心地良い風が吹いていたので窓を開け放していたら、花弁が舞い込んできた。斎がテーブルにくっついたペタルを摘み上げると、履修登録用紙と睨めっこしていた陽介が顔を上げた。
「なにしてんだ?」
「桜が散り始めていみたいだ」
「マジでか。花見行ったの一昨日くらいじゃね? はえぇ……」
「確かに早いな」
ゴミ箱に捨てるのも気が引けて、斎は開けてある窓から花弁を投げ捨てた。これくらいの投棄ならば、咎められることもあるまい。窓の下を見ると、水色の新しそうなランドセルを背負った少年が走っていた。その後ろから、ピンクのランドセルの女の子が追い掛けている。一年生だろうか、と思った。菜々子と出会ったのは、彼女があの年齢くらいの頃だ。今でも電話をすると、お兄ちゃんと呼んでくれるし「遊びに来てね」とも言ってくれる。いつまでも同じでいられるとは思っていないが、素直で天使のように愛らしいあの菜々子であれば、いつまでだって自分を兄と慕ってくれるのではないかとも思った。そんなだから、『鋼のシスコン番長』などと付けられてしまったのかも知れないのだが。それと今更ながら、シスコンと番長まではともかく、何故鋼なのか、良く分からない。どこぞの錬金術師でもあるまい。
視線を上げると、花弁を部屋に舞い込ませた正体が判明する。巨木という程でもないが、それなりに背のある桜の木は、アパートの敷地内にじっと鎮座していた。その満開を見たと思えば直ぐに、花弁が舞い散る。桜の花弁を地に落ちる前に捕まえられたらどうなるのだっただろうか。昔に聞いたまじないを思い起こす。
「あー、平日一日くらい空けたいんだけどなぁ」
「必修は多くないんだろ?」
振り返ると、陽介は頭をガシガシと掻いている。
「でも語学が結構、時間取ってるっつか……相棒コレ終わってんの?」
「俺は、余り拘りがないから」
どこかのサークルで、履修について話を聞いたらしいのだが、そこから幾らか修正を試みているのだそうだ。斎も特段サークル活動を行う気はなかったが、どこか記憶も朧気なサークルで、履修についての話は少し聞き及んでいる。組んで貰ったままで余り変更は考えていない。同じ学部・学科だったのなら陽介にもアドバイスしてやれたのだろうと考えると、やや残念に思えた。やはり同じ学部を選択すべきだったろうか、と今頃になって思うが、恋愛に依存して全てを決めてしまう程に、脳が愚かには出来ていないつもりなのである。
「めんどくせー」
「より良いキャンパスライフの為だろ」
基本的には自分の為でしかないのだ。嫌なら、斎のように作成して貰ったものを流用すれば良いだけの話。
「土日がどうせ空いているんだから、平日は良いんじゃないのか?」
「平日休めるってのが、大学生の特権ぽくていいじゃん」
分かってねぇな、と陽介は人差し指を立てて左右に振った。
「他と時間が合わないから、暇になるだけだろう」
主に言えば、陽介と。
「意外」
「何が」
「いろいろ?」
陽介は首を傾げた。
「一人でも買い物とかいきゃいいじゃん。ってか、お前って、買い物とか一人で行く方が好きなんだろうなって思ってたし」
「嫌いではないけど」
「それと、斎なら、誘えばいくらでもお相手が見つかりそう」
「陽介の方だろ、それは」
入学式でも早々に、友人グループを作っていたのを遠目に見ている。基本としては静かな方が好みな斎は、人間関係については然程の頓着もないことと相俟って、特に友人を作ったりというようなことはなかった。一人でいたところを、勧誘する上級生に呼び止められたくらいだ。
「バッカ、男二人で買い物とか侘しいことしたくねっつの! そういうのは、女の子のことだろ。誘えば誰でも付いてきてくれそうな相棒は、これだから」
「俺と買い物に行くのは嫌だって?」
