Just call her name -2

「陽介、ココ、違う」
「うえっ? マジ?」
 トントンと鈍い銀色のシャープペンシルが、解答欄を叩いて示している。慌てて問題に目を向けて、暫し頭を回転させた。数式が頭をぶわっと過るが、肝心な、問題に利用すべき公式が浮かんでこない。横目でちらりと月森を見ても、アッシュグレイの瞳は、既に自分の問題集に戻っている。一瞬で見て間違いに気付いて、それで陽介に修正を促すだけだ。
(X=2aだから……)
 ジュネスブランドの紅いシャープペンシルで、ぐりぐりとキーワードになりそうな箇所に丸をつける。つけるだけだ。
(X=……2a……で……)
 正しいと思って答えを導いたのだ。それ以外に正しいと思われる手法が、陽介の頭で浮かぶ筈もない。
「手、止まってる。ヒントでも出そうか?」
「お願いします、センセイ」
 ぺこりと頭を下げると、苦笑じみた笑いが返ってきた。ヒント、と言うよりも解説を始めた月森センセイの偉大な講義を陽介は拝聴する。
「――で、解けそう?」
「恩に着ます。つか、お前のホント、分り易いんだな! 助かるぜ!」
 笑い掛けると、月森は首を傾げた。
「陽介、疲れてるんじゃないの? これ、別に難しい問題でもないし」
「そら、学年主席のお前からすりゃ、なんでもそうだろ」
「買い被り過ぎ。陽介でもこれは十分に解けた筈だ。休憩しよう。ちょっと下で飲み物取ってくるから」
 そう言うと月森は立ち上がり、すい、と部屋から出ていった。
「陽介でも、って発言が、さっすが学年主席だよな」
 主席なので、少なくとも八十神高校では、月森に敵う者はいないことになるし、その発言も当然のものだとは思うのだが。
 疲れている、と言われれば、確かにそうかも知れない。陽介は伸びをして、ゴロンと背後に倒れ込んだ。薄い絨毯だけなので、背中が当たるとゴツゴツして痛い。いない内に、例のアレを布団の下から探してみてやろうかと思ったが、月森は普段温厚なのに、怒ると絶対零度になって恐ろしいと知っているので、止めた。不在の部屋を荒らされるのでは、月森も嫌な気がするだろうし。考えることもなく、ぼんやりと天井を見詰めた。中間試験が近い。マヨナカテレビのことも気に掛かることは気に掛かるが、兎も角、直斗は救出したのだ。あの頭脳が入ってくれることは、純粋に有難いし、頼りになる。それに、揶揄うと意外と反応が面白いので悪くない。女子としてどうだ、とはならないが、可愛い後輩が増えることは、陽介にとって、朗報なのである。
「これで参謀役も、お役御免か」
「何勝手にリストラ宣言してるんだ?」
「うわっ! おま……気配消して近付くなよ!」
 気付いたら、端整な顔が上から覗き込んでいた。手には、麦茶らしき液体の入ったグラス。
「あぁ、癖なんだ。シャドウに気付かれない様にって。陽介こそ急に、何言ってる訳?」
「や、直斗っつぅ優秀な参謀が来てくれて、特別捜査隊も安泰だってな」
「……参謀って、簡単に務まる役じゃないだろ」
 月森は眉を顰めると、不機嫌そうにグラスを寝転ぶ陽介の顔の上に突き出した。そのまま、中の液体が降ってくるのではないか、と危惧したが、その様なこともなく、そこで止まっているばかりだ。仕方ないので、陽介はグラスを右手で受け取って、左手だけで身体を起こした。
「俺がリーダーだって言うなら、参謀は、信じられる右腕でないと困る。直斗は――探偵。アドバイザ」
「あっちのが優秀だろ」
「信頼は一朝一夕では得られないんだよ、陽介」
「俺は一朝一夕で参謀に就任したけどな」
「屁理屈」
 にゅっと伸びてきた右手が、鼻を摘んだ。突然の行動に驚いて身体がびくりと揺れると、持っていたグラスの水面が揺れて、液体が零れた。強かにズボンを濡らす。それをちら、と見て、月森はけれど無言を貫く。
「相棒って、いつもは言ってくれるのにな」
 手が離れたので、陽介は鼻を摩った。
「俺じゃ、役不足だろ」
「使い方違うから減点な。現代文で気を付けろよ、陽介」
「えっ、嘘、まじ?」
「まじです。役不足は、役が、自分に不足。つまり役がマイナスな訳。アンダスタン?」
「……勉強になりました」
 勉強に来たのは事実だが、思わぬ所でまた知識が増えた。こういう細かいことを記憶しているから、月森は生き字引の様な知識量なのだろう。
「役者不足。俺の方こそ、リーダーとか言っても、いつも陽介が考えてくれてる様な気がしてるんだけど」
「……褒め合うのは止めねぇ?」
「褒める気だったんだ。それはドーモ。……陽介がいるから戦えるんだ。嘘じゃない」
 直球で言われて、返す言葉が見付からなかった。無言で穴が開く様に見詰めると、月森は、突然にこりと笑う。
「陽介、ズボン、濡れたねぇ。着替えとく?」
「なんだよ、その笑顔は」
「陽介の警戒心のなさが、俺は好きだよ。それとも、俺が言ったこと、忘れてる?」
 陽介が好きだと、月森は言う。にじり寄って来たので、流石に陽介は後退した。
「何かされちゃうとか、思わないんだ」
「菜々子ちゃんいるだろ」
「残念でした! 今はお友達の所にいます」
「月森ぃぃ……」
 にこにこと、強気な笑みが迫ってくる。逃げようとするから、彼は追い掛けてくるのだ。知っている。
「……しないだろ、なんも。お前はさ」
「えっ」
「見縊られちゃ困るんだよ。俺だってお前のこと、分かってるんだからな」
 無理矢理は嫌だと浴場で拒絶の言葉を吐いたことも、月森は覚えている筈だ。何より、今の今まで何もなかったのだから。もしも強硬策を採るのならば、機会なんて他に幾らでもあった。
「だから、冗談でもそういうこと言うの、やめろよな」
「半分、本気」
 目が真剣だった。
「百パー本気になってなきゃ、それでいいだろ、もう」
 その視線を逸らすと、溜息が聞こえる。
「偶に、陽介は忘れてるんじゃないかって、心配になるんだよ」
「四六時中覚えとけってのか? 月森センセイ、独占欲が強い方?」
「うん、そう」
 長い指先が、陽介の手を掴んだ。視線がじっと、手の甲を見詰めている。忠誠のキスでもされかねないと警戒したが、月森は唯、静かに、アッシュグレイの眼差しを向けているだけだった。静かに、けれど、果てなく射貫く様。
「ま、コンゴトモヨロシク、俺の相棒」
「……だから、それは、テレビでだって言ってるだろ」
 分かっている、と思っていたのだ。好きだという言葉も、抱える感情も、他にも色々な、月森の思うことを。考えてみれば、自分のことですら儘ならないから、シャドウが出てくるのに。

 

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