ヒーロー失格


 ジェイクという強大な敵の存在は、ヒーローのアイデンティティをも揺るがしかねないものだった。真っ先にその敵と対峙したイワンは、諜報の代償として怪我を負ったが、結果的には英雄扱いしてもらえた。対照的だったのは、たとえばキング・オブ・ヒーローの名を戴いていたキースやアントニオだろう。無論、彼らが非難の的に上がるかということはない。しかしある種の失望を得ただろうことは事実だ。病床にいたイワンはその戦闘を見ていたというわけではないが、噂には相当聞いている。
「キング・オブ・ヒーローが」
 ぽつりと声に出して、慌てて周囲に人がいないことを確認する。見切れるばかりしか能がないイワンにとって、ヒーロースカイハイは、羨望だった。その彼が膝を折ったというのはどのような心境だろうか。ジェイクと実際に相対したイワンには、その畏怖すべき能力を知っているし、敗れたとしても失望することはない。失望するのだろうかと最初は思っていたが、意外とその程度だった。
 スカイハイの空弾は極めて衝撃が強い。その上にスピードのある動きで相手を翻弄する。共闘することは稀だが、イワンが彼の役に立っていたことなどはただの一度もないだろう。それを分かってか分かっていないのか、戦いが終わると必ず「ありがとう、そしてありがとう」とこちらに向かって言うのだ。マスクの下の表情はきっと笑顔。
 つらつらとそんなことばかりを思い起こしながら、誰もいないだろうトレーニングルームに自然と足が向かった。まだ無理はしないようにと言われているからなにかできるわけでもないが、他に行く場所が思いつかなかったのだ。交流は狭いし、友人らしい友人もほとんどいない。ヒーローになったのだから素性を隠す必要があるのだろうが、それを理由に通常の人付き合いを遠ざけたのは自分の性格ゆえだろう。それこそスカイハイのようなヒーローになれたのならば、性格も明るくなるのではないかと思った。
 気づくと彼のことばかりを考えている。最初は憧憬が強かったし、ヒーローの中のヒーローとも言われるくらいだから、それを目標に定めることは間違いではない。リーダーシップを発揮する姿を後ろで見ているだけのイワンにすら、優しく手を差し伸べてくれる。呆れるほどに良い人だ、と思っていた。実際に呆れていたわけではないけれど。目が追うようになったのがいつからか、忘れてしまった。
 トレーニングルームのドアを開けると人の気配がしたので、イワンは驚く。ヒーローたちは今活動休止状態だし、怪我をしている者が多いからこんな場所に来ることはないだろうと思っていた。
「おや、折り紙サイクロン――いや、今はイワンくんか。怪我は大丈夫なのかい?」
 特に、この人は。考えていた人が目の前にいるということはイワンを仰天させた。その上キースは相変わらず気さくな笑みを浮かべている。トレーニングマシーンから下りると、つとこちらに駆け寄ってきた。
「キースさん……あなたこそ、怪我は平気なんですか」
「私かい? 心配してくれてありがとう、そしてありがとう」
 怪我の心配をしているのだろう、キースは突如、ぺたぺたとイワンの身体を触り始めた。ぎょっとして後退りしかけたが、これがキースの通常の様子なのだ。
「なにを、していたんですか?」
 諦めてされるがままにして尋ねてみた。キースは手を止めると、いつもと変わらぬ爽やかな笑みを見せる。
「鍛錬、そしてトレーニングだ」
 イワンの無事が確認できたらしいキースは手を離すと周囲を見回した。もしかしたら他のヒーローが来ることを待っているのではないかと思ったが、イワンの他には今のところ誰も見ていない。つまり、今、トレーニングルームには二人しかいない。そのことをふと意識した途端に、急に緊張してしまった。ヒーローとして二人でいたことはあるが、プライベートでこういう状況になったのは初めてだ。もちろんキースはなにか気にした様子も見せずに、しかしマシンの方に戻るでもなくこちらをじっと見ていた。
「少し座ろうか」
「えっ、えっ……?」
 有無を言わせぬ強引さで、キースはイワンの腕を引いてベンチの方へと連れて行く。
「怪我は治っても身体は本調子ではないかもしれないからね。養生した方がいい。養生しよう」
「あなたがそれを言うんですか――」
