金曜日は今度こそ海老原、土曜日はりせ。そうやって、女の子たちと会話しながら帰るということは、中々、楽しかった。海老原なんかは沖奈で振り回すし、りせのテンションも高いので、疲れることもあるが、女子というのはそもそもそうなのだと斎も思っている。
どうしていきなり、陽介が恋人を作った方が良いとかそんなことを言い出したのか、理由を考えても分からない。ただ、確かにクリスマスは近くて、陽介自身も恋人探しをしたかったのかも知れないと思った。斎が誰かと関わっていくように、陽介もまた、別の誰かと関わっていく。
「ワリィ、待たせたか?」
「いや。座ってて、お茶淹れるから」
お昼の定例報告会が出来ないから、と家に呼び出すと、陽介はすんなりとやってきてくれた。まだ家には菜々子も遼太郎も戻っていない。外は寒かったので、温かいお茶が良いだろうと番茶を淹れると、渋いな、と笑われた。
「海老原にりせ。美人続きでどうだ? 疲れたとか?」
「まぁ、本音を言えば、少し疲れたかも知れない」
「結構、振り回し系の美人だからなぁ。いいじゃん、振り回されんのも、カワイくて」
「陽介の好きな人もそうなんだ?」
ぽつりと呟いたが、目の前のお茶の熱さに気を取られている陽介は聞いていないようだった。なに、と首を傾げたので、斎は首を横に振った。
陽介は優しい。お前に頼ってばかりだとか、優しいのは斎だとか言うが、いつも助けてくれているのは彼の方だし、今だって、友達に恋人が出来たら幸せだろう、と心から思って、それに尽力してくれる。言ってくれるアドバイスは的確だし、情報収集も抜かりがない。彼には何のメリットもないことを、平然とやってのけるのだ。それはある意味では、脅威ですらある。優しすぎて、怖いのだ。
「あ、そういやさ、昨日もお前、昼休みに告られてただろ。そっちはどうだったんだ?」
「断ったよ。知らない子だったし」
「やっぱ、お試しで付き合うってのはナシか」
まぁ、と曖昧に斎は頷いた。茶菓子に出した饅頭を口に放り込んで、陽介は熱いお茶は一旦諦めたらしく、手を離して腕を組んだ。
「前の学校で彼女とかは?」
彼は知らないのだ。
「いない」
「そっか。モテるのに、硬派なんだな」
陽介はにこにこと笑った。
「思わず頷いちゃう! みたいな子はいねーの?」
「思わず……」
(陽介が、)
呼び出されて、昼休みに中庭に足を向けた。好きです、付き合ってください、と言葉が紡がれる。ごめん、と一言で断ってしまったけれど、思わず頷いてしまうのはどういう子だろうか、と想像してみたことはあった。可愛い子か、美人か、優しい子か、ちょっと我儘な子か、真面目な子か、大人しい子か。
――なぁ、斎。
はっとして顔を上げると、陽介が首を傾げていた。
「どうかしたのか? あ、うるさかったか?」
何か喋っていたようだったが、良く聞いていなかった。けれどそれは、陽介に非のあることではなくて、寧ろ話もきちんと聞いていない斎が悪いのだ。慌てて首を振ると、陽介の目が安堵したように少し細くなったので、こちらもホッと胸を撫で下ろす。
「なんでもない。なんの話だったか?」
「んだから、気になった子とかいねーのって」
「いや、今のところは」
「ま、焦ることはねーぜ。時間はまだあるし」
「そう……だな」
(時間、か)
クリスマスに恋人と、と最初に陽介は言っていた。彼の言う時間とは、それのことだろう。それまでに菜々子も退院出来ると良いな、くらいにしか斎には思えない。可愛い彼女と過ごすクリスマスというものを欲していないのだ。陽介を妙だとか不謹慎だとか言いたいのではなく。
(陽介は、好きな人と過ごしたいのか)
そう考えると、急に何かが切迫したように思えた。
「陽介、今日は夕食も食べていかないか?」
「へ? いいの?」
「一人だから、気兼ねもいらない」
「あ、叔父さん仕事か。そんなら、お言葉に甘えるかな」
頷いてくれてホッとした。また、情報収集だか何だか分からないけれど、忙しいからと断られるのではないかと心配していたのだ。彼にとっての優先順位とは何だろう。高台で、斎を特別だ、と恥じらい気味に言ってくれたとき、斎は彼にとっての一番であれたような気がした。だから斎も、陽介は特別だと返したのだ。特別な、一番の人。
(今は――違う)
