ハッピーバースディ・チョコレート・ラヴァ


「会長、榛葉さんの喜びそうなことって、なにかわかりますか?」
 放課後の冷えた廊下でたまたますれ違ったと思えば、後輩は相変わらず生真面目な顔で自分のつま先を睨みつけるようにして歩いていたので、なにしてんだと安形は声をかけてやった。そのまま歩き続けていればいずれ人様に衝突してしまうのではないか、と懸念したのである。真面目で一本気なのは彼の美徳だろうが、考え事があると他が疎かになるという欠点があることは忘れるべきでない。
「いきなりなんだ」
 わざとらしく呆れ顔を作り、安形が肩を上げると、すみません、と声を上擦らせて、椿は両手を顔の横で振った。
「いえ、その――生徒会の職務上、必要なことというわけではないのですが」
 椿は意味不明な問いかけをしてしまったことへの言い訳らしきものをくりかえすばかりで、要領を得ない。あの、とか、その、とか、代名詞も不必要に多かった。
「で、ミチルがなんだってんだよ、一体」
 それからもう会長じゃねえよ、と親切心から新会長に言ってやれば、椿はますます慌てたように顔を左右に動かした。まったく挙動不審である。
 安形とミチルが生徒会を引退したのは、十一月末のことだ。生徒総会で椿が会長として承認を受け、並びに新しい会計に宇佐美という一年生の女子が就いた、というところまでは安形も承知している。しかしながら、出ていった先輩がすぐに出しゃばるものでもないだろうし、安形は以降の生徒会の状況についてはまったく知らない。安形の後任たる椿は安形が引退するなるよりもずっと前から安形の代わりに会長業務を熟しており、そんな彼に職務説明をするなんて釈迦に説法だろう。教えることもなかった。
「榛葉さんが昨日、生徒会室にいらしてくださったんですけど」
「……引退してソッコーで行ったのか、アイツ」
 なんだか間抜けだと思ったが、可愛い女の子が入ってきたらしいね、と安形にも話していたことから鑑みるに、大方、その新入会した役員を見に行ったのだと推測された。
「あ、いえ、庶務がまだいないので、そのことを気にされていたみたいで」
「あー、そうだったか」
 生徒総会では新しい会計のみが承認を受けており、ミチルの後任となる庶務については席が空いていた。
「実は、総会後に庶務が新しく加わったのですが、諸事情で会えなくて」
 でも代わりに庶務の仕事についてはボクが責任を持って教えると話しましたので、と椿は拳を握って力説してくれたが、残念ながら、元・元庶務としてであっても、あまり興味が湧くところではない。
「それはまあ、別件なのですが、榛葉さんが去って行ったときにちょうど藤崎がやってきまして」
 いまだに兄のことを苗字で呼んでいるのも不思議な距離感だなと思わないでもないが、兄弟だと知れて一ヶ月も経っていない今はまだ、ぎこちなくても仕方ないものかも知れない。顔立ちがぴったり同じだというわけではないけれど、目の前の後輩にとてもよく似た、赤帽子の男のことを思い出す。ちょうど、僅かながら得意気な様子だった顔が頭を過ぎった。
「そういや、お前らには一杯食わされたな」
「えっ、あ、あれは……!」
「つーか、藤崎にだな。大したもんだぜ、お前の兄貴はよォ」
 かっかっかっ、と笑い声を響かせると、椿は困ったように少し笑った。琥珀色の目が、遠くを見るようにゆっくりとぼやける。安形が上にいて、椿も浅雛も美森も、その命令を聞くばかりだと思っていたのに、いつの間にやら後輩たちは立派に自分たちで動けるようになっていた。騙されたことに僅かに悔しさはあったが、素直にそのことはうれしかった。引退する自分やミチルのためにと考えてくれた、ということは。
「……ん? 待てよ。なんでミチルは、お前らと組んでたんだ?」
 引退する安形会長を労うためにという意図は確かにわかる。けれど別に、生徒会を引退するのは安形に限った話ではない。安形と学年を等しくするミチルだって、共に引退している。お疲れと安形が言ってやろうと思ったのは彼に対してであったし、自分ばかりがセレモニを受けるのは不可解だ。ミチルには安形と同じようなクイズの問題を解くことができないにしても、である。そういう意味で、安形の問いは当然のものだったが、言葉を受けた椿は非常に苦い顔を見せた。
「会長にはお世話になっていましたし、引退を労いたいという話がはじめ、ボクと浅雛、丹生の間で出たんですけど、その時に、ちょうどタイミング良く、と言いますか、榛葉さんがいらっしゃってしまって……『安形の引退セレモニするの? だったらオレも協力するよ』と」
 椿の話によると、原案としては別に安形に限ってのことではなく、広く、引退する先輩に対してという意味であったらしいのだが、あまりにもナチュラルに話に入ってきてしまったミチルはそのまま加わってしまった、ということだそうだ。元はそうであったにも拘わらず、自分も引退される側だよ、なんてまったくアピールしなかったらしいので、なおのこと。
「ボクらも、すっかり榛葉さんのことを失念してしまって……それで、榛葉さんを見た藤崎に、安形さんのようなことを言われて、それでようやく気付いたんです。面目ない」
 兄への複雑な対抗心があるらしい椿は、またつま先を悔しげに見つめたと思うと、ぱっと切り替えたように顔を上げた。
「それで、その、榛葉さんへもなにか送別会と言いますか、慰労会を開きたいと思っているんですけど、中々よいアイデアが浮かばなくて」
 冒頭の言葉はそこに繋がっているらしい。安形はふわふわとした自分の友人のことを思い浮かべてみる。
「凝ったことしようとしてるからじゃねぇのか?」
「安形さんのときのようなことをするつもりではありません」
 椿は軽く笑う。
「ただ、榛葉さんには見えないところでお世話になっていたような気がしていて。特に、そういう気遣いを感謝したいんです」
「つまるところ、大仰なことじゃなくて、ミチルがふわっと喜びそうなことがしたいってのか」
 イグザクトリ。椿は何度も首を縦に振った。
「ただ、ケーキなんかを買って、それを食べるだけのパーティでは物足りない気がして」
「普通にパーティ開くだけじゃってんなら、サプライズ・パーティでもすりゃいいだろ」
「サプライズ、ですか」
「かっかっかっ。ミチルは意外と単純だからな。驚かすのは古典的だけどよ、十分に効果あっぞ」
「安形さんのときと似てますね」
 椿は小さく笑った。安形にしてみれば、驚かされたことが効果的だったというよりも、周到な用意を餞にしてくれたということに、どちらかと言えば感情が動かされたのだと思うが、結局行き着く先は変わらないのかも知れない。
「ですが、サプライズと言っても、ボクらには榛葉さんを驚かせそうなことは浮かばないような」
「……含み感じっぞ、椿」
 妹紗綾のことで取り乱す安形とは違って、という意味だろうか。安形が軽く睨んでも、椿は気にせずに眉間に皺を寄せている。
「安形さん、なにか策はありませんか? ほら、安形さん、人を動かすの得意じゃないですか」
「オイオイ椿、オレぁもう引退したんだ」
 上がいなくても(正確には代わってもだが)十分に動けるようになった、と思ったやさきの発言に安形は苦笑した。が、嫌な心地ではない。後輩なんて頼りないくらいが調度良いのだと思ってしまうのは、長子の性だろうか。
「それはそうですが、その……、榛葉さんのことを一番詳しい人というのはやはり安形さんだと思いまして」