へ、と陽介は間の抜けた声を出した。変なことを聞いてしまった、と斎は些かばかり後悔した。陽介の目の中心が丸くなっている。きょとんと、こちらを見ていた。
「あぁ……お前は別に、そういうこと考えたことなかったけど」
もう一度、彼の中で思考が処理されると、言葉の裏にある物を見透かされそうな気がしたので、何でもない風に手を振った。
「そうだ、陽介。飽きてるなら、もう一度、花見でも行かないか?」
「もう満開過ぎてるだろ。散り始めてるってお前も外見てて」
「花は盛りに」
「は……?」
二の句を継いでも分かってくれそうにはないので、良いから、と腕を軽く引っ張った。
「陽介、古典が受験科目になくて良かったな」
「る、るせーな……古典なんて、日本語じゃねぇよ」
「ははは」
「笑うな!」
陽介は拗ねたように、腕を乱雑に解いた。どうせお前は学年主席だったもんな、などと昔のことを引き合いに出して口を尖らせるのを見ても、可愛いような可笑しいような気持ちで笑ってしまうだけだ。最後まで古典は分からない、と言っていたことを思い出す。
「てか、マジで花見行くのかよ」
空気は読めるのに物語は読めない。それはそれで、どことなく残念かも知れない。そういう部分がきっとガッカリなのだ。
鈍い人ではない。機微には聡いし、気ばっかり使っている。報われることの方が少ないようだけれど。
(でも鈍感だよな、多分)
恐らく、向けられる好意に疎いのだ。
「公園は行ったから、商店街にでも」
「あー、なんかあの辺って、桜の木がすげぇよな」
花弁が舞い散る光景は美しかろうと思うが、後片付けを考えれば、中々素直に喜ぶばかりにも行かないのかも知れない。外から観賞するだけだからこそ、静かに感慨に耽ることが出来るというもの。ここの商店街も寂れているという程ではないが、活気付いているとまでは言わない。けれど、花を見に来る人間は多いようだ。そういう一つのウリがあるのは良いことだろう。八十稲羽の商店街はあれからどうなっただろうかと思うが、言っても陽介の心情にプラスにならないことは重々承知しているから、口には出さない。尚紀は頑張っているらしいが。
「ま、飽きてきたし……いっか。ついでにどっかでメシ食ってこうぜ」
言われて斎が腕時計を確認すると、十一時を少し過ぎていた。ここから遠くはないが、桜の並木道が長く続いていることを考えれば、歩いている内に適当な時間になるだろう。
「今日って最高気温何度っつってた?」
「詳しくは知らないけど、暖かい春めいた陽気だって聞いた」
「ふーん。んじゃ、コートは流石にいらねぇかな」
陽介は立ち上がると、自分の服装を確認するように足元から腕辺りを見ていた。ジーンズに長袖のティーシャツは、家の中では丁度良い格好かも知れないが、外に出るにはまだ警戒が必要だろう。斎もワイシャツ一枚では心許ないのでジャケットは着ていった方が良さそうだと思い、ハンガーに掛けておいたグレージャケットを取った。
「と言うか、暇だから買い物に付き合ってとか、そういう理由で女の子は誘わない」
「あぁ、お前ってそういうヤツだったよな。マジメっつかお堅い? 稲羽でも、女の子と遊んでるとか全然なかったし……硬派っつの? そういうのがウケるんかね」
寝室からショートコートを取ってきた陽介は、これだと暑いか、と矯めつ眇めつに見ている。自分では着ないだろうと思うような、モスグリーンのコートだが、陽介には似合っていた。気にしているようだったので、斎も彼が手にしているそれを触ってみたが、生地はそれ程厚手のものではなさそうだし、今くらいの気温ならば丁度良さそうだ。
「陽介も、意外と遊んでたりとかしないだろ」
くすりと笑うと、俺のは忙しかっただけだっての、と首を振られた。陽介は昔から、自分が真面目だとか言われると否定する傾向にあるが、常識人だし、本当は酷く真面目で、面倒見が良い人なのだ。勤労少年であったことも事実ではあるが。
