温かな指先 前編


 たわむれるように言葉を奏でる。そのように相手は認識していたらしい。届かない伸ばした指先というのはそういう『程度』の扱いだった。ロヴィーノはそれに気づいて修正を試みたが、どうにもうまくいかない。躱されてしまってばかりいる。頭を撫でる昔と変わらない温かな指先をそれでも愛していた。向けられる優しいほほえみも。
 アントーニョはいつからかロヴィーノに「好き」と表現しなくなった。もちろん親愛の情は深く深く感じられるし、彼からの好意に偽りはひとつも存在しない。だからロヴィーノはそれに、最初は違和感を持つことすらなかった。言葉にしなくても決して変わることがないというのは自分の現況と相違がない。まして彼の態度からは感情が悪しき方向へとシフトしたような感じもなかった。同じように温かな指先は頭上を通り、長い腕にぎゅうっと抱きしめられることも変わらない。それゆえにいつからだったのかまるで覚えがなかった。
「フェリちゃんはかわえぇなぁ! もう、親分大好きやでぇ」
 ロヴィーノと扱いの酷似するフェリシアーノにそうアントーニョが述べたときに違和感を覚えた。昔はもっとアントーニョはそう言っていたような気がする。もともと素直な人だし、親愛表現は大袈裟なくらいの情熱の国だ。歳がいったくらいでは怯まない。大きく成長しようとも変わらない。けれどそれが、アントーニョが一番だと自称するロヴィーノに欠いているのは不自然だった。
 そうした認識を持って考えてみると違和感はいろいろなところにあった。アントーニョが最後に自分の家にひとりでやってきたのがいつだったのかロヴィーノは思い出せなかったのだ。二人で会うのは決まってロヴィーノが彼の家を訪れたときだけで、彼がロヴィーノの家を訪れるのはフェリシアーノを伴っているときだとかフランシスやギルベルトが一緒だったりするときだとかで、そしてそれすら滅多なことであった。そこまで考えてロヴィーノは天井を見つめているだけだった瞳を閉じる。先ほどから同じようなことをずっとぐるぐると考えつづけているばかりだった。
「ロヴィ、どうしたん? 考え事しとるん?」
 頭を悩ませている人物はいつもと変わらぬ笑顔でコーヒーを差し出した。なんだかんだと理由をつけてはロヴィーノが家を訪ねることが多いので紺色のコーヒーカップがロヴィーノの専用になっている。「なんでもねぇよ」と言いながら、カップを受け取っていつものようにテーブルにある白いシュガーポットから砂糖をいくつか取って入れた。その行動は習慣化されており手の動きも機械的になっている。アントーニョは笑いながら向いの席に座った。彼のコーヒーカップはその双眸と同じ緑色だ。
 なにを直接に言えばいいのか分からなかった。かようなことを思い始めたのは数日ほど前からで、今日になって急にアントーニョに会わねばならないと感じたのである。今日の朝、急にだ。それで押しかけた。どうせ暇をしているだろうなどと思ったわけではない。いないならばいないでよいような気がしていた。しかしアントーニョは本日も元気そうな姿でほほえんで出迎えてくれたのだ。さも会いに来てくれてうれしいみたいなやわらかい笑みを浮かべて。
「今日は寒いなぁ。雨が降る言うてたけど、ホンマやろか。ロヴィ、傘は持ってきとる?」
 快晴とも言いがたいが、すぐにでも泣き出しそうな曇天という空でもない。横目で窓の外を見ても雨が降り出すかどうかは微妙に思えた。ニュースも天気予報も見ないで家を出てきたロヴィーノはそう聞いて始めて雨の予感を知った。当然アントーニョへの返答は否である。首を振るとアントーニョは笑った。
「まぁ、降ってきたら傘くらい貸すから平気や。あ、ロヴィ、もう砂糖はやめた方がえぇ」
 一口飲んでみたが、甘さが足りないと思ってシュガーポットに手をやったのをアントーニョは見咎めて指先を伸ばした。ロヴィーノの手首をつかんで挙動を止めようとする。ロヴィーノは自分が冷たいとか低体温だとか思ったことはないが、アントーニョに触れられると自分の熱なんて存在していないかのように錯覚する。彼はいつも体温が高い。以前、子供体温だと笑ったら拗ねてしまったこともある。
「別にいいだろ、甘い方が好きなんだから」
「ダメや。ロヴィの健康が親分は心配なんやで!」
 手首に触れる熱を振りほどけず、ロヴィーノは砂糖を諦めた。「分かったよ」と言えばぱっと指先は離される。その瞬間の冷えた空気に一瞬言葉を失った。
「ロヴィもフェリちゃんも、コーヒーに砂糖入れすぎや。まぁ、食文化の違いっつうんがあるんは知っとるけどなぁ……」
