橙色の空がうっすらと宵闇に染まり始めている。父親がジュネスの店長だと言っても、居宅までが直ぐ横に構えられている訳ではない。バイトが終われば、家に戻るまでの暗い時間を独りで戻る。それでも商店街からは離れているのが幸いなことで、余計な噂話を聞くことは滅多にない。と言っても、独りの時は大抵、ヘッドフォンをしているから、余り声が気になるということもないが。流しているのは英語の歌詞ばかりで、それを親友に話したところ、こういうのを聞いているのに英語の成績がどうして良くならないのか、と驚かれた。英語詞は意味が分からないから良いのだ。何も、歌詞の意味すら考えずにいられる。そう思っていたのは昔の話なのだが。
ぼんやり前を見ていると、トントンと肩を叩かれた。反射のように振り返ると、灰色のボリュームのある髪型が視界に入る。瞳は細められていて、唇は笑みを象っている。陽介は直ぐにヘッドフォンを外した。
「月森じゃん。どうしたんだよ」
「陽介が見えたから」
にこりと月森は笑う。
「何聞いてたんだ?」
「いつもの。場所によって音楽変えてるって話、前にしただろ」
「じゃあ、あれか。Heartbeat, Heartbreak?」
「ご名答。つっか、よく覚えてるよな」
月森は頷くと、横に並んだ。生き字引の様な知識を持つこの男のことだ、記憶力も当然、比例する位にあるのだろう。感心しながら陽介はMP3プレイヤーの電源を落とした。このまま、共に帰るつもりなのだろうと思ったのだ。
「そういや、今日は珍しいモン見たな。お前、小西先輩の弟と知り合いだったんだな」
「2学期に入ってから、ちょっと」
前に保健委員の仕事を手伝わされた時に、尚紀と会ったという話は聞いていた。それきり、話題に上ることもなかったし、こうして二人でジュネスにやってくる仲だとは知らなかったのだ。
「……陽介、今日バイトだって言ってたからね」
「あぁ、ヘルプ入ってくれって頼まれてって言ったよな。つか、それ、関係あんの?」
「小西が、ジュネスに一度来たい、って言ってて。ほら、お姉さんのことがあっただろ」
月森は、黒に染まり始めた天頂を仰ぐようにして見て、こちらに向き返った。
「どうせなら、陽介と会おうかな、と」
「え、お前が会いたかったの?」
「それは否定しないけど。こうして上手いこと、一緒に帰れる訳だし」
月森の口角が上がる。余計なことを言ったな、と陽介は軽く後悔した。この親友が、自分を好きだと言い出したのは、夏休みのことだ。
(だからって、なにかってこともねぇけど)
うーん、と首を傾げる。大っぴらにこういう発言をすることはあるが、それ以外のアクションは乏しい。と言っても、変わらず昼時には弁当を持参してきたりしていた。ここ数週間はそれも見ないが。
考えて陽介は首を振った。
『冷蔵庫の中身がぱんぱんだったから、お弁当でも作っていこうかなと思って』
月森は最初、そう言った。春の話だ。聞けば、冷蔵庫は菜々子と堂島の叔父がジュネスに買い物に行った時に、食料品を大量に購入して詰め込まれるのだと言う。今の彼の家に、弁当を作るだけの食料品が置かれることはない。
「お、お前の方はともかく、小西先輩の弟……尚紀と俺を会わせたかったってことなんだろ?」
「そう。お節介かも知れないと思ったけど、ずっと気になってて」
「なにがだよ?」
「小西が、陽介を嫌いだって言うから」
一瞬、肩が跳ねた。けれど直ぐに納得して、陽介は笑った。
「だろうな。にっくき、ジュネスの息子だから。その上、姉ちゃんとも関わってる」
「空笑いするなよ」
ぽかりと頭を叩かれた。
「そういうの、俺は見たくない。俺は見抜けるって分かってるんだったら、止めて欲しい」
