激昂とも悲嘆ともいずれとも知れない感情で空を仰いでいた。霧が掛かっていて、青い空も拝めない。好きだと思っていた先輩、小西早紀がこの空の下に死に、その事実を受け入れることが出来たと思っていた――それが、生田目を前にして、平生を保てなかったのは何故か。陽介は、自分でも良く分からないでいる。冷静な彼の声がなければ、どこか、獣道を歩いていたのかも知れない。
「もう、ホント、恋とか――」
空に向かって手を伸ばした。その先に彼女の幻影があるのだと思っていたが、既に陽介の目にも見えなくなってしまっていた。最早、好きだったのかどうかも分からない何かに囚われてしまっている。そんな感情に翻弄されるくらいならばいっそ、と思った。甘いものなんてもう、何もいらない。
「そうやって諦めるな」
急に腕が伸びてきたと思うと、背後から身体を抱え込まれた。抱き締められているような状況に、戸惑いで頭が軽く混乱する。
「小西先輩のことは、単純に消化出来ることじゃないんだ」
「でも、俺は、間違えるところだった……」
人として。
「お前は、間違っていない」
「なんで……そんな風に言えんだよ。生田目、犯人じゃなかったんだから」
「間違っていない」
言葉は強く心臓に響く。
「だから、もう恋とか要らない、なんて言うな。思うな」
「……相棒……」
「そうやって決め付けるな。逃げるな。誰もそんなこと望まないんだから」
難ならまた胸を貸すぞ、と斎は微かに笑った。
「そ、っか……そう、だよな。逃げ、か」
「辛ければ逃避するのも手段ではあるが、陽介はもう克服出来ていると思う」
斉の言葉は冷えた身体に染み込んだ。ありがとうとすら言えずに黙っている陽介の背を、斉は静かに撫でてくれていた。その手の温かさだけが、まるでこの世界の全てであるみたいに。そして、心の隙間を埋めるように、白雪だけが降っている。
それから禍津稲羽市で、真犯人の足立透を追い詰めた時、あれほどに生田目には感じていた憎しみは陽介の中からさっと消え失せていた。感情は凪いで、ただ、許されざる犯罪者として、足立は裁かれるべきだと冷静に思った。足立が、早紀に迫ったと聞いても、もう判断力を失うことはなかった。喪失が先に訪れた陽介の恋の終焉が結局どこにあったのか、定めることは可能ではない。もしかしたら、生田目に復讐したいと望んでいたあの時まで、恋が胸の内に残っていたのかも知れないとすら思う。
(でも、今は違う)
「陽介、小西先輩の敵討ちが出来て良かったな」
足立もアメノサギリも倒して見えた、晴れた空の下。斎は振り返り、微かに笑みを浮かべる。
「も、それはいいんだって」
「だろうな。表情を見れば分かる」
代わりに胸に芽生えていたのは、強い罪悪感を伴う新しい感情だった。
*
信頼関係破壊理論。パソコンで適当にググった時に見付けた言葉だったが、今の陽介にはそれがぴったりと当たっているような気がした。斎怜一は快い友人だ。陽介は彼を特別だと思っているし、実際、親友・相棒と呼ぶべき間柄である。斎本人が、陽介は八十稲羽で最も親しい人間だと語ってくれたこともあった。今までずっとそうやって過ごしてきた。
(これからもそうやって過ごしてけばいいって話で)
ベッドに寝転がって溜息を零す。もうあと十分もすれば、クマが部屋に戻ってきて、陽介のセンチメンタルな気分をぶち壊しにするだろう。考えたくないという意味では都合が良いが、今後を考えねばならないという意味では、あの同居人の存在は厄介なことこの上ない。
まさか、一番の親友に恋心を抱いてしまうなど、笑い事ではなかった。
完二を揶揄わなければ良かった、と今更思う。彼は多分、そういうケはないのだろうが。そして陽介にもそういうことは有り得ないと思っていたし、今、自分の感情と対面して、盛大に困っていた。斎にもそういうケはやはりないだろう。様々な女の子たちと親しくしているし、恋人こそいないが、その気になれば幾らでも作れるはずだ。わざわざ、男を相手にする必要もない。
(りせはもう今更にしても、天城も気にしてるっぽいよな。里中もアリだろうし。直斗は、わかんねーけど……そういや、バスケ部のマネやってる海老原さんとか、それから演劇部の部長さん、夜の病院バイトでは美人看護師だっけ?)
彼から聞いた交友関係を見てみれば、恋人候補となりそうな女子は正によりどりみどりだ。流石は自分の相棒、などと感心してしまうほどである。
(恋人、作んねぇのかな)
ぽつんと思った。付き合っているという話は聞いたことがない。隠し立てすることでもないし、もしも恋人がいるならばそうと言ってくれるだろうとは思っていた。それに、恋人がいるのならば、昼食や放課後に陽介といるはずがないだろう。小西早紀のことを引き摺っていたということもあって、余り彼とは本気で恋愛の話はしたことがなかったが、一切の興味がないという訳でもなさそうだ。ただ、捜査もバイトも学業もあって忙しいからとかそういうことを前に聞いたような気もする。
(もう忙しいってこともねぇし)
可愛い女の子が告白したりしたら、簡単に恋人を作ってしまうのかも知れない。どうせなら、可愛い子かとびきりの美人が良いな、と思った。それこそ雪子やりせ、可愛らしい格好をすれば直斗でも悪くはない。千枝は、まぁ、保留で。そうやって可愛い彼女と斉が並ぶ姿を浮かべて見ても、不思議と陽介の胸は痛まなかった。寧ろ、好もしいとすら思う。良かったな、相棒。そう素直に言えるような気がした。
そもそも上手く行くはずのない恋だ。そしてイケメンでモテモテの斉に彼に似合いの恋人が出来るのは道理。無駄に思慕を募らせるよりもいっそそれならば、恋人が出来てくれた方が手っ取り早い。そう、彼に恋人が出来れば良い。
「恋人を作ってくれりゃいいのか」
陽介はむくりと起き上がると、拳を握った。妙な話だが、ナイスアイディアだと思ったのだ。斎に恋人が出来る。普通ならば、想いを寄せる相手に恋人が出来て欲しいとは思わないし、嫉妬するだろう。しかしそれは、自分に好意が向けられるかも知れない、という仮定的で身勝手な期待があるからこそ生じるのだ。自分がその地位にありたいと思うから。陽介は、自分の恋が実らないことを理解している。自分は男で、彼も男だ。そういう性癖を否定することはないが、マイノリティであることは間違いない。斎がそうでないことは前述の通り、身近にいて知っているし、実際、陽介自身も彼以外とだったら考えられないくらいだ。上手く行くはずがない。行かなくて良いのだ。進んでマイノリティになどなるべきではない。道を外れる必要もない。斎はそうして、幸せになるべきなのだから。素晴らしい親友が幸せになってくれれば、それほどの幸福はないだろう。彼が幸せであれば、いつかは陽介も別の恋を得る機会に恵まれるのではないか、という期待すら生まれる。恋が永遠だなんて、夢物語、幻想だ。そうではなくなっても、陽介にとって彼が特別であるなら、それは寧ろ恋愛より尊いとすら言えよう。
そう、即ち、結論を言えば、斎に恋人が出来れば良いのだ。祝福出来るという自信がある。斎はどんなポジショニングにあっても『特別』であるし、迂闊にも恋人になりたいと願ってしまうような感情を抱えても、やはり変わらない。もしも死ぬまで恋を引き摺ったとしても、後悔はないと思う。斎は誰よりも陽介にとって特別だ。そんな相手を想っていられることを誇ることが出来るだろう。
今の斎は恋愛に積極的ではない。しかし事件も解決したし、忙しくもなくなって、意欲も出てきたかも知れない。もしかしたら、親しい女子の中から気になる相手も出来ているかも知れないだろう。そうでなくとも、まだ八十稲羽からいなくなるまでには時間があるし、女の子からの黄色い声援も止んでいないのだから、背中を押しさえすれば何とかなるような気がした。その辺りは自分がサポートすれば良い話だ。これでも女子にだって顔は効く。恋人にはともかく、話し易い相手としての地位を築いていることが功を奏していると思われた。
(なんかマゾっぽい気もすっけど)
好きな相手に恋人が出来るように支援するとは、可笑しな話だ。けれど、嫌だとは思わない。寧ろ彼の手助けが出来るのならば喜ばしいくらいだと思う。頼りにしてばかりの相棒に、恩返しするという意味でも、この作戦は悪くない。若干マゾヒストっぽい気はするが、許容範囲だと自分では思っておけば万事解決だ。
そうと決まれば、と陽介は机に投げてあった携帯を掴んだ。
「とりあえず、手堅そうなトコから」
いつもは『あ、里中? 今日のパンツ何色ーなんちゃって』程度から会話を始めるが、流石に今は控えておくべきだろう。機嫌が悪いと一発で切られてしまうのだ。コール音が数度、目当ての相手は直ぐに電話口に出てくれた。
「あ、里中? オレオレ。は? 詐欺じゃねーっての」
*
斎は実にマメだ。昼に弁当を用意するというその考え自体、見習うべきものがあるだろうと常から思っているが、生憎と普通の男子高生である為、陽介にはそんな物を手作りするような意識は芽生えない。そして母親も多忙で、結局は購買でパンを買って終わりになってしまう。
「夕食が余るから丁度良いだけだけどな」
「でも、お前の弁当うまいから、俺的にはうれしーんだけど」
「陽介が喜んでくれるから、作り甲斐があるのかも知れない」
全部食べて良い、と斉からは弁当箱が差し出された。余りだと言うくらいだし、中身が夕食と同じだからかも知れない。今日の弁当は肉じゃがだった。