結局、二人で何かを為すでもなく、ただのんびりと一日を過ごし、夕食も食べていって貰って、夜に漸く別れた。長い時間を過ごしても、ちっとも面倒に思わないような相手はそう多くない。何かしら気疲れしてしまうということもあるのに、陽介にはそれがなかった。快い友人である。気心が知れている。気の置けない人。
(だからって)
彼の出て行った玄関の扉を右手で押さえて、斎は頭をだらりと下げた。
もしも彼が。
――なぁ、斎。俺、斎のことが好きなんだ。付き合って欲しい。
そう彼に言われたら、きっと。
(頷く)
思わず頷くような相手と言われても、咄嗟に頭にそれしか浮かばなかったのは、流石に可笑しいと気付いてはいる。
*
「なぁ、斎」
彼の声で意識が現実に戻る。
「へ? あ、あぁ、どうかしたか?」
(眠ってたみたいだな)
睡眠状態にあったのではないが、頭が働いていなかったという意味では脳はスリープ状態だったのだろう。
「なんか最近、ぼーっとしてっけど……あ、もしかして、恋煩いか?」
「違うよ」
恋なんて、と斎は首を横に振る。後ろから、陽介はじっとこちらに櫨色の目を傾けていた。
「ま、いっか。とにかく、今日の放課後の話でも」
「今日は、一緒に帰ろう」
「え?」
手首を掴むと、陽介は瞬きした。
「この前、帰れなかっただろう? それとも、今日も忙しい?」
「いや、そういうんじゃねぇけど」
最近、陽介が良く女の子といると聞いている。彼の発言からすれば、それは、情報収集のような意味合いが強いのだろう。元々、陽介は誰とでも打ち解けやすい。クラスではムードメーカーだし、男女問わず、親しげにしている。本当は、彼だって表面に出てこないだけでモテているのだ。そういう子は、今みたいに、自分の恋愛には興味なく、自然と話せる機会を喜んでいたりしないだろうか。そして女子だけかと思えば、昨日は一条、長瀬といたと言うのだ。友達と過ごすというのなら、どうして自分ではないのかと、変な感情に囚われる。
(用事って言うのは、里中とだったのかも知れない)
その時に聞けば良かった。今更聞けもしないことで悩んでいる。
「放課後は貴重な気ぃするし」
「貴重な時間を俺には割けない?」
言ってから、ハッとした。案の定、陽介は不思議そうに瞳を丸くしている。そして少しだけ眉を下げた。
「斎、なんか、怒ってる?」
「あ……、いや、そういう訳じゃ……ないんだ」
「良くわかんねぇけど、ただでさえ俺とは昼休みも一緒にいんだしさ、恋人作るってんなら、放課後とか積極的に絆を深めた方がって。だから、貴重だろ?」
彼のその優しさは、自分に向けられるべきだと思うのだ。好意から手伝おうとしてくれていることは知っている。なればこそ尚更、斎の『恋人作り』などに奔走するのではなくて。
(『そう』じゃなく)
ただ、もっと、こっちを見て欲しい。
「ええと、あの、斎?」
「今日は休みにしようと思う」
見ていられなくなって視線を逸らした。
「女子ばっかで気疲れでもしたのか?」
「そんなところ」
「んじゃ、息抜きにジュネスでも来るか? なんか奢ってやるよ」
「ありがとう」
女の子とで疲れたというのは偽りではないけれど、真実でもない。そんな自分に、陽介に労われるだけの価値はあるのだろうかと思う。薄っぺらい感謝の言葉を口から出して、濁っていることを自覚した。
「あぁ、でも、奢るってのはなしで良いよ。里中、とかに奢ったりして、お金ないんだろ?」
この前も奢ったと言っていたし。
「里中はなんで俺に集るんだろうな!」
「あらぁ、バイクなんてうっかり買っちゃって、事故起こさないようにって前に言ったと思うけど」
陽介の背後で、千枝がにこりと笑っていた。
「それはもういいだろーが!」
「癖になっちゃってるから。また肉奢ってね、花村」
「ったく……明日な、あ、し、た」
「やたっ! おにくおにっく」
「奢るのか?」
どうしてと純粋に思った。
「もう慣れてっから」
二人は斎が来る前からのクラスメイトで、仲が良い。男女だけれど、性差を感じさせない情を感じる。千枝が横暴なことを言うのは、陽介にだけなのだ。この前帰ったときだって、千枝は奢ってなんて一言も言わなかった。
「陽介、今日は俺が奢るよ」
「えっ、それじゃ意味ねーだろ」
陽介といようと思ったことが斎にとっての意義なので、奢られる必要はない。寧ろ、そんなことをさせられないと思った。
「里中も。明日、俺がステーキ奢るから、それで良いだろ」
