蜂蜜をかけて


 軽快な着信音が静かな部屋に響いた。ぱっと意識が戻ったアントーニョは一度だけまばたきしてズボンのポケットを探る。ロヴィーノが舌打ちした音が聞こえたがそれには触れずにパカッと携帯を開けて画面を見ると、着信者の名が大きく出ていた。ロヴィーノの様子は気になるが、携帯電話を放置しておくことはできない。アントーニョはロヴィーノに背を向けて通話ボタンを押した。
「フランシス、どうしたん?」
『あ、よかった。家に電話したらいないから。なに、こんな時間に出かけてるわけ?』
 旧知の友人のなじんだ声が耳に入り込んだ。出かけるときでなければ携帯をテーブルに置いたままにすることも多いため、親しい友人は家の電話に直接かけることが多い。それで繋がらなければシェスタか出かけている。シエスタなら電話の音くらいではアントーニョは目覚めないし、出かけているならさすがに携帯電話に出てくるというわけだ。
「うん、出かけとるんよ。なんやの、急ぎの用事?」
 人といる時に携帯をいじることを嫌がる人がいるらしいが(別にアントーニョはどうでもいいと思っている)、結構甘えたがりの可愛い子分はアントーニョがいるときに電話がくることを好ましく思っていない。長引けば機嫌を損ねることは長い付き合いで熟知しているので、急ぎの用でなければ早めに切った方がよさそうである。
『いや、全然。最近会ってないなぁとふと思い出したから。元気にしてるかと思って家にかけたら出ないでしょ』
「あはは、そりゃタイミング悪かったなぁ。せやな……いつおうたっけ? あ、この前の欧州会議や」
『そうそう、あれ以来でしょ? アントーニョ、たまには遊びにおいで』
 昔からの友人とはいえ最近は行き来が頻繁に行われているわけではない。どの国だって今日ではずっと暇をしているようなことはないしアントーニョもフランシスも例外ではないのだ。
 フランシスは昔から会いに出かけると手料理をごちそうしてくれる。美食の国だけあって出されるものはどれもおいしい。地理的にも決して遠い距離ではないため味覚も合っている。特に南仏の料理は地中海的であるのでかなり近い。お菓子もローデリヒに劣ることがないのでフランシスのところは食という意味でスキがなかった。なんだか食物に関することが多いのだが、いまさらあの周辺を観光ということもないだろう。会って会話するのに必要なのは今のところ食である。
「そうやなぁ。いつがえぇ? あ、今週はな、結構暇なんよ。明日でも明後日でもかまへん――」
 笑いながらそう言うと不意に携帯を持っている右手の手首が後ろからつかまれた。アントーニョのわりと困った性質のひとつに『熱中すると周囲のことに気が回らない』というものがある。通話当初は愛する子分の存在を認識していたつもりだったが、いつのまにかフランシスとの会話に集中してアントーニョは彼を忘れた。ロヴィーノは付き合いが長いから敏感にそれを感じ取るのだ。今俺のこと忘れただろ、と。
 思えば幼い時分からそうであった。例えばアントーニョがやたらとフェリシアーノに構っていると不意にその姿を見せなくなるだとか。ひとたび話し始めて止まらなくなると途中で割り込んでくるとか。こっちを見ろという主張は困った子供のようだとアントーニョは思っていた。ちらっと後ろに視線を向けると、まっすぐなまなざしがこちらを貫いている。困ったように苦笑いすると顔を背けられた。
『っていうか、明日来ない? って誘うつもりだったんだけどね。どう? いいワインもらったんだけど』
「ワイン! えぇなぁ、行くわ。明日やな。えーと、ほんなら、夜がえぇな。フランシスんとこのご飯はおいしいから、楽しみや」
 アントーニョはとてつもなく酒好きというほどでもないかもしれないが、ワインは好んでいる。一大産地でもあるから日常的に飲用するのだということもあるし、フランス産ワインと言えば高級でおいしい。わざわざフランシスが誘うくらいだからよほどよいものだろう。自然と顔が明るくなった。それならばやはりディナーと共にというのが一番ふさわしいだろう。
『なに、お兄さんの価値って料理だけなの? ま、料理目当てでもいいけど……明後日もなにもないから、泊まっても平気よ?』
「えぇな。フランシスんとこ泊まるん久しぶりやしなぁ。昔はよぅ一緒に寝とったのに」
 電話の向こうでフランシスも笑った。その声が途中で引き離される。引かれた手首に驚いてふたたび後ろを見れば、いつのまにかロヴィーノの目がつり上がっていた。アントーニョはそれをまばたきして見つめる。一瞬なにが起こったのだろうかとすら思った。
「ロヴィ?」
 アントーニョは首を傾げる。
「お前――本ッ当に学ばないよな!」
『あれ、今のって……もしかして、ロヴィーノのところにいるわけ?』
 携帯電話からの声がやけに遠い。
 伸びた指先は首筋に触れた。噛み付かれた記憶が不意に蘇る。その行為はまるで彼のアントーニョに対する所有を意味する痕跡のようなものだった。一時的なものだったけれど。痛かったので噛み付くのはもうやめてほしいとふとアントーニョは思った。
 それにしたっていまさら学ぶとか学ばないとか言われても遅い。数百年といった単位をこれで過ごしているのだ。ロヴィーノだって知らないことではない。むしろ彼こそが一番よく知っているはずだ。共に暮らしたというのはそういうことである。裏をかえせば彼の性質もアントーニョがよく知っていることになる。たぶん彼の弟のフェリシアーノよりもずっと。ロヴィーノは『一番に』見てあげないと怒った。常にアントーニョにとっての『一番で』いることを欲していた。電話よりも食事よりも睡眠よりも優先しろと言う。その独占欲的なものが常に向けられていることを知らないのではない。よく忘れてしまうという程度なだけで。