「で、話って何だ? まさか、弁当が食べたかっただけとかじゃないだろ」
「そっちも目当てだったりして」
「それは有難う」
わざわざ昼の時間を狙った理由の一つはそこにもある。元々、用事がなければ二人で食べているので誘い易い。もう一つは、屋上でいつも二人というシチュエーションなので邪魔が入りにくいというところだろう。
「事件も解決しただろ? んで、もうすぐクリスマスだ」
「もうすぐってほどでもない気がするが」
「二週三週なんざあっという間だっつの。で、寂しい独り身の相棒も、恋人の一人や二人、作ったらどうなんじゃねぇのって」
これは昨日考えたことだ。これまでに、彼と恋愛の話は余りしたことがない。それがいきなり、恋人を作らないか、では流石に不自然だろう。別に不自然でも構うことはないのだろうが、尤もらしい理由があればあるだけ、事が円滑に進む筈だ。幸いにして、陽介はイベントが好きなタイプだろう、と斎にも指摘されたことがある。
「陽介こそ、恋人が欲しいんじゃないのか?」
「ガッカリ王子にその発言はイテーだろ。俺はお前と違ってモテないっつの」
「そんなことないだろ。陽介って変なところで鈍いよな」
何言ってんだか、と肩を上げて、卵焼きを口に運んだ。甘い卵焼きはいつ食べても美味しい。
「まぁ、どちらでも良いけど……だとして、陽介がどうして俺にそう言うんだ?」
「――この前、小西先輩のことがあって、もう恋とかって言ったときにさ、逃げるなって言ってくれただろ」
これも使えると思って、昨夜、考えておいた言葉だ。けれど、いざとなると、素直に心情を吐露するだけになってしまう。
「恋とかもそうだけど、逃げねぇよ、俺はもう。なんでも。そう思ったらさ、お前はどうなんだろうなーって思ったんだよ。ここじゃ恋人作る気ねぇとか?」
「いや、そういう信条はない」
「だったら、前向きに検討してみよーぜってこと! で、相棒の為に俺が幾つか情報を仕入れてきた」
陽介はズボンのポケットからメモ帳を取り出した。
「好感度チェックーつっても、仲間内だけなんだけど。里中と天城は意外と低めだなー、りせはもうマックスと見せかけて、まだ6割って気ぃする。直斗は未知数ってか、話してても食えねぇから難しかったぜ……感触は悪くなかったんだけど」
「なんだ、それ」
「へ? だから、相棒の好感度を数値化まではできねぇけど、調べてみました」
昨晩、千枝から始まり、雪子(電話番号はごくごく最近にようやく手に入れられた)、りせ、直斗と電話を掛けてみたのだ。最初は他愛もない話に始まり、さり気なく斎の話を出す。日頃、相棒と呼び合っている相手だ、陽介の口から出ても全くと言っていいほどに違和感がない。声が弾んでいるとかいないとか、質問を織り交ぜつつ、彼女たちとの距離を測ったのである。
「リサーチっつかさ、こーゆーのは、結構得意なんだぜ?」
片目を瞑ると、斎は瞬きした。
「やる気……だな」
「おう! んで、特捜隊の女子陣とはあんまり距離近くねぇみたいだから、一緒に帰ったりとかすんのはどーよ。里中とかだったら、だいったい俺がバイトないときに見るし、天城は週末以外は空いてるみたいだぜ? りせは、逆に週末なんかのが暇げ。直斗は基本、することないみてぇだな。誘えばオッケだろ」
こう見えて、周囲は観察している。誰がいつ空いているとかは、それなりに把握していた。だからと言って、彼女らに声を掛けるようなことはしない。恐らく待っている相手なんて、斎くらいなのだろうと思っていたからだ。
「昼も、俺に弁当ばっかじゃなくて――って貰っといて言うのも難だけど……や、お前の弁当マジうめーからつい……とにかく、女の子とか誘ったりすればさ」
斎はじっとこちらを見た。
「陽介は、俺と食べるのでは不満なのか?」
「は? なんで?」
「そういうことだろう?」
「んなワケねーじゃん!」
寧ろ、本当は二人でのんびり屋上で食べていられる時間が好きだった。でも、と思う。
「毎日一緒に食べていたのが、急に誰かとって言われたら」
「違うっての! お前の弁当好きだし、食えんのうれしいって」
「だったら変える必要ないだろ」
「それは……」
「嫌なら止めるけど」
そんな風に言われたら、自分が間違っているように思えてくる。陽介はふるふると首を振ったが、斎は納得したような表情は見せてくれなかった。
(妙なところで頑固なんだよな)
嫌がっているなどと思われるのは我慢ならない。好きだと言いたい訳でもないし、知られるつもりもない。まして好かれようとも思わない。けれども、陽介は彼を想っている。これは決して、拒絶などではないのだ。
(お昼に一緒にいるくらいなら……いーかな)
そうやって譲歩するからいけないのだ、と自分の心の内が責め立てたような気がしたが、陽介は首を振った。
「えっと、じゃあ……、昼は報告会ってか作戦会議ってことにする、か。人もこねーし」
そしてそういう名目があれば、傍にいることも許されるのではないか、と少しだけ思った。思って、それを打ち消す。そういうことを考えていては、きっと支障が生じる。恋人が出来れば、こうやって昼食を共にすることがなくなっても不思議はないのだ。それを望むのは、陽介なのだから。
「あ! お代ってことで弁当食いたいなーとか」
「お代はともかく、弁当のことなら構わない。明日も作ってくる」
「やっりぃ! やっぱさ、お前の弁当、好きなんだよなー」
つい手を叩いて喜んでしまった。
「陽介は」
「ん? なに?」
斎はもうサンドイッチを食べ終えていた。ゴミをくしゃくしゃと丸めながら、じっとこちらを見ている。
「いつも俺に優しいよな」
「……へ? お前が俺に、じゃなくて?」
「自覚がないなら別にそれでも構わないけど」
陽介が首を傾げていると、斎は手を合わせて「ご馳走様」と言った。
「放課後な。今日なら、誰が空いてるんだって?」
「ん、っと……月曜だから、天城越えしてみろよ」
ありがとう、と斎は笑った。
(よかった……、役に立ててんだよな)
信頼関係の破壊。そう思うことの方が、胸が痛む。相棒で親友だと言ってくれる相手に対して申し訳ない気持ちの方が強いのだ。恋人になりたいなどとは、だから望まない。それよりも、彼に信頼される相手でいたかった。ひっそりと想うことだけ許して欲しいという、それだけ。
*
雪子が斎と帰った為か、千枝が暇そうにしていたのを放課後の教室で発見した。情報収集に良さそうだと陽介がそろりと後ろから近付くと、気付かれてしまったらしく、千枝が振り返ってじろっと睨んだ。
「暇?」
千枝の隣席でもあるので、斎の椅子を勝手に借りて座った。千枝は不満そうな顔のままだ。
「……そこそこ。つかアンタの昨日のアレ、なんだったの」
「なにって、別に。あー、雑談?」
「そういうのはリーダーとでもやってよ」
「里中サン、つめてぇなぁ」
「くだらないこと言うな。あのさ、斎くん、どうかしたの?」
「なにが?」
昨日も今日も特に変わった様子はないし、昼も普通だった。陽介が首を傾げると、千枝は軽く目を逸らす。
「今日、雪子と帰ってたし……」
「気になるんだ?」
もしかしたら、雪子と斎の関係性を気にしているのではないかと思ってじっと千枝を見ると、彼女は目を逸らしたまま頬杖をついて「別に」と素っ気なく呟いた。
「美男美女だもんなぁ……絵になるっつの?」
贔屓目を抜いたとしても、陽介の相棒は整った顔立ちをしている。天城越えは言う間でもない。誰と上手くいけばとかそういうことはないが、雪子とならば、見目麗しく、これなら恋人でも仕方ないと思わせてくれるのではないかと思った。
「里中、気になる?」
ニヤ、と笑うと、千枝が机を両手で叩いた。乾いた音が響いて、周囲のクラスメイトの目がこちらに向く。
「ばッ! なによ、それ!」
(反応は悪くねぇかな)
素直になってくれないのはマイナスかも知れないが、気になっているのは事実だろう。ただ、もしかすると、彼女の場合は、盗られたのが親友の方だ、と感じているのかも知れない。その辺りは少し読めない。余り突っ込んで聞くと警戒され兼ねないし、今日の辺りはここらで引いた方が良さそうだ。
「あ、そだ。里中さ、斎と親しい女の子、とか知ってる?」
「はぁ? アンタが知らない斎くんのこと、私が知ってるわけないじゃない」
千枝は怠そうに机に突っ伏した。
(天城の方が勝ちっぽいな……)
昨日電話した感じでも、女の子に人気はあるし、特別捜査隊の女子陣からも好かれていることは好かれているが、親しさが不足している感は否めなかった。とすれば、今は千枝にとって雪子が優位でも、本当に気になっていたのは斎であった、という擦り替えが後に行われる可能性もあるだろう。今後の斎次第である。少なくとも陽介よりは余程、脈があるのだ。
「誰でもいいんだけど、しらねーの?」
「えー……? あ、なんかさ、一条くんが、海老原さんと親しいみたいに言ってたような」
「海老原さん? あぁ、マネージャーなんだっけか」
一条から少しだけ話を聞いたことがある。海老原あいのことは陽介も知っているし、校内でも有名な美人であるということも知っているのだが、些か性格がキツそうなので、近付いたことはない。陽介の好みは、雪子のようなおっとりした美人や、りせのような可愛いアイドル系なのだ。好みは好みとして、未だにそう、残っている。
(だからって、今、そーいう子が出てきてもなー……)
りせや雪子のような可愛い子が、付き合って欲しいと言ったとしても、陽介はうんと頷かないだろう。
(じゃあ、斎はどうなんだ?)
