死の舞踏


 隣家にはアントーニョより年が少し下の兄弟が住んでいた。名前をロヴィーノとフェリシアーノと言う。母親同士が昔から親しいということでアントーニョは幼いころから彼ら兄弟の遊び相手として兄のような存在として接してきていた。弟のフェリシアーノはアントーニョの6つほど年下で、人懐っこいしアントーニョにも実際に懐いている。兄ちゃん兄ちゃんと呼び慕ってくれるので可愛い可愛いとずっと思っていた。それに対して兄の方はといえば、いつもむっつりとしている。年上を敬うなんていう言葉は辞書に存在していないようだし、アントーニョに敬語を使った試しもなかった。しかも素直じゃない。
(って比較するんはアレやな)
 大学からの帰り道、アントーニョはうんうんと頷きながら歩を進めていた。アントーニョはロヴィーノのことを決して疎んじてはいないけれど、向こうは面倒な相手くらいに思っているかもしれない。付き合いが長すぎて彼ら兄弟のことはよく知りすぎている。彼女とか連れてきたら絶対に片手で数えきれないほど知る恥ずかしい秘密のひとつやふたつはバラしてやるだろう。特にあのロヴィーノならばおもしろい。それくらいには考えているのだ。厄介であろう。
 そもそもアントーニョはロヴィーノに好かれていると思っていない。会えば不満ばかり言われるしツンケンした態度ばかりなのだ。バカだとかお前はボーッとしてるんだよだとか、好き放題言われている。こちらはもう慣れているからいいけれど。今から彼の相手をしなくてはならない、ということは苦痛ではないがなかなか骨が折れそうなことである。アントーニョより4つ年下のロヴィーノは高校二年生で来年は受験生なのだ。アントーニョがよい大学であるということでは決してないのだが、勉強を見てやって欲しいと頼まれた。家庭教師を頼むとか予備校に行かせるとかよりも安価な選択肢をヴァルガス夫妻が選択したのだということだけである。無論進級したらいずれは予備校なりなんなりに行くのだろうけれど。
「高校生の勉強なんてもう忘れとるよ」
 アントーニョはひとりごとをつぶやいてみる。同じ学部の友人であるフランシスに言ったら「最初からあんまり分かってなかったんじゃない?」と言われた。失礼な物言いである。これでも入学するのが難しいと言われる日本のシステムにおけるような大学受験は突破しているのだ。
 年齢より老けて見える失礼な友人の顔を思い出していると、斜めがけの茶色い鞄が振動した。慌てて乱雑に講義の資料やノートが詰め込まれている中からグレーの携帯を取り出す。振動はすぐに収まった。画面を開いてメールを確認すると母親からだった。頼まれた家庭教師的な仕事を忘れていないかということと、ちゃんと教えるようにとのお達しである。『分かっとる』とだけ打ち込んで返信した。どうせ隣の家なのだから自宅に寄っていこうかと思ったが、メールを見る限りうるさく言われそうなのでヴァルガス家に直行することにする。
 駅から最近は活気のなくなってきた商店街を抜けて、閑静な住宅地をのんびりと歩く。住宅が密集する静かな地域で、アントーニョは自分の自宅付近を好んでいた。大学からはやや遠いので大学近くに部屋を借りているが、こうして戻るのも嫌いではない。久々にフェリシアーノがいたら頭を撫でてやろうと思った。勝手知ったる道を右へ左へと曲がっていく。
 均質な家が並んでいる一帯にカリエド家とヴァルガス家はある。見目はなかなかよいものだ。新築で買ったため両親はローンが大変だなんてたまに言っている。両家の母親は学生時代の友人同士で、示し合わせて買ったというわけでもないのだが隣同士だったためになんとなく運命的なものを感じたらしい。もし子どもが男女だったら結婚などと言い出した可能性は極めて高かった。そういう意思決定はよくないので三人とも男でよかったとアントーニョは思う。ようやくたどり着いた隣家たる見た目も自宅と変わらないヴァルガス家のインターフォンを押した。自分の家と同じ音が鳴り響く。返事がすぐにはなかった。アントーニョは首を傾げる。左手にある革ベルトの腕時計を見てみたが、時間的には間違っていないはずだ。あれ、と思ってもう一度インターフォンに指が触れそうになった瞬間、玄関のドアが開いた。ぱちっと目が合う。