「えっ、リーダーが? それは、なんかちょっと悪いかなーって気が」
「里中ぁ……! どういう意味だ、そりゃ!」
やはり違うのだな、と思う。陽介が拳を握り締めると、ほらまぁ花村は特別ってことで、と言って、千枝はアハハと笑った。
「とにかく今のは、リーダー命令だから」
千枝にとっての陽介も『特別』なのだ。意味合いは色々と違っても、そういうことはある。
(濁ってる)
心の波が、水底を見せてくれない。
*
(気持ち良い――)
屋上は寒いのに、仰向けに寝転んで冷たい風を受けていることが、どこか心地良かった。右手を額に当てて、目を閉じる。ホットコーヒーの缶が頬に触れているので、そこだけ仄温かいのも、心地良いことの要因かも知れない。こうしていると、何も考えずに済む気がした。
恋愛に興味がないのではない。恋人だって欲しいと思わないこともないのだ。焦っていなかったというのは確かにあるし、陽介が自分の為にあれこれとしてくれるのは、純粋に嬉しかった。陽介は優しい。転校したての頃から親しくしてくれたし、一緒に昼食を食べようと誘ってくれたのも陽介だ。だから、毎日そうしている。例外なんて必要だと思ったことはなかった。
陽介との繋がりの他に、人との橋渡しもしてくれる。困ったらふと陽介の顔が浮かぶのも、その為だ。ここ一週間ほどのことも同じ、彼にとっての好意から来た行動だとは分かっている。最初は、有難いなと思った。恋人が出来れば生活は楽しくなるらしいということは情報として知っているし、それも良いかも知れないな、と。けれど今は、段々と濁ってきている。陽介がそうやって尽力してくれるのは、斎に恋人が出来るようにする為に他ならないのだと思う度に、感情が沈んでいく。彼自身が言っているように、友人よりも特別な、優先すべき存在を作るということ。それを望まれるというのは、些か以上に複雑なことだった。そんな単純なこと、見ない振りをしていたのだ。最初に言われたときから知っていた。
特別だ、と言ったのに。
陽介のその優しさも、真っ直ぐな眼差しも、明るい微笑みも、全部、自分に向けられるはずなのに。受け取って良いはずなのに。ふと思って歯噛みした。
――いっそ、彼が。
無駄な思考が始まりそうだったので、斎は首を振った。弾みでコーヒー缶が倒れる。タブを開けていなくて良かったと思いながら、斎は起き上がって缶コーヒーを手に持った。今更、寒さを感じる。今日も陽介は誰かと帰れば良いと言って、バイトがあるからとさっさと帰ってしまった。その言葉に乗る気が起こらず、面倒になって屋上に来てみたところ、たまたま人もいなくて丁度良かったのだ。ぼんやりと下に目を向けると、陽介が見えた。明るい色の髪と斜め掛けの鞄が特徴的で、上から見ても直ぐに分かる。彼が手を上げたので注視してみると、その先には女の子が数人いた。話し掛けながら、そのまま歩いて行く。心の中には墨が落とされたように、黒い波紋が浮かんで消えていた。
(陽介)
どこにも行かないで欲しいと思った。斎にさよならと手を振って、誰かと歩いて行ってしまう。こんな、些細な光景にうんざりしてしまうくらい、花村陽介に入れ込んでしまっている。どんな理由もいらない。傍にいて、笑っていてくれないなら、意味がない。たった一人、特別でありたい。
(好きだ)
自覚した瞬間に、心を埋めていた濁りは消えてしまった。
(ちょっとくらいは、傷付いて欲しかった――)
友達としてでも良いから、特別だと言ってくれた斎に、他に特別な人が出来てしまうということを、淋しく思って欲しかった。きっと、無意識の内に、そうやって傷付けと願いながら、彼の言うように誰かと過ごしていたのだろう。想像以上に碌でなしだ。可愛い女の子の恋人なんて、出来なくて良かったと思う。誰も傷付けずに済んだのは、今となっては幸いなことだ。
*
いつも通り、昼休みに昼食を持参して屋上に上る。
「昨日さ、帰りに聞いたんだけど」
「陽介、もう、良いよ」
「へ?」
渡した弁当の包みを解くと、陽介はこちらを見た。
「もう、そういうのは止めようと思う」
静かにそう言って、陽介に渡されたあんぱんを口に運んだ。
「なんで?」
「好きな人が出来たんだ」
正確に言えば、気付いたのが昨日であったというだけで、『出来た』という表現は些か正しくない気もするが、瑣末な問題だろう。好きな相手に、好きな人がというのも気不味くて、思わず目を逸らしてしまった。