彼の好みは聞いたことがない。雪子と千枝を以前に聞いたときは、好みとしてはどちらも否と答えていたが、りせや直斗だったらどうだろうか。思わず頷いてしまうような可愛い子に、告白されたことはなかったのだろうか。
「他は?」
「知らないわよ」
「海老原さんと、演劇部の部長の小沢さんだっけか? やっぱ校内だとあと、そんくらいか」
誰にでも顔が効くようだし、交友関係も広いようではあるが、今から恋人になるような間柄まで持っていける相手は、そうそう多くないだろう。
「ちょっと聞いてもいい? アンタ、なにしてんの?」
「なんでもねぇって」
不特定多数の女子を狙うのは、気が進まない。数打てば当たるかも知れないが、それなら今までに恋人なんて幾らでも作れたはずだ。斎は誰でも良いから恋人が欲しいとは思っていない。親しい子が出来て、その子と、と、そういう関係がやはり望ましいのだ。陽介は真剣に相棒の幸せを願っている。それならば尚更、相手として、誰でも良いとは言えない。その点、特別捜査隊の女子はレベルが高いし、皆、気が良いことを知っている。つまり、陽介的には一番オススメなのだ。他にも、海老原は外見がキツそうだと言ったときに、一条が「でも結構優しい」とフォローしてくれたことを鑑みると、それなりに良さそうだと思うし、演劇部の部長が真面目な人だという話は聞いたことがある。彼と親しいなら、その二人も悪い相手ではなさそうだと思うのだ。
「……なんでもいいんだよ。そーだ、里中、暇してんならジュネスで奢ってやっからさ」
深く突っ込んで聞かれると困るので、封じ込めるように言うと、お肉大好きの千枝は簡単に釣れた。
「やった! スッテーキスッテーキ」
「おまえ、ホント、肉しかねーのな……」
「なによー、ジュネスのステーキでも我慢してあげるって言ってんだから」
「奢られるのに上から目線になるのはなんでだよ」
「気にしない気にしない」
千枝はぴょこんと立ち上がると、リュックサックを背負った。陽介も倣って、後ろの机を引っ張り寄せる。
「雪子たち、なに話してるんだろ」
「さぁ? お悩み相談とかじゃね? どうしたら料理が上手くなるかなーとか」
「どういう意味よ……」
手作り弁当の望めなそうな二人組ならば至極有り得そうな相談事だと思ったが、千枝にギロリと睨まれてしまった。
「手作り弁当とか作ってあげたい! とかってなんねーの、里中はさぁ」
「はぁ? な、なんでアンタなんかに!」
「いや別に俺にじゃなくっても」
「誰に作るのよ」
(やっぱり脈あんまりないかも)
真剣に首を傾げた千枝に、陽介は苦笑いしか出て来なかった。
*
斎が用意した弁当は焼魚だった。夕食に魚を焼き過ぎるということもなかろうから、恐らくは弁当用なのだろう。今日は弁当らしく焼き鮭だったが、焼魚の類は好きだと陽介が前に言ったことを、もしかしたら覚えているのかも知れない。好みはきちんと把握している人だ。
「んで、昨日はどうだったんだ?」
「どうと言われても。天城は里中の話ばかりするな、と感心したね」
至極真面目な顔をして言うので、思わず笑ってしまった。そう言われてみれば、千枝も雪子の話題ばかりだったような気がする。
「ははっ、仲いいよな、マジで。相棒は対抗して、俺の話題でも出すしかなかったり?」
「対抗はしてないけど、結果的にはそうだったな」
「なにそれ、ウケる! お前らなにやってんだよ!」
美男美女が揃って帰り道に、お互いの友人のことを切々と語る姿が目に浮かんで、思わず笑ってしまった。実際はそのような状況でないだろうことは容易に理解出来るのだが。
「ま、里中は相変わらず肉々しかったしな」
今日も甘い卵焼きを口に運んで、陽介は箸を軽く振った。昨日のジュネスでは、やはりステーキを奢らされたのだ。千枝にも、雪子のような慎みの深さが必要なのではないだろうか。
「……陽介は里中と一緒だったのか」
「天城取られて暇そうだったんで」
「悪いことしたな」
「バッカ、女の友情なんて、男に負けるもんだっつの」
「どうだろう。陽介は?」
斎は焼きそばパンを食べる手を止めて、じっと陽介の瞳を覗き込んだ。近いな、と思ったが、斎は割と距離がない。とっくに慣れてしまっているし、好きだと自覚した今ですら、その近さを普通だと思う。ただ、綺麗な銀色の目をしているのだな、とだけ思った。思って、尋ねられたことを反芻する。
「は? え? 俺?」
雪子と千枝の話ではなかったのだろうか。
「この前、もう逃げないって言ったよな。彼女が出来たら、そっち優先?」
「――できねぇよ」
「矛盾してる」
(あぁそうだ)
でも、嘘を吐くだけの演技力も生憎陽介は持ち合わせていない。演劇部の斎ならば、と少しだけ思う。斎の嘘なら陽介は何でも見抜けるような気はするし、けれど演技には騙されてしまうのではないだろうか。
「んじゃ、できてもお前優先するって言って欲しいとか?」
話題を変えようと思って笑うと、斎はぱちりと瞬きをして、しかしにこりと微笑んだ。
「それは、嬉しい限り」
陽介は少し考えた。雪子と、千枝を思い浮かべる。
「さっきの訂正するわ。女の友情なんてーっての。失礼だった。別に、ワリィ意味じゃなかったんだけど」
「陽介は真面目だな。分かってる、別に」
斎はいつも食べるのが早い。気付くと、手元からパンがなくなっているのだ。見ていない内に食べているようで、ブラックホールみたいな胃だな、と思う。
友情なんて、恋に勝ることはない。そのことに男女差もないだろう。それを知って敢えて、彼をけしかけるのだ。先程はあんな風に言ったし、斎も嬉しいとは言ってくれたが、陽介はそんな言葉を求めていない。それは、恋の成就と同義だと思っている。恋に勝る価値などないし、恐らく、あってはならないのだ。
(んなこと、分かってる)
優先順位は一番ではない。特別でもそうでなくても、親友でも、相棒でも。今だってどうかなんて分からないのに、確実に『そう』ではなくなるのだ。それが自分にとって決してプラスでないとしても、陽介の心は決まっている。揺らがない。いずれ、いつか、と引き伸ばすだけ余計な傷を負うのならば早い方が良い、というのも本音だった。
「それよか、今日は里中と帰んのはどうだ?」
「そうしてみる」
「天城の話ばっかだったりして」
人差し指を立てて笑うと、有り得ないでもない、と斎が頷く。
「そうするとこっちは、陽介の話しかない」
「なにバカ言ってんだよ。そんなんで、フラグ立つかっつの」
*
(あ、斎と里中――)
教室の窓から校門の方を見ていると、二人が並んで歩いているのが見えた。昼に言った通り、千枝と帰っているのだな、と陽介は頬に手を当てて思う。斎は美形だが、千枝も顔は可愛らしい。雪子とは違い、人が羨む美男美女、とはならないだろうが、恋人になれば祝福して貰えそうな雰囲気が感じられないでもない。口より先に足が出るとか女らしくないとは思ったりもするが、陽介も何だかんだで千枝のことは良い奴だとは思っている。千枝と斎が、でも、嫌な気はしなかった。
「千枝、帰っちゃったんだ……」
後ろからぽつりと聞こえたので振り返ると、雪子が淋しそうに窓の向こうを見ていた。
「昨日は天城が一緒だったじゃん」
「え? あれは、斎くんが、相談したいことがあるからって」
それは陽介がアドバイスした誘い文句だった。今まで、二人で帰るようなシチュエーションがなかったのに急に誘うのもどうだろうか、と斎に言われたので、不自然でないように考えたのだ。相談事なんて、どうとでも作れる。斎も適当に何かを誤魔化したのだろうと思われた。
「んじゃ、里中のもそうかもよ?」
「そっか。私じゃ役に立てなかったみたいだったし……」
雪子は胸に手を当てて溜息を吐いた。
(なに相談したんだ、アイツ?)
