どこまでいっても逃避されてしまうということを知ってロヴィーノも考えた。なぜ逃避するのかということを真剣に考えてみたこともあるのだが、アントーニョの感情を他者であるロヴィーノが解せるはずもない。事実を事実として受け止めるということがもっとも適切な考え方である。その事実を基礎にして自分は如何なる行動を起こすべきかを検討した。結論は幾つか存在する。その内でロヴィーノが手段として選んだのはアクションを起こさないという方法であった。
向こうはこちらが好きだと言えばそれを聞かないことにする。それならばさらに言葉を重ねることは無意味だ。思考の動きとしては存外にシンプルであるだろう。好きだと言わない。それは相手が望んでいることだ。アントーニョが望んでいること。そのまま本当にロヴィーノも彼を好きでなくなることができたならばどれだけ感情が楽になるだろうかと思った。分からない。しかし積み重なる想いが今になって壊れるべく進行するということもないだろう。それゆえ最初から彼を好きでなくなるように努力することをロヴィーノは放棄していた。
窓の外を見やれば激しい雨が地面を打ち付けている。空気が冷えていると思ってよく見れば、隙間が開いて風が入り込んでいた。億劫に感じながらロヴィーノは部屋の窓に近づく。指先が硝子に触れるとひやりとした。閉めようとしたはずの窓を大きく開けてそのまま空を部屋の中から仰いでみる。少し斜めに降りつける雨が前髪を濡らした。雨の日ならばアントーニョのことを思い出す必要がないと思っていた。太陽の国と称されている彼を思い出すのならばやはり快晴だろう。けれど陽が隠れると恋しくなる。寒いと思う。心を占めているものの存在が恨めしいのだ。
そのままぼんやりしていると家のチャイムが鳴った。その音に導かれるままにロヴィーノは窓から離れる。雨音が部屋を緩慢に満たしていた。
インターフォンに触れることもなくそのまま玄関へ直行する。黒塗りのドアを手前に開けると滑りこむようにチャイムを押しただろう人物が中に入り込んできた。ぎょっとする間もなく長い腕が伸びてくる。
「よかった、ロヴィおったんやね」
ロヴィーノの指を離れたドアが慣性に従って閉じた。バタンと大仰な音が響く。外側からの雨音は遮断された。ロヴィーノは思わず辺りを見て彼以外に何者もいないことを確認した。久々に感じた回された腕から伝わる熱がなんとなくもどかしい。凍える外からの来客とは思えないほどにアントーニョは温かかった。いつものように。
「久しぶりやね、ロヴィ」
「……あぁ」
果たしてこんな玄関先で立ち止まっていることが正しいのかどうかロヴィーノ分からなかったが、足は動かなかった。彼の温かい腕を振り解けるわけもない。時が過ぎることをただじっと待っていた。
「なぁ、ロヴィ」
彼が喋ると吐息が耳にかかる。ただでさえ甘くて熱っぽい言葉に頭がくらくらとした。これだからいつもアントーニョには籠絡されつづけているのだ。重力のままに下がっているだけの右手を軽く結ぶ。先ほど窓から冷気を浴びていたためにさらに冷たくなっていた。
言葉には余韻があった。「まだ」と言葉が次に紡がれて、それからまた少しの余韻。それらが躊躇によるものであるのかどうか分からないけれど、ロヴィーノはだまって耳を傾ける。
「まだ、好きやって言うてくれる?」
言葉が脳まで浸透するのに少し時間がかかった。響いて、落ちて、溶けて、そうしてようやくロヴィーノはアントーニョを両手で押すようにして身体から引き離した。離れて真正面から見ると翠玉がぐらりと揺れる。それに繋がろうとするように顔を近づけた。
「好きだ」
視線を囚えるように。
こういうことを予期していたのかと問われると答えに窮するが、少なくとも望んでいたということは間違いない。ロヴィーノは一切のアクションを止めたのだ。どうしても、彼の気を惹きたくて。好きだと言うことをやめ、思わずといったようにアントーニョの家に向かうことをやめ、不可避的な状況を除いてふたりきりにならないようにした。最近では会うことすらが稀だった。長く生きているからそうした行動のスパンも長い。一月、二月や半年レベルではなかった。年単位だ。けれど拒絶はしていない。話しかけられれば会話もするし、家に来れば中にも入れた。それは基本的に「誰か」を伴う来訪だったけれど。拒絶するような言葉も発していない。抱きしめられればそれを受け入れた。好きでなくなったのだと思わせたかったのではないから。