 ロヴィーノと呼ぼうとした声は遮られた。口づけは甘い。
『えーっと……お邪魔した、かな? アントーニョ、明日、どうする?』
「――誰がお前のところになんて行くか!」
 ロヴィーノはアントーニョの手から携帯を奪い取ると大声でそう言って通話を勝手に切った。あっという間の出来事だ。後でフランシスには謝っておこうとアントーニョは思った。閉じた携帯は捨てられるようにこちらに投げられる。上手にキャッチできないで身体に当たった黒い携帯電話はそのまま床に落下した。
「今日は、ここに泊まっていけ」
「え、でも、なんも用意してへんしぃ……」
「用意するもんなんかないだろ」
「家空ける、言うんは、そない簡単なことやあらへんやろ」
 自分のいない内に国になにかあったら困る。そもそもなにかあったら困るのは当然だが、連絡がすぐにつかないのは緊急の対応を迫られるようなときには問題だ。せめて居所を知らせておいた方が、と思う。
「まさかお前、あの時間に来て、帰るつもりだったのか?」
「そこまで考えてへんかった」
 笑って言えばあきれたような視線を向けられる。
「んの、バカ」
 子分にバカだと言われるのはあまりうれしくない。けれど口の悪いロヴィーノには言われ慣れている。たぶん愛情表現の裏返しなのだろうとアントーニョは最近では認識していた。立ち上がったロヴィーノは背を向けて台所へと足を運ぶ。その途中で振り返った。眉が寄せられている。
「ピッツァ・マルゲリータ」
 言われた単語に反射的に言葉が出てくる。
「俺な、ロヴィの作るピザ、大好きやで!」
「ティラミス」
「えーと、デザートなん? ティラミスは甘くておいしいわぁ」
「ワインもある」
「ホンマ? うれしいわ!」
 いちいちアントーニョが喜ぶとロヴィーノはようやく満足したように笑った。
「イタリア料理があればいいだろ」
 そう言ってまた背を向ける。
(……フランシスに対抗しとるんやろか?)
 さすがにそこまで言われればロヴィーノの考えていることが分かる。考えは分かるが感情は理解の範疇外にあった。アントーニョはロヴィーノが一番だと常に言い聞かせてきていた。可愛い可愛い子分。世界で一番(正確には自国民が一番大事ではあるのだが)愛する子分だ。フランシスからもギルベルトからもあのローデリヒからすら「溺愛しすぎだ」と言われてきている。アーサーには「お前も子離れしろよな!」とか言われたが、負け惜しみだと思ってスルーしておいた。それくらいだ。だから他を気にされることは不可解でならない。というか気にしても意味がないし仕様がないのだ。
「ロヴィ、今度家においでぇな。パエージャ、好きやろ? それとも、トマトがえぇ?」
 言葉は返ってこなかった。
「なんでも好きな物作ったるよ? ロヴィのためやったら、なんでも」
 アントーニョの可愛い子分は独占欲が強かった。一番だと囁いてやらなければいけなかったのだ。なんでもというのは偽りではないが、ときおりひどく欺瞞に満ちて聞こえる。そう言ってやることこそがロヴィーノの満足だとでもいうように。実際、もう幼子ではないのだからロヴィーノはなんでもかんでもアントーニョに望んだりはしない。
「『なんでもくれる』って言うのか?」
「せや。いつもそう、言うとるやろ」
「興味ねぇよ――別にこれ以上、いらねぇ」
 そうなん、と乾いた声が響く。常々アントーニョは疑問に思っていた。誰かの一番になることとかそう望むことは愛情と必ずしもイコールで結びつくものなのだろうかと。アントーニョにはこの子はただずっと独占欲を持て余しているだけのようにも思える。甘やかしすぎたという言葉の通りに。きっとそれなら責任を持ってひきとらなければならないのだろうし、ロヴィーノが悲しげな顔をするのはそもそも耐えられないことだった。彼が望むもので自分に与えられるものならばすべて与えてやりたい。それが愛情でもなんでも。
 他方でそもそも歪だったのではないかとも思っているのだ。最初から見てもロヴィーノとアントーニョは血縁関係にあるわけではない。自分が一方的に子分だと呼んだに過ぎない(ロヴィーノは一度たりともアントーニョを親分だなどと言わないし)のだから。それを愛し慈しんできたことを罪だとは言わないし思わないが、家族愛というものの根本を欠いていると指摘されたら反論できない。だとしたら、先に愛したのは自分だろう。それならひきとるどころか突き放すことこそが正しい。愛と庇護はすり替えてはならないものだ。ひきとりたいのはただの自分の意思に基づいている。
 アントーニョは急に立ち上がると、つとロヴィーノのもとに駆け寄った。
「ロヴィ、キスしたってぇ」
 ふわんと笑って言うとロヴィーノはぎょっとしてこちらを見た。突然や唐突は十八番だ。なんだよと言いながらロヴィーノは料理の手を止めて浅く口づけた。
「お前、本当に甘いの好きだな」
「せやなぁ。手伝おか? なにすればえぇの?」
 ロヴィーノが笑ってくれたらいいということと、ロヴィーノのためになることをしようということとは異なっている。アントーニョ自身はどこかで誰かが自分を止めてくれるのを願っているようにも思えた。けれども、現状維持で構わないと目の前の人が肯定してくれることだけを実際には期待している。
 それらのすべてがどことなく甘いと片隅で思った。

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