青の王女


 新しい女王の掲げた政策はアーサーを驚かせた。
「反スペイン政策、ですか?」
 玉座に座る女王は拝謁者であるアーサーの顔を見つめて重々しく頷く。ふと褐色の肌の青年の姿が頭に浮かんだ。
「我が国の商船も困っています。海を制されれば、その上に浮かぶ島は、我が国はどうなりましょうか」
 スペインはイギリスをとりまく海を制した覇者だ。その国の船は優先して海を通る。四方を海に囲まれているこの国が困らないはずはない。
「アーサー・カークランド、お前が指揮を執って無敵だと言われる艦隊を破りなさい」
「お言葉ですが、女王。無敵という名は伊達ではありません。策もなく戦いを挑むのは無謀かと」
「我らの神に祈りなさい」
 女王は笑った。一度捨てられた国教をふたたびこの国の信仰に引き戻したのは女王だ。まるで女王こそがこの国では神であるかのように。悠然としたたたずまいは昔見た国王よりもよほど気高く格調が高い。アーサーはまっすぐと前だけを向くまなざしに息を止めた。この人ならばこの国を繁栄に導いてくれるのだろうと思う。
「策ならばあります。海だというのならば我らは海賊を使いましょう。他国の――スペインの船ならば襲ってもよいと伝えておきます……お前も、彼らを率いて海賊となっても構いませんよ」
 ふふと女王はふたたび笑う。頭上のクラウンが小さく揺れた。アーサーもつられて少しだけ笑う。
「ご冗談を。私は、紳士ですから」
「それも結構です。ならば『紳士的に』戦いなさい。一対一でも構いません。あそこにもお前と同じ青年がいるのでしょう?」
「アントーニョのこと、ですか?」
「そうです。アントーニョ・フェルナンデス・カリエド、彼を倒しなさい。そして『invincible』を、太陽の沈まぬ帝国を破りなさい。我が国の栄光のために」
 アーサーは太陽の国の青年のことを一瞬思い、そして別の言葉を口に出した。
「女王、あの国に嫁いだ先代の女王はどうなるのですか?」
 スペインの皇太子の元に嫁いだ以前の女王の姿をアーサーは思い出していた。ブラッディと呼ばれた美しく、しかし血に染まった旧教徒の女王。彼女がいなければスペインとこの国との争いはなかっただろうかと思い返してみる。皇太子の傍に付き従っていた青年、アントーニョと出会ったのもあの頃だった。「アンタがアーサー? 海の向こうにも『同じようなの』がいたんやな、知らんかったわ」と言ってのけた。まるでアーサーのことなど眼中に無いように。ロザリオを手にしていた彼もまた、血まみれの女王と同じ旧教徒だった。
「大いなる栄光のためには多少の犠牲はやむを得ないものです。アーサー、お前も分かるでしょう?」
「ええ。そうです、女王陛下」
 女王は満足したように頷いた。
「オランダの独立も支持しましょう。きっとあの国は怒って攻撃を仕掛けてくる――その時こそが、お前の舞台の幕開けです。アーサー、あなたはこの国に忠誠を誓っているのでしょうけれど、私もまたこの国だけに忠誠を誓っています。くれぐれも、期待を裏切ることのないように」
「Yes,sir.」
 女王は立ち上がった。その美しく青き双眸が貫くようにこちらを見つめる。
「God bless you!」
 荘厳な響きの言葉にアーサーは頭を垂れた。

 制したアントーニョを船の一室に閉じ込めてその扉の前に立ち、アーサーは彼の首から抜き去ったロザリオを眺めていた。同じ宗教だけれど異なる宗派。信じる神は同じなのだろうかと思う。
「アーサー殿、こちらは片付きました」
 向こうの船からかけられた言葉に顔を上げれば、見慣れた海賊たちがわざとらしく笑っている。アーサーも笑った。
「丁寧な物言いなんざ似合わねぇよ、海賊」
「うるせぇなぁ、小僧が」
 誰が小僧だとアーサーは軽く睨んでやった。自分からすれば人なんぞ皆小僧のようなものだ。しかし外見年齢からはそう見られても致し方ないだろうと思う。軽く息をついた。
「その光ってんの、戦利品か? あっちの国の大将はどうした?」
 アーサーは顎で転がったままのアントーニョの獲物を示した。
「捕まえて部屋に放り込んだ」
「海に投げ捨てねぇのか?」
「バカ言うな。俺は『紳士』だぜ」
 ひゅうっと高い口笛の音。海賊たちの船で長く過ごした影響で随分と口が悪くなってしまった。紳士の名がすたる。しかしそもそも向こうはアーサーを紳士だなどと認めていない。太陽の国の船から好き放題に銀を奪いまくってきたのだ、それもそのはずだろう。いまさらなにをと言わんばかりの表情を向けられた。
「なんて言って、本当はあの男のことが気に入ってんじゃねぇのか、うちの大将はよぉ」
 突然言われて虚を衝かれたアーサーは手にしていた物を取り落としてしまった。カツンと乾いた音が甲板に響いて十字が床に投げ出される。
「俺たちゃ遠巻きにしか見てねぇけど、結構可愛い顔してたしな。アーサー殿は随分と熱を上げて見ていらしたし、俺たちがとっちめてやろうって言ったら『俺が倒すから手を出すな』だぜ? 勘ぐりたくもなる」
「なにをバカなこと――」
「下手に手ぇ出さない方がいいぜ? どうせあっちの国はずっと、俺たちの敵だ。あんたみたいなのには特にな。女王もいい顔しねぇだろ。血まみれ女王なら別だろうが」
「誰が、手を出す、だ」
 アーサーが本気で睨んでみても海賊が怯むはずもない。
「ま、捕まえた奴をどうしろこうしろなんて俺たちが言うのは野暮だったな。好きにしたら、いい」
 言い返せずにアーサーは視線を穏やかにすぎる波間に向けた。凪いだ海は戦いの余韻すらも忘れさせる。彼の手によってつけられた無数の傷跡すら存在しないように錯覚した。一度目を閉じて開く。太陽は燦々と照りつけていて負けたはずのかの国の優位を囁くようだった。アーサーは落ちたロザリオを拾いあげる。
「そんなもん、後生大事に持ってるから『小僧』って言うんだ。溺れんなよ、俺たちの大将」
「……ほっとけ」
 ブロンドが海風になびいた。そろそろ背にした部屋に詰め込んだアントーニョは目覚めただろうかと思う。