「つか、天城は里中のことばっかってアイツに聞いたんだけど」
「へ? さ、斎くんほどじゃないよ?」
(やっぱシュールな帰り道だったんか)
思わず笑ってしまいそうになった。そんなことを言われては、どんな会話をしたのか興味が沸いてしまう。聞こうかと思ったが、雪子がしょげているので、聞き出しにくかった。どうも、お姫様的には、まだ王子様は千枝であるらしい。持って行かれて残念そうだ。ということは、斎の方に対する感情値の方が低いのだろう。やはり、一度放課後に共に帰った程度ではまだまだ不足だ。千枝と同じで、攻略はまだ始まったばかりということだろう。
「んじゃ、天城は俺に嫉妬したんじゃねぇの?」
ここは少し押してみるのが戦略的に良さそうだ。一緒にいて、友人の話ばかりでは流石にもやもやとするだろう。陽介が片目を瞑って言うと、雪子は切れ長の黒い瞳をぱちぱちとさせた。
「特には」
「冗談だっつの。マジな顔しないでくれよ、天城さん」
吃驚という言葉が正に当て嵌まる表情だったので、脱力した。所詮、男友達などでは嫉妬する対象にはならないということだろう。
(……当たり前か)
冷静になって考えてみると、それは嫉妬するはずもなかろうものだ。陽介は窓の外に遠い目で視線を投げながら、下らないことを言ったと反省した。
「ねぇ、ちょっと、斎いないの」
急にガラリと扉が開いたと思って振り返れば、雪子よりも更にツリ目の美人がこちらを睨んでいた。周囲を見てみると、教室には既に、他の生徒の姿はない。どうやら、彼女の言葉はこちらに向けられたもののようだ。
「えーと、海老原さん、だよな」
昨日千枝との会話でも話題に出た、バスケ部のマネージャー海老原あい。恐る恐る声を掛けてみると、海老原はキッと睨むようにこちらを見た。
「アンタ、花村……、ねぇ、アンタ、斎と仲いいんでしょ? どこ行ってるか知らない?」
「今さっき帰ったとこです……」
何よ、と海老原はこちらを睨んだ。そう言われても、彼女と斎のことについて、陽介は詳しくない。返答に窮する。
「用事でもあったのか?」
思わず敬語で話してしまったが、相手は同学年だ。落ち着いて尋ねると、また、彼女の目が釣り上がった。
「あーもう、買い物付き合わせようと思ったのに」
海老原は苛立たしげに腰に手を当ててぶつぶつと文句を言っている。確か彼女はバスケ部のマネージャーだが、その買い物に付き合う程度には親交が深まっているらしい。これは新しい情報だ。陽介は脳内のデータを書き換える。
(なんだ。つーことは、海老原さんの方がいい感じなんじゃね? 里中・天城よか脈アリっぽいかも)
少なくとも、普通のマネージャーと二人で買い物に出掛けるようなことはないのではないだろうか。
「花村ー、暇してんなら、俺らと愛家行かねー……ってあれ、海老原さん」
また教室に訪問者が現れたと思えば、一条は海老原を見て驚いた。
「い、一条、くん!」
急に海老原がぴんと背中を正した。
「もしかして、斎? さっき帰るの見たんだけど――っつか、里中さんと帰ってるってどういうことだ、花村!」
「どうって……」
そう言えば、一条は千枝に好意を持っているのだ、と斎から聞いたことがある。そのことはすっかり忘れていた。これでは友人たちの間で三角関係になってしまう。駄目だとは言わないが、出来たら避けたい。これはまた、新たな作戦を立てる必要がありそうだ。そんなことを、陽介は一条に両肩を持って身体を揺さぶられながら考えた。バスケをしているからか、一条は細そうな見た目の割に、意外と力は強い。どうとも言いようがなくて困っていると、海老原がふるふると肩を震わせているのが見えた。
(あれ、なんか、顔が紅いような)
一条が来てから、先ほどの剣幕と違って、随分と大人しい。
(もしかして)
「あ、な、なぁ、一条」
これ以上揺すられ続けては、頭も変になってしまいそうだ。呼び掛けると、一条は漸く手を止めてくれたのでホッとする。
「なに?」
「暇してんならさ、海老原さんが買い物に付き合ってくれる相手を探してるらしいから、そっちとかどうよ?」
「は、えぇっ?」
「マネージャーが?」
一条が彼女の方に目を向けると、海老原はまた背筋を伸ばした。瞳が震えているのが遠目にも分かる。
「部活の買い出し? 真面目にやってくれて、助かってるよ。俺で良ければ手伝うけど」
「ち、違うの! ただ、沖奈で……」
ははーん、と陽介は思った。どうやら、海老原の意中のお相手は斎ではなく、一条なのだろう。女子の買い物に付き合うのは大変だと言うが、自分のそれに付き合わせたくないくらいには、一条のことを気にしている。とは言っても、斎に全く脈がないということもない筈だ。何でも言い合える相手とか、親しいという相手なら、友情以上になっても可笑しくはない。ただでさえ、男女間の友情は成立しない、と言われるくらいだ。
「……なんだか複雑そうだね」
雪子がぽつんと呟く。海老原と一条の攻防が目の前では繰り広げられている。人の恋路というものは、想像以上に複雑だ。全くその通り、と陽介も頷いてしまった。
*
結局、一条は海老原の買い物に付き合うことになった。雪子とは、段々と日が暮れてきたので、教室で別れ、陽介はその後も、色々と情報収集にとバイトに向かいがてら女の子と話し、相変わらず斎の人気の高さを知った。
「そんな感じで、海老原狙いだと一条のこともあんだけど、一条は里中が好きなんだよな」
そしてまた、昼食。屋上で恒例のように話を始めると、斎は頷きながら陽介の買ってきたパンを頬張る。
「それは気になってた」
「んでも、恋は戦争! って言うし」
「言うの?」
「たぶん。まぁ、友情のが優先ってことはないだろ?」
そうだな、と斎は小さく頷いた。絶対に有り得ないことではあるが、もしも斎と好きな人が被ってしまったら嫌だな、と思う。
(勝てる気しねぇ……)
自分から身を引くくらいはしてしまいそうだ。そんな彼が恋敵にならないのは結構なことである。
「まぁ……いずれにしても、里中とどうこうってのも、余り考えられないんだろうな」
斎は軽く目を伏せた。
「今ひとつだったのか?」
「里中とは、気が合うとは思う。思うんだけどね……そもそも、一昨日天城と話したことばかり、やたらと聞かれたし」
「天城と里中のが相思相愛だったかー、残念。天城も里中取られて淋しそうだったし」
「それに、本当に好きなら、他の誰かがどうとか、言っていられなくなるだろう?」
今日の弁当はカレーだった。弁当にカレーが普通なのは斎くらいだとは思うが、陽介の好物であることは間違いないので、余り突っ込んだこともない。
「一条のこと?」
「そう。あっちが上手くいけばいいなって思う。それは恋愛だと思うか?」
陽介がフルフルと首を振ると、斎は深く頷いた。
「だったら、違う」
「そっか。まぁ、そういう自分の感情をみっけるって意味でも、二人で帰ったりとかは有効だな。お前なら、一人二人ダメでも、まだまだ恋人候補がいるし!」
「候補って」
片目を瞑ると、斎は苦笑した。
「えっとさ、告白とかはされてんだろ? 思わず頷いちゃう子とかいないの?」
女子人気の高さは相変わらずのようだった。告白だって片手では足りない数されているはずだ。その中に、好みの子がいたりしないものだろうか。以前までの陽介なら、二つ返事で頷いてしまっていたかも知れないとすら思う。
「いない」
「でも、付き合ってみたら変わるんじゃね? お試しでーとか……そういうのダメ?」
「駄目だとは思わないけど。陽介ってそういうタイプ?」
「へ、俺? 俺は一途な方だからなぁ」
陽介がまた片目を瞑ると、斎は柔らかく微笑んだ。知ってる、と。
(先輩のことじゃないんだけどな)
彼女のことについてもそうだった、ということは否めない。何せ亡くなってから半年以上経っても、思い続けていたほどだ。まるで、風化してしまったような欠片を、大事な宝物みたいになぞっていた。傷が埋まることなどないのだと信じて。
「んーじゃ、今日は直斗くんだな」
「まだやるのか?」
「当たり前! 実はいいもんを用意してきたんだな。これ、直斗くんに渡してくれって言われた変なカードなんだけど……事件の匂いっぽいだろ? そういうの、チビッコ探偵は食い付くからな」
昨日、女の子たちと別れて帰りに商店街を一人で歩いていたところ、見知らぬ男性がきょろきょろとしていたので、道にでも迷ったのだろうかと声を掛けたのだ。そうしたところ、白いカードを渡された。直斗に、と。仕込みのつもりではなかったのだが、これは良さそうだと家に持ち帰ったのである。胡散臭いなとは思ったが。
「陽介……知らない男にホイホイと声を掛けるのは」
「お前に言われたくねーし。とにかくさ、これをダシにすると良いんじゃね?」
「そうか。とりあえず、放課後、白鐘に渡しておく」
「ん。あ、そだ。直斗、男装なんてまだしてっけど、中身は女の子だからな。ちゃーんとそういう気遣いすんの、重要だぜ? お前、女の子たちに歩幅合わせてっか?」
分かった、と斎は頷いた。モテモテの評判に騙されがちだが、それは内面的に人を惹き付けるという彼の魅力であり、女子と付き合うとかそういう観点での気遣いが上手だということとは違う。そればかりだと陽介のようにガッカリだと言われるだけだが、元が良いのにそれが加われば、また、付き合って欲しいと思う女子も増えるだろう。その中に、斎の好みとする子だって現れることだろう。特別捜査隊の女子や海老原、小沢のような人たちとは好感度を上げつつ、他にも視野を向ける。多角的な視点が必要なのだ。参謀として、事件を見ていた時と変わることはない。
「陽介、明日は何食べたい?」
「え、明日? リクエストしていいの?」
「いつも、俺の為に色々してくれているから」
「気にすんなって……でも、そんならさ、からあげとか食いたい!」
「了解」
そう言って貰えるということは、やはり、役に立っているのだろう。
*
斎と直斗は無事に帰ったのか。流石に、今日は見届けてはいなかった。バイトのシフトも早いし、ちょこちょこと女の子に声を掛けて様子を伺ってみた程度だ。斎の役にも立てているようだし、安堵とやる気でいつも通りハードなバイトを何とか終えて部屋のベッドで寝転がっていると、着信があった。相手は斎だ。
「もしもし、なんかあったか?」
『いや、白鐘から、カードを渡したのがどんな人物かと聞かれて。直接陽介に話を聞きたいから、と言われた』
