死の舞踏


 翌日の朝早くから、携帯に着信があった。起きるのが遅いアントーニョはまだ眠たいまなこをこすりながら、鳴っていない目覚まし時計の方に目をやる。午前6時を指し示していた。雑に敷いていた布団からもぞもぞと手を動かして灰色の携帯をつかむ。単純なベルの音は逆に耳に痛い。しかも見れば着信相手は母親だ。嫌な予感しかしない。そもそも、予想はついていたはずのことだった。まだ寝ていることにしようと布団を被ってみたものの、着信音は鳴り止む気配を見せない。一度切れたと思ってホッとすればまたけたたましく鳴り響く。薄いアパートの壁から隣人まで届きそうなその音にアントーニョはついに諦めた。
「……もしもし。あんなぁ、朝あんまり早いんわちょっと……」
 すぐにやかましいと返ってくる。まだ眠気の醒めきっていない頭と耳に響き渡って脳が振動した。思わず古典的ながら携帯を耳から離してしまったくらいだ。
 内容は予想通りだった。昨日、ロヴィーノに逃げられたアントーニョは、弟のフェリシアーノが帰宅するのを待ってヴァルガス家を後にしたのである。ロヴィーノと来たら2時間経っても帰ってこなかった。フェリシアーノが帰宅するまでの間アントーニョは致し方もないので勝手にロヴィーノのベッドの上に寝転んで目を閉じて待っていたのだが、どうしてかいつも襲いかかってくるはずの眠気は欠片も生じてこなくてただぼんやりと思考をたゆたわせているに過ぎなかった。明日の講義は自分が当たるだろうかとか、レポートが出ていたからやらなくてはいけないとか。そういう大学生活日常を。帰ってきたフェリシアーノはアントーニョだけが残されているのを不思議そうにしていた。当然だろう。曖昧に誤魔化してその場を去って、寄ろうと思っていた自分の家を素通りした。アントーニョは自分に非はないはずであると思っているが、多少の叱責は覚悟していた。相手は、高校生であるし。
 しかし叱責された内容は予想外だった。こともあろうにロヴィーノ・ヴァルガスは「アントーニョに逃げられた」と訴えたというのである。
(あ、の、ガキ――ッ!)
 普段は温厚なアントーニョではあるが、さすがに腹が立った。一方的な行動で逃げたのは向こうで、つまり加害者はあちら側だというのに、まるで被害者面である。おそらくフェリシアーノはこちらの証人となってくれるだろうが、気の弱い彼に兄を説き伏せるだけの力はないように思われた。そして『子供』のいうことは信頼を得やすい。ヴァルガスのおばさんはアントーニョにも事情があったのだろうからと擁護してくれたそうだが、それは事実と違うというかロヴィーノの意見が通っていることの証左でしかなかった。無論、母親とてそこまで実の息子を疑っているわけではない。職務放棄したというのならそれなりの事情があるだろうとは言っていた。けれどその理由が分からないから困っているのだ。戻ってきて説明と謝罪をしろと最後には要求されたのはそれがためである。
 ふざけてる。
 端的にアントーニョが思ったことはそれだけだった。

