「ロヴィ、ロヴィーノ。なぁ、おる? 開けたってぇ」
だいだい色の光がベランダから差しこんでくる。もう日も沈むという時間帯に突然来訪者が現れたのでロヴィーノは驚いた。チャイムも鳴らさない大きな声は間違うはずもない、昔から飽きるほど聞いた“親分”の声だ。リビングでテレビを見ていたロヴィーノは慌てて玄関に向かった。バタバタと足音がうるさく響く。
「なんだよ、来るなら先に――」
扉を開きながら文句を言いかけた。しかし訪問者は構うことがない。
「Hola! ロヴィ、久しぶりやなぁ! 元気にしとった?」
「見れば分かんだろ。お前は元気そうだよな」
アントーニョは「そうやな」と言ってふわりと笑った。基本的にアントーニョは自国の言葉を使わない。公用語やあらへんもんと言うのがアーサーやアルフレッドに向かって放たれた嫌味であるが、いちおうはそういうことらしい。実際には彼の国の言葉はアメリカの南の方では親しまれているのだが、あまりそのことには触れない。ともかくアントーニョは相手が友人であっても言語は異なるので使用することはなかった。しかしロヴィーノだけは唯一の例外だ。長く暮らしたロヴィーノはスペイン語にも明るいのでアントーニョも挨拶くらいならば自国語が飛び出してくる。気を許しているのだということは分かっていた。そこに自分がずっと一人で優越感を覚えていたことも。
寒くなってきたしアントーニョに優先するような用事などあろうはずもないので、ロヴィーノは「入れよ」と家の中に招き入れた。もともと向こうもそちらのつもりだったのだろう、すんなりとアントーニョも家にあがる。
「寒なってきたなぁ」
アントーニョはきょろきょろと家の中を見回しながら後をついてくる。以前から変わったものを見つければ「これなんやの?」とかなんとか言いながら飛びついていく癖があるのだ。今日は格別に目をひくようなものもなかったのですんなりとリビングまでたどり着いた。この保護者代わりはいつも屈託なくほほえんでいる。あんまりふわふわと笑っているし実体もふわふわしているのでたまにどっちが保護者だとロヴィーノも思うのだが、なんだかんだで頭が上がらないのも事実だ。
「なんか用でもあったのかよ」
連れられたリビングのモスグリーンのソファにダイブしたアントーニョはにこにこと笑うばかりだ。
「え? ロヴィの顔を見に来ただけやけど?」
そうしてそんなことをさらっと言えるのだから天然も極まっている。
「んだよ、なにもないのか」
悪態をついてみたが、アントーニョは笑っていた。どうせ真意など知られているのだ。ロヴィーノがアントーニョの来訪をうれしく思わないことはない。まして言外に会いたかったというようなことを言われれば尚更だ。
深い意味で取ることはないにしてもアントーニョはロヴィーノが喜んでいるとか悲しんでいるとかそういうことには聡い。実に敏感に感じとる。そして望むような言葉をくれるのだから敵わない。やっぱり保護者らしい存在という言葉は間違っていないのだ。それが嫌なわけではないが、単純に昔を思い出したことで小さく笑って隣に腰掛けた。
「せや、ロヴィ、見てみぃ」
なにやらポケットからあさるとアントーニョは右手を握ったままロヴィーノの顔の前に出した。
「なんだよ?」
「なんやと思う? ……あ、あれやな、えーと、Trick or Treat? って言うてみて」
「はぁ? あれはハロウィーンだろ?」
あの文句ばかりが有名となっているハロウィーンは今月の末日にあるイベントだ。と言っても今はまだ下旬にさしかかったばかりだし、起源がスコットランドだかアイルランドだかにあるアメリカが主体の行事である。
「せやけど、お祭りっちゅうんは楽しめればえぇんとちゃう? 菊もそう言うてたよ」
行事と宗教がごったな日本と比較するのはどうなのか。アントーニョは基本的に祭りやイベントというものが好きなので「楽しそう」だから真似てみただけかも知れない。アメリカにもイギリスにも確執があるはずだが、あまりアントーニョはそれを見せない。当人同士ならば言い合うこともあるのだろうかとふと思う。保護者だから格好悪い姿は見せたくないらしいがそれでは他人行儀な感じがするのだ。悪口ならば賛同してやるのに「悪口なんて言うたらアカンよ」と言っていた。アントーニョはどこまでも潔癖的に保護者だったのだ。そしてそれを突き崩されることをずっと恐れていた。