「なんだ、そんなん、明日でもいいだろ」
てっきり、直斗とは良い雰囲気になったとでも言うのかと思ったら全く違うので、陽介はくすくすと軽く笑った。どんな人物だったと言われても、余り覚えていない。ゆるりと瞼を閉じて、思い出そうとしてみたが、スーツ姿だったような、といった程度の記憶しかなかった。
『たまには、』
「ん?」
『たまには、二人で帰らないか、と誘おうと思って』
「……そりゃ、構わないけど……それこそ、明日でよくね?」
『予定が入る前に』
「んじゃ、空けとく――あっ」
脳内のスケジュール帳に、明日は斎と帰る、と書き込もうとした。別に他にアテがある訳でもないし――と思っていると、ふと、今日の帰りがけに約束をしてしまったことを思い出す。
「わ、ワリィ、斎! 明日の帰りは、用事あるんだったわ……」
出来るだけ色々な情報収集が必要だと考えて、女の子たちには積極的に声を掛けてみている。邪険にはされるものの、そういう態度がいつものことということもあって、警戒はされない。こちらとしても、下心はないのだ。ただ、斎の話を聞こうと思っているだけ。昨日の放課後も同じように声を掛けていたところ、隣のクラスの女子数名が、ジュネスのクレープ奢りなら話に付き合っても構わない、と言い出した。生憎、今日はバイト。明日なら、という軽い口約束をしていた。
(斎の方、優先してぇけど……)
段々と自分でも忘れたいという感情も強くなるのか、忘れてきているような感覚もあるが、陽介は斎のことが好きだ。そうでなくとも、大事で特別な友人なら、優先したいとは思う。けれど、自分から誘っておいて、後の方が大事だからと約束を反故にするような人間ではありたくない。
『そう。なら、良いんだ』
「ゴメン! 折角、俺とも遊びたいって思ってくれてんのに……」
『良いって、別に。じゃあ、明日は誰と帰るのがオススメ?』
「明日な。えーっと、海老原がこの前、お前と帰りたがってたから、そっちとかどうだ?」
『分かった。誘ってみるよ』
「おう!」
斎は陽介の作戦に、ちゃんと興味を見せてくれている。だから、恋人を作るつもりがないということではないようだ。それならばますます、自分が助力することくらいは出来るだろう。
(せめて、役に立ててたらいいよな)
好きな人の役に立ちたい。そんな、綺麗な言葉で飾られるようなことではないだろうが、斎の力になりたいというのは事実だった。それだけでも、十分に満たされる。健気だとかそういう風にも思っていない。愛されるよりも愛したいということでもない。好きだという感情と相反する、相棒として、友情としての情がそう思わせるのだといえば、そうだとも言えるのかも知れないだろう。
でも、電話をくれたのは嬉しかった。
*
昼休みを告げるチャイムが鳴った途端に、斎は女の子に呼び出された。最近、彼への呼び出しが増えている背景には、もしかしたら彼が女の子と帰っているということが影響しているのかも知れない。先に屋上で待ってるから、と手を振ると、斎は揺れていた陽介の手首をぎゅっと掴んだ。
「待ってて」
「? だから、先に行ってるって」
「直ぐに行くから」
用件が何だか分からないでもないだろうにその言い草はどうだろうか。そもそも、陽介が一人で屋上で食べて一人で帰る道理もない。
(今日はからあげだっつってたし?)
リクエストした弁当がなければ、そもそも昼食を先んじて摂ることもないのだが、と不思議に思って首を傾げても、斎はちらちらとこちらを気にしながらドアの向こうに消えていった。
「あれ、花村、今日独り?」
ブラブラと屋上に行こうかと思っていると、後ろから肩を叩かれた。
「や、斎待ちだけど」
「たまには一緒にメシ食わねぇ?」
「最近女の子と一緒に帰ってるらしいじゃん。どういうことか教えろよ、花村くーん?」
首を軽く締められたので、慌てて腕を振り解いた。
「なんだよ、お前らも彼女募集中か」
「ガッカリ王子には言われたくねぇけどな!」
「それ言うなっつの、結構凹むんだから」
「でもマジな話さ、斎来る前は俺らともたまに食ってたじゃん」
それまで、特定の相手とだけ食べている、ということは特になかった。誰もいなければ、一条や長瀬と食べていたが、定位置という訳でもない。
転入生、テレビでのこと、都会からという親近感。慣れない場所で独りで食事するのもと思って、丁度一条や長瀬ともクラスが別れたこともあり、一緒に昼メシ食べようぜ、と陽介が誘ったのが最初だ。あれから斎は、決まったように昼休みには振り向いて、屋上に行こう、と言う。
(弁当作ってきたって、途中から言い出したんだよな)
雨が降っているときは教室だけれども、天気の良い日はいつも屋上で二人で食べていた。他の誰かと、という選択肢は格別にない。
(あ、でも話は聞けるかも)
どちらかと言えば女子寄りで情報収集をしているが、男子目線でも何かがあるかも知れない。
(斎の弁当……)
天秤に図る。彼に恋人が出来れば、弁当を貰うことも、昼食を相伴することもなくなるだろう。それまでくらい共にいたってと思う反面、慣れた方が良いのではないかとも思うのだ。斎のいない昼食。
「やっぱもったいな」
「陽介!」
急にドアが開いたと思うと、名前を呼ばれた。斎はつかつかとこちらに戻ってくる。その勢いに、クラスメイトの二人もぎょっとしていた。
「どうかしたか?」
「弁当、先に持っていって貰おうと思って。そのまま向かうから。あ、今日はちゃんと唐揚げだからな」
「そ、そっか、さんきゅ……」
鞄から弁当箱を取り出すと、陽介の手に握らせて、斎はにこりと笑った。そしてそのまま踵を返す。
「……やっぱ斎は斎だったな」
「ん? どうかしたか?」
見上げると、二人は苦笑していた。
「昼メシはまた今度で」
別に斎も含めて四人で食べれば良いのではなかと思ったが、二人はさっさと教室を出て行ってしまった。しかし図らずも、陽介も一つ気付いたことがある。
(俺の情報収集は、不足だったってことだな)
今日の放課後は無理にしても、明日以降は、男子からも上手いこと話を聞いていこう。拳を握りながら、陽介は決意を固めた。
*
「最近、斎くんと帰らないじゃん、花村」
誘っておいて、用事があるからと待たされている。相変わらず、陽介の扱いと言えばこんなものだ。ここで斎ならと比べるのは虚しいのでしない。仕方なしに机でダラダラしていると、斜め前の千枝が振り返った。
「んー? まぁ、別に、俺ばっかと帰っても仕方ねぇし」
休日なんて、そうそう何度もないし、学校では拘束時間が長い。好感度を上げたければ、やはり帰り道がベストなのだ。
「ふーん……」
「女の友情とは違うんだよ」
毎日一緒に登下校、とは訳が違う。
「アタシには、斎くん、淋しそうに見えるけど」
「え? なんだって?」
ぼそりと言われたので、良く聞き取れなかった。聞き返すと、千枝はぷいと顔を背ける。別にいいけど、と良くはなさそうな声音で言うのだ。
「ところで里中、明日って空いてるか?」
「明日は無理。なんかあった?」
「んにゃ」
日直の雪子が戻ってくるのを待っているという千枝は、机で頬杖をついている。やはり明日は男子陣から話を聞くのが得策のようだ。脳内のスケジュール帳を更新しながら、序に千枝ももう少し掘り下げて聞いておくか、と思い立った。
「里中さ、斎のことどう思ってる?」
「前も聞いたわよね、それ」
電話で話した時にさらりと聞いたことを覚えているらしい。うんまぁ、と陽介は曖昧に笑った。
「頼れるリーダー。そんだけ」
「やっぱ、里中には恋とか愛とか早かったか」
肉とカンフーしか見えないのだろう。
「なにそれ、ムカつくんだけど……ってか、アンタには言われたく――あ、」
千枝は両手で口を押さえた。
「っと、ゴメン」
急に謝られたので首を傾げると、小西先輩のこと、と千枝は眉を下げた。
「んだよ。別に、気にしてねーって」
右手を振ると、千枝は机に顔を押し付けた。
「てか、もしかして、斎くんと誰かを取り持とうみたいなこと考えてるんじゃないのぉ? なーんて……」
「うお、里中、お前ってホント、時々妙に鋭いよな」
特別捜査隊の推理のときも、まぐれみたいに鋭いことを言うので、直斗なんかは「実は物凄く頭が良い人なのでしょうか」と真剣に言っていたほどだ。それは絶対ない、と陽介は全否定したのだが、この勘の鋭さは並ではないだろう。
「え、マジ? うわー……、アンタって余計なことばっかするわよね」
「うっせ。世話んなってんだから、こんくらいやっても当然だろ、むしろ」
「それ、斎くん、乗り気なの?」
「嫌って感じじゃねぇけど」
「まぁ、それなら別にいいんだけど……フツー、好きな子とってワケでもなく恋人作らせようとするとか……ってか、もしかして、アタシとか雪子のときも!」
「あーまー……でも、そっちは、天城と里中でラブラブみたいなんで、諦め感もあったりして」
「バッ、バカじゃないの!」
千枝は起き上がると、両手で机をバンと叩いた。
「冗談だっつの。怒んなって」
千枝は顔をすっかり紅くしている。謝らなきゃ良かった、と恨めしげにこちらを一睨みして、腰を下ろした。
「もしかして、それで、斎くん、女の子と一緒に帰ったりとかしてんの?」
「あれ、里中も知ってんの?」
「そりゃ……斎くんモテるから、噂もすごいし。ってか、アンタもよ。女子数人と帰ってるとか、後輩とか先輩とかといるの見たとか聞くんだけど」
「情報収集に必要だから」
人差し指を立てて笑うと、千枝は眉間に皺を寄せた。
「アンタ、あわよくば誰かと、とか思ってんじゃないのぉ?」
「ちげーよ」
「ホントにぃ?」
別に、千枝にどのように誤解されても構わないと言えば構わないが、曲がって斉に伝わったりするのは良くない。
(ま、里中になら話しても平気か)
誰と言わなければ問題はないだろう。
「……俺にも好きなヤツがいんの。だから、そういうのはナシ」
「へ? アンタが?」
千枝はぽかんと間抜けな顔をした。
「なんだよ、その意外って顔」
「だったら、人の恋よりも――」
千枝の言いたいことは分かる。それなら、人の恋路よりも自分の恋路はどうなのか、と。他人にかまけている場合なのか、と。普通ならばそうだけど、陽介の恋は普通ではないので仕方がないのだ。千枝の言葉の真ん中で、ガラリと教室の扉が開いた。彼女の待ち人が現れたのかと思えば、斎がこちらを見ている。
(あれ、なんかデジャブ?)
