今度こそ、テレビの中の世界は元に戻った。最後の特別捜査会議が行われて、伊邪那美大神の企みを阻止し、稲羽市に平和が戻ったのだということを、全員で確認した。あの光の中で月森の言った「終わりだ」という言葉をなぞる様に、終わりを皆が確認し、そして、全ての事件の幕が降りる。
「じゃ、リーダー、疲れたと思うけど、明日、帰るんだよね? 荷造りとか、頑張って!」
千枝が立ち上がって、月森の肩を叩いた。
「……あぁ」
「皆で見送りに行くから」
雪子も、千枝を見て頷く。明日のことについては、既に全員で了解が取れていた。
「明日は早起きしないとっスねー」
「完二、遅れないでよ? 先輩とのお別れ……なんだから」
「久慈川さん、今暗くなったら駄目ですよ」
「直斗くーん! なんだか寂しくなってきたから、一緒に帰ろ!」
りせがきゅっと隣にいた直斗に抱き着くと、はいはい、と頭を撫でる直斗は、すっかり、りせの扱いを心得た様だった。完二が何か思うところある様に、空を仰ぎ、千枝と雪子が「寂しくなるね」と言い合っている。
「センセイ、どうしたクマ?」
「……いや、何でもない。疲れてるみたいで、何か、力が入らなくって」
言うなり、月森は身体をテーブルに預けた。
「やだ! 先輩、平気!?」
「大丈夫。休めば良くなる――皆、解散して構わないから」
「ですが」
「良いよ。もう暗くなってきたから」
陽介の隣で疲れたと訴えている月森の様子は、衰弱している様には見えなかった。少し疲れた程度、と本人が言うのであれば、そうなのだろう。空の色は、橙から既に、紫紺に移り始めていた。空の端はグラデーションを演出し、夜の訪れを待っているばかりだ。春とは言え、寒さが残っている。明日が早いとあっては、遅くまで引き留めるのも月森の方こそ、気が引けるのだろう。
「月森の言う通りだ。遅くなると心配だし、解散しようぜ」
腕組みしたまま陽介が頷くと、皆が顔を合わせた。
立っていた千枝は、じゃあ気を付けて帰ってね、と凡そ自分が言われるべきだろう言葉を月森に掛けて、雪子と連れ立ってフードコートを後にした。後輩三人は、ゆっくり休んでください、とか、倒れたりしないでくだせぇ、とか声を掛けて、最後まで月森を心配していたりせを連れて去っていく。
「ヨースケ、センセイといるクマ?」
「ん? まぁ、そうするつもりだけど……なんか用事でもあんのか?」
「クマ、ママさんに今日はジュネスで買い物して帰ってくるように言われてるクマ。ホームランバー、買っていいからって」
だから、先程までは着ていた着ぐるみを脱いだのか、と金髪碧眼の少年姿を見ながら、陽介は納得した。それにしても、駄賃がアイス一本とは。家の手伝いレベルだと思えば、そういうものなのかも知れないが、母親は本気でクマを家族と考えているのではないだろうかと危惧した。
「エサに釣られてんのかよ、クマ吉。月森なら、俺が見てっから、早く買い物して帰ってろ」
頭をクシャクシャしてやると、自慢の髪が、とクマは悲痛な声をあげた。
「センセイ、頼んだクマよ!」
「おうおう、任せとけって。んじゃな」
頬杖をついたまま、空いている左手でひらひらと手を振った。
「つっても、どうすりゃいいんだか」
思わず独り言ちる。
「月森、起きてる?」
隣の方に声を掛けてみても、反応がなかった。眠っている様だ。
「なんだっけ? 幾万の真言? あれ、すげーよなぁ。霧も全部吹き飛んだし」
月森を庇った陽介は、そのまま呪言に倒れていた。幾千もの呪いの言葉とは、悪意だ。普段、何気なく言われている言葉が、千倍にもなって伸し掛かる。どろどろとした悪意の渦の中で、こんなにも辛く苦しいのならば、死んだ方がマシだと思う。そうやって、意識までも、悪意の中に取り込まれていく様だった。
月森の声を聞くまでは。
正確には、伊邪那岐大神の言葉なのかも知れないが、闇を晴らす光というものがあるのなら、きっと、それだと思う。最後まで、盾にも矛にもなれず、役に立ったとは言えなかったかも知れない。けれど、絆の力で、と言う彼の言葉を信じるなら、きっと、月森を信じ、敬愛した全ての人間が彼の糧になったのだろうと思った。その中には、陽介もきっと、含まれている。
「もう、暗い部屋なんて、なくなったんだろうな。しっかしお前、あの最後に及んで、びっくりなこと言ってくるなよな。びびっただろ」
本音を聞いても、意外だとはそれ程思わなかったし、何となく、そんなものかと思った。吃驚したことは事実だが。
