分、千枝や雪子、そしてりせよりはマシだと思うが、自信は薄い。
「じゃあさ、一緒に行こうか」
「ぷっ、なんだよそれ。新婚家庭かっつの」
「息子はクマで」
「アホか!」
「幸せな家庭を築こう、陽介――俺の奥さん」
「話を戻せ!」
 自分から振ったのが失敗だったのだ。陽介は、迫り来る自称旦那を躱すべく、後退する。月森は残念そうに伸ばした手を止めて、冷蔵庫の方へ足を向けた。
「飲み物位、あれば良かったんだけどな――あ、やそぜんざいならある」
「お前、何でそれチョイスしたんだよ」
 最近のリーダーは、小西酒店の近くにある自動販売機で、やそぜんざいを大量に購入しているらしい。それまではリボンシトロン一本槍だったのだが、「やそぜんざいでも精神力が回復するなんて……!」と、つい最近、嘆いていたのを聞いた。そういうことらしい。
「胡椒博士と悩んだよね」
 テレビで使うアイテムを入れているのだと言う袋に手を突っ込んで、月森はやそぜんざいを二本、取り出した。
「そこは盆ジュースにしろよ!」
 やそぜんざいも大概だが、胡椒博士も結構、飲みたくない。小西酒店のチョイスが、ちょっと、未だに分からないでいる。
(小西先輩とも、話したっけか)
 彼女も、自動販売機のラインナップは微妙だと笑っていた。盆ジュースだって、そんなに美味しくないのに、と。せめて、リボンシトロンやリボンナポリンなら良いのに、と、胡椒博士NEOを飲みながら。
「善哉は甘くて美味しいからな」
「年末年始だけで十分だっつの……つか、リボンシトロンもあんだろーが!」
「あれは、テレビ用」
「っだから! テレビなんてもう、いらねぇだろ!」
 思わず声を上げると、月森は顔を上げた。
「事件はもう終わった。だったら、んなもん、後生大事に残しとく必要ねぇだろ?」
 月森はじっと陽介の瞳を見た。吸い込まれそうに薄暗い、靄の中の様な瞳。
「霧が晴れないと、安心出来ない」
 直後に、にこりと笑って言った。立ち上がって、やそぜんざいを陽介の手に渡す。
「そんなに嫌? 美味しいと俺は思うんだけど。ほら、俺は甘党だから」
「……前も、んなこと言ってたな」
「買い物行ってくるから、陽介は先に勉強してて? 部屋にある本、適当に使って良いから。ノートも使ってないのあるし」
 月森は階段を指さす。
「あ、着替えてたんだった。面倒なことした……」
 先程脱ぎ捨てた黒ばかりの服を椅子から回収すると、月森は奥の部屋に向かった。堂島の叔父と菜々子が寝室として使っている部屋だと言う。
(霧なんて、いつかは晴れるだろ)
 言葉にせずに思った。霧が晴れないと、自分がそのことばかりを思っていることを、見透かされた様に思えたのだ。夢に見る八十稲羽市も霧に埋もれていて、少し前も見えない。けれども、吊るされた彼女だけが鮮明に映るのだ。小西先輩、小西先輩。彼女に必死に呼び掛けても、声は届かない。好きだったのに、と恋の言葉だけが胸に残って、消えてしまう。
『過去形なんですか』
 喪ってしまった。彼女は戻らない。どんなに好きだと伝えても、最早、彼女は聞いてくれることすら能わないのだ。失われた紅い輝きは、それ故に更に光を放つ。
(忘れられたって、思ってたのに――)
 届かないから、想いはもう終わったのだと思っていた。一人でも恋は出来る。夫を喪った未亡人も、戦場に想い人を亡くした遠い過去の人々も、皆、想いを残すのだ。返らないと知って、尚。
「じゃ、行ってくるから、ちゃんと勉強してろよ、陽介」
 ぼんやりしていると、後ろからポンと頭を撫でられた。微妙に高い目線が、スッと横を通り抜けて行く。
「……なんか、別の飲み物も買ってこいよな」
「お茶で良い?」
「ぜんざいじゃなきゃ、上等」
「オッケ」
 ひらひらと背を向けたまま、月森は軽やかに手を振る。黒のジャケットが合わせて揺れた。

 

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