Just call her name -11

 生田目を落とさないと決断した月森に従うことを決めた所で、看護師が呼びに来た。急かされるままに菜々子の元へと戻り、そこで、少女の存命を目にした。奇跡だと、りせが口にする。そうしてぼろぼろと涙を零した。アイドルと持て囃された彼女が一番、普通の、女子高生の様だった。
 菜々子が息を吹き返したことで、陽介にも冷静さと理性が戻ってきた。少女の死は、自分の復讐を正当化させる起爆剤に過ぎなかったのかも知れないと思う反面、冷静さを奪う程度には、菜々子を想っていたのだとも感じられた。嵐が吹き抜けた後の感情の波は、凪いでいる。
「菜々子……良かった……」
 月森は涙を見せなかったが、カタカタと震える指先に、痛い程の感情が伝わってくる。菜々子をじっと見詰め、月森は陽介に視線を寄越した。先程まで、月森に辛い言葉を当てていたが、菜々子の回復が気不味さも凌駕して、「良かったな、月森」と素直に口に出すことが出来た。その瞬間、月森が自分を見た意図が、やけに不可解だった。
(奇跡っていうより)
 生田目を落とさなかった故の帰結、と思えた。
「菜々子ちゃん……良かった……ですね」
 女性陣の中で一人、直斗だけが涙を零していなかった。彼女はきっとまだ、選択を悩んでいたのではないかと思う。泣くよりも先に、感情が止まっている様に、菜々子を見詰めていた。
「平気か、直斗」
「大丈夫です……有難う、巽君」
 肩を叩いた完二の行動が、男女だからという嫌らしさを伴っておらず、どことなく絵画的にだけ見えた。そうか、と陽介はそっと月森の傍に寄り、菜々子を必死で見詰める親友の頭を撫でた。
「陽、介……?」
 泣く声も収まり、部屋は奇妙に沈黙していた。暖房がさわさわと柔らかな風を吹かせて、菜々子の前髪が微かに揺れる。小さな胸が、呼吸に合わせて上下した。その瞬間に、ふと、泣きそうだと思った。
 程無く、クマが行方を晦ましたことに気付き、菜々子を安静にすることも兼ねて、特別捜査隊の面々は、病室から引き上げた。
 結局その日は、そのまま解散となった。
(クマ、どこ行ったんだか)
 菜々子を誰よりも心配していたクマ。生田目のことばかりに気を取られて、クマが、そこにいないことにすら気付かなかった。クマは誰よりもずっと、菜々子のことだけを考えていたのだろう。憤怒も柵も何もなく、唯シンプルに、菜々子を悼んでいた。純粋で単純で、けれど、本当は心根の良い子供。
 仲間と別れて、月森とも別れて、陽介は一人で帰路に着く。クマのこともあるので、走って帰らねばと思ったが、足が鉛の様に重く、思う様には動かなかった。降り積もる雪が、あの、病室の透明な白に似ていた。冷たいという心地よりも、美しいと思う気持ちが先行する。
 生田目をあのままにしておくのが、人としての正解であることは分かっていた。殺人者の記憶など要らないと泣く、雪子の感情も理解出来る。菜々子の目覚めで、辛うじて感情を凌駕した理性がなければ、今から、独りででも病室に向かってしまっていたかも知れない。その程度には、高揚していた。
「……独り、って訳でもねぇか」
 携帯電話が鳴っている。着信は完二から。切れるまでぼんやりとそれを見ていると、次には直斗から着信があった。月森が感じているという、違和感は、他の仲間が感じているものではないらしい、と病室で分かったが、リーダーの発言にはそれなりの重みがある。陽介は今度こそ着信を取ろうか逡巡した。これを受けたら、もしかしたら、再び生田目のいる病室に舞い戻るのではないかとも思う。
「陽介! 待って!」
 背後から駆け寄る足音に振り返ると、銀色の髪が月灯りに輝いていた。舞う白い粉雪がちらちらと怪しく灯る乳白色の光に照らされている。幻想的な冬景色の様に月森は佇んでいた。鳴り響く携帯を少しだけ見遣って、陽介は首を横に振る。ごめんな、直斗、完二。きっと二人でいるのだろうと思う後輩に、心の中で謝罪する。
「クマのこと、ちょっとだけ、後にしても良いかな」
 月森の表情は、どこか悲しげだった。
「さっき、菜々子が死んだと思って、茫然自失だった。悲しかったんだ。何も考えられなくなる位には。でも、皆がいたから。……陽介が、いたから。ちゃんと我に返ることが出来た。敵を討つならば、違えるべきではないって」