「イケメンなんだから。ちゃんとモテるよ、陽介は」
右手で彼の頬に触れて微笑むと、陽介は眉根を寄せた。
「いつも行動も顔もイケメンな相棒に言われてもな……ってか、なんだその手は」
「肌も綺麗だし」
「そらどーも。ほら、行くんだろ」
軽く斎の手を避けると、陽介は先に玄関の方に足を向けた。
「嘘じゃないよ」
立ち止まったまま笑っていると、陽介は振り向いた。
「お前って、ホンットに、変わってるよな」
そんなことはないつもりなんだけど、と肩を上げても、陽介は溜息を吐くばかりだった。
(変わってるのは寧ろ、陽介の方だと思うんだけど)
陽介は斎との距離が近過ぎる程に近いことを、以前からあっさりと受け容れている。疑義を感じることもないではないから、先程のような発言が出てくるのだろうとは思うが、終局的には『斎は変わってる』という程度で終わらせてしまうのだ。変わっているとしても、それはそれで、悪いことではないだろうと思う。スキンシップが過剰な節があることは自分でも分かっているし、それらが拒絶されるよりは、友情の範疇としてでも処理してくれた方が助かるのは事実だ。
感情に気付いたからこうなったのか、最初からこうだったのか、今では殆ど記憶にない。ただ、こちらに上京してきた彼を迎えに行った際に感極まって思い切り抱き締めたところ、「お前って大袈裟だよなぁ」とは言われたし、往来では止めておけとも言われたが、疎まれてはいなかった。慣れているようにすら思われたので、多分、前からそうだったのだろうと思われる。
置いてくぞ、と言われたので慌てて、既にスニーカーを履き始めているらしい陽介の方へと急ぎ足で向かった。
「俺がいないと、一人で花見になるよ?」
「そしたらコンビニ寄って帰る」
「ローソンよりファミマが好きだな」
家の近くにはローソンがある。少し出ればセブンイレブンもあるが、時間を掛けるだけの価値は特段なさそうだった。
「あー……自然派って感じ。ぽいな」
「カードもあるし」
陽介は余りポイントカードは気にしないようである。ふーん、と軽く言ってドアを開けた。新築ではないが、築年数にしては綺麗な造りのアパートで、臙脂色のドアも余り軋んだ音を出さない。陽介は鍵を出すのを億劫がって、閉めといて、とドアノブから手を離して通りを眺めていた。こちらからは桜が見えない。ふわりとどこからか漂ってくる不安げな花弁が数枚だけ風に舞っているのが見えて、陽介は「風が気持ちいいな」と笑うように言葉を紡ぐ。斎はズボンのポケットから、大家からは防犯対策に変えた方が良いと勧められたシリンダー錠の銀色の鍵を取り出してじっと見た。鍵は二つだけで、マスターキーを除いて他に合鍵はない。
「鍵と言えば」
「なに?」
「親しい人間が出来ても、合鍵とか渡すなよ?」
はぁっ、と言いながら陽介は振り向いた。それを横目で見ながら、ポケットから出した鍵を鍵穴に差し込む。
「しねーよ! 二人で住んでて、勝手にんなことできっか!」
「陽介は騙され易そうだから、念の為に言っておこうかと思って」
「っだー、また心配性か、センセイ?」
心配性と言われればそうなのかも知れない。
(この空間だけは、二人の物だ――とか)
思考が甘いな、と思って頭を振った。ただ、誰かに邪魔されたくないというのは厳然たる事実である。鍵を抜き、何気なくその銀色とも鉛色とも言えそうなちっぽけなそれを見詰めた。軽く投げてキャッチすると、陽介が、俺の真似? と口角を上げる。以前に彼が苦無を投げてキャッチしていたことを思い出す。
恋人が出来たら別だと言おうかと思ったが、敢えて言葉にするだけのことでもないだろうと口を結んだままにした。陽介が斎を特別だと言い、そしてその言葉通りに思ってくれていることは知っているが、彼にとってのその特別は友情であり、相棒という存在なのだということも理解している。それでも、斎を特別で大切だと感じてくれているのだから、それで十分満足だと思っていた。