「久しぶりやね、ロヴィーノ」
「……アントーニョ」
「あれ、おばさんは?」
 白いシャツに緑と赤のチェックのネクタイ、モスグリーンのズボンという出で立ちのロヴィーノはおそらく着ているものが高校の制服なのだろうと思われた。見たことがあるかもしれないがアントーニョの記憶にはない。
「出かけてる。入れよ」
 あいかわらず無愛想にそう言ってロヴィーノは顔をそむけた。やっぱり好かれていない。アントーニョは認識したが、いまさらどうこう言っても致し方がないので素直に従って家に立ち入ることにした。せめておばさんがいてくれればよかったのに、と少しだけ思う。
「ほんじゃ、お邪魔しまーす。えーと、大きなったなぁ。前見たときはもーっと小さかった気ぃするけど」
 スニーカーを脱ぎながら笑いかけてみたが、反応は芳しくない。
「そんなに変わってねぇだろ」
 むしろ怒ったように言われた。しかしこの反応も慣れたものである。長く続けない方がよいだろう話題は早めに打ち切るのが吉だ。出してある青いスリッパはおばさんの用意したものだろうかと思いながらそれを履いて、ロヴィーノに着いていくまま廊下を歩いていく。彼の部屋もフェリシアーノの部屋もアントーニョはよく来たことがあるので知った場所だ。
「そうやったっけ? あ、フェリちゃんは?」
 家には他に誰かいる気配がない。というかフェリシアーノならばアントーニョが来たら出迎えてくれるだろう。
「部活で遅くなる」
「そうなん。ロヴィーノは部活してへんの?」
「別に」
 フェリシアーノの部活とはなんだろうかと思った。彼は絵を描くのが得意だから美術部あたりかもしれない。アントーニョは高校時代はクッキング部に入っていた。結構料理は好きだったし、女の子受けが実によいのである。今なら料理男子とかいうような奴だ。実際クッキーだのマドレーヌだのよく作っていたし周りは女の子が多かったから楽しかったし、フェリシアーノにあげたら喜んでもらったりしてうれしかった。ロヴィーノにもあげたがよい顔をされなかったことも憶えている。
 ロヴィーノはずっとむっとしたような表情だった。
(俺が嫌やったら断ればえぇのに)
 アントーニョは嫌ではないが、面倒でないとは思わない。なんだかんだ言っても今住んでいる部屋からは遠いし、いちおうバイトとは言ったってそんなに高額なバイト代がもらえるわけでもないだろう。それに高校の勉強は忘れているから仕方なしに復習までした。そんな手間がかかることや面倒を予期したって親のメンツがある以上、断ることはできない。けれどロヴィーノならば嫌なら断ったって構わないはずだ。よく分からない子である。
 階段を登って2階へと上がる。白い壁の子供部屋は2階なのもアントーニョの家と変わらない。壁には洒落た絵画がいくつか飾ってあった。ヴァルガス家は芸術に明るい家なのである。アントーニョの家ではこの辺りにはドライフラワーが飾ってある。母親はガーデニングが趣味の人だ。
「ロヴィーノ、確か数学が得意やったよね?」
「憶えてたのか」
 ロヴィーノはハッとしたように振り返ってつぶやいた。
「ふふ、俺の記憶力、ナメたらアカンで。そんで国語は苦手やったもんなぁ。今日は英語やる予定やけど、得意?」
「あんまり」
 アントーニョは笑った。
「ま、えぇよ。どうせやるなら徹底的にやったる。基礎の基礎から、やな」
 2階の廊下は西日が濃かった。まぶしくて少し目を細める。なんだか懐しい光景だった。ゆっくりと目を開くとこちらを見ていたロヴィーノとまた目が合う。どうかしたかと思って首を傾げると目をすぐに逸らされた。ロヴィーノといるとこういうことが多い。なにか言いたいことでもあるのかと思うが、それらが言葉にされたことはなかった。
