Just call her name -7

 霧が濃い。一寸先も見通せなくなると言うのは過言だろうが、それでも少し前を歩く人の姿が見えないのは不便だった。目を凝らして、隣を通り過ぎて行った女子の姿を追ってみる。紅いカーディガンが見えた気がしたので、雪子だったのではないだろうかと思った。向こうも、霧の深さに、こちらに気付いていない様だ。それでも千枝ならば見付けられるのではないかと思う。人間の認識なんて、主観的な物だ。
 自転車を止めたのはいつ頃だったろうか。何度もぶつかっては故障してばかりいた。交通法規違反と言われても、いつか、二人乗りして沖奈まででも行けたらと思っていたなんてことを、また、思い出す。思い出して、泡の様に感情が消えた。
「よう、月森!」
 目の前にグレイヘアーが見えたので、陽介は声を上げた。霧の深い色に、この髪色は負けてしまいそうに思える。気付いたのは、自分が彼の親友だからだと自負した。そう思って笑うと、月森もにこりと笑みを返して立ち止まる。
「おはよう、陽介」
「おはようさん。霧、すげぇな」
「うん。嫌な気分になる」
「テレビん中みたいって?」
 月森は頷いた。
「ははっ……眼鏡掛けたらいんじゃね? お前、眼鏡すげー似合ってんじゃん」
「似合ってる?」
 分厚い前髪から鋭い眼光が光る月森だが、眼鏡は彼の為に誂えられた(実際にクマが誂えた物であるが)かの様に、その造形に非常に似合っていると思っていた。黒縁が理知的なイメージだけでなく、怜悧な切れ者の様な印象を与える。どこかサディスティックでもあるが。
「陽介がそう言うなら、眼鏡の導入を検討しようかな」
「なんだそりゃ」
「眼鏡美人に大興奮だった陽介の好みは、眼鏡をしてる顔なのかと」
「ぶはっ、ありゃあ、話がちげぇだろ。あの人は、俺的眼鏡美人ナンバーワンっつぅだけで」
「眼鏡の有無には、好みは影響しない?」
 テレビの中で、散々、男女問わず眼鏡の姿を拝見しているのだ。一生分位、眼鏡を見た気がする。この期に及んで眼鏡美人を探すのでは、相当なフェチズムだろう。
「逆にセンセイはどうなんだよ」
「俺? 俺は、カジュアルな眼鏡をオシャレに着こなせるのが好みだね。眼鏡を着こなすってのは変な表現だと思うけど。眼鏡の知的な印象とは幾分離れるけど、快活さが失われない橙色の太めのカジュアルなセルフレームが陽介には良く似合っていると思うよ」
「語んな。ってかそれ、好みと関係ぇねぇだろ!」
 いつの間にか顔が近付いていたので、陽介は半歩離れた。
「好みは一つだって言う、心意気のつもりなんだけど?」
「お前は変わんねぇよな……」
 肩を落とすと楽しげな笑い声が聞こえる。
「霧で皆、体調崩してるってのに」
「それはメンタルが弱いんだろ? 医者だって、霧の所為なんてことはないって言ってたし」
 医者と聞いて、それは菜々子の病室でのことだと思い出した。患者は依然、増えていると言う。こういう所はやはり豪胆なのか、陽介の家族には影響がなかった。商店街の人に散々言われて鍛えられている精神力の賜物か、不用意な噂に触れない為か、忙しいから気にしていられないからなのか。ガスマスクとは言わないが、流行性感冒等の予防用のマスクが飛ぶ様に売れているとだけ聞いた。陽介も欲しいなら、店で並べと言われる辺りが、タフなのである。
「つっても、気になることは気になんだろ。俺も体調悪くなりそうだし」
「陽介」
 つ、と、月森の右手が額に伸びた。
「熱はないから、今の段階だと仮病になるかな」
「そういうんじゃねぇよ」
 手を振り払っても、月森は表情を崩さない。
「メンタル? 陽介は繊細だからなぁ」
 カラカラと笑う。分かった様な口を聞きやがって、と陽介は苦く思った。隣の、ナイロンザイル並の神経を持っているセンセイとは、造りが違うのだ。今だって、霧の中を迷走している様な気がしている。こういうのをきっと、五里霧中と言うのだ。前が見えて来ない。
「正直な話、霧が影響を与えているなんて、考えられないだろ。テレビの中じゃないんだから。陽介だって、それ、分かってる癖に」
「……ワリ」
「まぁ、弱音なら他の誰かに言うより、俺に言ってくれて嬉しい訳だけど」
 弱音を吐かない月森は、のんびりとそんなことを言った。何となく見ていられなくなって視線を逸らす。視界に電柱が入ってきて、そのまま視線を上げれば、電線が混線している様に見えて。
(――ッ、先輩!?)
 ゆら、と蠢く影が、一瞬、吊るされたと聞いた人の姿に重なった。ピントが合えば、単なる目の錯覚だと気付くけれど。
「ただの霧なら、か」
「月森?」
「いや、何でも。向こうの霧に似てるのは事実だし、テレビの中にいると、消耗するだろ? それに、似てるなって」
「やっぱり、眼鏡掛けてくか?」
「ははっ、それ、良いかもだなぁ。では早速」
