暇だったからというのが主立った理由である。本人と対面したらそう言おうと思っていた。別に会いたかったとか顔を見たかったとかそういうことではないのだ、断じて。
「おい、アントーニョ」
鍵の開いた玄関を無用心に思いながら英国紳士というよりも海賊と言った方が相応しい不遜な態度で真っ黒な扉を開ける。声が返ってこない。まだ明るいから外に出ているということも当然考えられるがそれならば施錠していないのは幾らぼけっとしている彼でも考え難い。大体昔から無用心なのだ。勝手に扉を開けておきながらそんなことを考える。
「居ないなら勝手に上がるぞ」
こういう状況について聞き及んだことがあるとアーサーは思い出す。友人(とアーサーは信じる)の本田菊が「サスペンスの定番ですよ」と言っていたことだ。
『親しい友人や知人が、チャイムを鳴らしても返事がないから不思議に思ってドアに手をかける。そうすると鍵が掛かっていないんですよ。不思議に思って部屋を探しまわると――』
人形のように無感情げな漆黒の瞳に薄い唇が紡いだ言葉を思い出して何だか背に悪寒が走る。アーサーは慌てて靴を脱いで中に勝手に侵入した。そうだ菊の話によれば、その部屋の主人は既に死んでいるというのが話の流れだ。風呂場からはぽたぽたと不自然な水音がして――なんて洒落にならない(しかし本人は悪意があって話した訳でもなければ、ただのドラマ事情を語ったに過ぎないのであるが)言葉をも思い出して、一瞬風呂場に行こうかと思って止める。幸いにして水音はしていなかったが縁起でもない。
「お、おい! 本当に居ないのか――アント……」
アーサー邸より随分と狭いアントーニョ宅のやはり狭い廊下を抜けて明るいリビングに到達した。今日もスペインという国は雲一つない快晴で陽光がリビングに注ぎ込んでいる。自分のところは今日も雨だったのにと思わず舌打ちした。目の前の光景はそれに値する。アーサーは溜息をついた。菊の所為だと八つ当たり気味に思う。探していた彼、アントーニョはダイニングテーブルに突っ伏していた。安らかな寝息をたてている。要するにシェスタの最中であっただけなのだ。なるほど中に人が居れば施錠していなくとも不思議はない。あんまり寝付きが良いので真っ昼間に良く眠れるなと呆れるように思った。
物音にも一切気づかぬ鈍感ぶりを発揮して無用心だとは思えど安眠中の人間を起こすのは紳士らしからぬ態度である。友人(と相手が思っているかは不明)が相手だとしても無用な心配をしてしまって苛立ったとしても傍若無人に当り散らすのは大人気ない。アルフレッド辺りが左の発言を聞いたら何だか逆に笑われそうではあるがそういうものだ。仕方がないのでダイニングテーブルに突っ伏す家主の前の椅子を拝借した。今更帰るのもバカバカしいのでとりあえずは覚醒を待つことにする。
寝息と共に肩が上下してその呼吸に合わせてふわりとした髪が揺れた。少しだけ開いた窓から吹く乾いた風はレースのカーテンをはためかせながら心地良く頬に触れる。
(ここは、落ち着くな)
家主の性質故だろうか。自分の邸宅よりも狭いはずなのに空間はゆったりとしている。何もしていない時間にこそ尊い物が存在するのかもしれない。いささか夢想的ではあるが。
「ん……ロヴィーノ、あかんて……ふふっ」
声に反応してアントーニョの方を見た。顔を上げるような動作をしたが瞳はきちんと閉じられているしどうやら寝言のようである。少し覗かせた表情がほんわかと幸せそうに微笑んでいたので何だか癪に障った。人がせっかく来たと言うのにと声に出さずに思っても、そもそも格別呼ばれた訳でもない。別に疎まれることもなかろうが来て喜ばれるということもないだろう。そんなことに心を痛めたとて何も変わらない。
アーサーは頬杖をついて目の前の男の寝顔に視線を落としていた。この男はいつまでたっても変わらない。今みたいにただ呑気で平和そうにしている。その昔はアーサーに限らずフランシスだの何だのともやりあったかつての大国だと言うのに。太陽の沈まない国、植民地だって多数を持っていた。そんな国だったはずだ。それが今では主要国とすらカウントされない。戦後の僅か数十年でのし上がってきた菊とは雲泥の差である。それでも何の気もないようにしているのは不可解でもあるしやはりアントーニョらしいとも思われた。いずれにしてもアーサーにはその心中は測れそうにない。歴史の中で何も残すことなくかと言って消える訳でもなくのんびりと続いている。「アーサーもユーロつこたらええやんか」とか余り深く考えずに言っている程度だ。