 続けてそんな風に言われると、安形もますます頼みを無碍にはできない気がしてしまう。自分がこの学園で一番榛葉道流のことを知っている友人である、とは改めて思うことでもないだろうが、安形も自認しているところだ。
(ミチルに効く策か)
 考えて数秒で止めた。
「なんにしても無理なモンは無理だ。ミチルは、オレに簡単に動かせる人間じゃねぇよ」
「そう、なんですか?」
 椿はぱちりと瞬きをする。言われたら言われたままを額面通りに受け取ってしまう、生真面目で真四角な後輩だ。
「どうしてもっつうならよ、ボンボン・ショコラでも食わせりゃいんだよ。一発で気絶すっから」
「それじゃあ事故じゃないですか!」
 なに考えてるんです、と椿が怒ったように言うので、おかしくなって安形は笑ってしまった。
 なにぶん、思う通りに動かそう、と思ったことがそもそもない。ミチルはたいてい安形の望む通りに動いてくれてしまう人だし、隣で「安形性格悪いよー」とかなんとか、策を弄するのをほんのり咎めるように笑っている側だ。考えは読めると思うし、どう動くか予測できるはずなのに、ミチルは肝心なところでこっちの考えを読んでしまう。安形の考えることなんてお見通しだという様子に、どこか一歩で勝てそうにないと思ってしまうから、安形は自分ではダメだと諦めてしまっている。
「安形さんなら、と思ったのですが……意外でした。それじゃやっぱり、サプライズは無理ですか」
 椿は、安形からすれば不可解ではあったのだが、ひどく残念そうに溜息を吐いた。
「だからさっきも言っただろうが。サプライズなんざしなくても、案外なんでも喜ぶぜ、アイツは。意外なとこ単純だからな」
 料理褒めるとかすりゃ、と言うと、違うじゃないですかと椿は眉を顰める。
「なんでボクらが榛葉さんに料理を作ってもらうんですか! むしろ、ボクらこそ――」
 言いかけて椿は右手を口に当てた。
「そうか、ボクらが榛葉さんに料理を振る舞う、とか」
「オメー料理できないんじゃなかったか?」
 以前、ミチルにそう申告していたはずだ。
「できる・できないの問題ではありません!」
 椿はまたも拳を握り締める。
(熱血すぎンのも欠点っちゃー……)
 大仰なことはしないつもりでも、本人の気質が大仰な気がする。安形がこっそり肩を上げていることなど知らず、椿はなにやらプランニングを始めたらしく、ぶつぶつと口籠っていた。
「それで十分サプライズになるか。だったら、予定通り、場所は生徒会室、飾り付けは早めに済ませておいて、放課後……しかし、送別会に作るものとはいったいなんだ……?」
「ケーキでいいだろ、ケーキ。あー、あれだ、ホウルケーキ」
「そうですね! さっそく浅雛や丹生にも話をしなくては」
 即決即断即実行。わかりやすいくらいにわかりやすい椿は、話していた相手のことなどすっかり忘却の彼方のようだ。くるりと背を向けると、廊下は走らずに早歩きで、しかし確実に急いだ様子で。
「おーい、椿ー」
「あっ、ありがとうございました、会長! 失礼します!」
「……まあ、なんでもいいけどよ」
 小さくなっていく後輩の背を見つつ、安形は軽く頭を掻いた。できたら、妹の紗綾とのことを聞いておきたいと思ったのだが、今の前しか見えない様子では、致し方あるまい。
(恋愛一本槍じゃねぇってのも重要だしな)
 うんうん、と独りで頷く。紗綾を大事にして欲しいという兄としての願いももちろんだが、椿はこの学校の生徒会長だ。決して、妹だけを贔屓にしろと言いたいわけではないし、自らにとっても重要な友人を慮ってくれていることに、不満を持つはずもないだろう。
 件のふわりとした薄茶の髪の毛をなんとなく思い出していると、目の前に思案していた色が現れたので、安形はぎょっとした。
「どうかしたのかい、突っ立って」
「いンや。椿とさっき会ってな」
「椿ちゃんと? なんだ、惜しかったなあ」
「なにが惜しいんだよ」
 両肩を上げると、ミチルはにっこりと笑う。
「椿ちゃん、頑張ってるみたいだね」
 ミチルは生徒会長として、という意味で言ったのだろうが、思わず先ほどの『如何にして榛葉道流を労るか』ということに一生懸命だった椿を思い出して、なんとなく安形は喉で笑ってしまった。椿が今一生懸命に頑張ってるのはお前のためなんだぞ、と言ってやりたい衝動に駆られる。
「ま、なんだかんだ言っても真面目なヤツだし、アイツにならサーヤを任せられんな」
 滅多なことを言わないためにも話題を逸らし、かっかっかっ、と安形が笑うと、ミチルは小首を傾げた。サーヤちゃん? と訳知らぬ様子で首を捻っている。
「なんかそれ、前にも言ってたよな……?」
「帰るぞ、ミチル!」
「ああ、うん」
 決定事項みたいに言えば、ミチルは言葉を挟むこともなくに簡単に頷く。一緒に帰ろうだとか、決めているわけではない。家は遠くないので、生徒会の仕事が終われば、帰り道を別れて進む必要もなかったので、なんとなく並んで帰っていることが多かった。そういう習慣はなくなってしまったことだけれど、今でも、ほら帰るぞ、と言えばミチルは頷いてくれる。
 校内は暖かいというほどでもないのだが、それでも外の北風に晒されているよりはよほど穏やかに過ごせるものだ。昇降口を出るという一つの動作だけで、その事実を安形も実感する。隣に立って昇降口を出たミチルも、両手を擦り合わせて「寒くなってきたね、安形」と空を仰ぎ見ていた。日が落ちるのも早い。まだ夕暮れの色に染まっている空は、昼間見たときと変わらず雲一つない快晴だったが、それでも吹く風の冷たさの所為か体感温度はかなり低い。日によっては最高気温が一桁だったりするので、本格的な冬が近付いていることが肌で感じられた。
「あっ、シンバさん! さようなら!」
「さよならぁ!」
「またね、レディたち」
 先ほどまで隣で手を摩っていたなどとは思わせぬ様子で、ミチルは背後からの声に優雅に振り返って笑みを浮かべる。軽く右手が揺れると、きゃあっと黄色い悲鳴が安形にまで届いた。声は昇降口の方からも聞こえるので、挨拶したのとは別の女子だろう。いつもながら、彼は女子の歓声を聞かない日がないのではないだろうか、と思ってしまう。そしてその割に、彼女たちはびっくりするほどに行儀よく、一緒に帰ろうなどと押しかけたり詰め寄ったりなんてしないのだ。安形の知る限りでは、登下校を邪魔された経験は一度もないようである。彼のシンパサイザとは不思議な集団であると安形が止まって考えていると、ミチルは先に足を動かしていた。立ち止まっていると、またぞろ女子に声をかけられて進めなくなるからかも知れない。慌てて追おうとしたところに、後ろからささめく声が聞こえた。「うん……名教だってさ……」「私も受けてみようかなぁ」それを聞いて、あっと思う。
「そういや、推薦決まったんだったか?」
 学校の推薦で大学に行けそうだと聞いたのは、夏の頃だった。それから、無事に選考を通過したと聞いたのは、一ヶ月前か二ヶ月前か。面接や小論文を経て、結果が出たような話を聞いた記憶がある。生徒会を引退するという時期と重なったために、すっかり忘れてしまっていた。
「お陰様でね」
「そりゃよかったな。おめでと」
「ん、ありがと」
 あんまり実感はないけど、とミチルは笑った。
「だってさ、高校のときみたいに入試らしいこともしてないし、面接だってたいしたこと聞かれないんだよ」
「そらオメー、落とすための試験じゃねぇからな」
「そうなんだよね」