 ワイシャツの胸ポケットから、黒縁の眼鏡を取り出して、月森はにっと笑った。片手だけで眼鏡を付ける仕草は、最初に見た時は随分と気障な仕草だと思ったが、段々と見慣れてきた様に思える。今では、普通に掛けた方が違和感だろうか。
 ギラリとしたアッシュグレイの瞳が、グラス越しにこちらを射貫く。
「やっぱ、サドっぽいわ、お前のソレ」
「褒め言葉と受け取っておこう。陽介は? しないの?」
「突然揃って、眼鏡で学校来たら、妙だろ」
「そんなこと言わずに、掛けなって」
「遠慮しとく」
「何だと」
 言うなり月森は、片手で眼鏡を外した。
「だったら、こっち掛けさせてやる」
「うわっ、ヤメ……」
 鼻梁にブリッジがぶつかった。自分でする時とは異なり、両手を使って幾許か無理矢理、黒縁の眼鏡が掛けられる。蔓が自分のよりも太くて、ややゴツゴツとした印象を受けた。角張ったレンズは、自分よりも少しだけ広い視界。
(……開けた)
 視界がさぁっと開けた。物理的に完全なクリアーになった訳ではないけれど、負荷が軽減された様な感覚。少々異なるが、肩の荷が下りた、と言う表現に近い気がした。
「やっぱり、陽介には陽介の眼鏡の方が似合う」
「あのな……」
「クマってセンスあるよなぁ、ちょっと会っただけで、陽介に一番相応しい眼鏡を選ぶんだから」
「つか、とかなんとか言ってる割に、外さねぇのはなんでだよ……」
 溜息を落として、自分はきちんと両手で眼鏡を外す。片手で外すと、眼鏡は壊れ易いと聞いたことがあるのだ。
「あぁ、それは、彼のワイシャツとか彼のパジャマとか、そういうのを着る女の子にときめくって言う心情に直せば陽介にも理解出来」
「わぁぁぁぁっ! ヤメロ! やめてください!」
「彼眼鏡と言う、新しいジャンル」
 なんちゃって、と言いながら月森は受け取った眼鏡を胸ポケットに仕舞った。
「リストウォッチを無駄に装備させるとか」
「そういや最初の頃、俺に渡してたよな……てめぇ……」
「そしてプレーンリングは今、俺の手中にあると言う」
 キランと手元で光る物が見えたので、思わず陽介は絶叫した。確かにそれは、自分が嘗てしていた、細工のないシンプルな指輪だ。
「婚約指輪に」
 言いながら左の薬指に嵌める仕草をしたので、陽介はまた絶叫する羽目になった。
「やめてぇっ!」
「冗談だって」
 陽介が頭を抱えると、月森は楽しげに件の指輪を宙に投げた。それをキャッチして、また投げる。
「売値見たら、意外と高かったけど、誰かからのプレゼントだったりする?」
「んな訳ねぇ……だったら、お前に渡すかっつの」
 元々は右手の中指に嵌めていた物だが、月森が戦闘でなくすと悪いから、と預ってくれていた物だ。代わりに、戦闘の補助になるから、と不思議な符を渡されたり、ブローチなんかを付けたりしている。今は、何故か羽の形をしたストラップを持っていた。何気に月森と同じ物なのだが、態々お揃いにしているのかどうか、怖くて聞けないので聞かないでいる。
「前にいたトコで買ったんだよ。シルバーアクセとか、お前も売ってんの見んだろ?」
「見るけど、何か、俺には合わない気がしてスルーしてた」
「そうか? 胸にシルバークロスとかなら、合ってるんじゃねぇの? 気障っぽい外見なんだし」
「褒めてる? 貶してる?」
「? イケメンで羨ましいって話だろ」
「それは……どうも」
 もごもごと言われたので、何事かと横を見れば、月森は顔を逸らしていた。頬の辺りが少し紅い。
「……なんでそこは照れんだよ」
「陽介は、恋心を理解していない」
 仄かに顔が紅いまま、月森はガックリと肩を落とした。
「お前ってさ、平気なのな」
「今のこの状況を見て、平気だと言うんだ、陽介は……」
「違ぇよ! 霧もだし、なんでも」
「……陽介」
 声の調子が変わったので、陽介は慌てて手を振った。
「あ、や……お前と喋ってたら、霧のことなんて、忘れられた気ぃしたからさ。サンキュな」
 陽介が片目を瞑ると、月森は緩やかに笑った。
「ま、陽介の不調が払えたのなら、俺はそれで良いけど」
「ははっ、ホント、お前って、いいヤツ」
 平気な訳はない。彼の家族はまだ家に戻って来ないし、回復は遅々としている。
『昔から、両親が仕事で忙しくて、家で独りってことが多かったから、独りでってのは慣れてる』
 そうは言っていたが、独りで家にいるのが堪えることは、陽介も知っている。両親は今の様に、店長となる以前は、本社勤めをしていて、いずれも多忙な人だった。家で独りでいることが多いのは同じだ。寒い部屋に、広い部屋に、心が痛まないことがないことを知っている。けれど、高校生ともなれば、だったら淋しいだろうから、と押し掛けるのも逆に気を使い過ぎている様に思えて、避けていた。
「霧、早く晴れて欲しいよな」
「だな」
 校門がやっと目の前に見えてきた。霧が深くて、やはり、それに気付くまでに時間が掛かったのだけれど。

 

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