笹を飾って短冊を吊すような風流な風習は、シュテルンビルト市にはないらしい。
「願い事、ですか?」
バーナビーは虎徹の言葉に読書の手を止めた。家族サービスではないが、七夕に笹でも家に用意してやろうかと思ったのだが、肝心のそれが調達できないのだと話したところ、笹がなぜ必要になるのかと問われたのである。虎徹は、七夕という風習がここでは行われないことに驚いた。
「聞いたことありません……そんなものが」
なんでも知っている風なバーナビーでも知らないことはあるらしい。むしろ、俗世間のことについては疎いのかもしれないなと思い直した。どうにも浮世離れして見える。
「バニーちゃんだったら、お願い事なににするんだ?」
「僕ですか? ……ジェイクのことも片づきましたし、これといっては……」
思案顔のバーナビーは、真面目に願い事を考えているらしかった。今までならば「どうでもいいでしょう、そんなこと」で一蹴されていたことだろう。バニーと呼ぶだけでも怒っていたことだし。
ジェイクの一件があって、結局二人とも病室に投げ入れられた。負傷したヒーローが挙って同じ病室にいるのはいささか滑稽な様子であったが、訳知りの仲間同士ならばと病室は和気藹々としていた。バーナビーとは当然といったように隣同士にされた訳だが、その時すでに、バーナビーの調子はこんなだったのである。即ち、澄ました――というよりもほとんど冷たくて愛想が悪いとばかり思っていた態度が一変していたのだ。彼は、バニーと呼ばれても怒らなくなったし、こちらには名前できちんと呼びかけるようになった。もちろんこんなのは序の口だ。性格が変わったのではないかと思われるような態度の軟化の数は、指を折ってもキリがないくらい多岐に渡るが、その根幹にあるのはおそらく、信頼の二文字なのだろう。
(信頼か)
虎徹は彼という人を誤解していたのかもしれない。バーナビーは冷たい性質ではないようである。ただ、警戒心が人一倍強いのだ。心を許せるか否かを慎重に判断している。もしかしたら、両親がいないで育った為かもしれない。復讐すべきだと思うから、自然と周囲に敵を探している。本当にジェイクとの因縁が片付いてよかったと虎徹は思った。
そしてその、やや過剰な警戒心の強さが反転すると、――つまり相手を受け入れられるようになると、信頼に足ると認識すると、相手への親愛感情が強くなる。さしずめ、今のバーナビーはこんなところなのではないだろうか。憶測だが。
「願い、と言うのは……些細なことでもいいんですか?」
「そら、なんでもいいだろ。ヒーローの願い事は世界平和じゃなきゃダメってこともないからな」
「だったら……今、ひとつ思いつきました」
バーナビーは、ほんのりほほえんだ。喜怒哀楽の感情について言えば、元々その表出は抑えられているタイプなのだろう。それがほほえむと、自然に綺麗だ。不敵な笑みを浮かべているよりは、可愛らしくて良いことだと思った。
祭り囃子が境内に響き渡っている。
「まさか、バニーちゃんの願い事がこんなことだとはね……」
「変、ですか?」
青い浴衣姿のバーナビーは、団扇を片手に首を傾げた。ハンサムはなにを着ようとハンサムらしい。羨ましいことだ。
「両親を亡くして以来、祭りなんて行く機会もありませんでしたから」
「そっか。わりぃ」
少しデリカシーを欠いた発言だったと反省したが、いえ、とバーナビーは気にした風もなく首を横に振った。
「虎徹さんが――彦星が、連れていってくれるとは思ってもみませんでしたけど」
祭りに行きたい。
バーナビーのあっさりとした願い事を聞いて、虎鉄はその無欲に驚いた。大金持ちになりたいとか名誉が欲しいとか可愛い恋人が欲しいとか、そういう俗っぽいものではないにしろ、なにか別に願うことがあるのではないかと思ったのだ。その程度なら、おそらく、娘の願い事を聞き入れるよりも容易い。虎徹は最初そのように思い、「だったら俺が彦星になってやる」と彼に言ったのである。織姫でないことは常識的に考えて当然だろうが、そもそも願い事を叶えているのはその二人なのかどうかもよく分からないで適当にした発言だった。
今になって思うに、バーナビーは本当に欲がないのだ。心底に、無欲。理由は簡単だ。両親の仇をとること、復讐を第一義的に考えて生きてきた、から。バーナビーは凡そのことに関心が薄い。それとも通ずる部分があるのだろう。