「……なぁ、そういやさ、お前が前に言ってた、怖いもんってなんだよ。それと、気になってたんだけどよ、ずっと、俺になに言おうとしてたんだ?」
相変わらず、返事はない。
「ちゃんと答えろよな」
面と向かって言う気も、聞く気もない言葉を垂れ流した。本格的に空が藍色に染まり始めて、フードコートからは人が段々と消えていく。喧騒は静まり、陽介の声だけがぽつぽつと、響いた。
「無理矢理は嫌だって言ったの、俺的には、キスも含んでたつもりなんだけど。お前、そういうの気付いてねぇだろ。大体、鈍いし」
月森、と呟いた。
「いつまで寝てる気だ。ここだって、ずっと開けてるワケじゃ――」
睡る様に。
不意に思い出して、背筋を冷たいものが通った。
『無気力症の最後の患者だと言われています。実際にそうだったのかは分かりませんが……最期は、本当に、睡る様だったそうです。いつまで経っても目覚めないので、病院に連れられて、結局、そのまま。意識が戻ることはなかったと聞いています。苦しむことなく逝けたのなら、それが、唯一の救いですね』
「おい、月森! 月森!?」
慌てて立ち上がると、椅子が転がった。ガタンと大袈裟な音が、静かなフードコートに響く。気付けば、人は誰もいなくなっていた。暗がりにたった二人。肌がざわりと粟立った。
「月森! 起きろ、月森!」
肩を揺すってみても、瞼が開くことはなかった。嫌な予感が、じわじわと胸に膨らんでいく。昨夜の、まるで最後の夜の様な彼の言葉も思い出す。指先がカタカタと、震えた。真冬でもないのに、絶望的に寒い。もしかしたら、公子の様に、このまま――
(そんなこと……! 全部終わったのに、なんで!)
知ってしまったから。幾千もの呪いを。幾万もの、真実の言葉を。
彼の到達した真実が、刃となり、喉元に突きつけられているのが、目に浮かんだ。ハナくん、と久々に声が聞こえる。
忠告したよ。私は、忠告したんだよ。
(やめろ)
「やめてくれ!」
今度は、公子ではない、女性の声が聞こえた。
『あなたは、客人ではないけれど、もしかしたら、それに近いのかも知れないわね』
『ようこそ、ベルベットルームへ。ここは意識と無意識の狭間』
場面が転換されたと思えば、見たことのない老人と金髪の女性が、リムジンに座っている。月森がその前に座っていた。何か、言葉を交わしている様に見える。月森、と呼んでも、声は届かず、喉が乾いていく感覚だけが陽介を支配していた。その、見たこともない様な光景は、急にホワイトアウトする。霧散して消えたと思うと、次に覚醒した陽介は先程月森が座っていた、リムジンのソファに寝転んでいた。どこにいるのかと思うと、意識が現実に引き戻される。動かない、眠ったままの、月森。
「つき、もり……」
――助けられるなら、君だと思ったんだ。
(俺が……俺は、どうしたら……)
死なないで欲しいと、思っていた。稲羽市を去ってしまっても。簡単には会えなくても。向こうで、別の相棒を見つけてしまうとしても――もう、特別だと言ってくれないとしても。それでも、何でも良かった。もう二度と微笑みが見られなくなるということは、穴が開くことに等しい。半身を失う様なものだ。彼がいてもいなくてもきっと世界は回るけれど、陽介も生きていくことは出来るとしても、きっと、欠損した箇所を補うことは出来ない。生涯に渡って、埋め得ないのだ。月森は特別だから。小西早紀のいた場所が、穴が、ゆっくりと治癒する様に塞がれていくのとは違う。月森孝介が消えたらきっと、その痛みを一生忘れることは出来ない。
「……もう、置いていかないでくれよ……」
何と引き換えても構わない。どうかこの人だけは奪わないで、と切に思った。
(好きなんだ)
幾万もの真言に勝る、幾億の想いに名前を付けるなら、きっとそれは、恋に他ならない。一度気付けば、どうしてこんな単純なことに悩んでいたのだろうかと思う。ずっと、月森以上も、彼の他の特別も、陽介の中には存在しなかったのに。
「ばかやろ……っ、起きろよ、月森! 起きろよ! 俺が呼んだら、駆け付けるって言っただろ――」
名前を呼んだら。
「こ、う、すけ……」
初めて口に出した名前は、途切れ途切れの音になった。
「っ、起きろよ! 呼んでんだろ! ……孝介――!」
叫んだ瞬間に、瞼が開いた。
「う……よ、ようすけ……?」
瞬きを三度して、じっと灰色の瞳が陽介を捉えた。
「今、名前……」
「っの、バカ月森――!」