「別にやるなとは言わねぇけど、まだ早いだろ」
少しのいらだちが混ざった声は乾いた部屋に乱暴に響いた。それを覆うようなアントーニョの声はどこまでもやわらかい。
「当日に会えるとは限らへんやろぅ?」
そう言ってアントーニョは小首をかしげた。自分よりもずっと年上なのに幼い仕草に見える。なにとなしに結んだままの右手の手首をつかんでみた。細いと思う。自分が思っているよりもずっとアントーニョはか細かった。冷えた手に熱がこもる。急につかまれてもアントーニョは不思議そうにするばかりだ。きょとんとする様子を見てロヴィーノは軽く笑う。
「バーカ、会いたいならいつでも会うって言ってんだろ」
言いながらロヴィーノがじっと緑色の瞳を見つめると、数回まばたきして少し頬が赤く染まった。このようにきちんと感情が通じるようになったのは極最近のことだ。それまでは好意を伝えても伝えても善意解釈というか好意的な解釈というのか自分に都合よくしか解釈をしてくれなかったためにまるで想いが伝わらなかった。好きだと言っても通用しないのにはさすがにどうしようかと思ったものである。
「ロヴィ――」
「Trick or Treat?」
子供みたいだと思いながらロヴィーノが言葉を紡いでみるとアントーニョは焦ったように結んだ手を開いた。カラフルなキャンディーが三つ、その手に収まっている。細っこい手首を離して全部奪うように取り去った。かさりと袋が音を立てる。
「それな、赤はイチゴ、紫がブドウで、緑が青リンゴやねん」
ロヴィーノはその中から真っ赤なキャンディを選んで口に放った。残りはぽいとテーブルに投げる。カンと高い音が鳴った。
口の中に広がっている幼いくらいの甘さはまるでアントーニョのようだ。ずっと甘やかしてばかりいた保護者代わりはこちらを黙って見つめている。焦がれる視線に声に微塵も気づかなかった呆れるほどの鈍感――ずっとアントーニョばかりをロヴィーノは見ていた。それを知らないでいたことを罪だとは言わないけれども。戸惑うように「俺なんかで、えぇの?」と言った震える瞳が現在と重なる。他に誰がいるんだと言ってやりたかった。実際、当たり前だと叫んで喉に噛み付いてやったのだが。
「お前は言わねぇのかよ」
「え、なにをやの?」
「さっきの」
アントーニョは少し考えるように首をまたかしげた。「Trick or Treat?」と尋ねるように小さくつぶやく。
「あぁ。……なら、赤い飴とイタズラとどっちがいい?」
挑発的に笑うとアントーニョの瞳がまばたきを重ねる。
「なんや――、それ。赤のって、今、ロヴィがなめとるやん」
「だから、それとどっちがいいか聞いてんだよ」
褐色の細い喉がひくりとした。いつまでもくりかえすのは児戯のような言葉ばかり。たわむれるような言葉で逃げ道をふさいでいく。惑う緑色が不安定にロヴィーノの顔を映した。
(そうやって、俺だけ見てればいい)
そう思えば束の間に顔をそらされてしまう。朱に染まった頬は不満げに唇を尖らせた。
「なんや、ズルイわ」
どっちがズルイんだとロヴィーノは思う。甘やかすだけ甘やかして優しくするだけ優しくしてこんなに好きにさせておいて、いまさらだ。ロヴィーノが軽くためいきをつくと急に慌てたようにこちらに視線が向いた。いつもそうやって自分が少しでも感情を見せればこちらばかり見てくれることも優越だったなんてやっぱりアントーニョは知らない。唇の端に笑みが浮かんだ。
「お前は、甘い方が好きだよな――イタズラよりも」
顎を捉える。視線の距離が近づいた。唇が重ねた熱に口内の物が溶けて消えてしまいそうに錯覚する。
いつのまにか赤い日が失せて空が紺色に溶けていたように。
「万聖節は祝日だろ? ハロウィーンは泊まりに来いよ」
自分よりむしろ敬虔とも思えるクリスチャンのアントーニョのところではキリスト教にまつわる祝日は多い。髪を撫でると眉根が寄せられる。甘いわ、とアントーニョは一言つぶやいた。