 愚痴のような言葉を聞き流してロヴィーノが窓の外に視線を向けるとアントーニョは脱力したように「聞いてへんやろ、ロヴィ」と言っていた。空がゆっくりと暗くなる。意識してロヴィーノはそれを見ていた。陽光を雲が遮るようになって、冬の気配が濃くなっていく。探していたのはそういう感傷めいた時間のようであった。
「アントーニョ」
 響いた言葉とアントーニョが銀のスプーンをからからとコーヒーカップ内でかきまわす音が混ざり合う。違和感を伴って周囲を埋めていく。
「聞きたいことが、」
「ロヴィ、雨が降りそうになってきたわ。困ったなぁ」
 自分の言葉を塗り潰していくようにアントーニョの笑う声が部屋に浸透する。思わず息を止めてロヴィーノは振り返った。アントーニョはいっさい変わらない微温い笑みでこちらを眺めている。どくんと心臓が鳴った。これ、はいったいなんだろうかと思う。アントーニョはかきまわす手を止めると急に紺色のコーヒーカップを右手でつかんだ。一枚絵のようにスローモーションでカップが口に触れる。
「やっぱ甘いわ。ロヴィ、お砂糖は控えた方がえぇ」
 カップはふたたびロヴィーノの目の前に戻された。衝撃で水面が波打っている。
「……アントーニョ、なぁ」
「せや、冷蔵庫にパステルがあったんよ。ロヴィがまた来るかもしれへんて思ってなぁ、買っといたん。持ってくるから待っといてや」
 ガタンと音を立ててアントーニョは椅子から立ち上がった。引き止める言葉が浮かばずにロヴィーノは黙って頷くだけだった。それともここで指を伸ばせばよかったのだろうかと考える。甘いのに、と思った。彼が口をつけたのと反対側からコーヒーを飲み込む。胃に流れていく液体はすでに冷めていて、最初のような熱さは感じられなかった。強い風の音が聞こえて反射的に窓を見れば、曇天は深い。とうとつに寂寞感が心を占領した。
 カチャカチャと食器を出したりしまったりする音が向こうから聞こえる。そうだったのかとロヴィーノは気づいた。正確に言えばなんとなくここに来る前から感づいていたことであったし、今ここでやっと気づいたというような種類のことではない。やっと明確に自認したという程度である。その程度のこと。
「アントーニョ」
 愛してる、と素直に言えるようになるまでは恋愛を認識してから数えても随分と時間がかかった。その抵抗は例えば彼の親愛が家族的であったからだとか単純にロヴィーノがアントーニョに素直に感情を吐露できなかったからだとかいろいろと言いようはある。その他には恋愛特有の相手に受容されるかという不安。
「ロヴィ、フランシスからもらったギモーヴでも食べへん?」
 つとアントーニョはこちらにやってきたと思えば青いふわふわとした物体をロヴィーノの口元につきつけた。ロヴィーノは黙る。期待を込めたまなざしに逆らえずに口を開けば、そのままアントーニョの手にあった物体が口中に沈んでいく。
「お菓子と一緒に食べれば、ブラックコーヒーでもえぇと思わん? な、ロヴィ、美味しい?」
 なんとも言えずに呆然と見つめるだけのロヴィーノにもアントーニョはにこりとほほえんでふっと傍を離れた。
 アントーニョは真剣な声音を聞き取っている。その上であえて遠ざけているのだ。ロヴィーノの口から紡がれる言葉を予期してそれを防いでいる。やっぱり、と思った。
(知らないで笑ってるだけだと思ってたのに)
 なにも分からないみたいににこにこと笑っているくせに裏側を見ていたのだ。いつからだろうかと思ったときに脳裏を過ぎったのが、考えていた違和感の正体。好きだと不用意に言ったらこちらの言葉を誘発してしまうだろうから言わなかったのだ。言葉を封じて、けれど親愛表現は欠かせない。二人きりは極力避けたいのも同じ。フェリシアーノにはそういう制限がかかっていないから、態度が異なってしまう。
 いつからだろうかとアントーニョの態度からは思い出せなかった。自分の行動からも推測できない。アントーニョには幾度となく真剣に好きだと言っていた。その度に「ありがとうなぁ」なんてあっさりと返されていたしずっと態度も同じだと思っていたのだ。言わせてくれなくなったのがいつからだったか分からない。
「好きだ」
 言うべき言葉がやっと分かったのでロヴィーノは素直にそう口に出した。目の前でコーヒーが漣のように揺れている。
「ん、なんやの? よう聞いてへんかったわ。ロヴィ、それよりコーヒーのおかわりいらん? もう冷めとるやろ?」
 返答せずにロヴィーノは緑のコーヒーカップをこちらにひっぱった。口に入れるとやっぱり苦い。地面を叩く音に窓の外を見れば、いつのまにか雨が降り出していた。

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