 ミチル程度の美貌があれば、推薦に限らず、ウインク一つで大学にでも受かりそうなイメージがあるが、彼からは少々複雑なものであるらしい。自分が指定校推薦で早々に進路を確定させたとしても、高校三年生の集う教室では、来年の受験に向けて空気は重苦しいままだし、既に大学に受かった人間が軽口を叩くように思われるから、滅多なことも言えないだろう。シンバさんすごーい、たいしたことないよ、くらいの遣り取りならば考えられるけれど。
「安形からすれば、試験なんてどれも同じだろうけどさ」
「同じってほどじゃねえよ」
「そう?」
 なら緊張するのかと問われると、否だと即座に首を振るのだが、そこら辺はよくわかっているミチルが無駄な質問を挟むこともない。
「それにしても、十二月に入ってホント寒くなってきたね。ね、安形、コンビニ寄ってかない?」
「肉まんでも食う気か?」
「んーん、暖を取りたいだけ」
 でも肉まんいいねえ、とミチルはのんびり笑った。寒いと言うだけあって、ミチルの首元にはマフラーが気取った結び方で巻かれている。つい最近までは紫のベストを羽織った格好で過ごしていたのに、ここのところ見掛けると、中のベストはそのままに、ちゃんとブレザーを羽織っていた。

「椿くん、ちょっと待て、砂糖は分けて入れるとここに書いてある」
「ええっ!? そういうことは早く言ってくれないか、浅雛」
「粉をふるう、というのは、一体、どのようなことをすればよいのでしょうか……?」
「ミモリン、この強力粉と薄力粉というのはどちらが小麦粉なんだ? どちらを使う?」
 安形、椿、浅雛、美森の四名は、放課後では時間がかかってしまいそうだから、と、昼休みに調理室に集まった。レシピ本は図書室から浅雛が予め借りてきて、スケジュール管理は椿が、食材は美森が買い込んで、安形はそれに乗っかる形で呼び出されている、のだが。
 ミチルはいつも、事も無げにケーキを用意してくるので、自分で作るのもさして難しくないのではないかと思っていたのだが、事前知識もなしに、突然、生クリームのデコレイションを作ろうというのは、容易なことではなかったらしい。
「レシピは浅雛に任せたと言ったじゃないか!」
「本を用意しろとしか言われていない」
 椿が本を読むだけの浅雛を睨みつけても、浅雛はつんとした冷たい態度を取るばかりだ。椿くんこそちゃんと調べてこないのが悪い、とメガネの奥の瞳が貫いている。
「ふるう……ふるう……袋に入れて、振ってみましょうか」
「ソイツはなんか違う気がするぞ、ミモリン」
「そうでしょうか?」
 ことりと首を傾げる美森の令嬢ぶりなど、安形もよくよく知っているはずのことだ。料理など、このお嬢様にかかれば、指でも鳴らせば出てくるものに過ぎないのだろう。かく言う安形も、菓子作りなどはまったく未経験だ。目の前には美森が珍しく自分で買ってきたという粉が何種類も並べられている。
「間をとって、中力粉にしましょうか!」
 美森は両手をパンと叩いた。反対側で、卵白を泡だて器でぐるぐると混ぜている椿の顔が歪む。
「浅雛、いつまで経っても固まらない気がするんだが」
「なんだ椿くん、もう弱音を吐くのか」
「なにをォ!」
「小さじというのは、こちらのスプーンですか?」
「いやそれは大さじだろ、ミモリン」
「まあ。こんなに小さいんですのに」
「ミモリン基準ならばそうだろうな」
「ですが、小さじらしきものは見当たりませんわ」
「大さじも小さじ何杯分とかになるんじゃなかったか?」
「……五杯分?」
「小さじの倍くらいではなかったか?」
「でしたら、間をとって、三点五杯分にしましょうか」
「ミモリン、折衷案が好きだな」
「いや待て丹生、点五はさすがにおかしくないか? ボクは五杯だと思う」
「椿くんはラディカルなんだ。STU(そんなことより手を動かせ)」
「はっ、お砂糖もお粉も、混ぜればよかったんですわね」
「ミモリンそれは全粒粉だ!」
 卵黄と卵白を分ける――その作業まではなんとかなった。割と手先の器用な安形が、見様見真似の感じでボウルに分けていったところ、後輩たちは目を輝かせた。さすが会長、と目で訴えていた。彼らに尊敬されるのも悪い気がしないので、安形も得意になっていたのだが、考えてみればその程度の工程で驚嘆している後輩にスポンジケーキを作る技術と知識があるはずがないのだ。
(もっと早く気付くべきだったな……)
 なんの粉だかわからない白い粉塵が漂っている。
「ベーキングパウダとはどういったものなのでしょうか」
「膨らし粉だ、丹生……手が、疲れてきた……」
「まあ、膨らし粉! ということは、いっぱい入れれば、ふんわりしたケーキになるんですわね。榛葉さんにぴったりですわ」
「なるほどミモリン、GI(グッドアイデア)」
 ケーキ作りの手順を知らぬ安形には口を挟む余地もないが、この光景にだんだんと、危機感を覚えるようになってきた。なにかが、決定的に、違う気がする。
 開盟学園生徒会執行部の常識人と言えば椿だが、彼はどこか重要なところが、ズレている。ミチルは時折彼を指して、天然だね、と困ったように言うのだが、つまりはそういうことである。熱血で猪突猛進、そして生来的な天然っぷりが、椿佐介の良識の問題点の一つ。その点、悪ノリしたりボケてみたり基本的にマイペースなナルシストではあるが、一般常識をもっとも正しく持っているのがミチルだ。椿までもが暴走しそうになったところで、慌てて止めてくれる貴重な存在。
(ミチルがいねぇとこうなるのか)
 しみじみ安形は思う。彼と違い、悪意なき暴走を止める気はない。というか、どう止めればまともになるのか、とんとわからない。
「榛葉さんは、真四角のケーキを作っていましたけど、丸い型しか見付けられませんでしたわ」
 粉問題に飽いたのか、美森はステンレスだろう丸い型を手に取ってじっと見ていた。
「ミモリン、これは底が空いているが」
「そうなんですわ。不思議な形ですわねえ」
 スポンジケーキを作る時に使われるような型は、違う気がする。器具なら探せば調理室にあるのではないかとも思うのだが、美森が菓子作りに必要なものならばと、なんでもかんでも買ってきてしまうのだ。この辺が、お金に対する無頓着さをよく現している。安形ならば、レシピを椿、お金を美森に任せた上で買い出しは浅雛にするだろう。
(それ以前に、ミチルなしでって考えねぇか)
 そうなると、レシピだろうが買い出しだろうが調理者だって、彼オンリになってしまう。けれどそれを、厭わないのがミチルだ。惨状を見るにつれて、ミチル帰って来い、とまだどこにも行ってしまってなんていないのに思ってしまう。いたらきっと、彼だって疲れるのだろう。でもそれだって楽しいんじゃないだろうか。
「浅雛! やっぱり固まらないぞ!」
「頑張れ椿くん。椿くんならできる」
「ファイトですわ!」
「……。諦めて卵黄を混ぜてしまうか。ミモリン、あとはバターだな」
「大変ですわ、デージーちゃん!」
「どうしたミモリン」
「この本を見てみたんですけど、私の買ったバター、無塩バターではありませんわ! 見た中で、一番高かったものにしたのですけど……」
「なんだとー!?」
「買い直しに行ってきます」
「ちょっと待てミモリン、今からって、昼休み終わっちまうぞ」
「大丈夫だミモリン、このまま使える!」
 言うが早いか浅雛は、アルミ箔を剥いたバターの塊を、椿が混ぜていた白い液状っぽい出来損ないの入ったボウルに投げ入れた。椿がぎゃあと叫ぶ。
「計量しろぉ、浅雛ァ!」