「そっか。誰? 今まで俺が調べてた子?」
陽介はにこにこと笑っていた。
「いや。陽介がピックアップしていた中にはいない」
「うーんそっか。俺もまだまだ、役に立ててなかったかぁ……」
笑っていたと思えば急にしゅんとなってしまった頭を、つい撫でてしまった。顔を上げた陽介は、こちらを見て瞬きを繰り返す。
「そんなことはない。陽介の心遣いには感謝している」
笑うと、陽介の瞳が明るくなった。
(やっぱり)
微笑んでいる姿を見ているのが好きだと思いながら、どこかでずっと、傷付けと願っている。自分の為に欠片でも良いから傷付いて欲しい。嫌だと思って欲しい。
(俺は嫌なんだよ)
陽介に好きな人がいるなんて、知りたくなかった。他の誰かを一番だと思うなんてこと、耐えられない。
「んで、誰なんだよ。勿論、こっから先も、応援するぜ?」
「いや、それは良いんだ」
「なんで!」
思わず立ち上がった陽介に、下から視線を傾ける。この眼差しの意味に、どうして気付いてくれないのだろうかと思いながら、ゆっくりと、首を横に振った。
「こういうことは、人に頼るべきではないから、かな」
「――かっけぇの」
格好良い訳ではない。今だって、自分のことで陽介が少しでも傷付いてくれれば良いのにとか、そんなことばかり思っている。思っているけれど、彼にそう思って貰えるのは嬉しかった。陽介に好きだと思って貰えるような、善い人間になりたい。傷付いて欲しいなどと、思っても仕方がないのだ。
陽介に好きな人がいるとしても、本気で好きになったのなら、他の誰も関係がない。そして、本気で――落としたいのなら、独力ででもやるべきだ。
「だから、その……リサーチとか、いらない。寧ろ止めて欲しいんだけど」
そういう名目で女の子が陽介の傍に寄るのを見ているのは堪らない。独力でとは言うが、自分の招いてしまった危難を取り除く為の言葉くらいは許されるだろう。
「! もしかして、迷惑……だったのか?」
「違うって。だから、陽介の心遣いには本当に感謝してるんだ。そこは誤解しないで欲しい。たださ、自分だけでって言っただろ?」
「でも」
「その方がカッコイイ、んだろ? 今、そう言ってくれた」
そういう自分なら、好きだと言ってくれるだろうか。
(陽介はどういう子が好みなんだろうな? 男はやっぱり、範疇外か……まぁでも、嫌だ嫌だと言う方が、案外あっさり落ちるかも知れない)
じっと見詰めていると、陽介は溜息を吐いて「分かった」と頷いた。
「なぁ、斎。相棒に、最後に一個だけ、アドバイスしてもいいか?」
何だか大仰に考えられてしまっているようで、若干戸惑った。アドバイス、とか、相談する、とか、そういう名目でこれからも誘い出す方が良かっただろうかと思う。取り敢えず、陽介の最後(と本人的には思っている)のアドバイスが何か気になったので、うんと頷いておいた。
「良いよ。何?」
「目」
め、と斎は繰り返して首を捻る。
「お前の目って、すっげぇ力強いって思うんだ。だから、告白するときは――相手の目を見て、逸らさない。お前はそれだけで、十分、戦えると思う。そしたらさ、きっと、上手くいくから」
(俺の目が好きなのか?)
「……覚えておくよ」
これは、良いことを聞いた。
「この弁当食えんのも最後かー、残念だな」
(ん? 最後?)
「何で?」
「まっさかお前、お昼は今のままとか思ってねぇよな? 当然、好きな子誘うよな?」
首を傾げると、陽介は箸を鼻先に突き付けた。
「あ、あぁ、そういう」
この場合、どう言うべきなのだろうか。
(もしかして、黙ってると、明日からは別の奴と)
「ったく、しっかりしろよ、センセー。俺なら、前に誘ってくれたヤツもいるからへーきだし」
どくんと胸が鳴った。底が見えた、と思ったはずの水の中に、また、黒い闇が垂れてくる。
「平……気」
「ん? なに?」
何だろうこれは。どこかが悲鳴を上げている。心臓が? 脳が?
「痛い」
譫言のように口を吐いて出た。
陽介は悪くない。一人で昼食を摂ることを斎が心配に思うだろうから、大丈夫だと言ってくれただけ。誘っていたクラスメイトの姿も見た。以前に、長瀬と一条と食べていたという話も聞いたことがある。平気なんだ。
「痛い? え、なにが? 目にゴミでも入った?」
答えられずに、斉はあんぱんを飲み込んだ。