このようになにもしないことや緩やかに結びつきを離すことがよい結果を呼ぶと思っていたわけではない。けれど彼があまりにも逃げるものだから、苦しかった。近づかないように触れないようにすればいっそ楽になれるのではないかと夢想したのだ。その過程において意外とロヴィーノは自分が忍耐強いらしいことを知った。
窓からの風で冷えた指先で頬に触れるとアントーニョはまばたきしてこちらを見つめた。
「ずっと、そう言ってるだろ」
アントーニョは首を縦に一度振った。
「それとも、言わねぇと分からないのか」
「分からへんよ。……バカやもん」
彼が逃げつづける理由はロヴィーノには分からなかったけれど、ひとつだけ判然とした事実のようにそこに存在してロヴィーノにも分かっていたこととしては、アントーニョはロヴィーノが大好きなのだということである。手放したくないとずっと思っているように見えた。好きだと言わせないとしても彼は決してその愛情を傾けることを止めなかったし、最近のロヴィーノと同程度の行動しかしていないことに鑑みればよっぽど距離をとることすら満足にしていないのである。それくらいに手放すに惜しい存在なのだ。ロヴィーノはそれは自覚している。本人も周囲もだいたいが分かっていることだ。だから緩やかにでも離れれば嫌でもアントーニョはそれを意識する。彼の気を惹きたくて、というのはそういうことだ。
「お前が、聞かなかったんだろ」
なじるような言葉を軽くつぶやいた。
「お前が、離れたいって、思うから」
「そないなこと、」
「言ってない、か? 俺はお前と違うから、言わなくても分かるんだよ、……バカ」
アントーニョはしゅんとうつむいた。
寂しいなら『好き』と別の感情を混同したり錯覚したりするだろうかと考える。まさかそこまで胡乱ではないと思いたい。言葉を求める意味を自分で理解していない?
(コイツならありうる……)
鈍感さがまったくもって恨めしい。ロヴィーノが溜息をつくとアントーニョは顔を上げた。その表情は切なげでなにかを求めて縋りついているようにロヴィーノの目には映った。
そうやってすぐ寂しがるくせに。
(寂しがるくせに)
(『好き』なくせに)
それなのにどうして逃げるのだろう。
「でも、お前の本心までは分かんねぇよ。なんで、逃げるんだ」
「ロヴィやって、いつかかわえぇお嫁さんもらいたいやろ? その方がえぇやん?」
「わけ分かんねぇ!」
「その方が『幸せ』やないの?」
「どこがだ?」
アントーニョは怯んだように視線を彷徨わせた。
「好きな奴に逃げられて、それで『幸せ』なのか、お前?」
弱く首を横に振る。本当にアントーニョはなにも分かっていなかった。
「好きなくせに」
つぶやくとアントーニョは驚いたように肩を震わせた。
「俺が、好きなくせに」
その言葉は多分に願望であった。頷いてくれなければ報われない。だから頭の中で警鐘が響いていた。聞いたらいずれにしても後戻りはできない。否だというのならばもうどうやってもこの手に引き止めることなどできないのだ。
それなら錯誤でもよいと思った。嘘でも虚実でも好きだとささやいてくれるのならばそれでよい。でもそれではなんの意味もない。思考はまたぐるぐると回り続けている。そんな言葉に意味がないのなら、肯定してくれないなら離れてやるなんていうつまらない脅迫も言えなかった。まるで昔人々が理不尽に行っていた神判のようだ。嘘なのか真実なのか誰が判定していると言うのだろう。湖に沈まなければ真実なのだろうか。
「好き」
掠れそうな声が無音を叩いた。
「好きや。愛しとるよ。ロヴィ、なぁ、離れていかんで」
自分のために用意されたはずの愛の言葉がとっさにロヴィーノには信じられなかった。
「手を離されてやっと気づいたん。もう、ロヴィが、こっち見てくれへんようになったら――」
「お前が言うみたいに可愛い彼女を作って?」
自分が信じられるようにロヴィーノは言葉を補った。
「せや。そしたらもう、笑えへんようになるて。なぁロヴィ、遅い?」
バカ、と言ってロヴィーノは口付けた。ふわふわとした黒髪に冷えた指を絡める。唇をゆっくり離して、笑った。
「おせぇよ。でももう、いい」
まだ戸惑っている身体を抱き締めると、やはり自分の身体の方が冷えていることが分かる。熱はこちらに伝播してきた。浸透する。熱い。
「好きだ」
アントーニョの腕もしがみつくようにこちらに回される。
温かい指先が背中をなぞって、そして彼は笑った。