「しまった」
 浅雛は腕を組む。
「バターの分だけ量を増やせばいい」
 ぽんと手を打って、浅雛は得意げにメガネの蔓を押して上げる。
「分量は二十グラムですわね」
 レシピを横から見て、美森は乱雑に開けられたバターの箱を拾い上げた。
「二百グラム、ですわ」
「十倍だな」
 うむ、と浅雛が頷く。
「って待て! 十倍だぞ!?」
「巨大ケーキなら榛葉さんもその分喜ぶに決まっている」
 浅雛は無表情だがしかし目を輝かせて、握りこぶしを作った。たしかに、ミチルならその分だけ喜びそうな気はする。
「愚か者ォー! そんなものが作れるかぁ!」
「だったらそのバターをどうする気だ、椿くんは」
「やっぱり、私が買い直して」
「ま、待て。落ち着け丹生」
 ええい、と椿はバターに向かって勢い良く泡立て器をぶつけるが、冷蔵庫でひんやりと保管されていた塊のバターがゆるゆると溶けるはずもない。安形は右手で額を押さえた。やっぱり惨事だ。行き着く先はオーブンの爆発だろうか。やはり、まだまだこの後輩たちの行く末には不安が残る。今この場にいない、この愉快なメンツを唯一止めてくれそうな友人の姿が、走馬灯よろしく頭を過ぎったところで、安形の携帯電話が鳴り響いた。着信相手を見て、安形は思わず口角を上げる。喧騒を避けるように、そっと調理室のドアを開けた。廊下の空気はひやりと冷えている。
『安形、今どこいるの?』
「なんか用か、ミチル」
 探してたのに、と電話の向こうで頬でも膨らませているようなミチルの言葉が安形の鼓膜を叩く。
『今日の放課後なんだけど、椿ちゃんたち、なにかしようとしてるんじゃないかなって。生徒会室に来て欲しいって言われたんだけど、椿ちゃんが挙動不審だったから。安形知ってる?』
「おーおー、よく知ってる。つうかアレだ。ミチル、今手ぇ空いてるか?」
 必要なのはやはり彼の手だ。後輩たちの考えもわからないではないが、この惨状を安形には止められないし、止めたとて、その後の目処は立たない。
(それに、ミチルなら、除け者になってる方が嫌だろうしな)
 サプライズ・パーティもうれしいかも知れない。けれどミチルはきっと、当事者として関わっている方が楽しくて好きなのだ。料理を作るのも、パーティの準備も、引退のセレモニですらも。
『ランチなら済ませたけど』
「んじゃ、調理室に来い。楽しいモンが見られっから」
『楽しいもの?』
 ミチルは数秒黙って、うーん、と呟いた。
『ケーキでもつくってるの?』
 とんでもなく鋭い発言に安形が言葉を失っていると、ミチルは『安形も調理室なんだね』と頷いて、すぐ行くよ、と通話を切った。携帯電話をポケットにしまい、安形は調理室に舞い戻る。床にはなぜだか米粉が散乱していた。戻ってきた安形を、浅雛の怜悧な眼差しが貫く。
「安形さん、オーブンをセットしてほしい」
「待て待て浅雛! 生地ができる目処が立っていないのにオーブンを動かしてどうなる!」
「粉は結局、どうするのでしたでしょうか? ふるう?」
「小麦粉は十倍だから七百グラムだ、ミモリン」
「だから多すぎると言っているだろうが!」
「でしたら、半分、全粒粉にしません? 健康によいはずですわ」
「話を聞けェー!」
 椿の叫び声が調理室に木霊する。そんな中で、ほんの少し前に安形が閉めた扉がガラッと開いた。
「……えーと、なにしてるの、皆」
「し、し、榛葉さんッ!」
 椿が飛び上がらん勢いで裏返った声を上げる。美森は口元に手を当てて、目を瞬かせている。浅雛だけいつもと変わらぬ表情でメガネを上げると、「榛葉さんこんにちは」と平淡な声で告げた。
「早かったな、ミチル」
「電話するのがおかしいくらいの距離だったから」
 ミチルは肩を上げると、改めて四人を順繰りに見やる。
「四人とも、料理するならエプロンくらいしたら?」
 なに作ってるの、とミチルは近付いてきて、浅雛の持っている本をちらりと覗いた。それから安形の横にちょこんと立つ。後輩三人は、彼の前で固まったまま。
「水臭いじゃないか。料理だったら、オレが教えてあげるのに」
「それじゃあ意味がないんですよ!」
 椿が悲痛な声を上げる。持っていた銀色のボウルを調理台に乗せると、両手で頭をがしがしと掻いた。
「安形さん!」
 安形が廊下に出たこと、そして直後にミチルがやってきたことから、彼がここに来た経緯は安形にある。椿はすぐにそう判断したのだ。判断力は悪くない。
「ワリィが、お前らに任せといてもケーキができそうになかったんでな」
「安形さんの言う通りだ」
「浅雛ァ!」
 レシピ係の浅雛菊乃が戦犯だと思わないでもないが、料理ができるアピールをしたほどには料理ができないことを、エレガント・クッキングの件で実感していたはずの椿が、レシピを彼女に任せたのがそもそも手落ち。どういった作戦会議が行われたか安形は知らないが、こういうことでも、会長としての采配が試されるのだ。
「ですが、せっかく、榛葉さんには内緒でケーキを作る予定でしたのに」
 ほうっと息を吐いた美森が、椿にとっては追い討ちするような言葉を放つ。
「えっ、なんでオレに?」
 浅雛と美森の視線が椿に集まった。最後の言葉を言ってしまってよいものか、いまさら隠し続けるのも滑稽ではないのか、そんな感じの視線だ。
「その……榛葉さんにはお世話になっていましたから……」
「会長もそうでしたけれど、榛葉さんにもお疲れ様でしたって、言いたかったんですわ」
「榛葉さんと言えば料理」
「そうです。いつも作っていただいていたので、ボクらでなにか作ろう、と」
 えっ、とミチルは小さく声を上げると、また順繰りに後輩三人の顔を見る。
「……なにを作ろうとしていたんだい……?」
 そうして、眉間に皺を作った。
 調理台の上にある銀色のボウルには、白くどろっとした液状のものに、淡黄色のバターが突き刺さっていて、そこにはさらに、泡立て器が刺さる。白のデジタルスケールは粉で溢れていて、もう一個のボウルに、山のように粉が入れられていた。下にあったはずの卵黄は見えない。床には米粉が散らばっていて、ボウルに入った粉の半分は、普通の小麦粉らしいオフホワイトではなく、若干、オレンジのような色を帯びている。こちらは美森の拘っていた全粒粉だろう。器具はボウルや泡立て器の他に、ゴムベラと底が抜けたような銀色の丸い輪っかみたいな型。安形がぱっと見た感じ、一般的なスポンジケーキ向けのものとは思えない。
「もちろん、ケーキだ」
「ああ、うん、なんかそう思いたくないだけなんだけどね」
「どこかおかしいのですか?」
 自信満々に浅雛が言い、美森が本気で首を傾げるので、ミチルは天井を仰いでいた。
「で、この有り様だから、お前を呼んだっつーわけだ」
「なるほどな……これ、『楽しいこと』ではないよ、安形」
 自分たちのやりとりとミチルの様子から、自分たちがまったくケーキを作れそうにない・無謀なことをした、ということを椿は悟ったようで、がくりと肩を落とした。女子二人も急激に顔色が曇る。
「私たち、榛葉さんに喜んでほしかったんですわ」
「だが、我々ではケーキ一つ満足に作れない」
「情けない限りです」
 意気消沈している三人を見て、ミチルは両手をぶんぶんと振った。
「いいっていいって、気持ちはすごくうれしいしさ。オレのためにわざわざ――放課後、生徒会室に呼んだのはこのためだったんだね」
「部屋の飾り付けはうまくいったのですが」
 かざり、とミチルは感慨深そうに呟いた。
(泣くか?)
