水面の十字架


 アントーニョが水の中に手を差し入れるとひやりとした。空気も冷えているし冬の到来を感じさせる。国立公園となっているここアルブフェラ湖には呼ばれて来ていた。陽光が湖水に反射して水面がキラキラと輝いている。自然の美しい光景にアントーニョは目を細めた。
 呼び出した相手はこの辺りの長である。アントーニョは首都に居を構えているため、たまに地方にも呼ばれて足を運ぶのだ。寒さが厳しくなる前にたまには湖を見に来て欲しいと言われてここまで来た。その甲斐もある美しい光景に加えて昼にはパエージャを用意してくれるという。ここは米の産地だし件の料理の発祥の地でもあるのだ。すーっと水面を視線が通過していく。周囲には誰もおらず独りで佇んでいると不意に記憶が蘇ってきた。郷愁だと思う。広い水辺は記憶を引きずりだす。否応無しに過去を思い起こさせるのだ。この国を示す旗の色よりもずっと赤い、流れた血の色を。突きつけられた刃の光明を。

「お前も、これで終わりだ――無敵艦隊」
 紅い外套を翻してアーサーは笑った。煌く刃の切っ先が喉元に突きつけられてもアントーニョはちっとも動じなかった。自分の獲物はすでに手に届くような位置にはなくて、刃が貫いたらきっと戦いは終わるのだろうと思った。そういうものだ。
「降伏しろ。跪け」
「へぇ、跪いたら許してくれるんや。海賊は優しいんやなぁ」
「お前、死にたいのか?」
 アントーニョは首を横に振った。違うという意味でもあるし、おそらく死なないだろうと思ったというのもある。スペインは伊達に海を制したのではない。この一瞬で国のすべてが終わるほどの武力ではないのだ、たとえ艦隊が破れてもすべてを失うわけではない。けれど海は好きだったので惜しいと思った。どこまでも広がる先に果てなどないようなその景色が、アントーニョは好きだったのだ。
「アンタも、海が欲しいん?」
 アーサーは一瞬ぎょっとしたように緑の瞳をしばたかせた。
「ランは、海は自由やって。けど、アンタは全部欲しそうな目をしとる」
 笑うと切っ先が揺らいだ。海は凪いでいる。太陽は輝いている。スペインの領土ならば必ずどこかで太陽が高く昇っていた。それが、太陽の没することのない帝国。太陽の国という名だ。きっと空は今でもアントーニョの味方をしていると思われた。降り注ぐ陽光は神の威光。だからこの戦も正しいものだと思う。胸にかかる十字に誓って。
「欲しいな……すべて」
 つぶやくようなアーサーの言葉に、素直やなとアントーニョはまた笑った。剣は甲板に落とされて甲高い音が耳を打ち付ける。他には誰もいない船上をぬるい風だけが突き抜けていた。アーサーは急にアントーニョの前髪を上げると額に口付けた。
「アントーニョ・フェルナンデス・カリエド、お前もだ。俺の物になれ」
 そうして跪いたのはアーサーの方であった。手にはなにもない。それなのに床に落ちたはずの剣は今もアーサーの手に握られているようにアントーニョには思えてならなかった。物語のように引き抜かれた聖なる剣がその手にはあって円卓の騎士がそこに控えているような気がする。思わず瞠目した。言葉が出てこない。
「神なんて、捨てればいい」
 聞こえたその言葉を境にアントーニョの意識は途切れた。