「で、また行くの、お前は」
「しゃあないやん。行かないわけにいかへんし」
 今日は午前中から講義があったので、少なくともその部分だけは逃れられた。校内で同じ講義を取っている友人を見つけてアントーニョはさっそく泣きついたのだ。まだ授業の開始までは余裕があるということで大学にあるカフェテラスに引っ張っていった。
「なんでこないなことに……俺、ホンマに善意やったのに」
 事情を長々と説明してもフランシスは慣れた様子で聞いていてくれた。そしてアントーニョがしょげているとフランシスはぽんぽんと優しく頭を叩いてくれた。今日も白いシャツ姿がよく決まっている友人である。
「善意、ねぇ。知らなかったってこと?」
「善意の第三者?」
「そうそう。たしかに、お前はいつも善意だと思うよ、お兄さん」
 なんだかんだ言って学生同士だから取っている講義の話がちらりと出てくる。しかし後半の言葉の意味が分からずにアントーニョは首を傾げた。いつも善意だとはどういうことだろうか。
 急に風が冷たさを増した。紺のショートコートを脱いだら下は薄っぺらい無地の黒いティーシャツと緑のチェックのシャツだけで、屋外では少々寒い。アントーニョは椅子にかけていたショートコートを後ろ手にとって肩にかけた。袖を通すか悩んでいるとフランシスの笑う声が聞こえる。
「どんな奴なの、そのお隣りの子って」
「どんな――って言われてもなぁ。普通の子やと思うけど」
「違う違う。お前に対する態度だよ、た・い・ど」
 それをどうしてフランシスが聞きたがるのだろうかとアントーニョは不思議に思った。しかし他に吐露するような相手もいないので請われるままに口を開いた。そういえばあの子供は触れるといつも冷たかったなどということを思い出しながら。
「なんていうかなぁ、生意気なん。絶対に俺のことを年上やと思ってへん! 子供やって言うと怒るしなぁ。俺にとっては昔から子供やっちゅうねん」
「ま、今高校生だもんね。ちょーっと離れてるかな」
「せやろ! それなんに……だいたい、子供っぽいんやで? 昔から、フェリちゃん構っとるとフェリちゃんイジメるしぃ、俺が真面目に勉強しとると邪魔ばっかするし、いっっつもバカバカ言われるし」
 返す返す思い出してみてもロヴィーノは生意気な子供だった。ぼーっとしてるといきなりタックルでぶつかってくるし、ほほえんでみせれば目を逸らされる。なにか言おうとしては口を閉ざしていつも真意がはかれない。
「バカ、ねぇ」
 フランシスはカフェ・オ・レを優雅に口に運んで口角を上げた。
「んー、まぁ、昔はもう少し可愛げあったんやで? よぅ俺に着いてきてくれとったし。アントーニョアントーニョってうるさく呼ばれてたんやで」
「ふぅん。じゃあ、態度が変わったのはいつごろ?」
 頬杖をついて流し目のような視線でこちらを見る。どんな時でも自分が見られるのだということを理解して振舞っている辺りがなかなか変わった友人だ。付き合いは長いがこのナンパな態度に女の子が泣かされるのをよく見ている。
「まぁ、年食ってくればなぁ。うーん、あ、俺が高校のときくらいやと思うけど……いっぺんな、彼女とおるの見られたことがあってなぁ、あん辺りかもしれへんわ」
 アントーニョは自身の記憶を回想する。もともとロヴィーノは素直な子供ではなかった。それでもつっけんどんな態度を取るようになったのは中学に上がって以降のことだと思われる。それまでは無理やりに手を引っ張っていたのが急に近づきも触れもしなくなった。
「……そりゃ、想像以上に複雑だわ……」
「? なにがやの?」
「うん。だからお前は善意なんだよ」
 日常用語と相違があるのだが、善意というのは法学部流に言うところの「不知」である。これは善悪の判断とは結びついていない。アントーニョは首をひねる。フランシスは昔から敏いし、アントーニョに分かっていないことも気づいているような素振りをしていた。頭の回転が速いかと思えば成績は似たり寄ったりだ。けれど感情の機微には敏い。
 ついでにフェリシアーノのことも思い出してみる。ぽややんとしている彼にまで「兄ちゃんとなにかあったの?」と聞かれて驚いてしまった。たしかに兄の家庭教師役として来て、その兄が消えていればなにかあったのかと問うのも妙ではない。ただそれだけだとアントーニョは自分に言い聞かせた。
「なんていうか、気をつけな」
「せやね。また逃げられたら敵わんわぁ」
 また逃げられて被害者面などされては、今度こそ叱責では済まされない。仕送りに影響が出る可能性は大だ。ただでさえあまりないお金をさらに工面しなくてはならないのは困る。
「違うから。気をつけなって――おそわれるなよ?」
「……おそわれる?」
 アントーニョはまた首を傾げた。襲うというのはあれだろうか。刃物を持って銀行強盗? 少し前に読んだ小説には演説する強盗連中がいたが、あれが持っていたのは銃だった、と思う。強盗致死の刑罰は重いとかいろいろなことを考える。RPGで敵と遭遇するのも、おそいかかってきたなどと表現されるなとか。
「――そ。家庭教師と教え子の密室のイケナイレッスンなんて嫌でしょ」
「……それ、ただのAVやない?」
 しかもフランシスの発言はおじさん臭い。顔だけでなく内面までもそうだったのかと思ったが、そういえばフランシスは時々発言にそういう雰囲気がある。例えば、女子高生のミニスカートを「いいねぇ、若いって!」とガン見しながら言うとか。
(まさか、本気で年齢詐称しとるん……?)
 もちろん昔からの知り合いなので、そのようなはずはないのだが。
「違うって! いやまぁ、たしかに女教師ものはいいと思うけどね……って違うの!」
「えぇよぉ、別に。お前がそういうん、俺は知っとるからなぁ」
「生暖かい目で見ないで! 本当なんだって!」
 本当と言われても、もうなんの話だったのかさっぱり覚えていない。着信音が聞こえたので携帯をジーンズの後ろポケットから出したが、ただの広告メールだった。メニューを開いて削除する。
「あれ、そういや、ギルおらんなぁ。どうしたんやろ」
 ふと共通の友人であるギルベルトのことを思い出した。取っている授業がほぼ共通なので、だいたい三人でつるんでいることが多いのに今日は見かけない。
「授業じゃないの? ギルちゃんは結構マジメだし」
「……あ、授業」
 そういえば授業を受けに大学に来たはずだ。咄嗟に腕時計を確認してみると、いつのまにか始業時刻を大幅に過ぎている。これにはアントーニョも驚いた。
「どうする、出る?」
「なんやもう、えぇわ」
 アントーニョはテーブルに突っ伏した。それから顎をくっつけたまま顔を少し上げる。
「じゃあ、俺も付き合ってやるよ。ノートは後でギルちゃんに借りたらいいでしょ」
 こちらに向かってフランシスはウインクした。ギルベルトはマジメというかマメというか、講義のノートはきちんと取っている。自分語りに脱線していることも少なくはないのだが。アントーニョは向けられた視線に曖昧に頷いた。この前もノートをコピーさせてもらったが、見ていない。今回も同じになる可能性は極めて高い。
 考えることに疲れてアントーニョは目を閉じた。なぜか急にふっと、フェリシアーノの声が耳に蘇る。「なにかあったの?」――なにかとはなんだろうか。アントーニョは問われて「なんでもあらへんよ」と答えた。そう、なんでもないことだ。キスなんて初めてのことでもなんでもない。それどころか酔っ払って分別をなくしたフランシスにキスされたこともある。つまり男相手が初めてだというわけでもないのだ。けれどなにか引っかかっている。分からない。別になんでもないはずのことなのに。気づくとむくりと起き上がっていた。
「どうかした、アントーニョ」
 視線を声の主の方へと送れば、いつもと変わらない友人の笑みが映るばかりでアントーニョは首を横に振った。
「ん、なんでもあらへん」

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