ふと弟の顔を思い出す。いつか自分よりも巨大になった、自分から見ても新興国。覇権は彼にあってもその基礎に根幹に我らが大英帝国の影は残っている。その血統、言語、法の体系。例えば言語ならばグローバルスタンダード。法体系ならば、かつて自分が支配していた植民地にも今尚脈々と受け継がれているものだ。英米法という体系はアントーニョを含んだ大陸法の体系とは様々に異なっている。そういうものがこの男にはない。あのフランシスの所ですらフランス人権宣言とか大層なものを残しているというのに。
「お前、それでいいのか?」
誰にともなく呟いてみた。日はまだ暮れない。このまま沈まないのではないだろうかとすら思わせる淡い光の乱反射。たぶんアントーニョはそれでいいのだろう。それでいいのかとアーサーも急に納得した。目の前の寝顔があまりにも平和であったからだろう。最近ユーロもヘラクレスの問題があってごたごたとしているようだがこちらの国の経済はやっと安定し始めているらしい。やっと内職から解放されたとフランシスに話しているのを聞いた。
ぼんやりと考えているとくぐもった声が耳を打った。そちらに視線を向ければ薄く開いた瞳からぼんやりとした視線が返ってくる。揺れた視線は次第に像を結びアントーニョは瞬きをした。
「……あれ、アーサー? なにしとるん?」
「お前が起きるのを待ってたんだよ!」
それにしても余りに淡白な反応にアーサーは脱力した。知人とは言え起きたら目の前に招いてもいない客がいたら普通はもっと驚くものではないだろうか。「すっかり寝てしもたわぁ」とか言いながらアントーニョはまだほとんど伏したまま視線だけこちらに投げ掛けてくる。
「なんや、アーサーがうちに来るのなんて珍しぃなぁ。なんか用でもあったん?」
「別に……。ひ、暇だから来ただけだ!」
そうなんとアントーニョは両腕を伸ばしながら興味なさそうに呟いた。人の家に無断で侵入している件について何か言うことはないらしい。
「――もしかして、もう昼やない?」
そしてじぃっとこちらを見つめて小さく首を傾げる。見ても俺は時計じゃないとアーサーは視線を外して思った。直視されるのは少し苦手だ。
「いつから寝てたんだよ、お前」
「洗濯干したんまでは覚えとる」
今日もええ天気やなぁとやっと身体を起こして笑った。窓の向こうに見える洗濯物がカラカラに乾いているところから推測すると相当長い時間アントーニョは昼寝(というよりも朝寝である)していたのだろう。掛けてある時計を見たアントーニョは「やっぱり昼やなぁ」と呟いた。確かにそろそろ太陽が南中に昇り切ってしまいそうな時間だ。
「ほな、何か昼でもつくろぉか? アーサー暇なんやろ、食べてきぃ」
などと邪気のない笑顔で言われたのでアーサーは一瞬言葉につまった。しかしすぐに取り繕って言葉を発する。
「ま、まぁ、暇だからな!」
「さっきも言うてたから知っとるよ」
アントーニョはからりと笑った。菊が「ツンデレは鈍感と相性悪いと思いますよ」と言っていたことを不意に思い出す。言葉の裏を読むということを余りしないアントーニョならば本当に『アーサーは暇だから自分の所に遊びに来た』とばかり思っているのだろう。
(いや、だから暇だから来たんだけどな!)
内心にまで言い訳しているアーサーを尻目にアントーニョは意気揚々と台所に向かう。
「ひとりで食べるんよりは、誰かいてくれた方がええなぁ」
言い訳してしまうような内心とは裏腹にそんな何気ない言葉にも反応して思わずアーサーはテーブルに両手をついた。
「だ……だったら、また来てやってもいいぞ!」
「おおきに」
振り向きもせずにひらひらと手だけ振られた。こういう時は社交辞令と受け取るらしい。本当にまた押しかけてやろうと密かにアーサーは思った。