だから、祭り気分に浸らせるべく浴衣を用意したのは正解だった。誘ってやってよかったと素直に虎徹は思う。過去の自分を褒めてやりたい。きっと、誕生日を祝うというのも、間違いではなかったのだ。ただ、あの時はまだ彼の門戸が開かれていなかったという程度の問題で。
「なんです、あれ?」
バーナビーは屋台の一つを指さして首を傾げた。
「屋台――だな」
「あっちもそっちも屋台、ですか?」
くすっとバーナビーは笑う。よくもまぁそんな昔の発言を覚えているものだ。ハンサムは記憶力にも定評があるらしい。さすがはハンサムだなどと、下らないことを虎徹は考える。
「ってのは冗談で、ありゃ、くじだな」
「くじ……? どうしてそんなものが」
「祭りの屋台じゃ定番だ。引いてみるか?」
バーナビーは屋台に近寄って、じっと店の中を見回した。ゲーム機が特等で、ゲームソフトが稀少性の順に並べられている。
「いえ、いいです。おもしろい物はありそうにないですから」
「もったいねぇな」
どうせ、重要なのは中身ではない。欲しいと思ってもどうせ当たらないくじなのだから、思い出を買うと思えば安いものだ。しかし男子向けの商品が多かったので、娘に持ち帰るにもいらなそうだった。虎徹はその屋台を諦めて、別のおもしろそうな屋台を探してみる。
「あの、バーナビーさんですよね!」
探し始めて僅か数秒、急に女性が連れの彼を呼び止めると、辺りをざわめきが包んだ。
「ファンなんです! サインお願いしてもいいですか!?」
「きゃぁぁっ! バーナビー様よ!」
「ジェイクとの戦い、見てました! 私、感動しちゃって……」
「バーナビーだって! あの、握手してください!」
押しも押されぬ大盛況に、虎徹はバーナビーの姿を見失いかけた。無理もないだろう。オフのハンサムが浴衣ときている。娘が見ても喜びそうだ。
(後で写真でも撮らせてもらうかね)
安っぽいおもちゃよりも、そっちの方が娘は喜びそうだ。父親としては複雑なこと限りない。とりあえず離れて遠巻きに見守ることにした。バーナビーはオフのヒーローでも、こちらはただのおじさんでしかない。オフのワイルドタイガーに有難味がない可能性もあるが、それは置いておく。顔を公開しない以上、相棒だと隣を陣取るわけにもいかないので、離れる他なかったのだ。
バーナビーはファンの前では特に、愛想がよい。おそらくビジネスモードなのだろう。
(大して嬉しそうには笑ってないしな)
本当に嬉しそうな時はもっと、はにかむような笑みを見せる。そう思うと急に、万人共通に向ける笑みがどこか偽りめいて見えた。最初はそんなこと気にならなかったのに。
バーナビーが群がるファンから解放されるまでは随分とかかった。それでも虎徹がいることを気にしてか、バーナビーは個別にサインや握手に応じることはなく、遠くからの写真撮影が許された限度だった。「プライベートなので」とほほえめば、ファンもそれ以上は言えない。
「お待たせしてすみません、虎徹さん」
「あいっかわらずモテモテだねぇ……ま、浴衣も似合うってんだから、仕方ないか」
和風の顔立ちではないから、もしかしたらと少し期待してみたのだが、残念ながら完璧に着こなされてしまっている。バーナビーは「虎徹さんも似合っていますよ」と言ってはくれたが、世辞と言うか、大人の対応というやつだ。
「それより、花火っていつごろなんです?」
問われて虎徹は腕時計に目をやった。
「もうそろそろだな。花火は見てるんだろ?」
「見ているというか、目に入っていることがあったとは思います」
「なんだそりゃ」
「花火を楽しもうという、余裕のようなものがありませんでしたから――ですから、今は楽しみです」
にこりとバーナビーは笑った。
(ホントにまぁ、可愛いことで)
あどけない表情を見ると、仕事での凛々しさとのギャップによるものか、ドキッとさせられる。無防備に眠っているときもそうだ。虎徹はうーんと考え込む。
これ以上移動してもまた囲まれる可能性があるので、木陰でじっと花火を待つことにした。バーナビーは喜色満面とは言わないが、明らかに花火を楽しみにしていることが伺える。
少しして、ドォンと音が響いた。
「あっ、虎徹さん。花火、打ち上がりましたよ――」
周囲に人がいないことをさりげなく確認して、振り向いたバーナビーの唇に一瞬だけ自分のそれを重ねた。また、背後で花火が打ち上がる音。バーナビーは事態が飲み込めないようにきょとんとしている。
(かーわいい顔しちゃって)
この感情を確かめるには、まだ少し足りないようだと思った。
相方さんがハマっていたので、その3 夏祭りと花火はよく使うネタですね〜〜