「あ――、陽介」
「どした、斎。海老原は?」
斎は首を横に振った。
「都合が悪いからパスだって」
「はは、そりゃ残念。んーじゃ、演劇部出てきたら? 小沢さんってキツそうだけど、良い人だって聞いてるし」
「女の子から?」
「うん?」
「いや、なんでも……そうだな。それも、良いかも知れない」
そう言ったが、斎は中々立ち去ろうとはしなかった。今日は演劇部も活動している曜日だ、と陽介も把握している。何か躊躇うことがあっただろうか。
「どうしたの、斎くん」
千枝は頬杖をついたまま首を傾げた。陽介も同じように首を捻る。
「二人は――何してるんだ?」
「雑談だけど」
千枝と陽介と、顔を見合わせた。互いに暇を潰しているだけ、本当に雑談と呼ぶ程度の会話しかしていない。急がないと部活遅れるんじゃないのか、と指摘すると、斎は頷いて背を向けた。
*
金曜日は今度こそ海老原、土曜日はりせ。経過は順調に進んでいる、らしい。
「ワリィ、待たせたか?」
「いや。座ってて、お茶淹れるから」
日曜日は報告会が昼に行えないから、と斎に呼ばれて家に来た。まだ彼の家には菜々子や叔父が戻っておらず、静かだ。それでも生活感はかなり取り戻されている。一時は、人が住んでいるとは思えない有様だったのだ。荒れているという訳ではないが、うらぶれているとは表現出来たかも知れない。陽介もかなり心配になって、遊びに押し掛けてみたりしたが、今は安定しているようで何よりだ。
それでも静かな居間にちょんと座ると、台所から戻ってきた斎は湯呑みを差し出した。
「寒かっただろう? お茶どうぞ」
「番茶かよ。渋ッ」
けれど実際に外は寒かったので、温かいお茶は有難かった。さんきゅ、と言って湯呑みを受け取る。両手の指先が冷えてしまっていたので、両手持ちにしてふぅふぅ息を吹き掛けると、向かいに腰を下ろした斎が、こちらを柔らかな視線で見ていた。
「海老原にりせ。美人続きでどうだ? 疲れたとか?」
「まぁ、本音を言えば、少し疲れたかも知れない」
「結構、振り回し系の美人だからなぁ。いいじゃん、振り回されんのも、カワイくて」
「陽介の――も、……なんだ?」
「熱ッ!」
ぽつりと何か呟いたようだったが、口に含んだお茶が思っていたよりも熱かったことに忙しくて、話を良く聞いていなかった。
「なに? よく聞いてなかったんだけど……」
首を傾げたが、斎は緩やかに首を横に振るだけだった。
「あ、そういやさ、昨日もお前、休み時間に告られてただろ。そっちはどうだったんだ?」
「断ったよ。知らない子だったし」
斎はさらりと言う。勿体無いとかそういう感情を微塵も滲ませたりはしない。正に一刀両断だ。
(不自由してねぇもんなー……)
モテるのはどうしてもやっぱり、羨ましいことだ。
「やっぱ、お試しで付き合うってのはナシか?」
まぁ、と曖昧に斎は頷いた。斎ならば、試しにで良ければ、と申し出たってオーケーを貰いそうな気がする。茶菓子に出された饅頭を口に放り込んで、陽介は熱いお茶は一旦諦めて腕を組んだ。
「前の学校で彼女とかは?」
「いない」
「そっか。モテるのに、硬派なんだな」
流石は俺の相棒、と感心してしまった。こういう律儀なところも、好きだと思う。でも少しくらいは柔軟性があっても、悪いということはないと思うのだ。好みの顔はないのだろうか。アイドルで言うならば誰が好きだとか。
「思わず頷いちゃう! みたいな子はいねーの?」
「思わず……」
「そーそー、すっげ可愛い子とか……って、天城とかりせ見てっとあれかぁ。あ、かなみんみたいなのは? つかこれ言ったら、りせに怒られるかな……。お前の好みって、真面目な子? 守ってあげたいような子? 優しい子? あ、アイドルは誰派よ?」
返答がなかった。どうしたのかと首を傾げる。
「斎? なぁ、斎?」
視線がぼうっとしている。名前を呼ぶと、ハッとしたように斎はこちらに焦点を合わせた。
「どうかしたのか? あ、うるさかったか?」
何か変なことを言っただろうかと思うと、斎はふるふると首を振った。
「なんでもない。なんの話だったっけ?」
「……んだから、気になった子とかいねーのって」
アイドルには興味がないのかも知れない。りせのことも知らないと言っていたくらいだ。
「いや、今のところは」
「ま、焦ることはねーぜ。時間はまだあるし」
クリスマスまではまだ時間があるし、別にそれまでが期限ではないのだ。
(期限って言やぁ、さすがにここいなくなるまで、かな)
「そう……だな」
*
「なぁ、斎」
「へ? あ、あぁ、どうかしたか?」
斎の様子が可笑しい。どこか上の空でいるし、呼び掛けても返答がないこともしばしば。今だって、もう何度も背後から呼び掛けて、漸く振り返ってくれたくらいだ。
(そういや、昨日もなんか変だったし)
調子でも悪いのかと思って朝からずっと見ているが、熱があるとかそういうことはなさそうである。
「なんか最近、ぼーっとしてっけど……あ、恋煩いとか? なんちって」
「違うよ」
恋なんて、と斎は首を横に振る。瞬時に返答があったので、頭が回転していないということではなさそうだ。
「ま、いっか。とにかく、今日の放課後の話でも」
「今日は、一緒に帰ろう」
「え?」
急に手首を掴まれたので、ギョッとした。
「この前、帰れなかっただろう? それとも、今日も忙しい?」
「いや、そういうんじゃねぇけど」
土曜日は一条、長瀬と帰路を共にした。部活がある日は二人共遅いので無理だが、土曜日は特に何もないらしいので、良い機会だったのだ。そこでは、マネージャーの海老原のことや、練習試合などで見に来る女の子の話などが聞けて、有益だった、と陽介は思っている。
(クラスのヤツらからも話聞きたいしなぁ)
それに、斎は女の子と帰るべきだと思っているのだ。
「放課後は貴重な気ぃするし」
「貴重な時間を俺には割けない?」
(え?)