 囚えた青年を国に帰してアーサーは自国に戻り、ふたたび女王に謁見を申し出た。海賊は女王になにか言ったのだろうかと思う。囚えたはずの青年に自分たちの指揮官が囚われていたなどと言いはしなかっただろうか。もしかしたら女王の口からは叱る言葉が出てくるかもしれない。覚悟はしていた。
 玉座は神々しく光を浴びている。アーサーは膝をついてまた女王に頭を下げた。
「アーサー・カークランド。頭を上げてください。我らの勝利なのですよ?」
「しかし、アントーニョは逃がしてしまいました」
 女王の蒼い瞳をじっと見てアーサーは自分のしたことを詫びた。けれどその真意までは口に出せない。
「なにを! 連れ帰る必要がありますか? あの青年がこの国に必要だと?」
「いえ、そういうわけでは――」
「アーサー・カークランド。あなたの働きはずっと見ていました。これ以上など不要。あなたはとても『紳士的』でした。やはりあなたが、栄光ある我ら英国」
 女王は玉座から立ち上がると、地に膝をつけた。アーサーは驚いて立ち上がる。
「女王、なにを……」
「私こそが我ら英国の第一の僕です。私はこの国のために、あなたのためにすべてを捧げます」
 膝をついてなお女王は気高く誇らしかった。
 血まみれの前の女王は処刑されてしまったと後でアーサーは噂に聞いた。

 天気のいい日に湖のほとりでアーサーは太陽を眺めていた。あの日アーサーに忠誠を誓った女王も死に、王朝は途絶えた。彼女は夫を持たず、ただ国の僕として一生を過ごして終えてしまったのだ。普通の女性として生きる幸せなど微塵も持たずに。それこそが為政者なのだと言わんばかりに。そして女王が願ったようにこの国の繁栄はつづいている。人は気高き女王を敬意を込めて処女女王と呼び讃えた。
「離婚したいから旧教を捨てるだなんて――そんな奴があの女王のことを聞いたらどう思うんだろうな」
 アーサーは肩に乗るフェアリーに話しかけてみた。警戒心の強いユニコーンはまだ姿を見せてくれない。
 水面は陽光に揺らぐ。太陽がこれだけ輝いているのもこの国では珍しいことだった。気づいたらいつも雨ばかりで孤独に濡れた心は冷え切っていた。海の向こうになにがあるなんて思いもせぬくらいに独りだった。
 太陽の国の名をもらった青年は本当に太陽のようだった。仲間に投げかける温かくて優しい笑みにアーサーは一瞬で心を奪われてしまったのだ。それがこちらを見るときは冷めたまなざしに変わる。それすらもより一層心を募らせた。拒絶されて嫌われてもなお忘れられない。嫌がられるとなおさらに引き寄せられる。
 囚えた褐色の肌の青年は囚われてなお瞳に強い輝きを宿していた。船室に投げ出した身体は思っていたように温かくて、掴んだ掌からその熱が自分に移っていくように錯覚した。今でもそれが忘れられない。アーサーは自分の手を握りしめた。欲しかったのは七つの海ではなくてアントーニョだったのだ。自分など眼中に無い美しいエメラルドのような瞳と太陽に愛されたような褐色の肌、そしてアーサーを魅了したやわらかすぎる温かいほほえみ。彼もまた血まみれの女王のような神様を信じていた。自分の元を去っていった美しい女王。その面影が彼にも重なって奪い取った十字架は今も手元に残っている。
「いつか、殴り返しに来るかな」
 フェアリーは答えない。その時こそはこの美しく青い湖を彼に見せてやりたいと思った。その日が来ることをアーサーは心待ちにしている。

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