良かったとか心配掛けさせやがってとか、様々な感情が噴出していた。ぶわっと、心を赤や黄色、緑に青といった様々な色が溢れて、隙間なく埋めていく。溢れるものは言葉にならずに、唯、安堵したからという理由で抱き着いた。
「陽介、……どうしたの? また涙腺崩壊してる」
腕が背中に回される。
「うっせぇ、このバカ森!」
実際、涙は溢れて止まらなかった。目覚めてくれて良かったと、それだけを思う。喪ってはいけない。絶対に、なくすことは出来ないのだと、改めて思った。この体温がなければきっと、生きていけない。
「謂れのない批難だ……あれ、俺、いつの間に寝てたんだ? 何か、身体、軽くなった気はするけど」
月森はあやす様に、陽介の頭を軽く撫でながら、不思議そうに首を何度か動かしていた。
「えっと、陽介、どういう状況? まさか抱き着かれるなんて……陽介、良く泣くよね。あ、俺、もしかして、期待しても良いの?」
優しげな声で、楽しそうに月森は笑う。相変わらず、人を食った様なことばかりだ。
「あの、さ。俺、ずっと、陽介に名前で呼んで欲しいなぁ、と、思ってたんだ。八十稲羽を去る時の心残りと言ったら、それだけ。でも、中々言い出せなくて……。こんなところで、本懐を遂げられて嬉しい」
急に月森は早口で言って、あはは、と笑った。
「なぁ、陽介。良かったら、さっきみたく、孝介って呼んで欲しい。ずっと言い掛けて止めてたことって、それだったり」
「嘘つき森」
「……急に鋭くなったな、陽介」
あの尊大で自信家の月森が、今更、名前で呼んで欲しいという様なことで、いつまでもたたらを踏む筈がない。繕う為の嘘だと直ぐに思って、簡単に否定する言葉を述べた。
決壊していた涙腺も、漸く堤防が修復されて、止まり始める。
「それも、嘘じゃないんだけど」
「他にもっと、言いたいこと、あったんだろ」
月森はうん、と小さく頷くと、額に唇を寄せた。
「前にさ、怖いことがあるって言ったろ? それこそ、事件よりもって。俺は、陽介に嫌われることが、怖い。心残りは、陽介と、……陽介に、俺を好きになって欲しいってことだよ。それが、今まで言えなかったこと。夢を見ているだけなのは、やっぱり、辛過ぎる。陽介は、期待させるという意味では、本当に、罪作りだ。これから離れてしまうのに、陽介に誰か恋人が出来たらと思うと、夜も眠れない。誰か、特別な人を見付けてしまうんじゃないか――って。そんなことばっかり考えてた。黄泉平坂なんて行ったのも、陽介と、皆と過ごしたかったから」
(やっぱり、俺には饒舌)
特別なのだと実感する。
「陽介、俺、さっきまで何か、危なかった?」
察しの良い発言は黙殺し、陽介は身体を離した。
「お前の心残り、もうなくなるから、安心しろ」
訳の分からないという顔をしている月森に、初めて自分から、唇を重ねた。ほんの少し触れるだけの、どこまでも柔らかく稚いキス。
「俺も、お前が好きだ」
「……へ?」
「すっげぇ遅くなったけど、返事!」
顔が赤くなってきたのが分かったので、視線だけ逸らした。居た堪れない。同性同士で好きだのどうだの言い合う程に、寒い光景もないだろう。頭を抱えたくなった。
大体、遅いのだ。月森に好きだと言われたのは、もう半年以上も前の話で、普通の恋愛だったら、とっくに、諦めているか、冷めている。月森は、どうにも普通ではないが。
「よう、すけ、」
「だから、その……お前さえ、アレなら、……つ、付き合ったり、」
月森は、まだ話している唇に強引に重ねると、乱暴に舌を差し込んだ。喰むという表現が相応しく思われる様なキスに、どうにでもなれと、何もかも、一瞬で諦めてしまう。月森はこういう奴なのだ。本当は言葉より、手や足が先に出るタイプなのだろう。
流石に、それ程長く、口付けは続かなかった。離れてから慌てて酸素を吸い込んでいると、月森はゲホゲホしていることはお構いなしに陽介を抱き締める。
「嘘、じゃないんだよな? どうしよう、最後だから上手く行くなんて、そんなのある訳ないって――どうしよ、幸せ過ぎて、俺、死ぬかも」
「バッカ……こんなんで死なれたら、俺が困る」
「じゃあ死なない。絶対に死なない」
「お前、それ、人間業じゃねぇよ」
月森は意味深に、にこりと笑うと、陽介の瞳を覗き込んだ。
「キスして良い?」
「今更聞くか、それ」
散々こちらの意思を無視してキスしてきた癖に。そっぽを向いても、雰囲気だけで、上機嫌なのが分かる。