本当に気に食わないとでも言う様な表情をするので、何だか笑えてしまった。忍び笑いすれば、ギッと整った灰色の双牟がこちらを睨む。悪い悪い、と両手を上げた。
「センセイには叶わねぇなぁって」
月森はすっと視線を前に戻すと、息を吐いた。
「それが誤解だって、気付いて貰いたかったから、陽介のいる時を狙ったんだよ。小西ももう、お前に変な感情抱いてない」
脳裏に、夕刻聞いた、彼の声が蘇る。そして自分の言葉も。
『過去形なんですね』
「やっぱり、好きな人が悪く思われてるってのは、耐えられないよな」
腕を組んだ月森が、真面目な表情でうんうんと首を振るものだから、陽介は思わずつんのめった。
「おま……いい話で終わらせとけよ!」
「良い話だろ? いずれ、商店街の全ての人間に知らしめてやる予定だからな」
隣の男はにやりと唇の端を上げた。
「そこでそんな凶悪なツラすんな! つか、コエーって!」
これでは余計に、悪い噂しか立ちそうにない。これ以上、微妙な地位になるのだけは、勘弁願いたいところだ。改善どころか、改悪になりそうで、恐ろしい。
「まぁ、それは冗談だけど」
「ホントかよ……」
「そうだ、日曜日、バイトないよな? ちょっとテレビ行きたいんだけど」
「あー日曜? 平気だけど、なにすんの?」
「頼まれごと。それから、雨の日は珍しいシャドウが出るから」
雨の日にしか出ない、雨や霧と言った名前を冠するシャドウから得られるアイテムは、武器や防具の素材として有用だと月森は話す。武器防具にアイテム等の管理は全てリーダーに一任している為、陽介はその実状は知らないが、彼が言うのだからそうなのだろうと思っている。倒したシャドウが消える前に、そこからアイテムを回収するのは意外と骨だ。思えば、倒すと紙幣や小銭が散ってくるという原理も不明なのだが。偽札ではない、と月森は言っている。通貨偽造は洒落にならない犯罪なので、本当にそうであって欲しいと祈る他ないのだが。
極稀に、素材となる以外の用途に使える物もあるらしく、月森は暇潰しと人助けを兼ねたこと(彼はクエストと呼ぶ)を請け負っているらしい。無論、特別捜査隊のメンバーとしては、戦闘での経験値を上げると言うことに繋がるので、積極的に異を唱えることもない。異を唱えても、多分、月森が独りでダンジョンに行くだけだろうとも思われる。
「ふーん、なに頼まれたんだ?」
「色々あるから、纏めて行こうと思ってて。付き合わせて悪い」
「別に構わねぇけど。そっか、日曜は予報だと雨だったからか」
どうせなら、アイテム回収の他に、珍しいシャドウからも素材をゲットしておこうということなのだろう。相変わらず、合理的なリーダーだ。
テレビの中は、体力を消耗する。出来れば、何度も足を運ぶのは避けたい。そして、囚われている人がいるのならば、速やかに助け出すべきである。これがリーダーの方針だ。則って、彼の妹も直ぐに救出した。
(菜々子ちゃん、どうしてんだろうな)
白い病室を想起して、陽介は首を振った。憧れの先輩の無惨な姿を思う。直接見た訳でもないのに、脳裏に浮かび上がるのだ。
(過去形)
「陽介? 聞いてる?」
「うえっ? なに?」
「だから、天城の城とか、巽の浴場とか、そういうところも、もう一度回りたいって思って」
「へ? なんで? つか天城の、とか言わないでやれよ」
事件の犯人である生田目は、自分達で捕らえた。そちらもまた、病院に詰められている筈だ。犯人が捕まったのだから、もう事件は起こらない。頼まれごとがあるからと言うのは理解出来るが、今はそれ以上の理由がないのだと改めて思った。
「そういや、雨の日ってのも、変だよな。なんで、武器の素材がいんの?」