どういう意味だろうかと考えてみたが、良く分からなかった。斎にとって貴重な時間を、陽介が割けないと言われるのは良く分からない。ただ、声の色が硬かったことだけ分かる。
「斎、なんか、怒ってる?」
「あ……、いや、そういう訳じゃ……ないんだ」
「良くわかんねぇけど、ただでさえ俺とは昼休みも一緒にいんだしさ、恋人作るってんなら、放課後とか積極的に絆を深めた方がって。だから、貴重だろ?」
俺にとってじゃねぇよ? 貴重な時間の定義を勘違いしているようだったので、そう笑うと、斎はじっと陽介の瞳を覗き込んだ。
「ええと、あの、斎?」
「今日は休みにしようと思う」
視線が逸れた。
「女子ばっかで気疲れでもしたのか?」
「そんなところ」
「んじゃ、息抜きにジュネスでも来るか? なんか奢ってやるよ」
ありがとう、と斎は笑った。
(まぁ、普段から女の子と帰ったりとかしてないっぽいからな……疲れたりするか)
歩幅を合わせるとか、買い物なら荷物持ちするとか、家まで送るとか、決して楽なことばかりではない。
(好きな子と、ってなら別だろうけど)
長くいられれば楽しいし嬉しい。その人の為に何か出来るのならば喜ばしいと思う。
「あぁ、でも、奢るってのはなしで良いよ。里中、とかに奢ったりして、お金ないんだろ?」
「里中はなんで俺に集るんだろうな!」
「あらぁ、バイクなんてうっかり買っちゃって、事故起こさないようにって前に言ったと思うけど」
パコンと頭をノートで叩かれたと思うと、千枝がにこりと笑って背後に立っていた。
「それはもういいだろーが!」
「癖になっちゃってるから。また肉奢ってね、花村」
「ったく……明日な、あ、し、た」
「やたっ! おにくおにっく」
「奢るのか?」
「もう慣れてっから」
バイト前に肉まんでも買えば満足してくれるだろう。
「陽介、今日は俺が奢るよ」
「えっ、それじゃ意味ねーだろ」
労をねぎらうというこちらの意図に反する。
「里中も。明日、俺がステーキ奢るから、それで良いだろ」
「えっ、リーダーが? それは、なんかちょっと悪いかなーって気が」
「里中ぁ……! どういう意味だ、そりゃ!」
この扱いの差は何だ。いつも奢らされているのに、まだ斉よりも下の扱いを受け続けている。納得がいかない。拳を握り締めると、ほらまぁ花村は特別ってことで、とか言って、千枝はアハハと笑った。
「とにかく今のは、リーダー命令だから」
*
いつも通り、昼休みに昼食を持参して屋上に上る。
「昨日さ、帰りに聞いたんだけど」
クラスの男子からは、余り有用な情報は得られなかった。ジュネスで何か食べていこうというだけの話になり、バイト前からツケられそうになって大慌てしたというくらいだ。斎といると余り馬鹿な真似はしないが(通報はされたことがあるが)、偶にはクラスメイトとただ喋っているだけというのも悪くはない。それに、フードコートではそこに集まっていた女の子の集団から、ちゃっかり斎の話も聞けた。
「陽介、もう、良いよ」
「へ?」
貰った弁当の包みを解きながら、思わず斎の顔を凝視してしまった。
「もう、そういうのは止めようと思う」
斎は静かにそう言うと、あんぱんを口に運んだ。
「なんで?」
「好きな人が出来たんだ」
彼はこちらを見なかった。陽介が一人で、瞬きをしている。
「そっか。誰? 今まで俺が調べてた子?」
想像以上に、彼の言葉にダメージはなかった。
(よかった……)
寧ろ心がすいたと思う。自分の行動で斉に好きな人出来たということならば、その行動は無駄ではなかったということになる。そのことを、素直に喜ばしいと思う。何となく告白されて付き合うよりも、好きな人が出来たという方が、良いことだ。
「いや。陽介がピックアップしていた中にはいない」
「うーんそっか。俺もまだまだ、役に立ててなかったかぁ……」
だから、その言葉の方が、少しだけ傷付いた。しゅんとなってしまった頭を、斎が撫でたので、思わず顔を上げると、彼は笑っている。
「そんなことはない。陽介の心遣いには感謝している」
あぁやっぱり良かったんだ、と思った。間違っていない。してきたことは正しい。そういう確証が欲しかったのだ。正義感でも、友情でも――恋でも。間違わない人生なんてないし、選んだ道が正しくなければならないということはない。けれど、どうしても役に立ちたかった。それだけが、最後にあった矜持のようなものだ。相棒だよ、と、斎に言って貰う為に必要なもの。
「んで、誰なんだよ。勿論、こっから先も、応援するぜ?」
誰だろうかと思った。挙げていた子の中にいないなら、特別に可愛らしいとか美人だとかそういうことはないかも知れない。純朴な子が好きなのだろうか。明るい子? 笑顔が可愛い子? 優しくしてくれたから? どれも有り得そうだな、と思う。きっと斎が選んだ子は素敵に違いない。
「いや、それは良いんだ」
「なんで!」
寧ろここから先が本番ではないだろうか。陽介が思わず立ち上がると、下から斎は静かな眼差しを傾けていた。ゆっくりと、首を横に振る。
「こういうことは、人に頼るべきではないから、かな」
とても綺麗な顔で、湖面に降りる一枚の葉の広げた水紋のように静かに凛として。
「――かっけぇの」
こんなの、男でも惚れてしまいそうだ。
(……まぁ、もう遅いんだけど)
「だから、その……リサーチとか、いらない。寧ろ止めて欲しいんだけど」
「! もしかして、迷惑……だったのか?」
「違うって。だから、陽介の心遣いには本当に感謝してるんだ。そこは誤解しないで欲しい。たださ、自分だけでって言っただろ?」
「でも」
「その方がカッコイイ、んだろ? 今、そう言ってくれた」
何かしたいと思う。けれど、独力でというのが格好良いと思ったのも事実。これ以上と望むのは単なるエゴでしかないのだろう。彼は本気で好きになったから、独りでと思っているのだ。それだけ真剣。
じっと銀色の瞳が陽介の顔を見詰めている。この綺麗な目が、斉にとっての一番ではないだろうか。誰もが魅了されてしまうような、完全な眼差しを持っている。
「……わかった」
――じゃあもう出来ることは何もないんだ。
(お昼ももう、これで最後なんだな)
それだけは寂しいと思った。彼が来てからずっと一緒だったのだから。ストンと腰を下ろして、これまでを思い出す。最初に食べたのは肉じゃがだっただろうかとか、最近は好きだと言ったものばかり作ってきてくれる、とか。
「なぁ、斎。相棒に、最後に一個だけ、アドバイスしてもいいか?」
箸を下ろして横目で見ると、斉は笑顔で頷いた。
「良いよ。何?」
「目」
め、と斎は繰り返して首を捻る。
「お前の目って、すっげぇ力強いって思うんだ。だから、告白するときは――相手の目を見て、逸らさない。お前はそれだけで、十分、戦えると思う。そしたらさ、きっと、上手くいくから」
本当はもう少し気の利いたことを言いたかったのだが、上手い言葉が見付からなかった。こんなことなら、最初から用意しておけば良かったな、と今になって後悔しても遅い。
「……覚えておくよ」
「この弁当食えんのも最後かー、残念だな」
甘くて美味しい卵焼きが一番好きだった。それを口に運びながらしみじみ言うと、陽介の情緒を吹き飛ばすようにさらりと斎は「何で?」と真剣に問うてくる。
「まっさかお前、お昼は今のままとか思ってねぇよな? 当然、好きな子誘うよな?」
箸を鼻先に突き付けると、斎は瞬きをした。
「あ、あぁ、そういう」
「ったく、しっかりしろよ、センセー。俺なら、前に誘ってくれたヤツもいるからへーきだし」
「平気」
「ん? なに?」
斉はまた焦点のズレた瞳で前に視線を投げている。
「痛い」
「痛い? え、なにが? 目にゴミでも入った?」
答えずに、斉はあんぱんを飲み込んだ。
*
バイトもないし、もう何かをする必要もない。放課後の予定が急に空いてしまったということに、ホームルームの時間になってやっと気付いた。目的意識というものは、生きる上で必要かも知れない。まだバイトでもあった方がマシだと思う。考えあぐねている内に柏木の黄色い声が途絶え、教壇から去って行く背姿だけが視界に入った。
「陽介、今日はバイトないんだよな」
急に斉は振り向くと、陽介の手を掴んだ。
「ない……けど?」
「予定もない?」
「ないぜ。どったの、相棒」
「付き合って」
「へ? どこに?」
「うちに。ちょっと、相談したいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「相談? 俺で良ければ、なんでも聞くぜ!」
「そう言ってくれると思った」
斉は穏やかに笑った。今までの恋愛相談以外に何かあるのだろうか。
(相棒の役に立てるってんなら、なんでもいいんだけど)
「なぁ、斉……昼はあぁ言ったけど、やっぱ、そっちの相談? そーゆーのも、全然いいと思うんだけど」
斉は答えずにくすりと笑った。
「話は家で」
聞かれたくないことかも知れない。教室にはまだクラスメイトが大勢残っているし、千枝も斉の隣で雪子と楽しげに話している。
「ジュネスでお菓子でも買って帰ろうか」
「あ、今、チョコ菓子食いたいかも」
「ポッキーでも食べる?」
斉が立ち上がって、鞄を脇に抱えたので、陽介も席を立った。
「花村たち、帰るの?」
「またね、斉君、花村君」
ひらひらと雪子が手を振る。
「また明日」
斉は笑顔で頷くと、すたすたと教室を出て行った。ストライドの長さゆえなのか、動きは速い。
「結局、二人で帰ることにしたんだ」
追って出ようとすると、千枝が腕をつついた。
「里中さんたちと同じだよ」
「同じ……」
雪子が真剣な瞳で顎に手を当てていたので、何を考えているのかと苦笑いしてしまった。
「陽介、早く行くぞ」
「ワリィワリィ! じゃーな、里中、天城」
慌てて教室を出ると、斉がじっとこちらを見ていた。揃ったところで中央階段に向かう。まだホームルームも終わったばかりとあって、人は少なかった。
「……陽介は里中と仲が良いな」
「そーか? まぁ、アイツって女っぽくないから、話し易いっつか」
「この前言ってた放課後の用事って、もしかして里中とデートだったとか?」
「この前……?」
いつの話だろうかと首を傾げると、電話した時のこと、と言われた。
「なんかあったっけ? デートとかはぜってぇないけど」
寧ろこんな話を聞かれたら、千枝に蹴り付けられてしまうに違いない。
「そうか」
(里中じゃあ、ないんだよな?)