 今さっきまでトレーニングをしていたキースも、ジェイクとの戦闘で負傷している。磔にされていたなどと聞いて、心臓が止まりそうになった。だからその怪我も深刻なものかと思ったが、虎徹に比べれば比較的マシだったらしい。たしかに今の様子を見ても、トレーニングするだけの余裕はありそうだった。表情もそうだったし、身体も、そして精神的にも。
(タフな人だ)
 イワンは正直に言えば、トレーニングする気分などではなかった。足が向かったのは自己鍛錬の為ではなく、行き場がないだけで。密かに溜息をつく。
 引っ張っていかれてベンチに座らされたのはいいが、どんな会話をしたら良いのかイワンには分からないでいた。とりあえずの言葉だけでも、と探している。手を組んでそればかり見ていると、キースの方が口を開いた。
「イワンくんは、甘い物は好きかい?」
「え? 嫌いではないですが……」
「ならこれを」
 手を掴まれて、掌の上に可愛らしいピンクの包み紙が乗せられた。凡そ成人男性が持つには似つかわしくない代物だ。
「ええと、これは」
「キャンディ、飴玉だ」
 繰り返し言葉を使うのは、彼の癖らしい。どうしてそうなのか尋ねたことはないが、聞けば答えてくれるだろう。しかしそんなに真面目な顔をして言われても、キャンディという物体そのものに変化が起こるわけではない。
「外で貰ったものでね。たくさんあるから、良かったら貰ってくれないか」
 どうも、ともごもご言いながら受け取ると、キースは喜色満面になった。感情の素直さを言えば、子供っぽいようにも思える。などと考えるのはキング・オブ・ヒーローに対して失礼だろうが。
 キースは自分にもキャンディをトレーニングパンツから取り出すと、それを口に放り込んだ。イワンはどうすべきか考えたまま、ジャケットのポケットに入れる。それからキースは黙っていた。天然の彼にとっては、沈黙だって別に苦痛でないのかもしれない。もともと性格が大人しく、あまり喋る方ではないイワンからすれば、もしそうだとすれば有難いことだった。けれど、自分の方が意外と沈黙に耐えられない、というのも良くあることで。
「あの……どうしてトレーニングを?」
 そっと口を開くと、キースはすぐに言葉を返した。
「ヒーローが鍛錬するのは当然じゃないか。それにね、私は少し不甲斐ないところを見せてしまった」
「でも、ジェイクのことは」
 彼がここにいる理由を尋ねれば、その話題になるのは必然だった。イワンは失言を心の中で呪う。思い出させても気分が良いものではない。まして、二人で葬式のように陰鬱な表情を並べていたわけではないのだ。むしろ、イワンは談笑したかった。
(談笑って――)
 たとえば、休日のキースがどのように過ごすのかとか。普段は何を考えているのかとか。そういうことをむしろ、聞きたかった。聞いてどうすると言われればそれまでだろうけれど、ただ。
「シュテルンビルト市民が、ヒーローを信じられなくなってしまっては困るだろう。私たちは二度と負けることはできない。些か傲慢かもしれないが」
 キースの言葉はどこまでも真面目だ。勝手な期待と言われればそうなのに、それを背負っている。ヒーローだと自覚し、自負している。イワンは友人の代わりのようにヒーローとなって、しかしそのことで妬まれたりもした。擬態のような能力では、逆立ちしたって強敵を打ち倒すようなことはできない。それだからこそ、キースのようになりたいと願っていた。土台無理な話だ。能力が違うのだから、彼のようにはなれない。否、能力があっても、あれだけ堂々たる様子で敵と対峙することなどできないのだ。能力というよりも、生来的な性質による。キースはヒーローなのだ。それも、天然モノの。
「そんなこと。僕には……できそうにありませんし」
 日常のような会話がしたいだなんて。全体、イワンと彼とでは釣り合っていないのだ。だからそれを望むのはひどく、酷な気がした。前を向き、いつだって向上心を忘れないキースが眩しい。なにもできない自分の存在が、歯痒いし悔しい。彼に近づいたら、目が眩んでしまう。神話のイカロスが地に落ちたその理由のように、自分には触れることが難しい存在だったのだと実感した。
「君の能力は十分に役立っていた。誇っていい」
「そんなこと!」
 キースに言われるとますます惨めだ。思わず立ち上がると、きょとんとしたようにこちらを見つめているのが視界の横に映る。
