カツカツと乾いた靴の音が一人分だけ響いている。収集した資料を片手にバーナビーは夜のシュテルンビルト市内を歩いていた。ネオンの光では頼りなく、街灯も煌々とは照らしつけてくれない。安いコピー紙に印字された黒インクをこの中で読んでいくのは、あまり容易いことだとは言えなかった。時間が惜しいとこんなことばかりするから、目が悪くなったのだろう。自覚はあった。印刷も掠れていて読み難いことこの上ない。焦燥感が出たように人差し指が眉間を叩く。
「あれ、何してんだ〜、バニーちゃん」
苛立っているタイミングで脳天気な声をかけられたので、思わず無視してやろうかと思った。しかし相手は上司だ。今更上下関係などというものはないだろうし、まして相棒という立場なのだから敬わねばならないということはないかもしれない。ヒーローランクでも自分の方が上だ。そういえば、天然で掴みどころのないようにしか見えないスカイハイがトップであるということは、自分より上であるということを置いても不可思議な感じがした。気質だろうか。ヒーローとして頂点に立ちたいだなどと思っていないが、向上心は重要だ。昔読んだ日本の小説にもあった。
「なんでもありません。それから、バニーはやめてくださいと言っているでしょう」
彼もジャパニーズだったな、と思って足を止めた。思考はいろいろと巡ったが、時間にすれば数秒程度で向こうからも僅かに遅れて立ち止まったくらいでは違和感は特になかったようである。丁度街灯の下を選んで足を止めれば、書類の文字が先ほどよりも鮮明に見えた。
虎徹はワリィワリィ、と悪気など微塵もなさそうに答えると、横に並んだ。並んでいるという位置関係にはバーナビーも慣れてきたような気がする。当初のような反発心もない。心境の変化は自分でも解せない部分が大きかった。
「こんな夜遅くにどうした?」
「必要なものがあったので、図書館でコピーを。今から帰るところです」
「メシは?」
「食べてませんけど、それが?」
「食べてないってお前、もう結構な時間じゃねぇか」
腕時計を見ると時間はPM10時と表示されている。一般的な夕食の時間から考えれば、まだ食べていないというのは些か遅いと言っても過言ではない。しかし中高生ではあるまいし、まして一家団欒で食卓を囲むわけでもない。時間がなければ食事を取らないまま短針が真上に辿り着くことだって珍しいことではないのだ。虎徹からは考えられないかもしれないが。
一瞬、暖かい家庭というものが瞼に浮かんだ。バーナビーにとってはすでに沈んでしまった過去の思い出でしかない。
「ちゃんと食ってんのか? なんかお前、食事なんてどうでもって顔してんぜ」
ギクッとしたことは事実だった。図星をつかれた。このおじさんはいつもボンクラみたいな顔をしている癖に、たまに鋭いのだ。どちらが本当の姿なのか分からなくて困惑する。
「食べています。だいたい、あなたには関係ないことでしょう」
内心の小さな動揺を悟られないように、じっとこちらを見てくる視線から顔を背けて答えた。指に不自然な力が篭って、持っていた白い紙が僅かに歪む。
「関係ないってこたねぇだろ。俺はお前を心配してだな――」
「余計なお世話です。おじさんこそ、こんな夜遅くに出歩かない方がいいんじゃないですか?」
幼い娘を持つ父親が夜中に徘徊しているのでは問題があるだろう。たしか妻は亡くなったと聞いているが、倫理的な問題だ。虎徹がそういう人間ではないことくらいバーナビー本人が嫌というほど把握しているとしても、だ。
虎徹は悲鳴が聞こえたから夜の市内に出てきたのだ、というようなことを弁解するようにぶつぶつと言った。なるほどそれは虎徹らしい理由だと思う。しかしその声色から、たいした事件ではなかったのだろうと推測できた。厄介ごとに巻き込まれやすい体質なのだ。だいたい、自分などとパートナーを組まされていることだって厄介ごとに違いない。バーナビーは自分の性格も把握している。決して付き合い易い人間ではない。表面的には合わせることは可能だが、内面に触れられることは嫌いだった。深い友人付き合いなどしたこともないし、それを必要なことだとも考えていない。
「それじゃ、早く帰って寝た方がいいみたいですね。僕のことは、ほっといてください」
背を向けると、不意に街灯のクリーム色の光が目に飛び込んできた。眩しさに虹彩が反応すると、空いている手首が掴まれた。ぐんと引き寄せられる力に身体のバランスが少しだけ崩れる。けれどそれも持ち前の運動神経でカバーして、バーナビーは振り返ろうとした。