 どこか甘ったるい声音に、もしかしたらと思う。引退を目前にして、安形の横で瞳を潤ませていた。引退した日も、目を赤く腫らしていた。泣くんだな、と安形が意外に思ったのは、ミチルが泣いている姿なんてそれまでに見たことがなかったためだ。感傷的なタチではない。感動巨編なんて映画館で隣で見ていても、綺麗な顔でじっとスクリーンを見つめていたばかりで、涙を流しているのなんて見たことがなかった。中学の卒業式でも、周りの女の子ばっかりが恐ろしいくらいに泣いていて、平然とミチルは微笑んでいた記憶がある。
(それだけミチルも思い入れがあるのか)
 寂しいと言っていた。引退してしまうのが寂しいと。安形も漠然と、寂寥感を持っている。ミチルはくすんと鼻を鳴らしたけれど、今度は涙を見せなかった。
「オレが教えるから、皆で作ろう。その方がきっと楽しいよ」
「結局、榛葉さんの手を煩わせることに……!」
「TWN(椿くんわかってないな)」
 浅雛はメガネをきらりと光らせた。
「最初からこうすればよかっただけの話」
「ええ、そうですわね! 榛葉さんとお料理できるの、私とってもうれしいですわ」
「そんな、いつもボクらばかり作ってもらっていたのに」
「クドイ。そしてKYだぞ、椿くんは」
 浅雛が人差し指を椿の額に突き付ける。隣で美森がくすくすと笑っていた。
「いいんだよ、椿ちゃん。オレ、料理を教えるのも好きだから」
 ね、と椿の方を見て、ミチルが片目を瞑る。椿ははっとしたように目を開いて、それから小さく頷いた。
 まるで家族みたいだ。そう思わせるような深い絆がある。たった一年なのに、彼らと過ごした時間は、とても濃密だった。高校時代の自分を十年後に思い出したとき、きっと、今みたいな瞬間ばかりを思い出すのだろう。ミチルが笑っていて、椿が困っていて、浅雛がクールな瞳を光らせて、美森がおっとりと微笑んでいる。離れて見ていると「安形(会長)も」と呼ばれるのだ。こんなに暖かい空気を纏っている場所だったから、今、ミチルも自分も寂しくて、後輩三人は頑張りが空回りして。
「安形! 傍観してないで、安形もちゃんと手伝うんだよ? まあ、また勝手なこと始めたら、調理室から叩き出すけど」
「おうよ」
「……めんどくせぇなって言わないんだ。珍しい」
 ミチルは瞳を丸くさせると、くすっと笑った。

 結局、昼休み中には終わりそうにないということで予定を変更し、調理部から急に放課後の調理室を借りる代わりに予算を若干上方修正するというやや強引な取引を行った上で、放課後、ミチル指導の下で生徒会メンバによるケーキ作りが行われた。その一時間強で安形が学んだことと言えば、どうやら菓子作りというのはレシピから外れないことが一番ポイントになるらしい、ということくらいだ。しかし、またケーキを作るような機会は訪れないだろうと思う。ミチルが作ってくれるのがやはり一番だと結論付けてしまった。
 作り終えたケーキは、綺麗に飾り付けられた生徒会室で、美森の淹れた紅茶と共に五人の胃の中に収まった。どうせなら宇佐美も呼べばよかったのではないかとミチルは言ったのだが、それにはどうやら複雑な問題があるようで、止めておいた方が、と椿は首を横に振っていた。もう一人入ったという庶務についても椿の反応は同じだったので、新しい生徒会の前途は多難らしいことだけ伺える。とは言え、椿に美森、浅雛ならば、いずれはまた同じように結束した生徒会にシェイプアップしてくれるに違いない。若干、先輩としての贔屓目を含めつつも、安形はそう思っていた。そんな中「また遊びに来るね」とミチルがにこりと笑うので、新しい生徒会の邪魔になるだろうがと安形は軽く彼を睨め付けておいたが、浅雛に美森も歓迎する様子だったので、懲りずに生徒会室に足を運ぶのかも知れない。丸い白のケーキの最後のひとかけらを口に運びながら思った。自分は恐らく、また生徒会室に入ることはないのだろう。厄介事に巻き込まれてしまったら面倒だ。
「そういや、なんだって、ケーキ作ってるってわかったんだ?」
 後片付けは自分たちでやるからと言われて、安形もミチルも先に生徒会室を追い出されてしまった。すっかり空の端っこは闇色が覗いていて、校内にも人影は見えなくなってしまう時間帯、用事もないのでまた、ミチルとすぐに校舎を後にする。昇降口でまた黄色い声が聞こえるかと思ったが、その日は至って静かだった。ミチルは頻りに、ケーキが美味しかったとか、ケーキ作りが楽しかったとか、笑って言っていた。漏れる吐息が微かに白い。
「んー? ああ、それか。オレはてっきり、安形にケーキでも作ってあげてるのかなあ、とね」
「どういう意味だ?」
「誕生日、明後日」
 思わず足が止まった。ミチルも足を止めて、安形を見る。今日だとちょっと早いけど、と唇がゆっくり動いた。
「ケーキいらない?」
「作るっつったじゃねぇか」
「今日食べたし」
「それとこれと、話が別だろォがよ」
 別と言えば別だけど、とミチルは白い息を吐く。それにしてもホントに寒いな、と言うので、安形もああと頷いた。答える人のいる暖かさというものを思い出す。
「オレは構わないんだけどー、あっ去年も結局うちに来てたっけ」
「そういやそうだったか」
 あの頃はまだ、今みたいに生徒会の五人でだって纏まってなんていなかった。だから、全員でケーキを食べるという誕生日祝いは安形も省いてしまって、いつも通りとなった新しい光景の中で、安形は面倒に思いながら会長業を熟していた。生徒会のメンバが交代になった時期に限って、やたらめったら部活の許認可ばかり求められて億劫だったことばかり記憶にある。安形今日すごいめんどうそうだったよね、とミチルも笑っていたくらいだ。
 ミチルは安形と違って日付が変わってすぐに電話したりしないけれど、生徒会の仕事が終われば、ケーキを用意してあるからと家に招いてくれた。
「ああ、一昨年もなんだかんだでうちに来てただろ」
「中学ん時はうちに来てなかったか?」
「そうだったね。最近は行ってないけど、おばさまは元気にしてる?」
「……お前んトコに邪魔してばっかいんなってよ」
「構わないのに」
 くすりとミチルは笑う。彼の人気というのはなかなか凄まじいものがあって、同級生の母親だろうが気に入らせてしまう、という、滅多な特技をも持っていた。安形の母親も例に漏れず、ちゃん付けまでして気に入っているのだ。ミチルちゃんたまには連れてらっしゃいよ、と言われているので、あまり自分の家には呼び難かった。ミチルの両親は不在がちということもあって、向こうの家に行ってばかりいることも気にしてはいるようだが、口実だろう。可愛げのない息子より、可愛い息子の友達の方が見ていて楽しいのかも知れない。
「まあ、あんまり安形の家にお邪魔すると、サーヤちゃんも困るかなと思ってやめたんだけど」
「んなこたねぇだろ。サーヤはわりと、おめーのこと気に入ってっぞ」
 第二の兄的な意味でだが。
「あ、ホントー? それは大歓迎だ」
 そうは言っても、可愛い女の子に好かれるのはうれしいことだよ、などとミチルが言い出すのは聞き捨てならなかった。
「オイ、ミチル。言っとくが、サーヤになんかしてみろ。ミチルでも許さねぇからな」
「……ってなるからメンドイんだけど……」
 大切な大切な妹のことに関しては、友人だからとて甘く見るわけにはいかない。
