その日も霧が深く、雪が降り出しそうに寒かった。冷気が背筋を通って、指先も青白く染まっていく。少女の死は、自分達の世界を、白く染め上げた。現実感は希薄だったが、陽介はどこか、知った感情を蘇らせていた。小西早紀が亡くなったと聞いた、あの日。
(菜々子ちゃん……まで?)
自分達の直ぐ傍で、堂島菜々子の息が途絶えた。小さな命が消えて、彼女の父親が叫んで、周りで泣いている声が聞こえる。病室は唯、雪原の中の様に白く、白く、儚い。色が失くなったみたいだった。
所詮、自分達では、救うことなんて、出来なかったのだ。救済だと、生田目の黒い影が笑っている。嘲笑っている。どうして、愛すべき少女が死んで、あの男が生きているのだろうか。自然的な摂理として、不思議に思った。先の行動は、意識している様で、意識しておらず、病室から出されて、廊下が酷く冷たいということだけが、感情として残る。
「立件は、難しい――」
直斗が、足立に言われた言葉をなぞった。
完二が壁を殴っていた。
堂島刑事が生田目の病室に向かって行った。
多くのことが、実感を伴わないで過ぎていく。無意識ではなかったが、思考が戻った時、気付いた時には、皆で生田目の病室の前にいた。堂島刑事が病室に連れ戻されて、ドアを開ければ、逃げ出そうとする生田目の姿だけが見えた。病室は泥濘の中の様に暗く、生田目の姿さえ、歪んで映る。
(主観だ)
それは実際の網膜の状態を正しく表したものではなく、脳が拒絶している以外において、病室内の生田目は、普通であった。暗い。電気を点けようと思う者はいない。逃げようとしたことに腹が立って、生田目を床に引き摺り下ろす。パチンとテレビに電源が入った様に知覚した。
テレビの中で喋る生田目の――シャドウの本心を、どれ程まで、耳が受け取ってくれていたかは定かではない。犯人の犯罪告白等、なんてチープな物なのだろうかと思っていたが、生田目も例に漏れることはなかった。下らない言葉を吐くだけの、存在。菜々子と小西早紀を殺めた元凶がそこに在る。唯、それだけだ。このまま放置しておけば、また被害者は増えるかも知れない。自分達で救い出しても、菜々子の様に、取り返しがつかない可能性がある。
(そうやってまた、小西先輩みたいに死ぬんだ。殺されるんだ。チープに。つまらないくらいに。馬鹿馬鹿しく。呆気なく)
ぷつりと糸が切れた。
小西早紀は、この男に殺されたのだ。
「尤も、戻ってくることが出来るかどうかは分かりませんが」
完二が感情を顕にして吼え、直斗が淡々と語る。テレビの中。誰の助けも期待出来ない、求められない、彼女達が苦しめられた世界が直ぐ傍には在る。月森が手を入れて突き抜けた世界。
直斗の言葉は彼女の武器の様に、陽介の心にも引鉄を弾いた。落とす。それだけで良いのだ。立件は難しい。生田目は裁かれない。のうのうと生き続ける。何人も誘拐し、殺害しようとした男だ、きっと、罪悪感に苛まれる様なこともなく、生きる。菜々子に、早紀に触れた忌々しい手で。菜々子と早紀は死んだにも拘らず。
「誰もやらないんだったら、俺達がやるしかないんだよ!」
言葉を通じ合わせなくとも、直斗と完二の意思は分かっていた。
彼女は最初から、法で裁けない場合を想定していた。私憤は初めてなのだろうが、犯罪を憎む気持ちと相乗して、彼女は生田目を許さない。
彼は、義に厚い。菜々子を殺めたこと、そして少女らを危険に晒したことを許す筈がなかった。元々、暴力事件を起こす程度には血の気が多いのだ、菜々子のことがあったとなれば、生田目を許すことはないだろう。
陽介は最初から、恨んでいた。怒っていた。
(小西先輩を殺した。この男が大切な人を奪い去った。永久に、声も届かない所に、全部葬り去った。憎い。あの人を奪った生田目が憎いんだ)
テレビの中に入った時に見た陽介の影は笑って言った。好奇心からここに入ったのだろう、と。それは紛う事なき事実で、陽介の感情の一部だ。けれど、シャドウは認めたくないことだけを口にする。認められることは態々、言わない。
(恨んでいた)
(ずっと、恨んでいたんだよ)
早紀を殺した犯人が憎い。追及したい。捕まえて、彼女に詫びさせて、――願わくば、亡き者にしてやりたい。そうなっても彼女は戻らないけれど。シャドウに指摘される間でもない、それが真実だった。
「お前はどうする……月森」
冷えた病室に、陽介の声が響いた。彼の苗字と同じ月の灯りが今は見えない。爛々と輝いているのは、復讐心と言う抽象的な物だけだった。形而下にはない物。
「ちょっと待て、陽介」
「ッ、月森っ!」
声は落ち着いていた。それでもナイフの様に鋭く冷たくも聞こえる。
(なんなんだよ……なんでコイツ、落ち着いてられんだよ!)
直ぐ傍で自分の大切な者が死んで、犯人は直ぐそこに在って、それで冷静でいられる月森が解せなかった。
(俺だったら、テレビなんてなくたって……!)
犯人を知り得たのならば、その首を絞めてやるのに。
「なにが、言いたいんだよ!」
同じだと思ったのだ。菜々子が亡くなったと聞いて、きっと、今ならば同じ感情なのだと思った。怒っている。犯人が許せない。憎い。だから、亡くなった者達を弔う為に、この男を落とす。これ以上の犯罪が起こらない為に。それを月森も望むのだと、陽介は信じていた。菜々子が亡くなったからこそ、思ったのだ。今なら自分の復讐を為すことが出来る。許される。誰が許さなくても、月森孝介もきっとそう望み、陽介の復讐は許されるのだ、と。
月森はしかし冷静に、まだ分からないことがあるのだと言うだけだった。
「今更、分からないこと!? 生田目は犯人で、俺も直斗だって確信してる。この男が先輩を、菜々子ちゃんを殺したことが分かって、なにが分からないんだよ! 俺には、お前が分からねぇよ!」
相容れないのは残念だと完二が言った。片隅にそれが浮かぶ。生田目が犯人だ。法で裁けない。選択は二つに一つ。
(許すか、許さないか!)
「落ち着け!」
月森は今まで聞いたことがない様な声を上げた。荒げたと言う方が正しいかも知れない。場は静まり、遠くで、風の抜ける音がした。ひゅうっと、冷たい北風が。泣いている千枝や雪子、りせの声は遠かった。
――あぁ、俺はずっと、復讐したかったんだ。
救えなかった、一人の為に、ずっと。