 冷えた言葉が、薄い唇から紡がれる。
「俺が感じた違和感は、間違っているのかも知れない。けれど、もし、生田目ではない『誰か』が菜々子の命を奪ったのだとしたら、それを看過してしまうのは困ると思った。確証はないよ。でも、胸に何かが残る以上、迂闊なことは出来ない。だって、生田目は、黒幕でないとしたら、有力な証言者だ。それを亡くしてしまったら、困るんだよ。陽介、俺は、人殺しが嫌だとかそんなことで止めたんじゃない。菜々子を殺した犯人なら、死刑にして欲しいと望むよ。――シンプルに言った方が伝わるかな。『死ね』って考える。俺が手を汚さなくても、司法によって死が与えられるならば、その方が楽だし、ずっと良いと思うだけだ。聞いただろ、お前にも。本当に立件出来るか。あの時は死んで欲しいとまでは思っていなかったけど、望む処罰を与えて欲しいと言う気持ちは、同じだ」
 滔々と語る月森は、悲壮にも見えた。月と雪の中で、自分ではない誰かに演説している。否、彼が言葉を捧げたい相手はやはり、陽介なのだ。陽介のみ。だから追ってきた。
「生田目を落とした方が良かったか、今、自問自答した。やっぱりまだ、全容が掴めていない以上、落とすべきでないと確認した。陽介、理解して欲しいとは言わない。全て、俺の勘だから。でも、……これで……」
 分かってくれた?
 言葉は音にならなかった。唇の動きだけで、言いたい言葉を勘付く。
「言葉が足りなければまだ」
「……もういいから、喋るなよ。喋んなくて、いい」
 月森は一度沈黙すると、駆け寄って陽介を抱き締めた。泣くのだろうかと思ったが、月森は静かに呼吸をしているだけで、あの時の礼の様に、胸を貸すことも能わない。
「俺は誤解していたんだ。陽介は悲しかったんじゃない。怒っていたんだ。気付かないで、優しくしてあげたつもりになっていた。あんな風に大切な人を突然奪われて、正気でいるなんて、出来ない」
「お前は……正気だったよ、月森。正しい」
 背を撫でると身体が震えた。
「正しくなんてない。復讐することが正しいとかそうでないとか。――俺だって、物語の『誰か』に呆れていたんだ。復讐しても誰も返らない。また死と復讐が連鎖するだけだ。何て、愚かなんだろうって。愚かなのは俺だったのに。愚者って、本当だな」
「……愚者?」
「俺達は愚者だったんだよ。見えていなかった。当然かな、単なる高校生なんだから。これからは審判者になれると信じたいけど……どうだろうな」
「お前って、偶に、妙なこと言うよな。俺が魔術師だとか。確かに、ペルソナ出す時のカードは、タロットカードで、俺のが魔術師だってのは分かるけど」
 愚者、審判は、タロットの絵柄にあったと記憶している。月森が個々のペルソナにはアルカナが備わっているとか何とか言い出すので、興味本位でネットで調べた知識だ。変なこと言った、と月森は呟いて口を閉ざした。鼓動は静かに響く。とくん、とくんと。この鼓動の音が、人間にとっては、何よりも大切な音だ。
「さっき、俺が怒ってたんだって言ったよな」
 月森は微かに頷いた。
「お前の言う通りだよ、月森。俺は、怒ってたんだ。小西先輩殺した奴が、憎かった。ずっと。でも、お前は、違ったんだな」
「違わないよ。犯人が憎い。俺達から、あの家から、菜々子を奪おうとした奴が、許せない」
 背中に当たっている拳が、強く握られたのを感じた。
「ちげぇよ。さっき言ってただろ、茫然自失だったって。……悲しかったんだな。お前は、菜々子ちゃん亡くして、泣いてたんだ」
 今からでも泣いて構わないと言いたかったが、言っても、月森は泣かないのだろうと思った。陽介は目を閉じて、呼吸の音と心臓の音と、そして、体温を感じ取る。生きているから、言葉を交わせるから、まだ、間に合うのだと思った。
「分からないなんて言って、ごめん」
 分かろうとしなかったのだ。自分の思い描いた復讐に、賛同してくれないことが、恨めしかった。月森だけは分かってくれると、信じ込んでいたのだ。身勝手にも程がある。
「菜々子のこともそうだけど、陽介に言われたのは、堪えた。泣きそうかも」