(だいたい、始終女から声かけられてるヤツなんざ相手にしてみろ、サーヤが困る)
 紗綾自身も不埒な目線で追われていることが多いようで、安形は常から心配しているのだが、もしもそんな妹の相手がミチルだったらと思うと心労は嵩むばかりだ。ミチルに好意の視線を向ける人間は多く、開盟学園随一であるし、そのすべてがすべて善人とは言えないことや、エゴイズムにも思われるような感情を膨らませている人間もいることを知っている。そんなミチルが恋人になんてなれば、紗綾が傷付いたり傷付けられたりというのが簡単に目に浮かぶのだ。絶対に避けさせたい。
(ああでもそうすりゃ、ミチルは――)
 ただぽつんと、思った。もしそうなったら彼は、自分の見える範囲からいなくならないのだ、と。それと同時に、ひどく腑に落ちないというか、承服できないような気持ちにもなる。
(つっても、サーヤが好きなのはミチルじゃなくて椿だからな)
 それを思い出せば、閊えが取れたように呼吸が楽になったので、ふっと息を吐く。自分の呼吸も白い。ミチルはことりと首を傾げていた。
「まあ、いいよ。放課後はじゃあ、オレんちでケーキでも食べて、残ったら持って帰ってよ。サーヤちゃんとかに食べてもらって」
「二人用とか作れねぇのか?」
「映えない」
 きっぱりと言って、ミチルは笑みを見せた。背後には暗い青色と橙色のグラデーション。いつだったかミチルは、空の色で一番好きなのはこの、二色が混ざり合っているところだと話していた。青い空も目映く星が煌く夜空も魅力的ではあるけれど、ほんの一瞬くらいでしか見られない空の端の色。
 来年は、こんな風に翌日のことや翌々日の約束を交わすことはないのだろう。溶けていく境の空の色はどこか自分たちにも見え隠れする曖昧さとよく似て見えた。
「なあ、ミチル」
「ん? ケーキのリクエストでもする?」
 なにか言おうとしたような気がしたが、言葉は出て来なかった。頬を撫でる風の冷たさだけを感じる。
「さみぃな」
「寒いね」
 手袋も欲しいや、とミチルは両手にはあっと息を吹きかけた。冷えた手が紅く染まって見える。

「会長、榛葉さんの願い事に、なにか心当たりは?」
 デジャ・ヴュだ。安形は額を押さえた。
「デージーまでか! 突然なにを言ってんだ、ってこの前も言ったろうが」
 なんなんだ本当に、と大きく溜息を吐いても、浅雛には通じない。なんの話だと首を傾げているばかりだ。椿との遣り取りを見ていたわけではない浅雛に言うのはお門違いだろうが、同じようなことを続けて聞かれるこちらの気持ちにもなって欲しいものである。またミチルか。
「昨日ケーキを作っているときに私とミモリンが聞いた話だが」
「んな話、してたか?」
 安形が首を傾げると、浅雛はメガネを押し上げた。蛍光灯の光が反射して輝く。
「安形さんが途中でエスケイプしたときの話だ」
「……ありゃ、ちょっと離れただけだろーが」
「そうだな。榛葉さんの苦労が忍ばれます、バイ椿くん」
 淡々と言うので、安形は肩を竦めた。椿にしろ浅雛にしろ、安形を尊敬する先輩として見てくれてはいるものの、その怠慢さについては、椿は怒りか苛立ちに近いものを抱き、浅雛についても決してよいことだとは思っていないようだった。当然と言えば当然のことだろうが。
「クリスマスの話で盛り上がって」
「そういやもう一ヶ月切ってんのか」
「榛葉さんも一緒に盛り上がっていた」
「女子か、アイツは」
 イベントごとに疎い椿なんかは、そのきゃいきゃいした雰囲気に疎外感を覚えたのかも知れない。エスケイプしやがって、と安形に対して思っている可能性もある。
「ミモリンが、クリスマスツリーに短冊を飾るなどと言っていた」
「ミモリンは妙なトコで常識外してんのな」
 そこが愛嬌なのだろうが。
「生徒会でも短冊を飾ったことがあった」
「んなこともあったっけか」
 安形が追憶を頭の中から呼び出している間も、後輩はクールな視線のままだ。
「私は今なら短冊には、新しいヌイグルミが欲しい、と書くと言ったら、ミモリンが榛葉さんにも話を振って」
「――願い事はなにか、って?」
 浅雛はこくりと一つ頷く。冒頭の言葉に繋がった。
「ミチルに願い事なんかあんのか?」
 安形の知る限りにおいて、ミチルは基本的に、現状に満足している。恵まれた容姿、美貌、それから性格も良いし、運動、勉強、どれも水準以上を熟せる。家は裕福で、共働きの両親は忙しいようだが、一人息子は可愛がられており、家族とも穏やかに過ごし、料理の腕はプロ級。さらにナルシストな傾向もあるため、余計に、ミチルは他人を無闇に羨むようなことはない。それどころかほとんど、欲求らしい欲求なんて持っていないらしかった。彼女が欲しいとか、そういう俗っぽい願いもない。短冊を渡してみたことはないが、願うことなんてない、と言い切ってしまうかも知れない。
「願いなんて特にないよ、と最初は言っていた。なりたい誰かなんてものはない。……そういう人だな、榛葉さんは」
 浅雛はそんな風に言ってほんの少し口角を上げたが、揶揄しているというよりは、むしろその姿を懐かしんでいるようにすら見える。毒舌と言われる浅雛の言葉はいつも鋭いし、冷たいと思われるような物言いも少なくはない。デージーちゃんひどいよ、とミチルも何度か項垂れていたけれど、それが二人の距離の取り方なのだと安形はよく知っていた。軽口ばっかり叩いているとか、残念な人とか、ダメな先輩とか、たぶんそれらの浅雛の言葉にも愛情がこもっている。それだから安形同様に、エレガント・クッキングで歯牙にもかけないように外されたことに憤りを覚えるのだ。結構、この後輩も微笑ましい。
「だから意外だった。願いが叶うなら一つだけ叶えたいことがあった――、なんて言葉は」
「そりゃ、オレでも意外に思うわな」
「榛葉さんは器用だ。できないことはなさそうに見える」
 大したことではないのだろうが、と浅雛は軽く目を閉じた。短冊に書くもサンタクロースに望むも流れ星に祈るも、どれでもいい。願いが叶うならという話を友人としていたから、美森も話を振った。「榛葉さんならなにかありますか?」と。願いね、とミチルは人差し指を顎に当てて、瞳を閉じる。少しだけ考えてみて静かに首を横に振る。そんな光景が、安形の瞼の裏側にも浮かべられた。そんな彼は安形が調理室に戻ってくる直前、ふっと、思い出したように付け加えたのだと言う。
『ああそうだ。願いが叶うなら一つだけ叶えたいと思ったことがあったよ』
 言った本人に深い意味はなかったのだろうが、その言葉に浅雛も美森も驚いた。ぎょっとして、どういうことかと言葉を問うてみたかった。しかしタイミングよく安形が帰ってきたものだから、話はそこでストップ。ミチルは「安形どこ行ってたんだよ」と戻ってきた友人を咎める方にシフトしてしまったため、それ以上の追及はなされなかったのだと言う。
「お二人が帰ってから、またミモリンとその話になってな」
 美森も密かに気になっていたらしく、二人でああでもないこうでもないと話が膨らんだのだそうだ。彼女たち二人は大人しそうな外見に反して、かなりパワフルだ。そうでなくともやり辛いだろうに、二対一となれば、椿には発言権が与えられないかも知れない。
「そこにウサミが来て」
「登場人物増えんのか」