 ロヴィーノは自室の白いドアを開けてからなにかに気づいたように振り返った。
「なにか、飲むか?」
「あー……そうやね。あった方がえぇな。コーヒーとか、ある?」
「インスタントでいいなら。入って待ってろ」
 部屋の中を指して言われた。あいかわらずだなとアントーニョは思う。
「なぁ、ロヴィーノ。年上には敬語やーっていつも言うてるやろ?」
「うるせぇ」
 ロヴィーノはさっさと階下に降りていってしまった。軽く溜息をついて部屋に入る。彼の部屋は制服に似たグリーンで統一された落ち着いた室内だった。特に散らかっている様子もないが、いちおうアントーニョが来るということで片付けたのかもしれない。机には英語の参考書が置いてあった。パラパラとめくってみる。5文型とかから確認するのが一番やろうか、とかそれらしいことを考えてみた。これが上手くいったら家庭教師が塾講師のバイトでも検討してみようかと思う。ああいうのは賃金がよい。ベッド下でものぞこうかと思ったが、さすがに可哀想に思えたのでやめた。
 パラパラとページをめくる音。温められた部屋の空気。アントーニョがぼんやりと立っていると階段を登る音が聞こえた。アントーニョが振り返ると、ロヴィーノはこちらを一瞥しだまってテーブルにコーヒーを置いた。自分の分らしいオレンジジュースも隣に置かれる。
「コーヒー、飲めへんの?」
 くすっとアントーニョは笑った。
「っ、うるせぇよ」
「あはは、ロヴィーノ、まだ子供やねぇ」
 アントーニョはそのままコーヒーに口をつけた。
「なっ――」
 弾かれたようにロヴィーノが顔を上げてこちらを見つめる。
「身体は大きなってもまだ子供や。あ、もしかして彼女とかおるん? せやったらまだオレンジジュースはなぁ」
 いたらからかってやろうと思っているアントーニョには気になる情報だ。まぁ、コーヒーを飲めるのがよい男の条件というわけではないのだけれど。カップを下ろしながらまた小さく笑う。
「ばっ、そんなもんいねぇよ! お前こそどうなんだよ!」
「いたらこんなとこけぇへんて。ま、言うても結構モテる方やし、今はおらんけどまた新しい彼女――」
 それほどモテているわけでもないのだが、近所の子に少し見栄を張るくらいなら許容されるだろう。アントーニョが右の人差し指を立てて自慢気に言うと、急にロヴィーノの指が伸びてきた。手首をつかまれてこちらを双眸が見つめる。アントーニョはまばたきした。
 ロヴィーノの瞳は近づいたと思えば閉じられて、そのまま唇が重なった。状況についていけずにアントーニョの頭は混線する。意識は真っ白だった。これはいったい何事だろう。
「ん……っ」
 舌が口内に侵入したので思わずアントーニョは目を閉じた。身体は反射に従って動いているだけのようで、満足に反応できない。頭が白くて考えられない。歯列をなぞられて背筋がぞくりとした。
 どのくらいそうしていたのかよく分からない。ようやく解放されて目を開くと、銀糸が唇から伝っていた。
「バカッ――」
「ろ、ロヴィーノ、なに……」
 立ち上がったロヴィーノを見上げると泣きそうな表情でこちらを見ていた。光が後ろから差し込んでいる。
「バカ!」
 ロヴィーノはそのまま背を向けて部屋を出ていってしまった。階段を降りる音がまた部屋に響く。取り残された部屋でアントーニョは右手で唇に触ってみた。いつもと変わらない。
「なん、なん……?」
 身体の力が抜けてアントーニョはベッドにもたれかかった。目を閉じてみると急に先ほどの出来事がフラッシュバックする。思わず目を開けて口元を右手で押さえた。頬が熱い。
(勉強、どうするんやろ)
 どうしようと思ってまた目を閉じた。

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