「うお、それはワリィ……」
 思わず背を摩ると、くすぐったいと月森は笑った。
「なんか、霧ばっか深くて、ずっと、見えてなかったんだ。お前だけじゃないぜ、俺も、他も全部。夢ん中には、小西先輩が出てくるし……」
 花ちゃん、と、今も彼女が呼び掛けている様な気がするのだ。月森は息を吸うと、寂しげな声で呟いた。
「陽介は、ずっと小西先輩を見てたんだって思い知った。……だから、それも、効いた。怒っていたって言ったな? 恨んでいたって。ずっとさ、恨む気持ちの裏側に、彼女がいたんだ。俺なんて、霧がなくても、見えてないよ」
「そんなこと――」
「でも、さっき振り向いてくれた時にさ、久々に、視線が合ったって感じたんだよ。可笑しいだろ? でも、俺の言葉に振り返ってくれて、陽介は、俺を見てくれたんだって思えた。仮令、陽介が怒ってたとしても」
 陽介の反論を遮って、月森は早口で言った。言い切って、腕の力を強くする。
(苦し……)
 その苦しさが、月森の得ていた物と同じなのかも知れない。陽介は呼吸を整えた。取り敢えず、誤解は解く。
「怒ってねぇよ」
「もう?」
「……最初から、怒ってたんじゃないっつの」
 月森は答えずに、身体を離した。ひやりとした空気が間を抜ける。雪が肩に、小さく、柔らかく、積もっていた。
「今からでも良いから、俺を見てよ、陽介」
 指が顎に触れて、顔が近付いてきた時に、これから何をされるかと言うことは予見出来た。けれど回避する感情も浮かばず、黙って、月森が唇を重ねるのに従う。小さな音を立てて、唇が離れて冷えた。
「あ、クマ、俺も心配してるから、見付かると良いな」
「いねぇと困るもんな、あんなんでも」
「すっかり、馴染んでるからなぁ」
 月森はクスクスと顔の近いまま、笑う。
「引き止めて御免、陽介。聞いてくれて良かった」
「……俺も、お前の話聞けて、よかったよ」
「陽介、八十稲羽って、雪が降るんだね。俺のいた所では、滅多に降らなかった」
 するりと離れると、彼は右手を軽く上げて、空に向かって開く。そこに雪の結晶の積もるのを待つ様に、月森は掌をじっと見た。
「俺のいたトコも、そうだった」
「ここなら、ホワイトクリスマス、なんてのも、経験出来るかも知れない」
「そらロマンティックだな、センセイ」
「なぁ、陽介。それまでに全部終わったら、俺と過ごしてよ。ホワイトクリスマス。なるか分かんないけど……イブだけで良いから」
 こちらに向いた月森は、綺麗に微笑んでいた。日本人のクリスマスならば、イブの方に重きを置くのが通常ではないだろうか。その遠慮は妙だ、と思う。
「んなら、月森の疑問点ってのを潰して、生田目を絞首台に送る算段でもしないといけねぇな。大変だ」
「クリスマスまでには、終わらせるから」
「菜々子ちゃん、待ってるもんな」
「陽介、俺は――」
 不意に真剣になったアッシュグレイの瞳が、こちらをじっと見た。そのまま瞳孔が細められて、鋭い目線が貫く。思わず飛び退いてしまいそうな眼光に身が竦んだが、視線から逃れようとすれば、また、月森を見失う様な気がしたので、黙って視線を返した。
「俺は……聖人君子じゃないんだ」
「はぁ? なんだよ、いきなり」
 クリスマスはイエス・キリストの生誕の日であり、それに因んだのかと一瞬思ったが、ジョークにしては、意図が全く分からない。
「約束してくれるまで、帰さないよ? クリスマス・イブは俺と過ごすって、約束して、陽介」
「我が強い奴だな、お前って、ホント。いいよ、付き合ってやるから」
「よし、言質は取ったからな。撤回は認めない。さぁ、明日も頑張らないと」
 月森は背を向けた。
 彼が最後に望んだ聖夜の約束は、どこか、演技の様に思えてならなかった。言いたいことを飲み込んで、代わりに作られた口実に思える。それでも、乗ってやることしか出来なくて、陽介は消えていく黒い背を見詰めていた。
「聖人君子じゃない、か」
(やっぱり、分かんねぇな)
 そう思って、笑った。月森に言ったら、今度こそ泣かれてしまうかも知れない。

 

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