衛宮士郎にとってその背は『憧れ』に他ならなかった。正式な魔術師ではないにも拘わらず聖杯戦争という得体の知れない争いに巻き込まれて、死ぬような目にも遭って、――マスターサーヴァントという関係にもなかった単なる同級生だったはずの遠坂凛は、士郎の前に立つ偉大な魔術師だった。彼女のように魔術師になりたいと思ったことはない。士郎はいつまでも正義の味方を夢見ていたし、それだけが誇りと信念でもあった。それでも再び、かつて見ていた偉大なる魔術師の(ようであった)少女と再会したときに、何とも言えず悲しいような、愛おしいような、非常に感傷的なものが頭を擡げていたことを、遠坂凛のサーヴァント・アーチャーは強く記憶している。殆ど残っていた彼女との記憶の中で、ただ茫洋と敵わぬ人だと思った偉大な背中は、ただの少女のように薄っぺらで儚かった。自分が見ていたものは何だったのだろうか、と、時を超えて疑問にすら思ってしまうほどに。
凛は容赦がない。凛は物事を熟すことを決して得意とはしていない。家事は出来ねばという必然から備わったのだろうが、料理をすることは好きではないし、最悪のところ、食べられればと思っている節がある。致し方なしと、以前より料理を得意としていたアーチャーが食事を作ると、彼女の名の通りの凛とした態度は鳴りを潜め、代わりに、幼い笑顔が浮かんだ。たぶん、食に頓着はないけれど、作る手間が省けたと思ったのではないだろうか。食事を十分に摂ると、凛は生真面目に魔術書を開く。熱心なマスターに斜な視線を投げ、皮肉っぽくも「熱心だなマスター」と笑ってやると、努力家でありながら、優雅な白鳥のように振る舞いたがる彼女は「魔術師ならば当然のことよ」と腕組みして鼻を鳴らした。
(常に余裕を持って優雅たれ、か)
アーチャーは生涯を記憶している訳ではないし、正義の味方を志し、英霊として戦場を渡り歩いてきたアーチャーは、優雅さとは無縁だった。そのような信条は、こと殺し合いにおいては甚く無意味だと知っていたし、そういう言葉を吐く者ほど早く死んでいく。凛は長生き出来る性質ではない。優雅ぶってはいるが、人の良さは可哀想なくらいに滲み出ているし、彼の父君を直接は知らないが、魔術師として崇高な人でありながら呆気無く死んでしまったという話を聞くだに、彼女が父と同じように殉じて死ぬ未来しか見えなてこなかった。それでも少女としての幸せを彼女は望まないのではないか、とか、別段無意味なことを時折思う。一人で考えてばかりいた人生だったからか、空転することが多いのだ。欲深い人間よりは、この、魔術の求道という曖昧模糊ではあるが高貴そうな目標を掲げている彼女の方が、聖杯を手にする者として相応しい。そう思って助力することを決めても、どうしても凛が勝ち得るとは思えなかった。
「喉、かわいた」
「マスター、それは暗に俺に命令しているのか?」
「察しがいいのね。さすがはサーヴァントだわ」
「コーヒーと紅茶と、どちらだ」
「ロイヤルミルクティーね」
英国淑女らしい発言をし、凛はにっこりと微笑む。砂糖多め、と追加オーダーを受けて、アーチャーは肩を上げた。彼女に頭が上がらないような気も僅かばかりしているが、基本的に気に入らなければマスターだろうと遠坂凛の言葉であろうと、令呪でも使わなければ従うことはない。頷いたのは気紛れだ。半分程度しかない記憶の混濁と共に、アーチャーは常に淀みなく自分を分析する。自分の名前を知る以上、きちんと推測すれば状況を打破するに相応しい知識が自分にも幾らか備わっているのではないかとアンテナを張っているが、あまり功を奏したことはない。自分がマスターを勝者へと導こうとすることに不安はないが、確信も持っていなかった。
料理と同じく、茶を淹れるにも手を掛ける必要がある。アーチャーが時間を掛けて高貴な名前を持つミルクティーをカップに八分目ほど注ぎ、台所から舞い戻ってみると、安らかな寝息が聞こえてきた。凛は、眠っている。
「疲れているのなら床に入れば良いと思うが、マスター」
「ん……んぅ……」
すやすやと安らかに眠っている。
「……凛」
鈴の音のような名前だと思った。歳離れた妹がいるように急に思えて、同時に、誰もが憧れる同級生遠坂凛のようにも思う。衛宮士郎は、凛を好いていただろうか。恋愛的な意味で。
(関係のないことだ)
衛宮士郎は自分ではない。
「マスター、行儀が悪い。君の訓示は、常に余裕を持って優雅たれじゃなかったか」
「……ま」
「マスター?」
「お父様……お母様……」
少女の眦に涙が滲んでいたということもない。声が寂寞に満ちていたけれど、いつもの凛の声だった。
魔術師として魔術の家に生まれた凛に、最初から普通の幸せは望めない。父親が死んだのも、母親のこともすべて、宿る血の巡りによるものだ。それでも、凛が二人を呼ぶ声までもが強がっているのが、痛ましい。
「凛、眠るときくらいは」
何もかも忘れても、子供のように泣いても、許されるのではないだろうか。張り詰めた糸が切れてしまうのではないだろうかと、ずっと、案じている。正義の味方ではなくなった衛宮士郎は今、目の前の少女の苦しさを僅かでもなくしてやれれば、と、救済と異なる眼差しで見ている。
(遠坂凛)
衛宮士郎の命を繋ぎ止めた少女の名前だ。善悪ではなく、内側に置いて、サーヴァントとしてではなくもっと異なる形で、守ってやりたい・力になりたいと感じている。自分が人だったなら、この感傷だけで恋心と呼ぶのかも知れない。
「……凛」
「なに……よ……アーチャー……ん?」
がばりと凛は身体を起こした。
「ッ、眠ってた?」
「ぐっすりとな」
呼び掛けても起きないくらいにな、とアーチャーがシニカルに笑うと、凛は軽く顔を赤らめた。
「見てないで起こしなさいよ! 悪趣味!」
「はいはい。紅茶が冷めるぞ、マスター」
鼻先に白いティーカップを突きつけると、凛は口を閉じた。
「お嬢様のお好みに合わせて甘めにしておいた」
「……っ、ありがと……」
お子様な味覚だな、とは言わずに目で語る。凛はフイと顔を逸らすとティーカップに口を付けた。
「優しい味」
いつもと違うわ、と凛はほうっと息を吐いた。彼女が自分で淹れるときのように砂糖ではなく蜂蜜を使っているからだろうな、とアーチャーは予測を立てる。
「いざという時に動けないのでは迷惑する。疲労はきちんと回復させておいた方が、優雅に戦えると思うがな」
「う、うるさいわね」
いつの日か夢に凛は自分を見るだろうか。同じような声音で、強気な言葉で、アーチャーを呼ぶのだろうか。平和な世界で、柔らかいベッドの上で。遠い未来がそうだったら、今の自分の感傷も報われる。
(死ぬなよ、凛)
眠っている間に頭を撫でて、そう囁いてやれば良かった。
SN未プレイなので、士凛ではなく弓凛なのだ、という偏った知識しかないです。(ゼロ小説は読了)