「……ウサミは可愛いから、安形さんも今度会うといい。ただし触るのは厳禁だ」
 厳禁という言葉には面食らったが、浅雛が安形に対して、後輩の女子にちょっかいを出すといったことへの心配をしているとは思えない。なんらかの理由あっての発言なのだろう。椿がいろいろと事情があるようなことも言っていたし、触れるとなにか問題があるのだろうと安形は予測した。
「三人で、榛葉さんの願い事はいったいなんなのか、考えていた。だが、我々では答えが出ない。会長なら知っているかと思って」
 女三人寄れば姦しいとは言うが、楽しそうな女子三人の横で、椿が気不味そうにしているのが目に浮かんだので不憫に思えた。
「本人に聞いてやれよ、そーゆーこたぁ」
「聞きに行きにくい」
「デージーがか」
 含みを感じるが、と浅雛は軽くこちらを睨んだ。
「会長は榛葉さんと仲がいい」
「そりゃ、それなりにはそうだろ」
「榛葉さんのことなら詳しい」
「……他と比べりゃあな」
「榛葉さんの願い事は、なんだと思う?」
 世界平和じゃないなんてこと、誰にでもわかる。
(ミチルの、願い事――)
 これ以上にモテる必要があるとは思わない。メジャー・デビュもできるならいいという程度で、テレビに出たいモデルになりたいとも言わない。料理の腕も独力で十分過ぎるほどだ。
(大学も、)
 ぽつんと頭に浮かんだそれを、さっと払い除けた。指定校推薦で合格を決めている彼に、大学受験の問題は生じない。
「ずっとこのままでいたかったとか、そういうことかもしれねぇぞ」
 些か自分にもその傾向を認めて言うと、浅雛は変わらない表情のまま、断言するように首を横に振る。
「違う。寂しいと言っても、……泣いても、榛葉さんはそんな風に経過を否定的には捉えない」
「そこまでわかってんなら、なんで肝心の答えは出ねぇんだ、デージー」
 知らない、と浅雛は呟いた。けれど、彼女の言う通りだろう。当て推量で言ったわけではないが、自分が言ったことがミチルの願い事ではない、と安形も薄々勘付いていた。どこか、決定的に違う気がするのだ。過ぎ行く時を止めたいという願望なら安形にもある。そうしていれば楽だし、ずっと楽しいと思う。ミチルが、椿が、浅雛が、美森がいるあの場所は、それくらいに暖かくて居心地がよかった。けれどそれは、短冊に書きたいとか祈りたいとか思うことではない。幸せだった、と思うだけの感傷に過ぎない。
「妙なことを聞いてしまった。すまない」
 浅雛はぺこりと頭を下げた。構わねぇよと手を振ると、浅雛は急に顔を上げた。「そういえば」と、こちらをじっと見る。
「明日は誕生日だったかと。おめでとうございます」
「……早ぇな、デージー」
 安形が苦笑しても、浅雛は表情を変えない。明日は会わないかもしれないから、と。そう言って、では、と背を向けた。

 どぉかしたの安形、と覗き込んできた榛色の瞳に思わず安形は背筋を正してしまった。考え事に夢中になる椿のことを危なっかしいと思ったが、自分含めて、誰しも没入しているときというのは、他が疎かになってしまうものかも知れない。
「考え事? 珍しい」
「……ミチル。その言い方だと、まるでオレが普段はなにも考えてないみてぇだろが」
「大抵の考え事は一瞬で終わっちゃうだろ、安形の場合」
 にこっと笑って見透かしたように言われると、安形としても反論しづらいところではある。
「おめーも、そんなに考えない方だろが」
「そんな風に見える?」
 心外だなあと口では言いながらも、ミチルはさほど気にしたような素振りは見せなかった。くるりと薄茶の髪を人差し指に巻き付けている。
「女の子のことなら考える」
「言うに事欠いて」
「まあ、それは冗談」
 両手をホールドアップして、ミチルは「オレも考えることくらいはあるよ」と小さく笑った。マジレスすんなと額を叩くと、安形ちから強い、と唇を尖らせる。ミチルの考えること、ということの一瞬一瞬のうちのいくつかに、彼の願い事というのも含まれていたのだろう。そんなことをぼんやりと思っていると、「どうしたの調子悪い?」と心配げに言われてしまった。
「……サーヤちゃんのこと?」
「サーヤは椿に任せる」
「なんかそれ、数日前にも聞いた記憶があるんだけど、やっぱ大丈夫、安形?」
(願い事、な)
 改めて腕を組んで考える。解が出ないクイズやパズルはないし、そういったものをすらりと解ける安形にすれば、答えの出ない問いかけというものは、どうにも収まりが悪いものだった。浅雛や美森らが考えこんでしまった挙句、安形に尋ねてしまう気持ちも理解できようものだ。昼休みにそんなものを聞かされてしまった所為で、午後の授業は難問を与えられた学生たちのように(安形に難問と呼ばれる類は存在しないため推測による比喩であるが)、頭をずっと悩ませてしまっていた。その間、綺麗な顔の友人のことばっかり脳を過ぎっていたためか、放課後に廊下の突き当りにいるミチルを見付けたときに、咄嗟に捕まえてしまったくらいである。
「オレに用事?」
「そういうこっちゃねぇけど」
「悩み事あるなら聞くよ?」
「ねえよ」
「ほんとうに?」
 じっと榛色の目がこちらを見つめる。バツが悪くなって、その黄色の視線を遮るようにミチルの頬を押して退けた。退けられたことは気にしていないようで、人差し指を顎に当てて「悩み事ではないみたいだな」と独りで納得している。
「安形に限っては、わからない問題とかもないだろうし」
「どうだろうな」
 数学の問題なら、英語なら古典なら、わからない問題はない。
「人付き合い?」
 大きな括りで言えばそれなのだろうが、隣にいる友人とのことを人付き合いなんて陳腐な言葉で括りたくはなかったのかも知れない。安形が肯かずにいると、ミチルは少しだけ眉を下げて、しかし微笑んで見せた。
「いいよ。無理に言わなくても。別に詰まってるわけじゃなさそうだしね」
 どうしても困っているわけじゃないけど気になってるって感じだ、と核心を一言でついて、ミチルは明るく笑った。
「学校っていうのは社会の縮図だっていうけど、箱庭っぽいなって思う」
「なんだ、詩的だな、急に」
「そう? 狭くて小さくて、そこだけが世界のすべてみたいに見えるだろ。オレたちにとっての世界ってそんなものなんじゃないかなって」
「なにが言いたいんだ?」
「安形も友達ちゃんと作れよって話。大学行っても」
「オレがコミュニティ障害みたいな言い振りだな」
「違うって。誤解させたんなら悪いけど、安形はなんでも億劫がってばっかりだからってだけ」
 そういうことだろうなとは思っていたが、適当なコミュニケイションの一つだ。後半促音が多いなと思いながら安形が「わかってる」となげやりに言えば、そのなげやりさ加減がすぐにバレてしまうようで、ミチルは眉をまた下げた。
「……さっきの。箱庭って、居心地よさそうだけど出口がないイメージがあるんだよ。そういう場所で孤立してしまうと寂しいだろ?」
「お前は孤立とは無援だよな」
「ふ、レディたちがオレをほっとけないって?」
「おーあってるあってる」
「棒読みするなよ」
 ミチルが何十とスルーされても、この手のやりとりは変わらない。
「安形の場合は、孤高って感じかもしれないけどさ」
「かっかっかっ、そりゃかっけぇこった」
「笑い事じゃないと思うぞ……」