陽介の調べた子にはいなかったと斎は言った。わざわざ斎が嘘を吐くとは思わないし、それに、いずれバレてしまうようなことを偽るとは思えない。
(もしかして、俺のこと、気にしてくれてんのかな)
自分にそういう相手が出来たことで、友人の恋愛についても気になったのかも知れない。前に、矛盾していると陽介に指摘したこともあるくらいだ。言ったこともきちんと覚えている。もしもそのことを聞かれたら、どうはぐらかしたものだろうかと眉間に皺を寄せて考えていると、名前を呼ばれた。
「陽介、階段!」
ぼんやりしていた所為で、気付いたら階段を踏み外していた。えっと思う間もなく、視界がガクンと下がる。そのまま落下すると思って反射的に目を瞑った。けれど落ちる感覚ではなく、どこか温かい感触が身体を覆っている。不思議に思って恐る恐る目を開けた。
「危ないだろ!」
「わ、ワリィ……」
落ちる既のところで、斎が腕を掴んで引き上げてくれたようだった。抱き留められたような形で、まだどこかぼんやりとしたまま、階下を見詰める。落ちたらさぞや、痛かったことだろう。そういう経験は慣れているが、痛いことに変わりはない。
「危なっかしいな。陽介、ちゃんと、俺の方を見ていて」
「え、あぁ……うん」
じっと見詰められて、陽介はこくりと頷いた。
(ん?)
何か違和感があったような気がするが、考えている内に斎が「どこか打ってない?」と頭を撫でたので、霧散してしまった。
「平気なら良いんだ」
「う……迷惑掛けてごめんな」
「良いよ、そんなこと」
頭が下がってしまった。斎の役に立ちたいとか、対等でありたいとか、そう思っているのに、いつも助けて貰ってばかりいる。
(やっぱり、恋の相談くらいしか)
斎の恋が上手くいかないはずはない。それは分かっているけれど、手助けくらいは出来る自信がある。もう、それしかない。そもそも考えてみれば、今日は好きな子と帰らないのだろうか。
「さ、斎……相談事ってんならさ、電話でもできるじゃん?」
「どういう、意味?」
「えっとホラ、夜にでも話なら幾らでも聞けるから、せっかくだし、好きな子と帰った方がいいと思う。うん」
慌てて立ち上がって、陽介はこくこくと頭を動かした。
「痛い」
「え、えっ? 今のでどっか打った?」
「……頭が痛い気がする。家まで付き合って」
斎は立ち上がると、陽介の手を掴んだ。
「わわ、マジごめん! 頭打ったとかだいじょぶ……じゃないよな! 早く帰って休まねぇと!」
そうだな、と斎は手を掴んだまま階段を下りていく。取り敢えずきちんと歩けているようなので、痛みで動けないということではなさそうだ。
(頭打ったときってどうすれば……えっと、安静にした方が? とりあえず帰ったら布団敷いて)
「陽介、ちゃんとこっち見て」
「お、おう!? 転ばないように見てるぜ! へいきへいき!」
「陽介の方が転びそう」
斎は笑った。銀色の目が、冷たく光っている。尖ったナイフの鋒みたいに。
*
家に着くまでずっと、斎は手を掴んでいた。周囲の目は痛かったのんだが、斎が何かに掴まっていたいというのなら、振り解く訳にもいかない。突き刺さるような視線の嵐は、ある意味では罰なのだと思って陽介は甘んじて受け止めていた。
(ジュネスの息子さんは殴り合いに飽き足らず問題ばっかり、とか噂んなったらさすがに嫌だなー……)
「陽介」
玄関口で、突然斎は口を開いた。
「ん? どうかした?」
「陽介は誰かを傷付けたいと思ったことはある?」
「ない……けど……?」
足立か何かのことだろうか、と首を傾げた。斎は何も言わずに玄関の戸を開けると、誰もいない家に「ただいま」と声を放つ。
「お邪魔しまーす。ってか、斎、布団敷いて、とにかく寝た方が……」
「頭は打ってないから平気」
「え? だって、頭痛いって」
「ただの偏頭痛」
困惑している陽介を他所に、斎は手も使わずにローファーを脱ぐと、陽介の手を引っ張ってそのまま家に上がらせようとする。靴、と慌てて陽介が訴えると、止まってじっと足元を睥睨した。手を離してくれそうにもないので、片手でスニーカーを脱ぐと、斎はまた手を引っ張る。力が強過ぎて、肩が抜けてしまうのではないかと思ったが、斎は構うことなく二階まで陽介を連行した。
「偏頭痛でも、頭痛いのに変わりないよな……?」
ソファに座るように促されたので、取り敢えず腰を下ろす。斎も鞄を布団の方に投げると、横に座った。
「口実。相談があるから、は有効だって聞いたのに、余り上手くは行かないものだな」
斎はソファの背に凭れて天井を仰ぐと、息を吐いた。
「……? 天城のときの話?」
「恋は戦争。そう言ったのは陽介なんだから、多少の策謀も騙し討ちも、仕方ないだろ」
(話が見えねー……)
「ちょっとでも良かったんだ。ちょっとでも……傷付いてくれたらって」
(お、話が繋がった?)
玄関口で聞いた話と繋がったようだが、話の意図は相変わらず見えない。
「最初はそういうつもりじゃなかったんだけど、多分、結局はそうでしかなかった。だから俺は醜悪だなと思っているのに、陽介は善良だし」
「はぁ……?」
「陽介は、自分がモテてることの自覚ある? 優し過ぎるのはいっそ脅威だ。メリットもないのに、どうして俺にそんなに優しいんだ? それで俺に他の誰かを好きになれって? 特別だって言ってくれたのに、好きな人がいるから、俺はもう一番じゃなくても良い? 嫌われていないどころか好かれていることは知ってるけど、だったらどうして、俺を見てくれないんだ?」
「さ、斎……?」
(やっぱ、頭打って混乱してんの?)
支離滅裂で何を言っているのか分からない。陽介が言葉を挟めずにいると、斎は俯いた。
「優しさも、真っ直ぐな視線も、笑顔も――全部、俺が受け取っても良いはずだと思ったのに」
「あ、相談ってやっぱり恋のことなのか?」
「……そうだ。アドバイスしてくれたっけ。目を見て、逸らさない――」
こちらの話はまるで聞いていないように、斎はぼうっと呟くと、急に顔を上げて陽介の肩を掴んだ。至近距離で、銀色の目が貫いている。俺の目、好き? 透き通った綺麗な目で、そんな風に囁いた。
「好きな人がいても、そんなの知らない。好きなんだ。誰かとなんて言わないで、頼むから、その優しさ全部俺にだけ向けて……陽介」
「……は?」
あれ、斎は何を言っているんだろう。言葉と意味とが結び付かず、陽介は混乱した。脳内で勝手にテンタラフーがされている。
「斎……あのー、そういうのは好きな子に……直接……」
瞬きを重ねても、斎は目を逸らさなかった。
「陽介が好き。傷付かなくても良いから、もう、他の誰かを見ろなんて言わないで。そんな優しさ……痛いんだよ」
意味内容が理解出来た瞬間に、思考回路は弾けるようにショートした。顔が熱い、と言うよりも、全身の血が一瞬で沸騰したように感じる。
「陽介の好きな人って誰? 千枝と話してたの、聞いてたんだ。前に恋人は出来ないって言ってたけど、もしその子と上手く行きっこないって思ってるなら、そんな子止めて、俺にしよう?」
真っ白な頭では遮ることが出来ないほどに、斎は饒舌だった。
「試しに付き合うのでも構わない。どの道、俺は、陽介の恋を応援したり出来ない。だからさ」
「ま、待て! 斎!」
(どうしよ……)
呼び止めたものの、言葉が浮かんでこなかった。実感がない。夢でも見てるのだろうかと思った。それでも良いかな、と思ってしまう。
「お……俺が、好きなのは斎で……」
「えっ?」
「斎の、役に立ちたくてって、それだけだったんだけど」
思わず目を逸らすと、一呼吸置いて、斎に頭ごと抱き締められた。
「本気で……俺が好きで、あんなこと言ってたの?」
「う、まぁ、そうだけど」
改めて本人から言われるのも恥ずかしいことだが。
「どうして」
「どうしてだろ」
もう忘れた、と投げ槍に呟いた。抱き締めてくれる体温が温か過ぎて、何もかも、どうでも良くなってしまう。
「ねぇ、陽介。明日のお弁当、何食べたい?」
そうだ、もうお昼の時間は誰かに渡さなくて良いんだ。
「斎の弁当ならなんでもいい」
こうやって斎が抱き締めてくれる限り、誰かに、何かを譲る必要もない。
「何でも良いから、リクエストして。作りたいんだ」
「……じゃあ、とりあえず、卵焼き」
どうしてこうなったのかと申しますと
私の敬愛する先生のお描きになった「月刊少女野崎くん」という
とても素晴らしい漫画を見て、
ギャルゲーみたいにアドバイスしてくれる陽介とかいたらきゅんとするなぁ、
もちろんそっち本命になるけどな☆
と思ったからです。
題名はパステルカラーシュガーって品名を見て可愛いなぁと思ってそっから。
おまけは途中から主人公視点にしようかなあと思って書いたもののリサイクル。