「お前、なんかほっとけな――」
「きゃあああッ」
虎徹の言葉を遮るように、黄色い悲鳴が響き渡った。ヒーローがいるから安心だとは言っても、シュテルンビルトの治安は悪い。夜になると極端に人の出が減るのはその為だ。掴まれていた手が離され、バーナビーと虎徹は顔を見合わせる。
「悲鳴だよな……あっちか!」
「ちょ、待ってくださいよ、おじさん!」
走りだした虎徹を追ってバーナビーも駈け出した。巻き込まれているのは自分も同じかもしれない。持っていた紙を小さく畳んでジャケットのポケットに突っ込んだ。ビルが立ち並ぶいつもの景色が横をすり抜けていく。商店はすでにシャッターを下ろして、バーや居酒屋の灯りだけがやけに明るい。前を走る虎徹が、店から出てきた客と危うく衝突しそうになって蹌踉めく。それを見たバーナビーは額に手を当てて嘆息した。
「いやッ……離して!」
声が近い。仕事でもないのにどうして、とほんの一瞬思った。いや、ここまで来たら今更だろう。人助けは仕事で、自分は人情屋ではないつもりだった。けれど、虎徹といるとペースを崩されるのだ。自分にできることなど限られている。悲鳴を聞くたびに駈けつけたって救えないものは救えない。ヒーローと言っても所詮は人で、そんな人はちっぽけでとても無力だ。バーナビーはそれを知っている。ヒーロー稼業は、自分の仇敵を見つけるためだけにしているのであって、慈善事業ではない。けれど。
(あの人といると、本当に)
よい意味でか悪い意味でか、はまだ分からない。けれど影響を受けてしまう。今なら彼のように、悲鳴を聞きつけたら身体が動いてしまうのかもしれない。
先を行く虎徹が角を曲がったので、バーナビーも続いてそちらに入り込む。路地裏は街灯もなくて暗い。今宵はクレセントムーンで月の灯りも淡く、頼りなかった。前を見失ってしまいそうな薄暗い闇が広がっている。ビルの隙間を縫って入ったその奥で、若い女性が中年の男に背後から両腕を掴まれていた。悲鳴の主がやっと判明する。
「オイコラ! なにしてやがる!」
虎徹は犯人に人差し指を突きつけていた。穏便に離せ、とでも言いたいのだろうか。バーナビーはまだ自分の姿が気づかれていないことを確認して、そっと手前のビルの影に隠れた。そこからから様子を窺ってみる。薄暗くて視界は不明瞭だが、男は虎徹を見ると表情を歪ませたようだった。バーナビーはその場で呼吸を計る。ひゅうっと風が吹き抜けた。
「ほら、お嬢さんが嫌がってんだろ。とっとと手、離してやれ」
説得が功を奏するとは思わない。男の表情はますます強張っていくばかりだった。もちろん虎徹も分かっているのだろう。なにかあったら、迷わず男を捩じ伏せるつもりだ。それでも穏便に事が済ませられるのならばそうしたいと考えている。甘い考えだ。ともかく、彼の説得によって男の注意は虎徹の方へと向けられた。今はまだ人質とまでは言わないだろうが、向こうにはいざという時にそう成り得る女性がいるのだ。判断を見誤れば大事にも成り兼ねない。慎重に、一瞬を計る。押さえつけている女性からも周囲からも、男の気が逸れる瞬間を。
(今)
元々、脚力には自信がある方だ。バーナビーは駈け出すと、男の足を目がけてローキックを食らわせた。倒れるとまでも言わないが、体勢が崩れたところで手首に衝撃を与えて男の手を女性の腕から外した。そのまま女性の身体をこちらに引き寄せる。男の方は、今度こそバランスを崩して地面に倒れ込んだ。手に持っていたらしきビニール袋がカサリと乾いた音を立てる。引き寄せられた女性から悲鳴が上がったため「大丈夫ですよ」とバーナビーは顔を見てほほえんで見せた。ブルーの瞳がじっとこちらの顔を見詰める。
「あなたは――」
顔が知られていることは、こういうときに助かる。逆に言えば、悪事はできないということかもしれない。悪事などするつもりはないので問題ないのだが。
「ご無事でなにより、ですね」
声をかけた矢先、立ち上がった男がこちらに近づいてきた。女性を背に庇うように対峙すると、薄闇の中で男の手元が閃いた。なにか持っている。女性が叫んで、急に後ろから肩を引かれた。突然の出来事に驚いていると、いきなり刃がこちらに向かってきてバーナビーの体勢が崩れる。無理に女性を背にしたまま避けようとすると足を変に捻った。力任せにナイフを向けてくるので、バーナビーは舌打ちする。一人ならば躱すのは難しくないが、下手に避けて後ろの女性に当てるわけにはいかない。ちらりと後ろを見れば、女性はカタカタと震えていて咄嗟には動けそうにない。刃らしきものはまっすぐこちらに向かってくる。女性を守るには、多少の傷もやむを得ないかとバーナビーは覚悟した。