「なぜだい? Why? 敵陣に独りで乗り込むのは、並の精神力ではできない。その上で見事に立ち回ってみせたのは、折り紙サイクロンだろう?」
 頼って貰えたのがうれしくて見栄を張った。うまく立ち回れていただなんて、嘘だ。あっさりと敵に正体を破られたのは、なにも雑誌の記事だけが原因ではない。ジェイクの能力的に嘘がつけないとしても、もっとうまくやる方法はいくらでもあったと思う。そういう後悔ばかりしているのだ。自分が上手くやれれば、彼も傷つくことはなかっただろうと思うと尚更に。
「私は、平常心を保つのが難しいと知ったよ」
「あなたがですか?」
 静かな声に振り返ると、キースは穏やかな眼差しでこちらを見ていた。
「あぁ。力が入りすぎる、という言葉があるだろう」
 イワンは黙ってまた、隣に座った。キースは自分の手を見つめて、なにか思い出すように瞳を細めている。
「もっとうまくやれると思ったんだが、あれだけの遅れをとった」
「それはジェイクの能力が」
「能力がどうということは言い訳に過ぎない。私がうまくやれれば、アントニオくんや虎徹くんも危険な目に遭わなかったかもしれないんだから」
 なんだかそれは、と思った。考えることが似ている。烏滸がましいかもしれないけれど、同じように思っていたことに心臓が高鳴った。そんなこちらには気づくべくもなく、キースは言葉を続ける。
「端的に言えばね、私は怒っていたんだよ」
「皆さん、怒っていたでしょう?」
 シュテルンビルト市民すべてを人質に取られて、その上下らないゲームのような決闘に付き合わされて、怒らないヒーローもいないだろう。如何に天然なスカイハイと言えども――むしろ、職務に忠実で真面目で慈悲深い彼だからこそ、怒らないはずがない。その怒りは正当だ。
 しかしながら、怒りに身を任せた行動が結果的に是と出るか非と出るか。小説やドラマでの結末を見る限り、後者が圧倒的多数を占めることは疑いようもないだろう。冷静になれ、現実を見つめて思考せよ。それが正しい。怒りの正当性とは無縁だ。
 けれど、どんな時だって感情を制御することが可能であるとは限らない。人間としては当然だろう。理性にも限界がある。いっそその方が、人間という個体としては間違いがない。そうだ、彼はヒーローである前に人間なのだ。そんな単純なことに今更イワンは思い至る。
「君があんな目に遭ったのを目にしていたらね、冷静さを欠いていたよ」
 キースは急にイワンの頭に手を当てた。ぽんぽんと軽く触れる指に動揺して、イワンは反射的にエスケープしそうになった。
(僕が? え?)
 思考がぐるぐると回り出す。なんだろう今のはどういう意図の言葉なのだろう。深い意味はあるのだろうか。いや、キースのことだからなにもない。意味を図りかねる。どういう。
(キースさんにとっては仲間がやられた訳なんだからそう思うのは当然)
「怒りに心を奪われたのは失態だった。鍛錬というのには、身体を鍛えることと、己を……己の精神力を鍛えることと二重の意味があると思ってね。だからここに来たんだ」
 君が来るのは予想外だったが、とキースは手を放して笑った。
「す、すいません……僕の所為で」
(って違う。別に僕の所為じゃ――、僕だけの所為でもない)
「君が謝ることではない。変なことを言ってすまなかった。Sorryだ」
 キースは言いたいことを言い終えたらしく、すくっと立ち上がった。キング・オブ・ヒーローは今日もまっすぐにイワンの前に立つ。前だけを見て、信念の通りに生きている。清廉潔白で真面目。
(でも)
「君も、トレーニングするかい? いや……怪我のことがあるから、まだやめておいた方がいいね」
「いえ、付き合います」
 立ち上がって肩を掴む。振り返ったキースは少し驚いたようだったが、すぐにいつものように微笑んだ。偉大なるキング・オブ・ヒーローは、並んでみると意外と小柄だった。
(でも、あなたが欲に塗れた姿も見てみたい)
 人間的な感情を持っていることを知れた。まだまだ深い感情があるのだろう。見てみたい。聖人君子みたいな笑顔ばかりでは足りないのだ。どうやったらまた、自分の為にでも怒ってくれるのだろうかなどと試算している。普段から見切ればかりを狙う打算的なヒーローの心の内側には、やはりそうした感情が眠っているのだ。
(もう一度ジェイクのようなネクストが?)
 そんなことを思うのはヒーロー失格だと思った。

相方さんがハマっていたので、その2