久保美津雄の時とは違う。あの時は、どこか、本当にあの男が犯人なのかと疑う心があった。現に違ったのだし、胸騒ぎは外れていなかったことになる。生田目は違う。テレビの中にいたというだけではないのだ。手口を見ても、トラックの中のテレビも、そして手記の様な現実的な証拠が出てきている。菜々子を誘拐した犯人は、生田目だ。
「分からない。俺は、分からないんだと思う。ただ、万が一ってことがあるし、見落としとか遣り残しがないか、不安なんだ。付き合わせるのは、悪いと思ってるけど」
「なんだ、そんなことか」
菜々子が連れ去られてからずっと、月森は落ち込んでいる。表面上は、何事もないようにと気を配っている様だが、生憎と、親友である陽介にはきちんと見通せていた。自分だけ、でもないのだろうが。それに触れるのはきっと、月森が望まないだろうと思っている。だから、こちらも普通に振る舞うのだ。直ぐに菜々子は元気になって、あの家に戻る。それだけだ。
けれど、こうして心情を吐露するのなら、全力で力になろうとも決めていた。
「んじゃ、アイテム回収はともかくとして、前のダンジョンは俺らだけで行けばいいだろ? そうすりゃ、他の奴らは付き合わなくていいわけだし」
「……デートみたい」
「りせが見てるっつの」
「嬉しい。俺も張り切ってペルソナを合体させるかな」
「合体っての、何度聞いてもピンとこねぇけどな」
「いや、合体は合体だから」
陽介は自分のペルソナ、スサノオを思い出す。合体して別になる、と言われても、イメージが浮かばない。それに、スサノオには愛着があるのだ、そう簡単にいなくなってしまっては寂しい。
「イザナギって、最初に出したアレ、もういねぇの?」
「とっくに」
「うお、ドライだな。番長みたいでかっこよかったのに」
「え、本当? 陽介が格好良いって言うなら、また用意しても……」
「いや別にそこまでじゃねぇよ」
「そういや、ヤマタノオロチが、陽介見ると怯えるんだよね」
「は? なんで?」
「神話だと、スサノオノミコトに退治されてるから」
「関係あるのかよ」
過去の因縁、倒されたと言うエピソードによって、彼のペルソナに影響が出るのだろうか。こちらに言われても、分かりようがない。
「あんなのスサノオじゃない! って」
最初、何を言われたのか分からなかった。しかし直ぐに頭が回転する。
「disんな! 人のペルソナdisんな!」」
散々、スサノオの外見はどうだとか言われているのだ。仲間達は陽介のセンスの所為であぁなったのだ、と残念そうな目で見てくるが、失礼なことこの上ない。
「もういい……独りで行ってろ。見た目がアレなスサノオなんて、連れたくねぇんだろ、どうせ」
「そんなこと言わないでよ、陽介。俺が言ってることじゃないんだから」
「我は影、真なる我」
昔、シャドウに言われたことを復唱する。月森の顔が焦りに変わった。
「ごめんごめん、大体、ペルソナと日常会話が出来る訳ないだろ。相棒がいてくれないと、困るんだからさ」
言われてみれば、確かにそうだ。スサノオは意識の内側にいると、意識しているが、それと会話することなど有り得ない。怯えているというのも、月森なりのジョークなのだろう。神話を絡める辺り、ジョークが高度でツッコミに困るのだ。
「ったく、仕方ねぇな」
「じゃ、日曜日はそういうことで。あ、明日空いてたら構ってくれると嬉しい。じゃあな」
「へいへい。じゃあな、月森」
いつの間にか、周囲はバイオレットに染まっていた。夜の黒よりはまだ少し、太陽の陰を残した暗さ。その中に、灰色の髪がゆらりと揺れる。風の温度は下がり、もうすぐ冬なのだと肌に教えていた。
月森は手を上げた。暗い空に、肌色が浮かんで見えた。