「バニー! お嬢さん連れて逃げろ!」
閃いた刃先が到達するより前に、虎徹の身体が割り込んできた。彼が来なくても相手をいなすことくらいは可能だっただろうが、女性の安全という意味では助かったと言うべきだろう。
「お願いしますよ、おじさん」
見たところ、ただのチンピラまがいだと思われた。日々凶悪な犯罪者を相手にしているヒーローからしてみれば、取るに足らない相手だ。虎徹に任せることに問題はない。そう判断したバーナビーは、女性を促して路地裏から通りまでの道を走った。バーナビーが手を握ってあげると女性は安心したらしく、少し蹌踉めきながらもバーナビーについて走ってきてくれた。その姿に、精神的に女性はタフだと感じる。
明るい場所まで出ると、女性は改めてバーナビーを見た。
「ありがとうございます。あの、……バーナビーさんですよね? いつもHEROTVで見てます」
息を切らしながらもこちらに話しかけてきた。先程まで怯えていた様子だったが、表情を見るとすっかり安心している。まさにヒーロー様様と言ったところなのかもしれない。シュテルンビルト市内におけるヒーローの象徴性を垣間見た気がした。土壌を作ったのは先輩たちだろう。今現在、バーナビーが活躍しているということも重要だけれど、踏み均された道があるからこそ、皆が信頼して身を預けてくれるのだ。
街灯が明るく二つの人影を照らし出している。争うような物音がまだ聞こえていることに気づいて、バーナビーは我に返った。女性には明るい道を歩くように指示して、踵を返す。虎徹は決して弱い人ではない。ヒーロースーツがなくてもある程度は戦えるように鍛えている。女性を連れていけと言った時も、暗に一人で十分だと告げていた。けれど、何事にも想定外の事態ということは考えられる。それに、以前にも一人で任せて窮地に追い込まれたことがあった。嫌な予感はしなかったが、バーナビーが駆け足で戻ると、虎徹は壁に男を押さえ込んでいた。周囲を見てみれば、刃物は端の方に転がっている。虎徹が取り落とさせて、拾わせないように蹴ったとみるのが妥当な線だろう。急いで戻る必要もなかったな、と思った。
「ち、違うんだ……アイツが俺のことをもう嫌いだなんて言うから――」
「へいへい。お前は振られたんだな、可哀想に。だがな、それで女性を怖〜い目に遭わせるのは感心しねぇなぁ」
「……そうですよ」
バーナビーはナイフを拾い上げて男の方を見た。
「こんな物騒な物まで持ち出して」
細身の刃物は、フルーツナイフ様の物だった。危害を加えるために持ってきた凶器だとしたら稚拙だが、深さは突き刺せば十分致命傷に達せられる程度にはある。もし先程の女性がこれを眼前で見せつけられたらどうだろう。まったくもって感心しない。とは言え、虎徹に押さえ込まれて涙声になっている男を見ると、それほどの悪人に見えないのも事実だった。
「どうしてナイフなんて持っていたんです?」
「さっき、フルーツと一緒に買ってたまたま……」
バーナビーは少し先にある白いビニール袋の方に足を向けた。無理に剥がしたようなパッケージが転がっている。それを摘み上げて遠くの街灯から照らされる光に翳して確認した。たしかに新品のナイフのようだ。使うつもりで持っていたならば、パッケージから出しているだろう。咄嗟に開被してナイフを取り出したという言葉は信用できそうだった。案外、男の言うことは正しいのかもしれない。ビニール袋からはチューハイの缶が2、3転がり出ていて、ついでにケースに入ったショートケーキも見える。甘味の好きな男子も珍しいことはないが、それらは明らかに二人分に見えた。
「やっぱりアイツみたいなイケメンがいいんだと思ったら、カッとなって……」
顔のことをどうこう言われるのはあまりいい気分ではないと思いながら、バーナビーは肩を竦めた。
「おじさん、警察にまで突き出す必要はなさそうですね」
小市民を犯罪者と突き出しても仕方がないだろう。バーナビーが言うと、当を得たりとばかりに虎徹は頷いて笑った。相変わらず邪気のない人だな、と思う。すでに女性を逃がしてから十分に時間は経過している。今から追いかけてどうこうできるとは思えないし、仮に男の言動が正しいならば、別れ話についてはそもそも二人が話し合って解決すべきことだ。