「して良いって、陽介に言って欲しい」
「ど、どうぞ……ご自由に」
「では、お言葉に甘えて」
軽く唇が触れ合った後に、月森は「陽介、好きだよ」と笑った。再び重なった時には、もっと深く。
「っ、ん……つ、き、もり……待――」
「名前で呼んでくれないと、聞かない」
「こ、すけ……ちょ、ちょっと、待て」
名前で呼んだ為か、素直に聞き入れてくれた。待てという言葉の通り、月森は至近距離で見詰めるだけ。
「よく考えてみたら、今は人いねぇけど、ここ、フードコートだから」
両手を使ってアピールすると、月森も視線をぐるりと動かして、にっこり笑った。
「そうだな。でも、俺、ちょっと、制御出来ない。ごめん」
言うが早いか、また唇が重なる。一度、二度と、何度も角度を変えて。無理に押すので、バランスが崩れて、地面に尻餅をついた。それすら構わず、月森は、自分も地面に膝をついて、口付けを重ねる。
「好き。陽介が好き。愛してる」
「っは……知って、る――」
身体は地面に寝転がる様に倒れて、空が見えた。いつの間にかバイオレットに白い星が点々と輝いている。星が見ている。星だけが見ている、とロマンティックなことを思った。
「やっぱ、お前って、特別だよ」
何者にも替え難い。絶対に、死なせたりしない。
(もう、誰にもやらないからな)
*
靄は消えて、足場もしっかりと見えていた。
「……月光館学園」
公子は席に座っていた。声を掛けるのを躊躇う様な、儚げな後ろ姿をこちらに向けて。いたと思ったら、消えて、青い蝶がその場で羽ばたいた。それを追おうとして、指を伸ばすと、触れた瞬間に透明に変わってしまった。捕まえられないのだろう。
「なぁ、公子さん。月森の奥に俺がいるから、俺の前に現れたって言ったよな。それもあるかも知れないけど、多分、本当は違う。俺が、アイツのこと、助けたかったから……俺にとって、誰よりも、月森が特別だったから、だから、俺の所に出てきてくれたんだろ? 俺、これで、良かったんだよな?」
返答はない。教師の様に答えが出せる様なことなど、元々なかったのだ。
「助けてくれて、ありがとう。公子さんも、待ってる人の所に帰った方がいいと思うぜ」
永劫にも回帰する海の中に揺蕩うではなく。
「さよなら、――さん」
*
『どうしよ、明日帰りたくなくなった。恋人になったと思ったら直ぐ遠恋って、どういう試練なんだ?』
「電話も、メールも、あるんだよ」
『ぶっ! 陽介そのネタは止めよう……っふふはは! それ、結構、笑える!』
意外なツボにハマったらしく、月森は深夜にも拘らず、本当に声を殺して爆笑している。未だ以て、月森のツボは分からなかった。
『離れるの、嫌だなぁ』
「待ってろよ、月森。卒業したら、そっち行くから。大学とか、元々、関東に出るつもりだったし。まぁ、お前みたいなレベル高いとこ行けねーと思うけど、……一緒にキャンパスライフ送りたいし、できるだけ俺も頑張るから」
月森の様にはやれないだろうが、今からでも、何も出来ないということはないだろう。手始めに、予備校でも通ってみようかと思った。稲羽市にはないので、沖奈まで出なければならないのだが、致し方あるまい。
『陽介……!』
感極まった様子の月森の声が、鼓膜を叩いた。
「だから、それまで――、浮気しないで待ってろよ」
都会には誘惑も多い。八十稲羽よりも広ければ、幾等でも可愛い女の子がいるだろう。今までならば、月森が誰かと恋人になったとしても、何とも思わなかった。けれど、両想いになった今は貪欲だ。自分だけの特別でいて欲しい。他の人となんて、考えたくもなかった。
『陽介こそ。……バレンタインも、チョコ貰ってたの見た』
「見てたのかよ。だから、怒ってたのか?」
『俺は断ってるのに、とか、結構可愛い子だった、とか、色々とね。だーから、俺は浮気とかないって。陽介の方が心配!』
「うるせぇ。俺は純情一途なの!」
『それは、何か、分かるかも。じゃあ、俺だけを見ててよ、陽介。俺だけが、唯一の特別だって言って』
甘ったるい声が鼓膜を揺らす。
『愛してるよ。俺の――俺の、陽介』
そして、幾億の想いを一瞬で伝える言葉が降り注ぐ。
陽介視点はこれでおわりです。
他にも雪千枝とか足立とか完二直斗りせとか月森目線とか余力があったら……!
だだ長いだけの話でしたが、ここまでご拝読くださってありがとうございます。お粗末さまです。
あとミクさんの曲関係なくてすいませんでした。関係ないけどいい曲ですよ!