 アントーニョは見知らぬ部屋の硬いベッドで目覚めた。粗末な毛布がかけられている。腹部が痛かったので、それが意識を失った理由なのだろうと察した。それ以外に外傷は増えていない。しかし違和感を覚えて胸元を探ってみると、肌身離さずつけているロザリオがなかった。
「アーサー、いるんやろ? ロザリオはどこやったん?」
「目が覚めて第一声がそれかよ。あんなもん、海に捨てた」
「不敬なヤツやな」
「お前、神に魂でも売ったのか? それが、レコンキスタって奴か?」
「信仰心のなにが悪いんや。で、俺は捕虜かなにかなん?」
「死なねぇ捕虜なんているか」
 ふうんとアントーニョはつぶやいた。乾いた部屋に声は反射する。声の感じからしてアーサーは扉の前にいるようだった。起きるまでずっと待っていたのだろうかと思う。
 手や足に拘束具はない。当然目を隠しているわけでもないし会話も自由にできる。本気で捕虜のような扱いをする気はないらしい。ただし、武器とロザリオだけはこの部屋になかった。
「アントーニョ、お前の信じる神と俺の信じる神は違うのか?」
「なんやの、ホンマに。鬱陶しいわ。捕虜やないんなら、はよ国に帰してくれへん?」
「だったら、跪いたらいい。俺に。お前からロザリオを奪った俺にだ」
 アントーニョは苛立った。ロザリオがなければ信仰心がなくなるというものではない。けれどカトリックでもないアーサーがとやかく言うのが気に食わない。この男に跪けば信仰心がなくなるとでも思っているのだろうかと思うのだ。たぶんそうしたら解放されるだろうということは承知している。
「そんなん、お断りや」
 けれどアントーニョは自嘲するように笑ってそう言った。一面ではそれはすでに浸透してきていた新教というものへの恐怖でもある。アーサーのところではとうにカトリックを捨てていた。自分が膝を折ることはカトリックの権威を落とすことにもなりうるのではないかという懸念だ。
 しかし他面ではもっと複雑な内心の動きがあった。海を制したいという欲求は同じ物だ。アントーニョは強いシンパシーを感じていた。なんとなく手を取り合うこともできそうだし、永劫に交わらない平行線をたどるようにも思われる。言葉は琴線に触れ感情は揺れ動いていた。されどそもそもアントーニョに選択する権利などは存在しない。意思はない。意思は王にあるのだ。彼が起こすから戦争は正しい。アーサーの女王とアントーニョの王は手を取らないだろう。だから仮定は成り立ちえない。
「海が好きなのか?」
「さぁ。どうやろうな」
 感情を波立たせることに露ほどの意味もないし価値もない。このような男の言うことは聞くべきではないし問答すべきではない。アントーニョはそう言い聞かせた。自分には価値ある心などないのだ。神の言葉と王の言葉こそが光明をもたらすべきものである。
「イングランドには森に囲まれた湖水地方がある。綺麗な湖だ。あれみたいに海が欲しいと思っても、不思議はねぇだろ」
 アーサーはまるで独り言のようにつぶやいた。
「規模が違うやろ」
「お前も見に来いよ」
「嫌や」
「そんなに、俺が嫌いか?」
(嫌い?)
 そんな感情的な発言ではない。英国は敵だと言われた。ただそれだけ。戦う理由としてはそれでアントーニョには十分だった。
「いつか殴り返したるわ」
 アントーニョはやはり笑う。さっきからずっと虚勢ですらなくて、ただ自嘲するばかりのようにも思えた。いつかまた自分はアーサーと対峙するのだろう。神が、良心が、そう訴えるから。王がその国の名の下に命ずるから。
「そうか。待ってる」
 急に扉が開いた。目の前が陽光で溢れている。それを後ろに背負ったアーサーはおそろしく神々しかった。日に透けるブロンドに日に焼けていない肌の色と血に染まったような紅い外套。長い指先がアントーニョの手首をつかんで部屋の外へと引っ張っていく。
 感情ががくんと動いた。
「いつか見に来ればいい。綺麗な場所だ」
 甲板に出ると穏やかな波の向こうに祖国が見えていた。

「アントーニョさん、そろそろ昼にしましょうか?」
 声をかけられたのでアントーニョの意識は戻った。にっこりと笑って言葉に頷く。
 切望した祖国が見えた瞬間に感情は此岸に引き戻された。一刻も早く彼の舟から逃げ出したいと思った。そうしないとまた強い感情の揺らぎに襲われそうだったのだ。乾いた心に染み込んでいたのは綺麗だと静かに告げられた湖の水滴。それから雨。あの後もあの日思った通りに幾度となくアントーニョとアーサーは対峙した。けれど彼を殴るようなことは叶わなかった。それを実行する気も本当はなかったのだ。
 待ってると囁いた声がいつまでも耳に残っている。何世紀も昔のことなのに。神様みたいな光を背負ってなおアーサーの緑色の瞳は弱く揺れていた。囚えたのは自分なのにまるで自分の方が囚えられたみたいなまなざし。それを振り切れとなくしたロザリオが導くように告げた。それに従ってアントーニョは手を振り払った。たぶん本当は良心なんていらなかった。
「寒くなかったですか?」
「平気やで。えぇ天気でよかったわぁ」
 アントーニョはのんびりと笑う。水面がキラキラと輝いていた。
 イングランドの湖水地方にはまだ行っていない。

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