 まあ安形がうまくやれないなんてことないか、とミチルは言って、それきり黙ってしまった。
 二人で完全に沈黙してしまうことは少ない。ミチルは多弁だし、安形の分もそれ以上にもよく喋るし、それに応えるような形式で会話は行われていた。ただ黙って静かにしていると息が詰まる。不快はないけれど、どうしてか胸がきりきりとするような痛みも感じていた。横顔を見ると、哀愁を冬の寒さと共に瞼や唇に纏わせているミチルはその分また綺麗であって、彫像のように形作られているように見えた。瞬きするたびに茶の睫毛が揺れる。彼のいるべき場所、箱の中の庭はきっと綺麗なのだろうと思った。とりどりの花が咲き、真っ白な木製のテーブル・チェアが並んでいるだろう。薔薇の花が、金木犀が、咲き誇っている。彼の言う、学校全体を一つとするイメージとはズレてしまうが。或いは、彼の持つ庭には自分の居場所があるのかも知れない。それはもう、春には壊れて消えてしまうものだけど。
「ミチル」
「なにー?」
 冬の空気は吸い込むと喉元を冷やす。その冷えた鋒が、言葉を空転させる。
「お前の願い事ってなんだ?」
 本当に言いたかったことは、それではないような気もした。

 世界平和とか? と、ミチルは首を傾げて微笑んだ。わざと、なんてそんな意図もないのだろうが、はぐらかすような言葉に安形が溜息を吐けば「どうしたんだよ急に」と困惑したような言葉が返された。浅雛から聞いた経緯は口にしなかったものの、勘のいいミチルならば気付いたかも知れない。どちらでも構わなかったが、ミチルは自分の言葉を嘘だとも真だとも言わずに、普段通り、別れ道で別れてしまった。いつもと同じ、甘いマスクに似合う微笑みを浮かべて背を向けた。それから三歩あるいて、まだ背を安形が見つめているのをわかっているみたいに振り返って「明日は放課後、うちで」とだけ言って、今度こそ去ってしまった。明日のこと、と白い息を吐き出しながら、揺蕩う思考を制御することを諦めて横に置き、十八回目の誕生日に思いを至らせた。
 欲しいものはないのかと母に問われたときに咄嗟になにも浮かばなかった。
(物欲よりは睡眠欲が勝ってんだな)
 あれもこれも欲しいと思わないわけではないけれど、どうしてもという一つを思い付かない。ミチルもそういうところがあると思っていた。彼の誕生日には、用意しないつもりでいても、結局なにか物を贈っている。ミチルはいつも、美しいケーキで返戻してくれた。
(願い事)
 その夜、眠りに落ちてしまう前に、瞼の裏でシューティング・スターが流れた。思えば、自分の願い事もよくわからない。
 同じ問いかけを、ケーキをワンカット食べ終えたところでもう一度ぶつけてみた。翌日の放課後、約束した通り、安形はミチルと共に彼の家に向かった。ミチルは、安形ってチョコレート好きだろ、と花のような笑みを浮かべて、ご丁寧にハッピーバースディのプレート付きザッハトルテを冷蔵庫から取り出してくれた。「こういうの、女の子ならバレンタインに作ったりするんだろうけど、男だと機会がなくってさ」などと言って笑いながら切り分けて、おめでとう安形、とミチルは微笑んだ。
「昨日も聞いてたよね、それ」
「答えが出ねぇと気になるだろうが」
「安形がそんなこと気にするなんて珍しい」
 ミチルはまだ残っている自分の皿のザッハトルテをまた口に運ぶと、んー、と考えるように軽く目を閉じた。逆なのか、と呟く。
「椿ちゃんたちから聞いたの? デージーちゃん? ミモリン?」
「アイツらも気にしてた」
「もうきっと、忘れてるよ」
 そうかも知れない、と思った。けれど言わない。
「あと、大袈裟なことじゃない。言われてみればって程度だし」
「オレに言えねぇようなことなのか」
「違うって。ホント、変な誤解してない?」
 ミチルはほっそりとした指先をティーカップに伸ばす。珍しく珈琲ではなく紅茶が二つのティーカップに注がれている。ケーキが濃厚だから、あっさりとしたニルギリにしておいた。クオリティ・シーズンだから味は保証できる。そんなことを言われても安形にはピンと来ない。けれどケーキと紅茶は間違いなく美味しかった。
「まあ、今日は安形の誕生日だしなあ」
「横暴も横柄も許されるってか?」
 そんなとこ、とミチルはふわりと笑う。
「あんまり言いたくなかったんだよ。願うことかって言われたら、そうだなって自分でも思うし」
「努力でどうにかできる類ってことか?」
 ミチルは言い淀んだ。細い人差し指が、ティーカップの取っ手を掴んでいる。努力では無理かも知れない、と呟く声がしんとした部屋に響いた。
「頭が、もっとよかったらなって」
 はっとして顔を上げると、ミチルは困ったように笑っていた。
「本当に大したことじゃないだろ。それだけだって。安形みたいだったらいいのにって、一度だけ思ったなって」
 勉強しておけばよかったって言われたらそれまでだし。ミチルはそう続けて、はにかんだ。
 そんなことを、と口から出しかけて止める。
(らしくない)
 安形はすごい、と言ってくれるけれど、ミチルは一度もそれを羨んだことがなかった。安形の頭脳は頭脳として素晴らしい。けれど自分は満ち足りているから。端整な顔とかたち、誰からも騒がれる美貌、それだけが持っているすべてで、それだけで十分で。テスト勉強も受験も面倒でも、安形みたいだったらなんて言わない。そういう人だと、知っている。だから違う。
(違うって、なにがだ)
 いつのことだとも聞けなかった。聞きたいとか聞くべきだとか、思うだけで素通りする。
「安形は?」
 反応に遅れて顔を見ると、ミチルは不思議そうに首を傾げていた。
「安形はないの? そういう願い事とかって」
 今が幸せで、満ち足りているというのは安形も同じだ。よく働く頭脳、運動神経も問題ないし、大事な大事な妹や家族が揃っていて、可愛い後輩と信頼できる大事な友がいる。現状維持が一番だ。このままがいい。否、このままで、いたい。
「時間」
 口をついて出た。
「え?」
 時間が――止まってしまえばいい。
(安形惣司郎らしくねぇな。それも違う)
 大事なことの表層しかまだ見えていない。逃避するように時の経過を呪うのはお門違いだ。けれどここは、『箱庭』なんてどこかネガティヴなイメージではない。自分を、ここから出そうとする人間は許さないと思うような、呪ってやろうと思うような、そんな苛烈な感情を生み出しているのは。
 それならむしろネヴァーランドだ。
「時間? 一日が二十四時間じゃ短すぎる?」
 是とも非とも言わずにいると、ミチルはにこりと笑った。
「早く二十歳になって、お酒飲みたいとか?」
「そうだな」
「ふふっ、安形お酒強そう。いいなぁ、オレもお酒に強くなったりしないかなあ」
「……体質だから無理じゃねぇか? それこそ、星にでも祈っといたらどうだ」
「そういうのもあったか。忘れてた」
 一瞬、一人きりで部屋にいるような錯覚をした。ミチルは窓の外を見ると、もう随分暗くなったね、と呟いた。彼の言葉で視線をそちらに移しているやさき、ミチルはすくっと立ち上がって、空っぽの皿を二枚重ねてシンクに置いてきたようだった。こちらに戻るときは白い箱を持ってきて、半分残っているザッハトルテをしまいこんでいた。
(Neverlandか)

NEVERLANDはサモ4OPのイメージ参照で 蛇足的答え合わせ一年後