「ったく……もう女の子を怖がらせるんじゃないぞ」
「うう、すみませんでした……」
なんだかドッと疲れが出た。バーナビーは袋と中身を拾い上げて、男に手渡してやる。さすがに今の今でナイフを返すわけにはいかないので、これだけは預かっておきますね、と言うと男は神妙に頷いた。何度かペコペコと頭を下げたのち、肩を落としたまま男は去っていった。その淋しげな背を見守りながら、バーナビーも虎徹も溜息をついた。もしかしたら単なる痴話喧嘩に付き合わされただけではないだろうか。
「帰りましょう、おじさん」
「ちょっと待て」
「なんです? もう遅いので、僕はこれ以上付き合っていられな――ってちょっと!」
「足、くじいたんじゃねぇのか?」
気づくと虎徹はしゃがみこんでバーナビーの足首を掴んでいた。
「くじいたって別に……大した怪我ではありませ、痛ッ!」
外力を加えられて、捻った右足が悲鳴を上げた。同時に声が出てしまったので、慌てて口を押さえる。
「ほらやっぱり。無理するもんじゃないぜ?」
しかし時すでに遅く、虎徹は溜息交じりに言うと手を離して立ち上がった。
「余計なお世話です! さっきだって走れましたから、この程度――」
「いんや、こういうのは放っておくと怪我するのが癖になっちまうからな……んじゃバニーちゃん、ほれ」
虎徹は両手を前に出すと、右手を軽く前後に動かした。
「なんです?」
「なんだよ、察しがワリィなぁ。お前さんが先にやったんだぜ?」
ひょい、と。呆れるほどあっさり、足が地面から離れた。浮いた感覚に感情が追いつくよりも先に、身体の方が違和感を訴える。曖昧で不安定で、居心地が悪い。
「な、なにするんです、ちょっと――」
「お姫様抱っこだろ? バニーちゃんお得意の」
顔を上げると虎徹はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「あれは、ヒーロースーツ……重いでしょう! やめてください!」
「だーっ、暴れるな! 落っことしちまうぞ」
抱きかかえられた状態の今、地面からは意外と距離がある。ここから落とされるのでは、足の怪我よりも深刻な事態を引き起こしそうだ。虎徹に限ってありえないとは思うが、暴れても負荷がかかるばかりだと言うことは分かる。とりあえず身体的な抵抗は一時中断することにした。
おじさんだと思っていたが、腕は逞しい。長年ヒーローをしているというのは伊達ではないのだ。咄嗟に市民を抱えて逃げるなんて状況も珍しくはない。
「足は商売道具だろ、お前さんの」
「……どうして気づいたんですか?」
揶揄するような調子の声は聞き流して、バーナビーは自分の足首を見つめて尋ねる。捻った足を庇うような動作はしていないはずだ。たしかに動けば多少の痛みはあったけれど、悟られないように立ち回っていた。
「動きが全然違うだろ。いつもの俊敏な兎さんはどこ行ったんだ?」
「兎じゃありません。茶化さないでください……というか、下ろしてください」
「ダメだ。商売仲間が動けなくなったら困るだろ」
「だから、動けますってば」
「湿布貼ってよく寝りゃあすぐに治る。こういうのは初期治療が大事なんだよ。大人しくして――あぁ、できれば首に腕を回してくれると、ちっとは楽になるな」
どう言っても下ろしてくれそうにないらしい。バーナビーは溜息をついた。自分でもしているのであまり大きいことは言えないが、成人男性が同性に横抱きにされるなどという図は恥ずかしいことこの上ない。ともかくこのまま部屋まで連れ帰るというのなら、負担をかけない方法がベストだろう。バーナビーは渋々、両腕を首に回した。これでは抱き着いているようにしか見えないのでますますうんざりする。羞恥はあったが、どうせ時間も時間だし、家までそう遠くはないのだ、諦めた。
「ついでに飯も作ってやるか。バニーちゃん、嫌いな物は?」
「……特には」
「そうか。そりゃあ健康的でいいな」
虎徹は上機嫌だった。徐々に反発心も収まって、バーナビーは大人しく声に頷く。腕の中は温かい。一瞬、亡くした家族のことを思い起こさせた。抱き締めてくれた父親や母親の遠い記憶。なにかに語りかけるように、目を閉じた。
温かくて離れがたいなんて思ったのはきっと、気の迷いだ。
相方さんがハマっていたので