カンカンと斎の靴の音が白い階段を下りる度に響く。陽介は音もなく軽快に下りていった。身のこなしの俊敏さは相変わらずというべきだろう。
「マジで天気いいのな。暑いかも」
「暑かったら、脱げば良いだろ」
「持って歩くのめんどい。相棒みたく、前全開にしとくかなぁ」
「……言っておくが、別に癖だとかそういうことじゃないからな」
今もジャケットの釦は嵌めていないが、釦を閉めておくのは息苦しさを感じて好きではないという程度だ。或いはそういう集積を人は癖と呼ぶのかも知れない。
「お、そういやあそこにも桜あったな」
先に階段を下りた陽介は、右手の人差し指で、道路に近い辺りに一つだけ立つ桜を指さした。
「そういえばそうだな」
「花見なら、これでもいんじゃね」
陽介は桜の方へと走っていく。確かに一本だけとは言え、綺麗に咲いていた。ふわりと香るのは春らしい草木と花の香り。斎が思わず伸ばした右手には、強くなり始めている陽光の温かさを感じた。風は襟足を揺らし、春の匂いが濃くなっていく。急に強く吹いた風に、木が揺れて桜の花弁がわっと舞った。
「うわ……なんか勿体ねぇの」
舞い散る花弁の中で、陽介は枝に手を伸ばしている。
「これって、掴めるとなんかある……とかだっけか?」
視認した瞬間に、背がぞわりとした。
(まただ)
いなくなってしまうように錯覚して、慌てて首を振った。斎とて本気で、彼が桜に攫われると怯えている訳ではない。ただ、非現実的なことが『起こる』ということは知っている。テレビの中に吸い込まれるくらいだ、桜が手を伸ばして連れ去ることが、絶対にないとは言い切れない。
(いや寧ろ、俺の心の問題か)
夢見が悪いというのは、陽介に限ってのことではない。彼がいなくなる夢も確かにあったが、他にも陰惨な、人死だのといった内容もあるのだ。悪夢だと言っても過言ではない。夢見が悪いのが精神的なものであるかどうか分からないし、それらと陽介が消えるということと、連関しているのかどうかも分からないのだ。
「陽介――!」
思わず叫ぶと、陽介は振り返って笑った。盛りを終え、散り、消えゆく運命の桜色が緩やかにまた漂っている。風流だとは思う。兼好法師ではないが、散り際の桜もこれ以上ない程に美しいと感じる。ただそれが、儚く見えることも嘘ではない。陽介は儚くないけれど、きっと、会って言葉を交わすだけではないというささやかな恋情では治まらない。
だって本当は、彼がそこにいてくれるだけでは満足出来ないから、一緒に暮らそうと誘ったのだ。
(分かってるつもりだったけど)
「斎? どうしたんだよ、いかねーの?」
「あぁ、ゴメン。ちょっと……暑くて」
陽介は首を傾げた。
(一緒にいられたら、それで良い)
隣が許されるなら。
「あ、はなびらゲットー」
「……思い出した。地面に付く前に花弁を掴めると、恋が成就する」
斎が近付いて顔を覗き込むと、陽介は目を瞬かせた。
「それって、現在進行形の恋だけ? だったら残念。そーゆー相手はまだだしなぁ」
陽介がパッと掌を開くと、はらりとピンク色が風に攫われていった。
「来年やれば良いよ」
「気ぃなげぇな」
また来年も陽介と見られるだろうか、と思う。
「斎は? やんねぇの?」
良いよ、と首を振った。どうせ叶わないことは知っている。叶うような願いではないことを。花弁が掴めたとて、何も変わらない。まだ消えていないことを確かめるように、陽介の腕を掴むと、どうしたんだよ、とまた彼が首を傾げた。
OMC=ワンモアキャンセル
花見をもう一回ということで。くどい。dream's a dreamはCoccoの歌から。
こんなことをぬるぬると続けていってやがて……という話が書きたいからまだ続きます。